映画(タイトル「サ」「タ」行)

2022年5月19日 (木)

「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」「ザ・バットマン」:歳をくっても青二才

220519a「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」
監督:ジョン・ワッツ
出演:トム・ホランド
米国2021年

「ザ・バットマン」
監督:マット・リーヴス
出演:ロバート・パティンソン
米国2022年

最も能天気に始まった本『スパイダーマン』シリーズ、一年目は部活にパーティ、二年目は修学旅行、そして三年目は--一気に雰囲気チェンジ⚡ 能天気なお子ちゃまメンタルだった若者が、全てを手放し自己の確立と自立への道を歩むというシビアなものであった。

思いがけない邂逅と、全てを覚悟した最後の決断。ついにこれで学校も「卒業」だ。これまでのシリーズを知る人間には、涙と感動でスクリーンを見る眼が曇るのは必至だろう。

……とは思うものの、心の隅で「やり過ぎじゃないの?」とか「なんだかなあ」などと感じちゃったのも否定できぬ。そこまで畳みかけて感動させたいか??というのは言い過ぎかな。

やはりこれはスパイダーマンが本当に好きな人にこそふさわしい映画なのだろう。
私のように各シリーズを適当につまんで見ている人間には向いてないようだ。そもそも過去作復習するの面倒くさい、などと思っている段階で失格だ~。

それにしても豪華出演陣には目がくらむ✨ 一体これで採算がとれるのか(?_?)などと心配しちゃったが、公開するなり特大大大ヒットで、あっという間に取り戻せたらしい。
まあ、とりあえずウィレム・デフォーとアルフレッド・モリナのファンは見て損なしとだけは言っておこう。

ただ、クライマックス後の状態がどういうものなのか今一つよく分からなかった。少なくともIDは存在しているんだよね。そうじゃなきゃ不法入国者と同じになっちゃう。

それにしてもパラレルワールドにマルチバース💥両方揃ったらもはやなんでもありじゃないの、などと思ったりして。


220519b 続いて『ザ・バットマン』、SNS上の略号は「ザバ」だ。
これまでのバットマンは表の顔は推定年齢30代、富豪の軽薄なプレイボーイだった。しかし、この度のシリーズでは一転してバットマンなり立てホヤホヤのまだ2年。当人は、若くて資産があるのに暗い洞窟内で孤独に暮らすヒッキーの変人として市民に認知されている。
冒頭数分見ていると「あー、今度の主人公は鬱陶しいヤツだ」と悟れる仕組みだ。

出だしはサイコホラー風に始まるのだが、主人公の謎の解明方法は旧弊なハードボイルド式だ。つまり、怪しいと思われる関係者に突撃👊し、新たな方向を示唆する証言を得て、またその対象に突撃して新たな証言を--というのを繰り返していくのである。
これではいくらリドラーが謎を出しても甲斐がないだろう。

しかも相手がシリアルキラーだったのがいつの間にか社会に不満を持つテロリストになり、最後にはバットマンに個人的恨みを抱く●人になってしまう。一体お前は何がしたいんだ。
格差問題持ち込んで「持たざる者の不幸」と言っても、たくさん持ってる奴もやはり不幸で陰々滅滅とした顔をしてるのだからどうしたらいいのかね。

街は暗い割には普通にニューヨークにしか見えず、格闘シーンは妙にモサモサしている。これはわざとだろうか?

折角のパティンソンはマスクをかぶっている時は2割、かぶってない時も前髪のせいで5割ぐらいしか顔が見えない。困ったものよ(-_-メ) これでは『ライトハウス』の方がよほどたっぷりパティンソンを眺められるぞ。ヒゲはやしてるけどな。
リドラーやペンギンはほとんど顔が分からず、中身が誰でも変わらないのではとか思ってしまった(^^;

良かったのはゾーイ・クラヴィッツとジェフリー・ライトかな。
キャットウーマンのマスクは鼠小僧っぽかった。ネズミならぬ猫娘かっ=^_^=


以上の二作に描かれたような若いモンを生暖かく見守ってやれないというのは、自分がまだ未熟者だということであろう。猛省したい。

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2022年4月 5日 (火)

「ダ・ヴィンチは誰に微笑む」「皮膚を売った男」:アート界の一寸先は金

220405a「ダ・ヴィンチは誰に微笑む」
監督:アントワーヌ・ヴィトキーヌ
フランス2021年

「皮膚を売った男」
監督:カウテール・ベン・ハニア
出演:ヤヤ・マヘイニ
チュニジア・フランス・ベルギー・スウェーデン・ドイツ・カタール・サウジアラビア2020年

『ダ・ヴィンチは誰に微笑む』はカネにまみれた美術市場を題材にした仰天のドキュメンタリーである。

突如、出現したレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画「サルバトール・ムンディ」。
なぜか米国の民家の廊下に飾られていたのが「発見」され、2005年にニューヨークの美術商が13万円で購入。「修復」して鑑定を行ったものの結果は曖昧なまま真作として公に英国の「ダヴィンチ展」で展示される。

そのまま様々な国の色んな人物が絡んで値段がどんどん上がっていく。
怪しいと判断してサザビーズが扱わなかったものを、クリスティーズが現代アート路線のような派手な宣伝をして競売にかける。
裏付けもなく確実ではないものに大金を出す。最後の落札額はなんと510億円💴
証言するのは、美術商、研究者、ジャーナリスト、オークション会社、学芸員、匿名の(モザイク入り)フランス政府関係者などなど。もはや虚像でしかない価値に振り回される様相を、ドキュメンタリーとして確実に洗い出していくのであった。

うさん臭い人物が次から次へと登場するのがたまらない( ̄▽ ̄)
『テネット』にそっくりなロシアの実業家(まさにこれが「オリガルヒ」というヤツであろう💥)も一時の所有者となる。自由港を所有してそこの倉庫に美術の収集品を保管してあるって、そのまんまじゃないですか。モデルにしたのかしらん。

結局、今あの絵がどこにあるのかは判然としないそうだ。
名作も一寸先は闇。アートの世界は奇々怪々⚡転がる絵画に苔は付かない……けどマネーは増える。もうバカバカしくて面白い。

ところで、過去に紹介した『アートのお値段』というドキュメンタリーで最後に登場するのが実はこの「サルバトール・ムンディ」だった。
これを見た時に投機の対象となる現代作品をなぎ倒して最高額を得たのがこの「古典」作品だったというオチで驚いたのだが、実は現代アート売買の手法を取っていたというのならさもあらん、である。

220405b
さて同じ現代アートつながりの『皮膚を売った男』、こちらは劇映画だ。

シリアで迫害を受け難民となってレバノンに逃亡した男が、なんとか恋人のいるベルギーに行こうとする。その時、アーティストから奇抜な申し出を受ける。背中にアート作品としてのタトゥーをして、自ら「美術品」となってビザを取得するというのである。
もちろん、美術展で「展示」される義務など負わなければならない。

人間ならダメだけど芸術作品なら移動できるとはどういうことだろうか。現代アートと難民と自由の問題に鋭く迫る着想だ。

……ではあるが、発端は辛辣でもその後の展開はなんだかパンチに欠けている。見てて消化不良な気分になった。コメディタッチで世界の矛盾を皮肉る作品と解釈すればいいのかね。

実際に存在する(人間の背中にタトゥー)作品によって着想したらしい。その作者自身も端役で出演している。従って、現代アートの在り方にかなり親和的である。
アーティストの大半は詐欺師同然などと思っている人間にとってはやや肩透かしな内容だ。

ただ美術館のシーンなどは撮影の工夫が凝らされ非常に美しい。モニカ・ベルッチが特出。
アートの未来を躊躇なく信じられる人向け。

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2021年10月29日 (金)

「戦火の馬」と「計画」なき家父長

211029 ナショナル・シアター・ライヴの『戦火の馬』(2014年)を見た。

原作はマイケル・モーパーゴの児童文学(1982年)で、過去にスピルバーグが映画化している(未見)。
舞台版では馬が3人がかりで操る巨大なパペットとして登場し、その動きと戦闘場面の大仕掛けが見ものとなっていた。

見ていて気になったのが主人公である若者の父親の存在だ。その父は自分の兄と非常に仲が悪く、馬の競売で買う予定もないのに一頭の馬を兄と競り合いを始めて、意地で最後に競り落としてしまう。そして借金を返すために持っていた大金を全て費やす。
しかもその馬は競走馬で、自分の農場では役に立たないのだ。

馬を連れて帰ると母が罵る。結局、父は息子に競走馬として調教することを押し付けてその場から去ってしまう。

馬が競走馬として立派に育った頃、父はまた自分の兄と無謀な賭けをする。競走馬なのに農耕機をつけて畑を耕すというのだ。彼は自分で馬に機具を付けようとして失敗する。そしてまたしても息子がその役目を負うのだ

やがて第一次大戦の影響が英国の田舎町にまで迫って来た時には、なんと父は勝手に馬を軍用馬として政府に売ってしまう。馬が金になったと喜んで帰宅すると、自分の分身のように思っていた息子は衝撃を受け、その年齢に達していないのに馬を追って軍に志願するのだった。

いくらなんでもいい加減すぎる父親である。しかし、どうも見ていて「こういう父親どこかにいたような(^^?」と既視感を抑えられなかった。
と、見終わってしばらくして思い出した。『ハニーランド』だっ(ポンと手を打つ)⚡

こちらはドキュメンタリーだが、女性養蜂家の隣に越してくる大家族の父親がよく似た感じなのである。
そもそもは家畜を飼っていたのだが、主人公の見よう見まねで養蜂を始める。ド素人にもかかわらず彼女に教えを乞うたりはせず、いきなりハチを自宅の庭に持ってきて子どもたち(幼児もいる)は刺され放題となり大騒動だ。
その後も強引なやり方で息子と衝突したり、主人公に迷惑かけたり、周辺のハチの生態をぶち壊したりする。

このように父親の無謀な思い付きで無計画にことを行ない、妻や子どもを巻き込んだ挙句に自分だけは無傷に終わる(しかも妻子は従い続ける)--というのが共通しているではないか。

そこでもう一つ思い出したのが『パラサイト』である。
これを見た時に今一つ分からなかったのが「計画」という言葉である。セリフに何度も登場するが、これは何を指すのだろうか? はて、文字通りの意味なのか、それとも韓国では特別な意味を持つのか。感想や批評を幾つも読んだがこの「計画」について触れたものはなかった。

『パラサイト』の父親は、先に挙げた二作品のような父権を振り回す強引な人物ではない。しかし、家族から「計画はあるの?」と聞かれれば「計画はある」と力強く頷いて見せざるを得ない。でもその後で息子にだけ「実は計画はない」ともらすのだ。
この「無計画」の結果どうなったか。やはり妻子や周囲を巻き込んで取り返しのつかない事態になる。さらにここでも父親だけは無傷なのである💢

これら三作品に共通なのは、計画を持たない父親の決定や行為がいかに家族を翻弄し混乱させて苦痛を与えるか、その弊害を描いていることだろう。
『戦火の馬』では母の「あの人も昔、家を背負って苦労した」という言葉で家族の絆に回帰する。
『ハニーランド』では家族自体が主人公と観客の目の前から突然消えてしまう。(恐らく父親はあのままだろう)
『パラサイト』となると、もはや父親が家長として復活するのはありえない事が最後に明示される。息子がそれを継ぐのも不可能だ。
「父」や「夫」の価値が称揚されることなく沈没していく。『パラサイト』はそんなシビアな社会状況を提出している。


さて、私はこれまでコロナ禍への日本政府の対策の混迷ぶりを見て「ああ『パラサイト』の〈計画がない〉というのはこういうことだったのか」としみじみ思った。
このような「無計画」の極みを成し混乱と苦痛を生んだ当事者の行く末は、果たしてどうなるのだろうか……。

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2021年9月24日 (金)

「サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)」:歌と共に時代あり、時代の陰に政治あり

210924 監督:アミール・“クエストラヴ”・トンプソン
米国2021年

ロック年表などというものがあるとしたら1969年の項にはウッドストックの野外コンサート開催と太字で書かれるだろう。
一方、同じ年にこんなことがあったのは知らなかった(!o!) ニューヨーク、ハーレムの公園で6週間にわたり無料コンサートが行われたのだという。しかも映像の記録が残されていたというのに映画にもならず長年放置されていた。
50年ぶりにその「ハーレム・カルチャラル・フェスティバル」の記録を掘り起こしたのがこの映画である。

当然ながらソウル、R&Bが中心だが、日によってはゴスペル、ラテン、ジャズなどとテーマを決めてやったらしい。それだけに多彩なミュージシャンが次から次へと登場する。
そして、参加ミュージシャンの立ち位置の紹介から、さらに当時の社会状況、政治情勢、公民権運動後における黒人の立場の変化、ハーレムという街の特徴を重ね合わせ時代と音楽を浮かび上がらせていく。
合間にその時実際に聴衆だった人々にフィルムを見せた感想や証言が挿入される。

ただし、これはコンサート映画ではない。あくまでも「コンサートについてのドキュメンタリー」なのでご注意あれ(^^)b
なので、最初から最後までかかる曲はほとんどないし、多くは曲にかぶせて回想や説明が入る。内容が政治や黒人社会に重点を置いているのは、それこそがこの無料コンサートが行われた重要な要因であり、果たした役割だからである。

そんな中で見どころ聴きどころは、マヘリア・ジャクソンとメイヴィス・ステイプルズ(若い)怒涛の共演。迫力のあまり聞いてて椅子ごとひっくり返ってしまいそう。
ザ・フィフス・ディメンションは白人グループと誤解されることが多かったので、ぜひ出演したかったらしい。こんなカッコエエとは知らなかった。
スティーヴィー・ワンダーは天才ぶりを思うままに発揮している。これでまだ19歳とは信じられねえ~。既に大成している。ファンは必見だろう。

個人的には終盤のスライ&ザ・ファミリー・ストーンとニーナ・シモンが嬉しかった。
司会がスライたちの名前を出すとドッと聴衆がステージ前に押し寄せる(予定時間通りに始まったのかな?)。やはり突き抜けて先鋭的だ(でもなぜドラムが斜め読み向き?)。
もちろん当時同じようにファンク・サウンドを追及していたミュージシャンはいただろうが、グループが白黒男女混成というのは珍しいし(当時、ブラックパンサーから「なんで白人入れてるんだ」と非難されたとか)、煽っているようなクサしてるようなひねくれまくって360度一回転しちゃうような歌詞も好き✨

ニーナはピアノ弾き語りの毅然とした迫力に思わず拝みたくなっちゃう。アジテーションか音楽か、そのスレスレなまでに混然一体となったメッセージの強烈さが突き刺さる。ラストの詩の「朗読」にもグルーヴあり。
なお、エンドロールの後にオマケがあるのであわてて席を立たないように(^^)

これほどの無料コンサートを6週間も続けられたというのは、よほどの企画力というか資金集め能力がなくてはできないだろう。いくらコーヒー会社を後援につけたとしてもどうやったのかしらん?と謎に思っていたら、たまたま読んだ『ルート66を聴く』(朝日順子)という本にこう書かれていた。

「アメリカの市町村主催の音楽フェスは、無料か格安で参加できるものも多い。シカゴで参加したブルース・フェスティバルやゴスペル・フェスティバルは無料だった。」

な、なるほど……だからNY市長も出てきてたのか。日本では考えられない事である。


ところで、この映画を見て「音楽に政治を持ち込むな」と批判した人がいたそうだが笑止千万である。
音楽の方で政治を避けても、政治の方は決して音楽を見逃してくれないのよ💨

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2021年7月24日 (土)

「ノマドランド」/「ザ・ライダー」:演技と実物

「ノマドランド」
監督:クロエ・ジャオ
出演:フランシス・マクドーマンド
米国2020年

「ザ・ライダー」
監督:クロエ・ジャオ
出演:ブレイディ・ジャンドロー
米国2017年
アマゾンプライム鑑賞

アカデミー賞6部門ノミネートで3部門獲得、他にもヴェネチア映画祭でも最高の金獅子賞--🎀
前年の『パラサイト』に続き、この一年に話題をさらった作品と言ったらこれだろう。

キャンピングカーで広大な米国の土地で車上生活を送る中高年女性が主人公である。企業城下町で夫婦で暮らし家を建てたが、企業が撤退し(町ごと消滅💥)家も不況で失い夫が亡くなって、全てを失って追われるように旅に出る。
米国の広野には同じように暮らす人々(ノマド)が大勢いるらしい。

「現在には固執しない」と言っても、過去にはこだわっているように見える。キャンピングカーに思い出の品を山のように積んで引っ張って移動しているのだから。
「人生断捨離」という言葉が浮かぶ。捨てられぬ物があっても、それまでの人生は置き去りにできるようだ。

てな調子なので、貧困や格差という社会問題というより人間の生き方としての面が強調されている。あくまで自由な精神のありようだとして示される。主人公は定住する機会も得るけど、結局はそれを捨てて去っていくのだ。

プロの役者はフランシス・マクドーマンドとデヴィッド・ストラザーンぐらいで、それ以外のノマドは実際に放浪生活を送っている人たちだというのに驚く。
そのせいでかなりドキュメンタリー的な色合いが強い(そもそも原作がドキュメンタリーなのだが)。
現実にこういう暮らしをするのは大変だろう。トイレも風呂もままならず、病気になったりさらには車が故障したら大変だ。

荒野の風景や人々のたたずまいの映像が極めて美しい。ただ、個人的には「いい映画なんだけど好きとは言えない」類いの作品だった。まあ、これは好みの問題である。
それと音楽は「そこでL・エイナウディ使うのか👊」と言いたくなった。

マクドーマンドの演技は本物のノマドに混ざっても浮くことなく、オスカーの主演女優賞を(番狂わせで?)ゲットするだけのことはあった。
ただワニとヘビの場面は「地」ですかね。あれも演技だったらもう平伏するしかない。

捨てたい物に埋もれている中高年に推奨。


さて『ザ・ライダー』、実は『ノマドランド』公開よりも先にクロエ・ジャオの前作ということで予習として見た。
一応、劇映画なのだけどほとんどドキュメンタリーみたいである。というのも、主要人物はみな本人が本人役を演じているからだ❗

舞台はサウスダコタ、知識がなくて見ててよく分からなかったのだが先住民居住区なのだという。
主人公の若者は馬の調教師にしてロデオ大会の優秀な選手である。ある日大会中の転落事故で大怪我を負ってしまう。怪我を治してリハビリ……するはずが、そんなまだるっこしいことやってられるかと気は焦るばかり。心は復帰したくても身体の方はそうもいかない。そんな若者の静かな焦燥の日々が淡々と描かれる。

本人役を本人が演じているのは彼の友人や家族だけではない。華やかなロデオスターだったがやはり落馬事故で車椅子生活で言葉もままならなくなった先輩も、ビックリなことに当人が演じているのだ。
ただどうしても、人間同士の場面は見てて素人の演技なので吸引力には欠ける。良作と思えど、睡眠不足の時に見たら寝てしまうのではないかという印象も感じるだろう。

一方、広大な自然の描写や主人公が馬を馴らす場面は素晴らしい。特に後者はまるで優美で緊張感に満ちたダンスのようだ。目が離せない。
そういう点ではやはりこちらもドキュメンタリー部分が勝った作品だと言えるだろう。

見てて『荒野にて』を思い浮かべた。親とうまく行かない若者の焦燥と馬と荒野が登場するだけでなく、対象とカメラの距離の取り方が似ているような印象だった。(製作年は同じ)

データベースやアマプラのジャンル分けを見ると「西部劇」になっているんだけど、それでいいのか?

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2021年6月26日 (土)

「ある人質 生還までの398日」/「ザ・レポート」:拷問をくぐる者は一切の希望を捨てよ

210626「ある人質 生還までの398日」

監督:ニールス・アルデン・オプレヴ
出演:エスベン・スメド
デンマーク・スウェーデン・ノルウェー2019年

「ザ・レポート」
監督:スコット・Z・バーンズ
出演:アダム・ドライヴァー
米国2019年
アマゾン・プライム鑑賞

デンマーク人の若いカメラマンがシリアに渡り、紛争下での庶民の姿を撮ろうとしたところスパイの疑いを受けて捕らえられてしまう。情勢不安定なためにいつの間にか勢力地図が変わっていたのだ。そして、人質として身代金を請求される。(実話である)

ところが(日本もそうだが)国は表に立って交渉に応じない方針だ。家族は平凡な一般市民なので高額な身代金は支払えない、と膠着状態になる。
一方、カメラマンは拷問された挙句、他の捕虜たちと共に恐怖の監禁生活をずっと続けることになる。

身代金集めに奔走する家族と悲惨な境遇の主人公が交互に描かれる。が、目まぐるしくはなくて編集がちょうどいい塩梅である。
約2時間20分が緩みなく展開し、緊張あり過ぎで倒れそうなくらいだ。

主人公は軟弱そうな若者だけど、スポーツ選手出身というのが監禁生活でも生存に利したようだ。何にしろ体力と運動は必要。それと家族のたゆまぬ努力も大きい。
だが助けてくれる家族がいない人質の運命は辛いものよ(ToT)

一方、米国は家族が交渉すると罰せられるとのこと。個人の命を左右するのは金だけでなく、国のありようも関わってくるのだ。


さて、『ザ・レポート』は拷問つながり(>y<;)と言える米国映画である。
こちらは911の後から強化されたCIAによる捕虜拷問問題を扱っている。それまではテロの容疑者や参考人捕まえた場合の尋問は比較的穏やかな方法(日本の「まあ、カツ丼食えや」みたいな感じか)で行われていたのが、急に過激化する。

その方法が『ある人質』で出て来た拷問とほとんど同じ。いや、もっと恐ろしいヤツも……(>O<)イヤーッ 恐ろしすぎて文字にもできない。互いに拷問合戦をやっている末世的状況、と言いたくなる。
やはりここでもヘビメタを使用。メタリカだけでなくマリリン・マンソンも使われていたようだ。ところで、いわゆる「水責め」は旧日本軍が発案したって聞いたことあるけど本当か?

しかもその手法を進言したのは二人の心理学者なのだが、その専門は全く関係ない分野だというウサン臭さである。顧問料で大いに儲けたらしい。

この経緯と並行して、その数年後にアダム・ドライバー扮する議会スタッフによってCIAの尋問問題についての調査が描かれる。
陰鬱なCIAのビルの地下で、長期間に渡りひたすら文書やネット上の資料をあさる日々で、彼の精神状態も不安定になる。おまけに外の政界では調査結果を公開するかどうかが駆け引きの材料となってしまうのだ。

監督・脚本は、ソダーバーグ作品で脚本を担当している人らしい。社会派作品の題材としては申し分ないが、二つの時間軸での行ったり来たりが分かりにくいのが難点。
それと絵的にはほとんどA・ドライバーが暗い場所をウロウロしてるだけなので、日本で劇場公開できなかったのは仕方ないだろう。ドライバーは執念のあまり偏執狂と紙一重な人物を熱演である。

上院議員役のアネット・ベニングはさすがの貫禄だった。
モーラ・ティアニーがCIA職員役で顔を見せているが、彼女の立場は『ゼロ・ダーク・サーティ』のヒロインと似たようなものなのか。そういえば皮肉だろうか、主人公がTVで『ゼロ~』の予告を見ている場面が出てくる。

調査は『ゼロ~』の内容とは反対に、拷問は役に立ってなかったという結論に至る。なんとCIAでも内部調査が行われていて同様の報告がなされていたという。
やはり国家のありようは大問題なのだ。

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2021年6月19日 (土)

「ウェイティング・バーバリアンズ 帝国の黄昏」/「彷徨える河」再見:狂気・逃走・放置

監督:シーロ・ゲーラ
出演:マーク・ライランス
イタリア・米国2019年
DVD鑑賞

原作J・M・クッツェー『夷狄を待ちながら』を作者自らが脚本化。出演がマーク・ライランス、ジョニー・デップ、ロバート・パティンソンという顔ぶれで、監督はシーラ・ゲーロ(『彷徨える河』コロンビア映画初のアカデミー賞外国語映画部門候補になった)、さらに撮影はクリス・メンゲス(『ミッション』『キリング・フィールド』でオスカー獲得)である。
これだけ豪華なメンツが揃っていながら、正式ロードショーがなくてビデオスルーというのはよほどトンデモな出来なのであろうか(>y<;)
--と恐る恐る見てみたら、全くそんな事はなかった。

砂漠の縁に立つ城壁のある町が舞台である。「帝国」に属しながらも辺境故に、民政官が平和に統治している。門は住民が行き交い、賑やかな市が立ち、家畜がのんびりウロウロとしていた。
しかし、ある日「大佐」が軍隊を引き連れてやってきたことから、平穏さに影が差す。
大佐は帝国の先兵として命を受けて版図を拡張すべく、辺境の果てに住む蛮族を討伐するため偵察に出ていく。

映画は時間の進行に沿って4つの章に分かれている。章が変わるたびに町の状態とM・ライランス扮する民政官の境遇は激しく変わる。町は乗っ取られ、活気があった住民たちもまた醜悪なまでに変貌する。もはやかつての自由は存在しない。
民政官の目を通して帝国の拡張と町の崩壊、その末路が淡々と綴られるのだった。

さんざんひどい目にあって地位を奪われた民政官が「私は裁かれている最中だ」というと、下士官から「そんな記録はない」と言われる。
どこの世界でも記録抹消と文書改ざんは「帝国しぐさ」らしい。

民政官役のライランスはほぼ出ずっぱりで恫喝されたりイヂメられたり、一方蛮族の娘の脚をナデナデしたり、いろいろあって大変な役だ~⚡ が、彼のファンは見て損なしとタイコ判を押しておこう。
大佐のデップと下士官のパティンソンは敵役で、出ている時間も少ない。もっともデップはこういうエキセントリックな役(メガネが怖い)をやるのは嬉しそうだが。
グレタ・スカッキがすっかりオバサンになってて驚いた。そもそも孫がいる役だし(^^;

辛辣なテーマ、美しい映像、暴力的展開、皮肉な結末--と文句はないのだが、問題はあまりに語り口が整然とまとまり過ぎていて、もう少し破綻した部分が欲しいのう、などと思ってしまった。かなり残酷な描写もあるのだが……。
原作者が脚本を書いたせいだろうか。それともこれは高望みというやつか。(原作は未読なのでどう異なるか不明)
加えて娘へのフェティッシュな欲望も割とアッサリめな描写。きょうび、あんまりネッチョリと描くわけにもいかないのか、それとも推測するに監督はあまりこの方面に興味ないのかもと思ってしまった。
監督には次作はぜひ自分の脚本で撮ってほしい。


さて、ずっと気になっていたこのシーラ・ゲーロ監督の『彷徨える河』(最初に見た感想はこちらをお読み下せえ)をアマゾン・プライムで再見した。
私はこれまで『地獄の黙示録』を4回ほど観たがその度に感じるのは、カーツ大佐の背後に槍持って立っている現地の住民たちは何を思っているのだろう--ということだった。外界から来た白人になぜ従うようになったのか、従っている間はどう考えていたのか、そしてカーツがいなくなった後に彼らはどうしたのか?
長いこと疑問であった。

そして『彷徨える河』にはその答えが示されているように思えた。

アマゾン川沿いの密林に住むシャーマンに数十年の時を隔て、二人の学者がそれぞれ会いにやってきて河を下る。
最初のドイツ人と共に途中でカトリックの修道院に寄るが、そこは偏狭な修道僧(白人)と現地の子どもたちしかいない閉ざされた空間だった。
数十年後に今度は米国人の学者と共に同じ修道院を訪れる。もはや修道僧がいなくなった今、そこで起きている混乱と残虐こそがまさにカーツの死後に起こったであろう災厄を想像させるのだ。

それは全て白人たちが勝手にやってきて布教し押し付けた後に、放り出して何もせずにそのままいなくなってしまった事による。
『地獄の黙示録』の主人公は感傷的に不可解な体験を語る。が、結局は勝手に来て勝手に去っただけだ。泣きたくなるのは住民たちの方だろう。これは大いなる「傷」、拭いがたい「傷」なのである。

さて、さらに河を下ってたどり着くのは戦争の地である。映画館で見た時は確認できずよく分からなかったのだが、コロンビアは長年隣国ペルーと紛争が起こっており、この時も戦闘状態になっている。ペルーの旗が掲げられて、銃を持った兵士が「コロンビア人か」と聞いてくるのはそのためらしい。
植民地から脱した国々がたどる困難がここに示されているようだ。

もう一つ、再見して驚いたのは予想以上に『ブラックパンサー』に影響を与えていたことだ(過去にクーグラー監督が「参考にした」と明言していた)。
どこか?と思っていたら、薬草についてのくだりだった。

『河』では現地に伝わる隠された薬草を求めて学者がやってくる、というのが中心の設定である(なお二人の学者は実在の人物がモデルで、それぞれ民族学者と植物学者)。
この薬草はいったん全部焼かれてしまう。しかし最後に一つだけ残っているのが発見されてそれが使用される--と展開する。
原作コミックスではどうなのか知らないが、『ブラパン』でもやはり超人的な力を与える薬草が登場してほぼ同じ経緯をたどる。

さらに、薬草だけでなく現地民の文化を外部の白人に伝えるかどうかの是非が『河』では問題になる。
これは『ブラパン』の特産の鉱物ヴィブラニウムを守るために存在を隠しているという論議と葛藤に繋がる。このように、メインテーマについてはかなり「参考にした」と言えるだろう。

『ブラパン』ではワカンダの首都がアジール的要素を持った理想の街として描かれ、統治者たる主人公はそれを満足気に眺めるというシーンがあった。
一方『ウェイティング・バーバリアンズ』ではやはりアジールであった町があっという間に「帝国」に侵食される過程が描かれる。これはゲーロ監督からの『ブラパン』への返答と考えてもよいだろうか。(うがち過ぎかしらん(^^;ゞ)

それにしても『彷徨える河』で、米国人学者が数十年前にドイツ人が訪ねて来た時と同様に小舟で現れる場面は、再見でも背筋がゾクゾクとするほどの衝撃と興奮があった(マジック・リアリズム❗)。
繰り返しになるが、ゲーロ監督には新作を望みたい。

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2021年5月16日 (日)

「ブラックアンドブルー」/「21ブリッジ」:白黒は決着つかず

210516a「ブラックアンドブルー」
監督:デオン・テイラー
出演:ナオミ・ハリス
米国2019年
DVD鑑賞

言うまでもなくブラックは肌の色でありブルーは警官の制服の色を示す。
故郷の街の役に立ちたいと戻ってきたアフリカ系新人女性警官は、警察と住人の対立の最前線に立たざるを得ない。そして昔の友人からは敵扱いされるのだった。
双方に付くことは不可能、どちらかの立場に取らばならないと忠告されて納得いかずモヤモヤしているうちに、身内の警官の不正と犯罪を目撃してしまう。

--と言うのが発端で、警察署と悪徳警官とギャングのボスから追い回される羽目に。一方、出会うストリートの住民は敵意か無関心、どちらかしかなくて助かる手段は全く見つからない。
ひたすら逃げ回る前半は手に汗握り、サスペンスとして面白かった。追い詰められてどうするかという所ではアクションも見せ場だ。ナオミ・ハリスは熱演である。

ただ見終わって思い返すとつじつまの合わなかったり適当なところもあったなあ(;^ω^)
脇役、特にゲーム少年をもう少し活用する筋立てにすればよかったのでは?とか、ギャングのボス簡単に人を信じてお人好し過ぎじゃないのか……などなど。まあ色々出てくるけど見ている間は気にならないからいいよね🆗

主人公はあくまで行動の人なので黒と青の両者の狭間での葛藤が少ないのは、ちょっと物足りない気もした。
それとガンアクションの最中に、倫理的な問題について理屈っぽい討論をするのは何とかしてほしい(^^;

もう一つの特徴は警官のボディカメラや住民のスマホ映像を多用していること。思わずG・フロイド事件やBLM運動を想起してしまうが、米国での公開はそれよりずっと前で、まるで予見していたようだ。
黒人街の雑貨屋で非常ボタンを押すと、まず店員自身が不審者として犯人扱いされて警官から脅される--この場面は非常に恐ろしい。やってられない気分になること請け合いだろう。

ということで、作りはB級以上A級未満だが、見る価値は大いにあり。


210516b「21ブリッジ」
監督:ブライアン・カーク
出演:チャドウィック・ボーズマン
中国・アメリカ2019年

米国公開時には今一つパッとしない評価&興収だった作品だが、「C・ボーズマン最後の主演作❗」みたいな宣伝文句を出されては見ないわけにはいくめえよ。

事前の印象だと、てっきり切れ者のボーズマン指揮する警察によってマンハッタン島が封鎖され、その中で逃げ場を失った犯人が「あ、この橋もダメ、あっちもダメだ」とジタバタする頭脳戦サスペンスかと思ったのだが全然違った。

ドラッグ争奪事件に端を発する派手な銃撃戦、カーアクション、逃走追跡劇などが立て続けにてんこ盛りで繰り広げられ、その合間にストーリーが挟まって進行するという印象である。
犯人二人組の設定や描写は良かったけど、開始後10分で私のようなニブい人間にも早々に真相が想像できてしまうのはなんとしたことよ。特にとある人物が最初から怪しさ大爆発💥である。もう少し隠す努力をしてほしい。

それからタイムリミット設定が生かされていないのもなんだかなあであった。銃撃戦については撃った弾丸が多けりゃ出来が良くなるわけではないと敢えて言いたい。

とはいえボーズマン最後の雄姿(アクション物での)を目に焼き付けておきたい人には推奨である。「疲れている男」という設定の役だけど確かにやつれているのよ(T^T)


以上、2作とも警察組織内の似たような不正を描いているが、他の映画やドラマでも見たことがあるので、恐らく実際に起こった事件を参考にしていると思われる。米国の作品はこういうの積極的に取り上げるのが常らしい。

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2021年4月21日 (水)

セルゲイ・ロズニツァ〈群衆〉ドキュメンタリー3選:行列に並べば福来たる

210421a ロズニツァはベラルーシで生まれモスクワの映画大学で学び、現在ドイツ在住の監督である。過去にドキュメンタリー21作、劇映画4作を発表とのこと。
日本で彼の作品(比較的最近のもの3作)が一気に初公開された。

「国葬」
オランダ、リトアニア2019年

1953年スターリンが亡くなり、赤の広場で国葬が行われた。死の直後から公式映像が撮影されたのだが、なぜかお蔵入りになっていたらしい。残された大量のフィルム37時間分と国営ラジオ局の放送音声からロズニツァが当時の状況を再構成したものだ。

尺は135分だが、そのほとんどはスターリンの死を悲しむ大衆のプロパガンダ映像が延々と続く。
場所はモスクワだけではない。広いソ連の各地津々浦々に飛んでいる。様々な人々がスピーカーの元に集まって死亡の報を聞いて茫然とし、涙を流しつつ祭壇を作り献花する。

赤の広場では安置されたスターリンの遺体を参るために長大な行列を作り進んでいく。それがちょっとやそっとの長さではない。
よくあんなに行列を作って混乱が起こったり将棋倒しにならないなと驚くが、当時の東側特有の配給の行列慣れ(^^;なのか、それだけ統制されているからか。
シメはさらに大規模な国葬。軍も参加してここでも大行進が続く。

その間、字幕も撮影場所を示すぐらいで解説はない。ただただ人々の姿が圧倒的だ。ソ連が広大で多民族国家だったのも実感した。

映像はモノクロとカラーが混じっていて、極めて鮮明で驚く。さらに映像に重ねられた放送の音声、背景の雑踏や生活音も明瞭。後者は直接同時録音したものではないが、同時期のものをダビングしたらしい。経過した年月を考えると、相当の手間かけてブラッシュアップしたのだろう。

国葬の場面で、運ばれる棺の前を小さな赤い布団(?)みたいなのを捧げ持った軍人が十数人歩いている。一体何を持っているのかと思ったら、一個ずつ勲章を大切そうに乗せて歩いているのだった。
それを見て、しばらく前に行われたナカソネを送る会で祭壇に巨大な勲章(の模型?)が飾られていたのを思い出した。

個人崇拝の行きつく先は宗教と全く同じ形である。今それが鮮やかに立ち現れる。似たようなことは少し前の日本でもあったし(戦前ではなく)これからも起こる--などと考えてしまった。

ところで、弔問に訪れた若き中国人は周恩来だそうな。


「アウステルリッツ」
ドイツ2016年

こちらはベルリン近くの元・強制収容所を見学に訪れた人々をひたすら延々と撮ったいわゆる「観察映画」だ。

こういう場所を見学するのがダーク・ツーリズムというらしい。
事前に知らなければレジャー施設と思うだろう。晴れた夏の日なので人々の多くはTシャツ短パン姿。笑いさざめき自撮りに忙しい。門の外の混雑は休日の上野公園なみだ。建物内は芋を洗うが如し。長い行列に団体行動。解剖台や焼却炉を覗き込む。中には死者を冒涜するような行動をする者もいる。

固定カメラは施設ではなくもっぱら人々に焦点を合わせている。しかもモノクロだ(なぜにモノクロ……?)。
一か所だけ見る者が一様に沈鬱で困惑した表情を浮かべるのだが、そこに何があるのかは映画の観客には分からない。
字幕が付くのはツアーガイドの説明の部分だけである。しかも説明の声はアフレコしたらしい。人々のざわめきなどの環境音はダビングとのことだ。(加えて焼却炉場面は別の施設の光景とか)

全ての要素を並列して投げ出し、映画の観客に「さあ、どうだ」と言っているようである。しかしずっと見ていると虚しくなり疲労のみが溜まってくる。
とにかく場面転換も少ないので眠気が這い寄って来るのに要注意だろう。


「粛清裁判」
オランダ、ロシア2018年

世評では三作のうち一番面白いと言われていたが、個人的に眠気度最高値💤だったのがこれだっ(>O<)

1930年スターリン独裁下のソ連、モスクワでクーデターの容疑で8人が逮捕される。
その公開裁判の記録映画が残っていたのを発掘し、編集したものである。これも映像がクリアなのに驚く。
オリジナルの方の記録映画は2時間半あったそうだが、2時間強に短くしてある。それでもかなり長~く感じた。

ソ連でのトーキー最初期の映画とのことだが、裁判の発言はともかく背景のざわめきや椅子の音はダビングらしい。それに対比するように市民の行進場面が付け加えられている。

裁判の容疑はクーデターを企てたということでいずれも地位の高い技術者たちだ。彼らが市民が埋め尽くす公開の法廷の場で弁明する。
彼らは容疑を認めているのだが、どうもその容疑も釈明も具体性に欠けていてひたすら謝罪に終始している。まるで懺悔大会のようだ。

スルスルと進行しながら実態のつかめぬ裁判の映像--問題はこれらの容疑が全てでっち上げだったということだ。裁判自体がプロパガンダだったのである。しかし、死刑判決が下されても被告たちは受け入れる。
その時の裁判長や検事を務める者の行く末(多くは悲惨な運命)も合わせてみると、スクリーンに浮かび上がってくるのは「闇」なのであった。


以上、結局三作皆勤してしまった。最初はそのつもりはなかったのだが(◎_◎;)
多分コロナ禍で外国映画の公開が滞っていたせいだろう。大作エンタメ映画が公開されていたら絶対そちらに行ってたに違いない。
見てしまったのは怖いもの見たさか。あるいはゾンビ愛好者がゾンビ映画を見に行くのと同じ気分なのか。
果たして私はロズニツァ監督に手玉に取られていたのだろうか。
得られた教訓は「大行列、目的が違えど並んでしまえば皆同じ」である。

パンフレット買ったけど1400円ナリでかなりの厚さ、単行本と言っていいくらいだ。彼の劇映画もどんなものか見てみたい。
210421b

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2021年4月 5日 (月)

「ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった」/「ラスト・ワルツ」再見:共同幻作

210405「ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった」
監督:ダニエル・ロアー
出演:ロビー・ロバートソン
カナダ・米国2019年

ザ・バンドについては完全に門外漢だけど見に行っちゃいましたよ。
ロビー・ロバートソンが過去を振り返るドキュメンタリーである。

自らの生い立ちから始まり、ロニー・ホーキンスのバンドに参加、レヴォン・ヘルムと知り合って独立してバンドを結成し、やがてボブ・ディランのツァーでバックを担当する。
御存じの通り、このツァーはどこへ行ってもディランがブーイングでヤジり倒された。彼らにとっても本当に嫌でストレスだったのが語られる。レヴォンに至っては途中で逃走してしまった(ーー;)

アルバムを出して人気を得るものの、その間に自動車事故が起こったり、酒とドラッグでツァーが崩壊状態になったりして、ロビーはもうバンドとして続けていくことができないと思うようになる。そして解散へと心が傾いていく。
当時の映像が全て残っているわけではないが、写真などでうまく繋いでいるのでインタビュー中心でも飽きることはない。

間にホーキンス、スプリングスティーン、クラプトンなどが出てきてザ・バンドへの愛を語る。ピーター・ガブリエルが登場したのは驚いたけど、名前が出るまで誰だか分らなかったというのはヒミツだ(;^_^A
笑ったのはクラプトンで、彼らの音楽を聴いて大感動して参加させてくれと頼んだが断られたそうな。
スコセッシも数回出てくる。映画の話より、当時のザ・バンド自体についての言及が多い。

しかしこれはあくまでもロビーの語りである。今でも存命しているメンバーは他にガース・ハドソンだけで、しかも彼のインタビューはないのだ。
「兄弟」であった男たちの絆が崩壊し『ラスト・ワルツ』に至って終了する--という、ある種感傷的な流れで物語としてうまくまとまっているが、まとまり過ぎの感がある。
ファンの人はどう思うのだろうか。

『ラスト・ワルツ』からのコンサート映像も使われている。おかげでもう一度見たくなった。私が見たのは昔に一度だけで、共演してたミュージシャンのこともろくに知らなかった頃である。
ザ・バンドというのはあの時代では特殊な立ち位置で、比べられるのはリトル・フィートぐらいしか思いつかない。今だったら、ルーツ・ロックとかアメリカーナとか分類されるかもしれないが。
それと5人編成のロックバンドでキーボード2人というのも珍しくないか!?


「ラスト・ワルツ」
監督:マーティン・スコセッシ
出演:ザ・バンド
米国1978年

というわけで結局また見てしまった『ラスト・ワルツ』である。ツ〇ヤでレンタルしたらちょうどケーブルTVで放映していた。トホホ(+_+)
もっともDVDには特典のコメンタリーや映像が付いている。
前に見たのはどうもリバイバル上映で1999年らしい。それでも20年は経過しているわけだ。

今回改めて驚いたのは歌詞の字幕が付いてないことである。最近のコンサート映画は付いていることが多い(『ザ・バンド』でも同じ演奏場面にはあった)。ファンは分かっているからいいだろうけど、私のような門外漢にはキビシイ。
それどころか曲名も途中に出さない。エンドクレジットにまとめて記されているだけだ。

一度通して見てからコメンタリー付き(しかも2種類ある)で飛び飛びに見直したりして2倍以上の時間かかってしまった。何をやっているんだ(~_~;)

ゲストでまだ若くてツルピカのジョニ・ミッチェルが登場している。思わずそこは二度繰り返して見てしまった。
ニール・ダイアモンドは他の出演陣に比べると完全に「外様」で、公開当時「場違い」みたいな言い方をされてたのを思い出した。ロビーの人脈で出演したらしいが、確かに微妙な距離感である。

ヴァン・モリソンは激熱のパフォーマンスをやってみせた。なのに、あの変な衣装はなんなのよ(?_?)……と思ったら、2種類のコメンタリーともこの衣装のことを触れてたので皆同じに感じるらしい。
ボブ・ディランについては撮影しない約束で弁護士が見張っていて、撮り始めると猛抗議してきた。それを、ビル・グラハムが会場から叩き出したという話には笑った。
当時の撮影スタッフのコメントではスコセッシが相当に細かくうるさくて辟易してたらしいのがうかがえる。

以前見た時には印象に残らなかったが目を引いたのは、インタビュー場面でリック・ダンコがフィドルを小脇に挟むようにして持って弾いてみせたことである。当然弓は上下垂直に動かす。こんな弾き方があるのかとビックリした。
これじゃ、ルネサンスやバロック期のような昔に楽器をどんな持ち方してたかなんて、今では完全には分からんわなあ。

見直してみて、スコセッシはロビー・ロバートソンを主演に据えた映画(テーマは有終の美学✨)を作りたかったのだなあ、と思ってしまった。コンサートの準備段階から関与していたというのだからなおさらである。もうこれは「共作」と言っていい。ドキュメンタリーでありながら「虚構」のような。
そうしてみると『ザ・バンド』の方は、結局そのテーマをさらに後から補強する役目を果たしているようである。
問題は他のメンバーが解散を考えてなかったということだわな💥
とすれば、40年後のロビーの語りは「弁明」とも受け取れる。

後に知られるようになったことだが、ライブ場面の音はほとんど後から差し替えやタビングしてあるらしい。あちらのコンサート映画では珍しくないことだそうだ。
差し替えてないのはレヴォン・ヘルムとマディ・ウォーターズだけとのこと。
マジですか(!o!) ますます虚構味が……💦

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