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2024年12月

2024年12月31日 (火)

まだあるぞ2024年鑑賞作「HOW TO BLOW UP」

241231 監督:ダニエル・ゴールドヘイバー
出演:アリエラ・ベアラー
米国2022年

見る直前まで存在も知らなかったマイナー作品だけど、なかなかに面白かった。
様々な出身、境遇、思想の若者たち8人が石油企業告発のために無血エコテロを仕掛けるために集合する。準備の進行と共に各人の過去が描かれる。なぜ彼らは計画に至ったのか。冒頭ではバカげた計画と思えるが、見ているうちに納得してしまう。
社会の現状への怒りが渦巻き合体していく様子は、もはや非暴力の手法は無効だと感じさせる。

一方で爆弾作りの場面ではドキドキだ~。終盤のトラブルにはハラハラ(~o~)して、思わず応援したくなっちゃうのは困ったもん。ひねりを忘れず、サスペンスアクションの趣もありだ。編集もうまい。
原作はフィクションではなく社会変革の活動を論じた理論書(?)ということで、まさにその実践を映画にしたわけらしい。

原題は「HOW TO BLOW UP A PIPELINE」。なぜ邦題で「パイプライン」を外したのか。カタカナ題ならともかく英語そのままに使うのだったら中途半端だろう(・・;)

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2024年12月30日 (月)

まだあるぞ2024年鑑賞作「バティモン5 望まれざる者」

241230 監督:ラジ・リ
出演:アンタ・ディアウ
フランス・ベルギー2023年

『レ・ミゼラブル』が話題を呼んだラジ・リ監督の新作。
前作は警察対民衆という構図だったが、今回は行政がテーマである。利権にしがらみのないクリーンな人物を市長代理に選んだら、開発のため後先考えない強硬路線を取るという日本でもありそうな話だ。
ただそれを支持して拍手する市民は登場しないし、社会体制の矛盾というようなものも描かれない。あくまでも市長と移民出身者たちとの二者対立と軋轢が描かれる。

見終わった直後の感想は「あそこまでやったならなぜ火を着けぬ(ー_ー)!!」だった。
対立が高じて若者が極限状態で過激な行動に走るものの、結局女・子ども・老人・同じ出自の年長者を怖がらせていぢめただけという(足を折られるという被害に遭った者もいる)。しかし肝心の白人市長は全くの無傷とは納得できねえ😑
その煮え切らない印象は作中で描かれる体制への怒りでなく、映画への不満と転化してしてしまうのであった。

4人の人物が中心となっているが、なんだか対立構図の絵解き役としてしか動いてないような感じを受けた。強引な団地住民追い出し場面(混乱の極み👊)のドキュメンタリーっぽい迫力は相変わらずではあるが。
三部作だそうなので、次作に期待したい。

あらすじなどで舞台の団地が「パリ郊外」という曖昧な言い方がされているので、パリ市内の話だと勘違いしている人が見受けられる。
パリの外の県(郡?)が舞台だよね。日本だと埼玉とか千葉の東京に近い市にあたる(まさに川口とか💦)。

ところで素朴な疑問だけど、遺体を収めた棺桶を下ろす時に団地の狭い階段で四苦八苦するというくだり。この描写で移民の住む団地の状況が端的に分かるとはいえ、棺桶を部屋に入れる時はどうしたのか?ベランダから釣り上げた? 謎である。
重さが違うといってもな……。

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2024年12月29日 (日)

まだあるぞ2024年鑑賞作「ゴッドランド GODLAND」

241229 監督:フリーヌル・パルマソン
出演:エリオット・クロセット・ホーヴ
デンマーク・アイスランド・フランス・スウェーデン2022年

デンマークの若い牧師が19世紀当時植民地だったアイスランドへの布教を命じられる。島内を進む道は過酷で、さらにガイドの老人とはうまく行かない。過去の紛争の因縁が背景にあるのか。言葉が分かっているらしいにもかかわらず、無視した態度を取る。

植民地の過酷な自然の中での道行きと、住民との軋轢となると「闇の奥」を想起させる。もっともトラブルの種は外部ではなく最初から牧師の内にあることを窺わせる。というのも、宗教家なのに彼は人間に対して興味がないらしいのだ。
とすればこれは不条理ではなく必然だろう。ここには神はいないようである。

アイスランドの風景は非情にして雄大で美しいが、作品全体の印象はよく言えば重苦しい。悪く言えば「辛気くさい」だ。やたらと血が流れて死体が転がる展開で、刺激があればいいってもんじゃないぞなどと文句を言いたくなる。
意図は分かるものの143分は長い。360度カメラを回すシーンが複数回出てくるがゆっくり過ぎてもっと早くぶん回してくれとか思っちゃう。
そもそもはアイスランドで発見された古い木箱の中から7枚の写真が出てきて、そこから着想した物語だとのこと。話が複数に分裂しているのはそのせいなのだろうか。

後半の室内場面は明らかに北欧絵画を意識した画面作りになっていてこれは美しい。
またアイスランドの民謡や伝統歌が幾つも歌われる。身近で亡くなった者の名前を連ねていく歌(というより朗詠?)なんてのもあった。ラストのデンマーク国歌は皮肉がきいている。
木造の教会を住民の手で建てる経過、そこで挟まれるダンス曲や讃美歌、男たちが興じるレスリング……などアイスランドの文化に興味がある人が見ると面白いに違いない、血まみれ展開が気にならなければ。

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2024年12月24日 (火)

「イタリア・バロックを歌う」:萌ゆる二重唱

241224a 演奏:ロベルタ・マメリ&波多野睦美
会場:ルーテル市ヶ谷ホール
2024年12月10日

ロベルタ・マメリ久々の来日💖 北とぴあ音楽祭のモーツァルトのオペラに主演したが自分の守備範囲外だったので行かなかった。代わりに小さなホールで波多野睦美とのデュオ・コンサートがあり、待ってました!である。

二人は鮮やかな緋色(でいいのかな?)を揃えた衣装で登場。モンテヴェルディから始まってディンディア、メールロなどと進み、段々ともう少し後の初期バロックへと移っていく構成であった。で、シメの曲はまたモンテヴェルディ(『ポッペア』より)となる。
独唱曲はマメリ4曲、波多野2曲、残りは二重唱という配分。

全体的にはマメリの激情、波多野の老練という印象だった。二人の声が互いに陰に陽にと重なり合っては入れ替わっていく。チェンバロ&ハープ西山まりえ、チェロ懸田貴嗣が背後から余すところなく支える。時折、ハープの鋭い音は楔のように響いた。
アンコールでパーセルをマメリが独唱したけど、濃厚さのあまりイタリア歌曲のように聞こえたりして👂
客席はシーンとして集中力マックス状態であった。聞けてヨカッタ。
なおチェロのソロでコスタンツィのソナタが演奏されたが、それぞれの時代の違いをまざまざと感じさせましたな(;^_^A

なお、当日はチケット完売でパイプ椅子の追加席も出る満員状態だった。会場にはつのだ氏はじめ関係者の顔も多数見かけた。某合奏団の来日コンサートと共に里帰りしていたヴァイオリン弾きの方もいたようで。
来年の北とぴあ音楽祭のオペラはヘンデルでマメリも出演するらしい。ヤッタネ👍 だそうで、今から楽しみよ(^^)

ブログの過去記事からマメリ関係を幾つか紹介する。
2009年2月「アリアンナの嘆き」
2010年3月「ディドーネの嘆き」
2014年11月「ロベルタ・マメリ&ラ・ヴェネクシアーナ~ある夜に」この頃はカヴィーナも健在だったんですよねえ( -o-) sigh...


会場のホールについて。暖房が効きすぎで参った。頭がポーッとしてしまった。
女子トイレ状況は狭くてよろしくない。すぐ行列になってしまう。3階にもあるということでそちらに行ってみるとやたら遠い💨 往きは他の人について行ったからよかったけど、帰りは迷ってウロウロしてしまった。ひゃーっ(~o~;)
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2024年12月16日 (月)

「ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ」:クリスマスに苦しみ増す人々

241216 監督:アレクサンダー・ペイン
出演:ポール・ジアマッティ
米国2023年

内容は明らかにクリスマス・ストーリー。しかし日本ではなぜか初夏の時期に公開……もう少し何とかならなかったのか。一応、アカデミー賞5部門候補で助演女優賞を取ったんだからさ。

舞台は1970年ボストンの寄宿制の名門高校だ。12月のクリスマス休暇ともなれば皆家に帰るはずが、訳あり&成り行きで教師・学生・女性料理長各1名ずつがガランとした学校にとどまることになる。

イヤミと毒舌で教室に嵐を巻き起こす教師は、頭の中が全て西洋古代史だけで組み立てられている専門オタクのように融通が利かない。しかし同時に権威には絶対に妥協せず。一方、成績優秀でも素行不良の学生は衝突するしかない。共通項は嫌われ者か(;^_^A
それを脇から見ている料理長はなぜ学校に留まるのか。
学生の屈折した境遇、教師の驚きの過去、料理長の悲しみがやがて明らかになっていく。

基本的には人情味あふれるクリスマス・ストーリーといえる。しかも冒頭わざわざ古めかしいオープニングタイトルに画面や音にノイズを入れて、70年代映画を擬古的になぞっている。機内上映で予備知識なしに見て昔の作品だと思い込んだ人がいたのもおかしくはない。作中の挿入歌もそれっぽい選曲だ。
当時の作品にあまり思い入れのない私のような人間は、そこまでやる必要があるのか?などと思ったりして。それと障害や病気の扱いはどうよ🆖という部分があり、そこまで70年代並みにしなくてもいいのでは。

個人的には、いい話過ぎて私には身に余る。感動的だけどねーとしか言えない。
でも登場人物たちがうかつに変化しない点は好感だった。ただ教師の行く末は大いに不安である(~_~;)

P・ジアマッティの若い頃から学内に暮らして全人生が染みついているようなベテラン教師の演技から目を離せなかった。
学生役のドミニク・セッサはほぼ演技経験なしとは信じられない(!o!) よくぞ見つけてきたものよ。ロケした学校でオーディションしたって本当か。確かにルックスといい存在感といい、冒頭に出てくる他の学生役の若い男優たちとはかなり異なっている。
ダヴァイン・ジョイ・ランドルフはこの年の助演女優賞を総なめした価値はあり。

A・ペイン監督作は初めて見た。手堅い演出だが今回の脚本は書いていない(過去に2回オスカーの脚本賞を取っているのだけど)。
邦題のサブタイトルは野暮ったいのでなんとかしてほしかった。

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2024年12月12日 (木)

「ジェズアルド・シックス」:6番目の男

241211a ウィッシング・トゥリー
会場:東京文化会館小ホール
2024年11月26日

アカペラ合唱コンサートに行ったのは久しぶりである。このグループは録音も聞いたことないけどとりあえず行ってみた。会場で耳にしたところによると、ユーチューブで合唱シーンが広く知られているらしい。

名の通り英国男声6人組である。2種類のプログラムで来日し、古楽が大半かと思ったら現代曲と半々ぐらい取り混ぜての構成だった。ちなみに肝心のジェズアルドの曲はどちらのプロも1曲のみである。満員御礼完売とのことだった。
どちらのジャンルも境界なく歌いこなし聞かせてくれた。端正かつ硬質な響きに圧倒される。しかも文化会館小ホールは鑑賞環境としては申し分なく、声が身近に届いてきた。

リーダー兼バスのパーク氏はまだ32歳ぐらいらしい。若い🌟 作曲もこなす才人である。カウンターテナー二人の歌声は華麗。彼のバスの技巧も評判だったが、私の座席からだと彼の斜め後ろになってしまい、よく聞こえなかったのが残念だ。
コンサートは全体を通して洗練極まりなく構築された世界だった。ただ、「洗練され過ぎ」となると諸刃の剣。休憩時間中に「どの曲も同じに聞こえる」との声が客の中から聞こえた。ムムム(~_~)確かに前半はそんな感じがあったかな。

伝承曲を編曲したものや、アメリカ先住民の詩による作品などもあり、選曲自体はバラエティに富んでいた。伝統歌の「オークとアッシュ」って「おじーさんの古時計」の歌の原曲だろうか(・・?

サイン会は長蛇の列で、CD販売コーナーは大忙しだった。売切れの盤も出てスタッフは嬉しそうでしたな。
若い方のカウンターテナーはティモシー・シャラメにちょっと似ていた。TV収録(多分NHK)が入っていたので放映時によーくご確認ください。
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2024年12月 7日 (土)

「シビル・ウォー アメリカ最後の日」:ウォーリー……じゃなくて、大統領をさがせ!ワシントンだいそうさく

241207a 監督:アレックス・ガーランド
出演:キルステン・ダンスト
米国・イギリス2024年

米国では半年も前に公開されたのに、あえて大統領選一か月前まで日本公開を引き延ばしたというそのヤマっ気や良しっ👍
おかげで最近の洋画ではめっきり少なくなった公開週末の興収第1位というのはメデタイ限りである。

舞台は近未来--というより「近現在」の米国。冒頭で状況が早口でサーッと説明されるが、とても追いつかない。こういう時はパンフレット(千円ナリ)を参照だいっ。
広告の宣伝文句には「アメリカが2つに分断され」とあるが、正確には4つに分かれている。大統領が独裁体制を敷き3期目も居座る連邦政府、南部のフロリダ連合、カリフォルニアとテキサスがくっついた西部勢力、さらに新人民軍(「マオ派」が支配って、毛沢東主義者のこと?)という状況だ。

日本公開当時でも「カリフォニアとテキサスが同盟なんてそんなバカな」という意見があった。しかしその後実際の大統領選挙戦で共和党のガチ正統保守勢が民主党を支持なんてことが実際起きたし、当選したトランプは三期目やる気マンマンぽいし、「FBIをぶっ潰す⚡」などとこの映画の大統領と同じような言動をしているので、あながちデタラメというわけではない。

4人のジャーナリスト(うち一人は見習い中)が大統領のインタビューを敢行しようと、戦時警戒体制のニューヨークからワシントンへ混乱の中をドライブしていくというのが基本設定である。
『地獄の黙示録』が引き合いに出されているが、実際見てみると確かに物語の構造はほとんど同じだ。一人の人物を求めて進む道中に異様な場所と人々が次々と出現して彼らを惑わす。遊園地の狙撃戦や平穏を装う町の描写に至っては、シニカルなユーモアさえ感じられる。異なるのは舞台が米国なのと、中心人物が兵士でなくてジャーナリストであることだろう。

もっともカメラマンにとってカメラとは銃の代わりになるらしい。以前戦場カメラマンのインタビューで、カメラを持って兵士たちの後ろから付いていくと自分も銃を持っているような感覚で突撃してしまうという話を聞いたことがある。ある時、ふと気づくと自分が部隊の先頭に立って突進していたという(~_~;)
こちらもやがてそのような状態になる。しかもプレス印をつけていればどの側でも基本出入り自由で受け入れてもらえる……はず。うまく行かない時もあるけどな😑

しかしたどり着いた先のカーツ大佐ならぬ肝心の大統領が「中身がない」状態なのはどうしたことよ。現実の大統領を皮肉っているのだろうか。
途中まで引っ張ってきたベテランカメラマンのリーは報道最前線から自ら撤退し、若くて未熟だったジェシーが「決定的瞬間」をモノにする。そこで、見事に引き継ぎがなされたのを観客は思い知るのである。

どの場面も印象的な構図で思わず見入る。音響は銃声が耳にグサグサ突き刺さる。迫力充分だ。音楽のミスマッチな使い方も効果的である。賛否いずれにしても語りたくなる作品なのは確かだろう。ガーランド監督の手腕は認めるほかない。
リー役キルステン・ダンストの愛想ゼロの仏頂面がよかった。

思い返してみると、私がこの映画で引き付けられるのは社会的政治的な部分ではなく、黙々とワシントンへと移動する部隊、燃え上がる山火事、明るい陽光の下で「冬」を演じる遊園地、夜のホワイトハウスへの一斉突入--のようなシーンのイメージなのである。
それは脳ミソにじんわりとしみこんで離れないのだ……。


さて、この映画の設定だが冒頭に書いた基本事項はいいとしても、細かいところを見て行くと不自然なものがある。
*あんな自治体壊滅状態なのにインフラが生きているのはおかしい(ショッピングセンターなんか真っ暗なはず)。州都の周辺はまだしも田舎では水も電気も停止しているだろう。そもそもガソリンスタンドに給油車は来るのか、とか考えだすと止まらない。
ネットはどうか。思い返すと最初の方でホテルでリーがノートパソコンを開いて「速度が遅い💢」とブチ切れていたけれど、NYの外では使えないのか?
*作中でスマホを使っている場面がない(多分)のも不自然。ネットが繋がらなければスマホを使わないかというと、そんなことはないだろう。兵士たちはスマホで自撮りしまくってもおかしくないはず(敵を殲滅した時の記念とか)。
まあそれをやっちゃうと「誰でもカメラマン」状態になってしまいフォトジャーナリストを中心に据えた意味がなくなるだろう。それにスマホ掲げて敵に突進する姿はあまりに滑稽である。
*戦争描写でも最も陰惨な状況は注意深く避けられている。戦闘は基本的に武装した兵士・自警団同士で行われていて、年寄りや子供が犠牲になる場面は排除されている(実際の紛争の犠牲者では多いはず)。最も陰惨な赤サングラスの男登場場面でも犠牲者は成人だけのようだった。
また性暴力についても同じく描かれない。あのガソリンスタンドでてっきり「おっ、おねーちゃんが2人いるな(一人は年増だけど)。現金の代わりにこっち来いや」などと言われると思ってドキドキ(・・;)したが、そういうことはなかった。

これらを捨象した一種の幻想(ファンタジー)と考えられる。その点ではリアリティに欠け、かなり意図的に構築された世界だといえよう。

【追記】ついでに例の赤いサングラス男が「どのアメリカだ?」発言について。予告で見ると国内の勢力のどこを支持しているのかという問いに解釈されているが、本編では続けて「中南米も南米だってあるぜよ」と言っているので、ラテン系の記者(役者はブラジル出身)に対して米国人かどうかを問いただしていると思える。ここで「ブラジル」とか答えたら終了❌だろう。
241207b

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