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2023年4月12日 (水)

「ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地」:衝撃の3分30秒

230412b 監督:シャンタル・アケルマン
出演:デルフィーヌ・セイリグ
ベルギー1975年

1975年作ながら昨年日本公開。10年に一度の「英国映画協会史上最高の映画100選」2022版で突如の第1位選出--。
ある意味、超話題作である。ケーブルTVのチャンネルでアケルマン監督特集をやっていたので録画して見た。ちょうどこの時期ヒュートラ渋谷でも特集上映をやっている。

話題の所以の一つは上映時間200分❗で、しかもそのほとんどが主婦の平凡な日常を延々と長回し固定カメラで撮っていることにある。
主人公のジャンヌは40代半ばの未亡人で高校生の息子とアパートに暮らしている。彼女の三日間--正確には1日目の午後から3日目の夜までをひたすら追う。
バスタブを洗う、靴をみがく、夕食の支度をする(昼食が手抜きのサンドなのは主婦あるあるだ)、買い物に出る等々が繰り返され、カメラはじっとそれを執拗なまでに撮り続ける。
これがアイドルの密着配信映像だったらどうだろう。親しみが増すだろうか。でも、ここでは見れば見るほどジャンヌは遠くなっていくようだ。

そもそも彼女は規則正しい繰り返しの生活を信条としているらしい。息子が今夜は遅いから日課の散歩をやめようと言っても「ダメ」と許さない。訪問者さえ定刻通りにやって来るのだ。
その時間通りの生活が2日目にズレていくのはたまたま外部の偶然のせいか、それとも彼女の内面に何事かの変化が生じたためだろうか。もしきっかけがあるとしたら息子との会話かもしれない。

家事の反復は退屈か? 少なくとも自分で行なうよりは、それをただ眺めている方が退屈と思える。それをあえて見せるのはなぜなのか。
切れ味があまり良くなさそうなナイフの皮むき場面はなんとなく緊張感を感じてドキドキする(ピーラー使わないのか)。だが、皿洗い場面に至っては見えるのは流し台に向かうジャンヌの後ろ姿だけ。後は長々と水音とブラシのシャッシャッという音を聞かされるのみなのだ。

恐らくは「定刻通り」「同じ行為」こそが彼女の本質であり拠って立つ全てなのだと思える。従って最後の「事件」が起こった理由は、相手が「いつも通り」ではなかったからだろう。それは許せないことだ。
日常に潜む瑕疵、それが大きくなって壊れゆく--そんな様相を描いているのか。しかし作品内では何事も断定されず、ゆえに観客も何も断言できない。

今回、私は家のTVで録画を数日かけて鑑賞という邪道な方法を取った。これではちゃんと見たことにはならないと言われてしまうかも。本来は映画館のスクリーンでイッキ見するべき映画であるはずだ。
しかし正直言って、映画館だったら途中で眠りこけないという自信はない(ーー;) いや、眠りこける自信があると断言しよう。目が覚めてもまだ同じ場面(もしかしたら翌日の💦)だったりして……。
ちなみに台所で肉をこねる場面の経過時間を確認したら(本当に肉をこねているだけ)3分半もあった。

見ていてアケルマン監督は自分の母親をモデルにしたのではないかと思った。少なくとも、スピルバーグの母親(食器を洗わなくていいように毎回使い捨てにする)みたいだったらこんな映画は作るまい。
そもそも監督がこの映画を撮った時は25歳だという⚡ ジャンヌよりも高校生の息子の方に年齢が近いのである。

それとM・ハネケがかなり影響受けているのが分かった。ジャンヌが室内や廊下を行き来する様子に、『ピアニスト』の主人公が自宅でペチペチとサンダルの音を立てて歩いている姿がすぐに思い浮かぶ。
破壊の場面を延々と映した『セブンス・コンチネント』はもろに「主婦」から「家族」へとの拡大版といえる。しかも「3日間」ではなくて「3年間」だ。
--という発見もあった。

今回、アケルマン特集放映したザ・シネマはHPやツイッターでほとんど宣伝してないのはちと残念。もっと宣伝すれば映画マニアが全国で8人ぐらいは加入してくれたかもよ。

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