映画(タイトル「サ」「タ」行)

2020年6月30日 (火)

「スキャンダル」「ザ・ラウデスト・ボイス」:家族は大事だ!

200630a 「スキャンダル」
監督:ジェイ・ローチ
出演:シャーリーズ・セロン
米国2019年

「ザ・ラウデスト・ボイス アメリカを分断した男」
出演:ラッセル・クロウ
米国2019年
*WOWOWで放映

米国のFOXニュース社でのセクハラ事件を扱った問題作--といっても、米国では有名でも日本では知られてない事件である。私なんかそもそもFOXニュースとは?という基礎知識から欠けている。
また、中心となる三人の女性のうち二人は人気キャスターで「お茶の間の顔」だったらしいが、それ故のスキャンダル騒動は想像するしかない。本人を知らないからどれほどのそっくり度なのかも分からない。折角のアカデミー賞獲得のメイクも有難味が薄い。

そんな問題は色々あるが、十分面白かった。
発端は、ベテラン・キャスターのグレッチェン・カールソン(ニコール・キッドマン)が辞職して、CEOのエイルズをセクハラで訴えたこと。
看板キャスターのメーガン・ケリー(シャーリーズ・セロン)はそれを傍観。超保守系のFOXニュースだけあって、平気で「イエスは白人男性」などと番組で発言する人物だが、選挙討論会の司会でトランプと激突してひどい侮辱を受ける。
さらに、新人のケイラ・ポスピシル(マーゴット・ロビー)は野心満々、キャスターの座を獲得する夢を持っているが、エイルズからセクハラされる。

この三人のバラバラの行動が交互に描かれる。チラシや広告には三人がエレベーターで一緒になる場面が使われているが、多分この場面以外に揃う場面はなかったと思う。
つまり、予告を見て想像する「三人の女性が手を取って共にセクハラと闘う」というような内容ではないのだ。
三者がそれぞれに格闘する「連帯なき共闘」なのである。

実のところ三人とも共感できるかどうか微妙だ。(特にその保守的スタンスに同調できない者にとっては)
この三人がまとっている人工めいた美。その向こう側に保守系アイドルの実像が、隠されたメッセージとして言葉を介さずに浮かび上がってくる。怖いね~。

さて、ケイラは唯一実在ではない人物で、複数いた被害者を代表するようなキャラクターだ。
彼女がセクハラにあう場面は迫力である。それまでテンポよく進んでいた映画なのに、突然時間が停滞したようになって恐ろしさが凝縮され、極限まで引き延ばされる。
状況を理解できない(したくない)感情と笑って冗談にして済ませようとする意志が、M・ロビーの表情にモザイク状に入り混じる。
恐らく実際にセクハラの被害者はあの場面を見るとフラッシュバックしてしまうのではないか。要注意場面💥である。
彼女の演技はなるほどアカデミー賞候補になるだけのことはあった。

ここに冷静にあぶり出されるセクハラの真実とは、支配と暴力の構図である。
さらに、エイルズの周辺にいるベテランの秘書や女性スタッフは明らかにその構図に協力している。ケイラの同僚(レズビアンで民主党支持なのになぜかFOXにいる)は保身のために彼女を突き放す。
「女たちの共闘」などとというものが一筋縄でいかないことが描かれている(ここら辺は『ハスラーズ』とは正反対)。従って勝利しても感動は全くない。

ジョン・リスゴーは『ザ・クラウン』のチャーチルの時もそうだったが「鼻持ちならない傲慢な統治者」を演じたらうまい。M・マクダウェルはどこにいるのと思ったらマードック役だったのね。
セロンの主演女優賞ノミネートはメイクアップの力もありか?


『ザ・ラウデスト・ボイス』は同じ年に米国で放映された全7話のTVドラマシリーズである。『スキャンダル』を見てどうも判然としなかった部分がこれを見てよく分かった。
原作はノンフィクション書で、主人公はロジャー・エイルズ。ラッセル・クロウがメイクアップだけじゃない、お得意の体重増量を行なったとおぼしき鬼気迫るソックリぶりで演じている。

1995年、マードックの依頼を受けてFOXニュースを立ち上げる。最初から、リベラルな既存メディアがこれまで相手にしてこなかった「残りの半分」である保守層をターゲットにしている。
これはもはやジャーナリズムではなく、あおりと言っていい。それまでのニュース局の常識では考えられなかった手段を次々と取る。
経験のない若手をツッコミの良さだけでスカウトしキャスターに仕立てる。何も具体的な論拠や意見を述べず、ただ映像をつないでイメージをでっちあげる。

911が起こればありもしない大量破壊兵器を喧伝し戦争を起こさせる。宿敵オバマ大統領にはイスラム教徒疑惑とか「福祉詐欺」と大量報道し、遂には他メディアまで同調させ窮地に追い込む(ここら辺の執念深さはすごい)。
これでは、火のない所に煙を立てるどころか「煙もない所に強引に火事を起こす」状態である。
さらにはトランプに注目、大統領にしようと画策し、ヒラリーをあらゆる手段で攻撃しまくる。ここまで来ると、本当か❗と思っちゃうほどだ。

その一方、社内では暴君として君臨。腹心の部下でも気に入らないことがあればすぐに追放し、マードックからは経営権をもぎ取る。
セクハラは日常茶飯事、オフィスでは女性キャスターのスカートをまくり上げ、部下を愛人同様に囲う(その行為は『スキャンダル』でケイラが一部を電話で語っている通り)。

『スキャンダル』では脇に置かれていたグレッチェンの事件の一部始終が描かれる。長年キャスターとして活躍してきたのに、エイルズから性的な誘いと「トウが立ってきた」などと攻撃を同時に受けるのだ。まさにパワハラとセクハラは表裏一体である。
ここら辺の葛藤はナオミ・ワッツが熱演、クロウに劣らぬ迫力だ。
訴訟を起こして最後は和解に至り、事件については守秘義務を負っている……はずなんだけど、どうして詳細が知られているのかは不明である(^^?

さて『スキャンダル』を見てよく分からなかった点が二つあったが、こちらを見て納得できた。
疑問その1「どうしてエイルズはメーガンにトランプ攻撃を容認したのか」
その2「ひどいセクハラ野郎だが、病気になった従業員の面倒を見るような善い人物でもあるのは?」

エイルズは自分の出身地で新聞を出すため若い編集者を連れてきて身近に住まわせる。自身の父親に虐待された話をしながら、彼に「家族は大事だ」と語るのだ。
この「家族は大事」、なんか前にも聞いたことあるような--と思ったら、なんと同じくセクハラで訴えられたH・ワインスタインの発言だった。
ポン・ジュノが『スノーピアサー』を監督した時にプロデューサーのワインスタインから漁師の出てくる場面(そんな場面あったっけ(;^_^A)20分間カットしろと要求されたそうな。
そこでポン・ジュノはとっさに「父親が漁師なのでできない」と真っ赤な嘘をついたら、彼は「なんだそうだったのか、早く言え。家族は大事だ」と要求を引っ込めたという。

つまり、このようなセクハラ&パワハラ気質の人間にとっては身内かそうでないかは重要であり、身内の囲いの中にいる者は家族として認定し世話をしてやるが、同時に身体を撫でまわしたり性行為を強要するのもやって当然なのである。だって自分のモノなんだから。そこに基本的に差はない。

疑問1について、実際はメーガンは事前に言わずにトランプを攻撃したのだが、エイルズにとってはトランプは身内ではなく、単なる将棋の駒で他に交換が効くどーでもよい者である。だから身内のメーガンには何をしても許してかばうという態度を取る。
疑問2については上に書いた通り、別に善人なのではなく単に「身内しぐさ」に過ぎない。

というわけで、見ごたえありのTVシリーズだった。『スキャンダル』と合わせて見ると面白さ二乗であろう。
200630b

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2020年6月10日 (水)

「隣の影」:芝生が青けりゃ木もデカい

200610 監督:ハーフシュテイン・グンナル・シーグルズソン
出演:ステインソウル・フロアル・ステインソウルソン
アイスランド・デンマーク・ ポーランド・ドイツ2017年

公開時に見損なったのでDVD鑑賞。
見れば誰でも『パラサイト』を思い浮かべるだろう(日本公開はこちらが先)。
あちらは高台の邸宅と半地下でタテ関係の階層格差を扱い、夫が中心に話が動く。
こちらはモダンなテラスハウスの隣人で横関係、女同士がいがみあう。しかも「息子が芝生にテント」もあり!……と言っても、こちらの「息子」はあの資産家一家の父と同じぐらいの年齢の中年男だけど(^^;ゞ

テラスハウスは同じ構造の住宅が壁をくっつけて幾つも連なっている。マンションとも一戸建てとも微妙に異なる。住宅環境は全く同じ、だからこそなのか隣家同士でトラブルが発生。
ただならぬ事件が幾つも続き、互いに相手のせいだと主張するものの、果たして真実がどうなのか分からない。
さらにテラスハウスだけでなく、息子が住む団地っぽいマンション、元カノが住む高層マンション、保育園、そして小さな娘を連れていくイケアの隣の空き地--色々な場所が登場する。

にじみ出る人間不信。イヤ~な状態が続き後味悪く終わる。ラストは呆気にとられるのは確実だ。
ただ、母親の不安定な精神状態に罪をかぶせ過ぎているのでは?という気もした。

監督は観客に不快な感情を起こすのに長けているようだ。映画の尺が89分と短いのは、こんなの長々と見ていられねえー(>O<)からだろう。
アイスランド映画、やはりおそるべしである。
猫と犬が重要な役で登場するが、ワンコ好きな人は見ないことをオススメする。。


振り返れば、実家(東京の下町)も隣家と50年間ぐらいに渡りもめていた。こういうのはもう理屈じゃないのだよね。

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2020年3月27日 (金)

「トールキン 旅のはじまり」:旅から帰還した仲間は二つに分かれて塔で王となった

200327 監督:ドメ・カルコスキ
出演:ニコラス・ホルト
米国2019年

トールキンと言えば『指輪物語』の作者。彼の少年時代から家庭を得て執筆を書き始めるまでをN・ホルトが演じる。
親を亡くして子どもの時から苦労、パブリック・スクールでは仲良し4人組結成(ホビットの原型か)、特に戦死した親友との友情は感動的だ。第一次大戦に従軍すると、その状況が『指輪』と重なる。
もちろんホルトファンは必見。D・ジャコビ、コルム・ミーニイ(懐かし!)が脇を固る。少年時代の子役は繊細な美少年だし、映像については悲惨な戦場までもが美しい。
……と褒めたいのはやまやまだが(-_-;)

見終わって「参考になりました」という感想しか出てこない。まるで「絵解きトールキンの半生」のようである。
言語にこだわり神話までも自分で創り上げようする内的な要因を、形あるものとして映像で描くのは困難なことだろう。だからといって仕方ないと言ってしまえばそれまでよ、である。
ジェフリーとの友情以上恋愛未満な関係も詳しく見せて欲しかった。

何げに様々な部屋で使われている壁紙が見事だったですよ。

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2020年3月 4日 (水)

「人生、ただいま修行中」:この校門より入る者、全ての希望と絶望を抱け

監督:ニコラ・フィリベール
フランス2018年

パリ近郊の看護学校、入学した若者達の授業や実習の様子を淡々捉えていくドキュメンタリーである。ナレーションはおろか字幕ですら入らない。ただ映像をつないでいく手法だ。

最初はそれこそ手の洗い方から開始。医療関係者にとっては当たり前であろう基礎の基礎授業が続く。この方面に全く無知な人間にとっては「ふむふむ、なるほど(・_・)」などと新鮮に感じる。
淡々とはしていても引きつけられて見てしまうのだった。

さすがフランスだけあって、生徒の人種も民族も様々だ。教員たちが彼らに真摯に助言する様子にも密着する。

カメラは若者たちに寄り添ってはいるが、親和的というわけではなくあくまでも客観的にとらえる。邦題はホンワカなイメージを与えるが実際に見ると違う。冷静な眼差しで、生徒が突き当たる壁も描く。
それでも、実習先で四苦八苦する姿の描き方などさりげないユーモアは忘れない。

病院での実習を終えて、自分の活路を見いだす者、困難な現場をうまく乗り切ったタフな者もいれば、実習先になじめなかった者もいる。
とある生徒は、HIV検査に来た売春婦(お金がなくてゴムが買えなかった)にうまく対応できなかった事案を泣きながら報告する。さらには期間中に自宅で盗難事件発生してピンチ💥なんてケースもあり。
まだ若くて同じスタートラインは同じに立ったばかりだというのに、早くも人それぞれに差がついて分岐点が生じる。
そしてそれは彼ら自身にはどうにもできないことなのだ。

そんな人生の悲喜が映像を通して静かに浮かび上がってくる。優れたドキュメンタリーである。

しかし実習先で慣れない生徒たちの「実験台」になる患者はよくおとなしくしてるなあ。日本だったらキレる💢中高年で怒鳴りまくりそう(ーー;)
子細を見せているのに、生徒や教員の名前や個人情報は一切出てこない。徹底さに感心。

パンフレットから監督の言葉を引用している人がいて、それに感心したので以下にさらに引用させてもらう。
「初めてカメラを手にしたとき、私はプロのカメラマンよりも“綺麗”で素晴らしい映像を撮ろうと考えたのではなく、映す範囲(フレーミング)を制限しようと考えました。すべてを見せたいという誘惑に負けないためです。」
「フレームやカメラの中に収めるもの/収めないものの境界線は美的な問題だけでなく、倫理的、政治的問題でもあるのです。」

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2020年2月16日 (日)

「死の教室」:冥土からの宿題

200216 監督:アンジェイ・ワイダ
ポーランド1976年

東京都写真美術館のポーランド映画祭で上映。演劇史上有名なタデウシュ・カントルの作品を、ワイダが上演時に映像として記録したものである。カントルの芝居は日本でも過去に上演されたことがあるらしいが、全く見たことがないので、そもそもどんなものなのかと知りたくて行った。

地下蔵みたいな狭苦しい空間に観客が続々と入ってくる。若者が多い。
教室を模したステージに木製の机が並び、客は教室の横面から眺めることになる。しかしカメラは舞台の端に据えられていて、「生徒たち」の顔を正面から撮る。舞台の段差がないので時折客の顔も映るのだった。

「生徒」はみな大人の死者であり学校の制服を着ていても中高年の男女だ。子ども時代の自分を表す人形を抱えたりしょったりしている。なぜか窓枠を持った女教師もいる。
ワルツに乗って立ったり座ったり、号令で一斉に教室を出入りし、突飛な動作を行なう。質問されて答えるという授業もどきもあるが、一貫して台詞は全く意味を持たず、様々な言語が中途半端に混ざる。
結局のところ、死者たちが子ども時代を懐かしんでひたすら授業を模したバカ騒ぎを続けるだけに見える。シュールで不条理でデタラメ、理解はできないが退屈ではない。

謎なのは、素のままのカントール自身が同じ舞台上にいて、何やらキューを出したりしている。本人が言うには音楽を流す合図をしているだけというのだが、何も死者メイクをした役者たちに混ざってウロウロする必要はないだろう。
見ようによっては、この教室の担任、あるいは神のような存在として支配し動かしているようにも思える。

背景をよく知らずに鑑賞したのだが、大騒ぎする死者たちに深い沈鬱と抑圧を感じた。いくら生きている頃の真似をしても生者に戻れるわけではない。号令と音楽に合わせて動くしかないのだ。
この芝居を実演で見たらどう感じるだろうか。また、演技力のない役者がやったらどうなるか? そもそもこのような役柄に対しての演技力とは何なのか(メソッド演技ではできないだろう)などムクムクと疑問がわきあがり考えてしまった。

一行が地下蔵を飛び出して外を歩き回る場面が数回挿入されている。これはワイダのアイデアらしい。彼も舞台演出をしているせいもあるだろうが、撮影時カントルと衝突したとか。

とりあえず、普段見られないような珍しいものを見させて貰いました(^^)

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2019年12月23日 (月)

「ジョーカー」:タウン・ウィズアウト・ピティ 誰でも3分間は悪のヒーローになれる

191223 監督:トッド・フィリップス
出演:ホアキン・フェニックス
米国2019年

今年最大級の話題作といっていいだろう。バットマンシリーズのスピンオフながらヴェネチア映画祭で受賞したし、日本でも興収ランク第1位が続いた。前評判も高く、私は公開されて勇んですぐ見に行った。

しかし、開始5分でその期待も見事にしぼんだ。善人ながら悲惨な境遇の主人公を配して、残酷でことさら刺激的なエピソードをだけをつないで煽っているように思えた。もちろん手法としてそういうのもありだろうが、なんだかなあである。
過激な行為を連ねた雑な脚本を、ホアキン・フェニックスによる渾身の演技と、クセの強い(よく言えば印象的な)映像でなんとか見せているようだった。

主人公の行為によって暴動が起こるけど、それにノッて暴れている人々はそもそも冒頭で彼を叩きのめして看板奪ったような奴らや、最初のTV映像見て嘲笑してた奴らと重なるんじゃないのかね。そこら辺についての疑問や葛藤は全くない。

所々に曖昧な場面を出てくる。冷蔵庫に入るとか、撃った銃弾の数が合わないなど--。ラストも含めて、このように「夢オチ」を仄めかしてお茶を濁そうとする根性が気にくわない。(←あくまでも個人的感想です)

また、肝心な場面は直接描かない。私はてっきりシングルマザーに危害を加えたのだと思って見ていたのだが、あそこは何もしなかったと見なす人が大多数なので意外だった。見ている限りはどちらとも解釈できる。
まあ、あそこで害を加えたとハッキリ描いたら主人公に共感する観客は90%減だろう。そういうところを曖昧にする根性も気にくわない。(←あくまでも個人的感想です)

ということで最初から最後まで気にくわずに終了したのであった。

一部で執事アルフレッドの描き方があまりにひどいという意見があった。一方、ウェイン父についてはトランプ(大統領)味が少し入っていた。

さて、このしばらく後にWOWOWでTVドラマシリーズ『ミスター・ロボット』の第1シーズンを見た。2015年制作で日本でも他の局で既にやっていたのだが私は全く知らなかった。ラミ・マレック主演で『ボヘミアン・ラプソディ』関連で今になってWOWOWで放映されたようだ。
これがまた『ジョーカー』と共通点が多いのだ。
 ・主人公が信用できない語り手である。どこまで事実か明示されない。
 ・孤独で、障害を抱えていて精神が不安定。
 ・カウンセラー/ソーシャルワーカーと対話を繰り返す場面あり。彼女から薬の処方箋を貰っている。
 ・不在の父を探し求めている。「父」の正体が分かる。
 ・メディアに彼に関連する映像が流れ、それによって仮面の人々が蜂起する。

個々にはよく出てくる状況だが、全部入っている作品というのはなかなかないのではないか。かなりの一致度である(~o~; これどうなのよ。
もっとも『ミスター・ロボット』自体も某有名作品(名前を一文字言っても分かっちゃうぐらい有名)のアイデアを戴いているんで、なんだかなあ……💨である。

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2019年11月22日 (金)

「主戦場」:ふたりはいつも

191122 監督:ミキ・デザキ
米国2018年

私がこれを見た時は単館上映だったが、いつの間にか方々で上映される話題(問題)作になっている。(出世?)
慰安婦問題の正否について日・米・韓の様々な論客・研究者にインタビューしていくドキュメンタリー。そして観客の興味をそらすことなく、映画の流れはなぜ歴史修正主義者はそのような主張をするのか、という問題へと最後に行き着く。そこには隠された深~い理由があったのだ。
その回答をスリリングに(これ以上行くと陰謀論に💥というギリギリまで)提示してみせる。

2時間強の中身がビッチリ詰まったドキュメンタリーだった。変な言い方だが見甲斐があったと思う。
直接対象にアタックして問題を掘り起こし、たたみ掛けていく展開の仕方に「マイケル・ムーア以降」の世代を感じた。ムーアが嫌いな人はこれも気に入らないだろう。
ただ、編集とナレーションでテーマを展開していくような手法は、間違うとプロパガンダに流用される恐れがあるかも。

「とある人物の発言に唖然」という評判を聞いていたが、本当にアゼンとした。トンデモ発言として処理される案件だ。

取材相手から訴えられているらしいが、事前に映像見て許可出しているそうだから向こうは勝てないのでは?
それにしてもAbeが登場する映像の背後に必ずもれなくAsoが付いてくるのはなぜ。あの二人なんなのよ~。

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2019年10月28日 (月)

「Tommy/トミー」:ケバい・派手・悪趣味の三重楽

191027 監督:ケン・ラッセル
出演:ロジャー・ダルトリーほかザ・フーの皆さん
イギリス1975年

『ロケットマン』の公開記念?それとも原作であるザ・フーのアルバムが発売50周年だからなのかは不明だが、HDリマスター版でリバイバル上映! ケン・ラッセル監督のファンとしては見に行かずばなるまいて。
年齢が分かってしまうけど、ロードショー公開時に見ている。もちろんまだ学生の頃である。(←なぜか強調) その後ビデオソフト買って何度か見ているがデッキが壊れしまい今はそれもできない。(ブルーレイ入手できるなら買おうかな)

第二次大戦中の英国はロンドン、少年トミーの父親は出征して戦死、その後母親は他の男と付き合い始める--というところに突然、死んだと思っていた夫が帰還。二人が父親を殺す現場を目撃した少年は三重苦の世界へ……。
ザ・フーのアルバムはロックオペラと銘打たれてはいるが、明確なストーリーがなく、ケン・ラッセルが脚本を書いて肉付けしたらしい。原作では第一次大戦だったのを変更、またそもそも殺されるのは愛人男の方だった。

それでも正直分かりにくい話ではある。虐待されて成長するも、ピンボールゲーム始めて突然回復、奇跡として持ち上げられて新興宗教の教祖に。金儲け主義が祟り信徒が反乱して全てを失う。たった一人残された彼は山中で覚醒するのであった。
……というようにかなり宗教的である(特に後半)。昔見た時も首をひねったが、今回もよく分からなかった。
ただし、終盤の高揚感はすごい。ロジャー・ダルトリー扮する主人公が裸足でグイグイ岩山を登っていき(スタント無しだったとは信じられない)、朝日に向かう一連のシーンは名曲のせいもあっておおーっ(>O<)と気分がアガるのだった。

後から考えてみると、これは終始父親を求める息子の話となっている。誕生時には既に父は不在で、再会したと思えば殺されてしまう。折々に彼の幻想に父親が現れる。
私は見てて気付かなかったのだが、冒頭で父親が山登りして朝日を見る場面とラストでのトミーの姿は完全に重なるのだという。
とすれば、父を求めて青年期に教団を率いる→破壊行為にあって全てを失う→復活して父親と合一……これってイエス・キリストの復活譚と重なるのでは?
そも、原作の設定と異なり実の父親が殺されることへとケン・ラッセルが変更したことからして怪しい。この違いは大きい。ピート・タウンゼントはよく認めたもんである。

だからといってシリアスなわけではない。全編ケンちゃん流のド派手でケバい映像と毒々しさが躁病的に展開する。
パンの代わりに錠剤を与えるエリック・クラプトンの怪しげな伝道師、注射器構えるティナ・ターナーの娼婦風アシッド・クイーン、キラキラ眼鏡に巨大なブーツ履いたエルトン・ジョンのピンボールの魔術師、あとミュージシャンじゃないけどジャック・ニコルソンのうさん臭くてイヤらしい目つきの医者も見どころだ。
当時の雑誌に「皆あまりにそのまんまっぽい役」と書かれていたぐらいのハマり具合だが、なんと最初はアシッド・クイーンはD・ボウイ、ピンボールの魔術師はS・ワンダーが予定されていたと聞いて驚いた(!o!) えーっ信じられん。

クラプトンの教会はM・モンローが聖像になっていて、あの有名なスカートがめくれるのを押さえているポーズを取っている。以前見た時は気付かなかったのだが、その台の表面は鏡張りになっていて、信徒が腰をかがめて像の靴の部分にキスするとスカートの中身の奥が鏡に映って見えるようになっているのだった。(もちろん何も履いていない)
なんたる不謹慎、改めてケンちゃんの悪趣味に感心した💕

ミュージカル定番のモブシーンは踊りではなく、破壊と暴力が荒れ狂う。こうでなくちゃね(^^)
なお、作中ではタウンゼントの定番ギター壊し場面もちゃんと見られる。

役者では母親役のアン・マーグレット(美しい)が迫力。チョコレートまみれになってのたうち回る場面で耳の穴までチョコまみれの狂躁的熱演を見て、昔「役者ってスゴイなあ」と感じたのを思い出した。その甲斐あってアカデミー賞候補になったのは当然のことだろう。
ケン作品常連のオリバー・リードは歌唱はナンだがアクの強さは抜群で存在感。
今回認識を新たにしたのは父親役のロバート・パウエル(『マーラー』で主演)である。ケンちゃん好みの繊細な顎、そして薄幸そうな蒼い眼……う、美しい(^0^;) 『マーラー』も再見したいもんだ。
ロジャー・ダルトリーは演技の経験なくて自信がなかったそうだが、立派なもんである。浴槽に沈められたのはご苦労さん。

当時、英米で大ヒットしたのだがザ・フーのファン、映画ファンにはあまり評判がよろしくない。「ケン・ラッセルはロックが分かってない」などなど批判多数。ザ・フーのメンバーもピート以外はクサしていた。今、ネットの感想サイト覗いてみても評価は低い。
それではケンちゃんマニアはどうか?と昔買った特集本引っ張り出してみたが、こちらも「ケンらしさが希薄な映画」などと言われちゃってるではないの。

ケンちゃんマニアが評価しなくってどうすると言いたい。まさに傑作✨かつ怪作♨(やっぱり)に間違いなし。
「駄作」と評する人も多いけど、名作・佳作・良作・問題作・珍作・奇作・迷作……はあっても駄作だけはあり得ない!!と断言したい。
ケンちゃんのケバケバしく毒々しい映像の光を浴びて全身の細胞が賦活、10歳ぐらい若返った気分となった。あー、やっぱり好きだなあとつくづく感じた。
もっとケンちゃんをプリーズ! 他の作品の再上映、ソフト再発を望む。


さて本作で当時聞いたウラ話と言えば、この映画は英米でかなりヒットした……のはいいが、日本ではザ・フーは知名度が低い。公開されるか微妙だったのを、配球会社の若手社員が「これは絶対にヒットする!」と力説して公開されることになったという。
しかし結果は……日本では惨敗であった(T^T)クーッ
件の若手社員氏がクビにならずその後も活躍できたことを祈る。

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2019年10月 2日 (水)

「ドッグマン」:ホール・ロッタ・ラヴ で、飼い主はどっちだ?

191002 監督:マッテオ・ガローネ
出演:マルチェロ・フォンテ
イタリア・フランス2018年

ガローネ監督は『ゴモラ』が衝撃で、その後も『リアリティー』『五日物語』も見た。後者は映像はキレイだけど話自体はなんだかなあという印象だった。
今回の作品はどれかと言えば『ゴモラ』系ではある。

舞台となるはイタリアの田舎町。これがまた、よくぞこんな場所見つけてきたものよと言いたくなるほどの寂れ具合である。
主人公は街の商店街の一角で犬のトリミングサロンを開いていて、腕前は良いようだ。時折商店街の仲間とサッカーしたり飲んだりする。妻とは別れているようだが、小学生ぐらいの娘を溺愛していて、訪ねてくるとエラいかわいがり様だ。

一方、彼には長い付き合いの友人がいる。こいつが大男で非常に乱暴で凶悪で、犯罪も平気で犯す。小柄で優しく気弱な主人公とは対照的。彼を脅しつけては様々なことを命じる。で、主人公は常にあらゆることでその大男に追従してしまう。悪事にもだ。
しまいには男をかばって刑務所にまで入っちゃう。娘が前科者の父を持つことになるのを考えないのだろうか? ご近所から冷たい目でで見られてもいいのか(?_?)

正直、見ててこの主人公の心理や行動がよく理解できなかった。大男に引きずられるだけではなくて、わざわざ自分の方から近寄っていく。さらには仕事でやってる犬相手のように対処しようともする。出来るわけはないのに。
これは一体どういうことなのだろうか。
……と訳ワカラン状態なのであった。

しかしSNSでとある人が若い頃の回想をしているのを読んで、男性同士の友愛の一形態として「支配-服従」というものがあるのではないかと私は感じた。このような関係に互いにとどまることこそがまさに友愛の印なのである。
「男性」だけでなく女性にもあるのかも知れないが、私は現実でもフィクションでも女性については見た記憶がないからとりあえずそう考えた(家族内の関係はまた別として)。

そう考えると、この主人公の言動は分からなくもない。
彼と大男の関係は、そのまま彼と犬との関係に逆転写されている。自分が危ない状況になるのに犬を助けに行く場面は極めて示唆的だ。

これはなんと実際にあった事件を元にしているそうだ(!o!) 多分、監督なりの解釈ということなのだろう。
空虚さと小汚さのまじった町、安っぽくケバケバと浮遊してるようなクラブ、居並ぶ各種の犬たち--そんな光景の中で不条理な人間たちが不条理な行動をとるのを、顕微鏡で微細な所まで拡大する。見てて決して心地よくはならない、快作ならぬ不快作だろう。
あと私は犬がどうも苦手なので、その点でも見るのがちと苦しかった。

主演のマルチェロ・フォンテはカンヌで男優賞取っただけのことはある「小心者」演技である。
なおカンヌではパルムドッグ賞も受賞。初めて見る人はどのワンコ🐶が取ったのか当ててみましょう(^o^)b

 

ところで、監督に「8月に日本公開されますが日本の観客に一言」とインタビューしたツイートが流れてきた。監督の答えは「えっ、8月公開。イタリアじゃ8月に映画なんか誰も見ないよ」だったそうな^^;

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2019年9月11日 (水)

「新聞記者」:ヒューマン・ドキュメント スクープしなけりゃ意味ないよ

190911 監督:藤井道人
出演:シム・ウンギョン、松坂桃李
日本2019年

過去に度々「日本では社会派映画の伝統は途絶えた!なんてこったい(>O<)」みたいなことを書いてきたので、その手前どんなもんかと見てきましたよ。
結論から先に言うと、これって「社会派」なのか?と思わざるを得ない内容であった。

まず、女性記者の設定に驚く。日本人と韓国人のハーフでしかも米国からの帰国子女(母語は英語のようである)、失脚した記者であった父親の復権のためにわざわざ日本で自らも新聞記者となる--って、どうしてこういう複雑な設定にしたのか、事情を理解するだけで既に我が脳みそはオーバースペック状態だ。

彼女が取材しようとするのが内閣情報調査室の若手官僚で、外務省時代には上司がトラブルに巻き込まれた体験あり。
で、内調って何をしているのかというと、薄暗い大部屋で大勢がパソコンに向かってSNSに誹謗中傷や怪情報を書き込んでいるらしい。外部に指令飛ばしているシーンもあるけど(『ネット右翼とは何か』によると、実際には政府は直接に操作や指令はしていないもよう)。これがなんだか、よくある「悪の巣窟」っぽいイメージなのだ。
しかもSNSしか操作対象のするメディアはないようで、あたかもネットが世界全てのよう。

皆さん優秀な頭脳を持った超エリートなのに暗い所でゴソゴソしているだけなんて、人的資源の無駄遣いではないか。モッタイナーイ(~o~)
しかも、内調の場面は直接の上司と官僚男しか顔がハッキリ出てこない。同じ職場に考え方正反対のヤツとかいれば、ドラマ的に対立点が明確になると思うんだが。

一方、記者の職場の描写も判然としない。周囲の同僚は突出して動き回る彼女を、あたかも異星から来た「困ったチャン」の如く生暖かく見守るという風情。同僚たちについて個々に明確に描かれていないので、役者の顔でしか区別できない。上司のデスクの立ち位置も不明である。
さらに驚いたのが、主人公が書いたスクープ記事について、上司が大手新聞が後追いしたので「よくやった」と褒めたこと。記事の価値は大手紙が認めるかどうかなのか? ちゃんと裏取りして構成も考えて見事に記事にしたとかじゃないのか。
部外者には全く理解できない業界である。

加えて、劇中に原作の望月記者など実在の人物たちのトークがTV番組として背後に流される。わしゃσ(^_^)既に脳の老化が始まっているので、劇中の台詞とトークを両方同時に聞き取れる能力はないのよ。
あと、意味のない手ぶれカメラ止めて欲しい。それも手ぶれの域を超えたかなりの揺れで目が回る(@_@)かと思った。

それ以外にも???印が付く場面や設定がある。
しかし裏話を聞くと、実はなんと最初の段階では半ドキュメンタリーの造りになっていて、トークの場面と実名のドラマを組み合わせたものになっていたという。それを監督が脚本を書き直したというのだ。
ええーっ、それじゃかなりとっつきにくい特殊な映画では(?_?) 『バイス』みたいな感じでもなさそうだし。

記者と官僚男が協力して闇の真相に迫るという形を取るが、結局のところ疑惑の解明とか社会への影響などはあまり重きを置かれてない。そもそも立ちはだかる外部の障害は上司の恫喝ぐらいである。
中心は謎やサスペンスではなく、困難にあった時の個人の慟哭とか煩悶という人間ドラマを描きたかったようだ。

190912 たまたま最近、斉藤美奈子の『日本の同時代小説』(岩波新書)を読んだのだが、それによると明治二十年代に近代文学なるものが勃興した時「ヘタレな知識人」「ヤワなインテリ」が主人公であった。「グズグズと悩み続けるハムレット型の「青年」たち」である。
これって、まさにこの映画の若手官僚そのまんまじゃないの。
文学では戦後から現代に至るまで様々に変遷してきたが、まだ映画にはそのような主人公像が生き残っているのだろうか。

しかもグズグズと悩み続けて、生まれたばかりの赤ん坊と一緒にヨメさんにハグしてもらう始末。この嫁さん大変だな、子どもがもう一人いるんだもん。自分だって帝王切開して大変だったつーのに。
私だったら、妻は何も分かってない設定にして「この子には習い事二つぐらいはさせたいし、いい学校にやりたいから、○○くん(←名前忘れた)のお給料だけに頼るのは心配。私もそのうちパートで働くねー」と無邪気に語って、主人公をさらに追い詰めるようにしたい。

ということで、ここに至って記者がなぜオーバースペックな女性であるのか分かった。
漱石の『三四郎』の主人公を翻弄するのが、明治時代の「都会派のギャル・美禰子」ならば、現代の超エリート官僚男に対するのは出自も文化も全く異なるバイリンガルの帰国子女でなくてはならないのだ。

かくして社会派映画ではなく「文学」を見たのであった。
そもこういう題材が選ばれること自体少ないので批判するのもマズイかなーと思うが、褒めている感想が多いのでこれぐらいいいよね。

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