映画(タイトル「サ」「タ」行)

2020年10月26日 (月)

「透明人間」:見えなきゃ怖いが見えたらもっと怖い

監督:リー・ワネル
出演:エリザベス・モス
米国2020年

『アップグレード』がB級ぽいとはいえ好評だったリー・ワネル、新作は立派にA級の完成度だった。
既に古典と化している透明人間ネタとストーカーの恐怖を合体させた発想はお見事である。

DV男である恋人の豪華な邸宅から女が密かに逃走する。友人の家に匿ってもらうのだが……誰もいないはずが何かの気配が(>O<)
「誰かがいる、見張られている!」とヒロインが主張しても、観客以外の人物にはその恐怖はノイローゼか精神錯乱としか見えない。

周囲で不可解な出来事が起こり平静が保てず、身近な人間をどんどん失っていくつらさと絶望はまさにストーカー被害者の孤立だろう。そして最大の恐怖とは女の心身を支配したいという相手の男の欲望に他ならないことが明らかにされていく。
何もない空間を意味ありげにとらえるカメラ、波の轟音から微細な気配まで感じさせる音響が巧みだ。(音の良い映画館がオススメです)
音楽もかなりなもん。エンドクレジットで弦の音がグルグルとスクリーンを囲んで回っている(ように聞こえる)のには仰天した。

展開も二転三転、気が抜けずにハラドキしながら注視である。
ほぼ出ずっぱりのE・モスはスクリーンを一人で背負って立つ力演だった。正気を失った表情が迫力あり。
監督にはこれからも期待したい。

ただ、主人公と刑事の関係が今一つ不明だった。「異性だけど親しい友人」でいいのかな?(説明なかったような) 本当なら女刑事にした方がシックリくると思うのだが。それだと「男対女」みたいになっちゃうから避けたのか。

予告に出てくる場面なので書くが、この透明人間は白いペンキをかけられるよりコーヒーの粉の方が効果があるのでは?
監督の前作でも本作でも、孤独な若い富裕な男が超モダン建築な家(海辺というのも同じ)に住んでいるのだが、モダン邸宅ってこの手の映画では定番過ぎの設定だろう。
たまには緑と自然あふれるベニシアさんの庭✨みたいな家に住んでる富豪が見たいのう。

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2020年10月24日 (土)

「ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語」:結婚は女の墓場か花道か

201024 監督:グレタ・ガーウィグ
出演:シアーシャ・ローナン
米国2019年

恥ずかしながら原作未読であります(^^ゞ
ということで事前にあらすじと作者オルコットの生涯について解説してある求龍堂グラフィックの「若草物語 ルイザ・メイ・オルコットの世界」を図書館で借りてきて、手っ取り早く予習した。

その上でこの映画を見ると、作者自身の実話とジョーを完全重ね合わせたメタフィクションの構造となっている。で、公開決定時から「なんじゃ、この邦題は~💢」と非難轟轟だったタイトルが、この構造を実は示していた事に驚いた。……でも、やはりサブタイトルに回した方がよかったとは思うがな。
それも含めて美術や衣装から役者のキャスティングまで色々な要素がよく出来ていて完成度が高かった。
だからと言って手放しでほめたいかというと微妙である。まあ単に好みの問題だが。

あと、過去と現在形の部分を映像の色調を変えているけど区別しにくいし、過去の方が暖色系というより黄色っぽくて汚ならしい色なのが難点である。

テーマについては、「女」の問題は現代も昔も変わらないねえ。
「結婚は女の花道」とか「自立か従属か」とか「先立つものは金」とか……。
ここに口出してくるローリーって、鬱陶しいヤツだなと思っちゃった(^^;ゞ 原作でもあんな感じの男なのかしらん?

彼は長女のメグに合コン(?)目的のダンスパーティーで出会って、難癖付けて偉そうに説教するんだけど、この場面でピンクのドレス着たエマ・ワトソンがまたよく似合っててかわいいんだよねー。(衣装さん、もっとダサいドレス選んで~🆑……アカデミー賞の衣装デザイン賞取ったけどさ)
お前のようなチャラ男には言われたくねえな~(`´メ)という感じだ。逆に、女が美貌を武器にエエ男を探して何が悪い👊すっこんでろと言いたくなっちゃう。
もちろん、演じているT・シャラメはそのイヤミな部分もちゃんと出していて適役だと思いましたよ(^^)

四姉妹でどう見てもベスよりエイミーの方が年上に見えるのはわざとなのか。役者の実年齢もそうらしいけど。ベス役は『シャープ・オブジェクツ』の妹役だった。だから「妹」感が強いのかな。
脇も母親ローラ・ダーンに伯母メリル・ストリープという最強の布陣のキャスティングである。ただ、クリス・クーパーは分からなかったですよ……💦

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2020年10月13日 (火)

「その手に触れるまで」「ルース・エドガー」:男のいない男たちの世界

201012a 「その手に触れるまで」
監督:ダルデンヌ兄弟
出演:イディル・ベン・アディ
ベルギー・フランス2019年

「ルース・エドガー」
監督:ジュリアス・オナー
出演:ナオミ・ワッツ
米国2019年

今回のお題は「構ってほしい、異文化のはざまに立つ良い子の少年」である。共通項は「女教師」「母親」「女の子」だ。

『その手に触れるまで』はカンヌの常連ダルデンヌ兄弟がやはり監督賞を獲得した新作。
ベルギーに暮らす移民(モロッコ系?)の少年アメッド、少し前まではゲームに夢中だったのに今はネットでイスラム過激思想にはまり、地元の指導者の元に通いだす。そして母親や言葉や勉強を教えてくれた女性教師に反発するのであった。

まだ13歳なのでその直情ぶりは融通が利かず笑っちゃうほどなのだが、教師への敵意はただならぬもの、しかもシツコイとなると話は違ってくる。
とはいえ、いくら彼が幾ら信仰の鎧で身を固めてようと、現実の少女の前では崩壊してしまうように付け焼刃である。あるいはそんな中二病的世界観では健康で無邪気な牧場女子のリアリティに太刀打ちできないというべきか。

純粋ゆえの過激と無謀さを淡々と描き、そのように幼い価値観があちこちにフラフラと曲がってはぶつかる様子を見守る映画である。
もっとも私は根が疑り深い人間なので、ラストに至っても「まだやる気か(!o!)」などとドキドキしてしまったですよ、トホホ(^^;ゞ
そのラストで邦題の意味が判明するが、それでもなんだか生ぬるい感じがするこのタイトルはどうにも気に食わねえ~っ👊

言葉ではなく反復する動作を積み重ねていくのは、いつものダルデンヌならではである。
少年がイスラムの教えに沿って執拗なまでに手洗い(といってもコロナウイルス以降の世界では珍しくもなくなったが)、口の中を洗う動作の反復、そして農作業の身体の動きの積み重ね……。
こういう単純な動作をダルデンヌは撮るのがうまい。つい見入ってしまうのであった。


201012b さて、『ルース・エドガー』は宣伝や広告でかなり観客をミスリードしているが、実際には『その手に触れるまで』と構図や設定がほぼ同じである。予告がサスペンスっぽい作品のように見せていても全く違う。

主人公の高校生は常に賢くてよい子である。というのも元はエリトリア(?)の少年兵という出自で、今は米国中産階級の白人夫婦の養子になっているからだ。「更生」の証として、また養父母の期待に応えるためにはそう振舞わねばならない。そのような状況ににウンザリしている
その不満からか、身近にいる女性教師に敵意を向けるようになる。

もっとも大人をなめくさって自らの能力に疑いを持たない傲慢な若者はどこにでもいる。ただこの場合常軌を逸している。『その手~』のアメッドと同様で異様なほどに執拗なところまでそっくりだ。

『その手~』では少年の父親は不在ということだったが、こちらには身近な男性がいることはいる。しかし場当たりな反応の養父や調子のよい校長はいてもいなくても存在でしかない。
結局のところ若者の相手をしてやっているのは、やはり女性教師と母親と同じ学校の女の子であり、彼が敵対するのも利用するのもみな女なのだった。

これはまたもや「不満を抱く若者を構わざるを得ないのは女」事案ではないか。(過去の例→『ブレッドウィナー』『家族を想うとき』
「なんで女にばかりコマッタ若いもんの尻ぬぐいをさせるかなー。どうしてそんなに女に頼るの。男もちゃんと相手してやればいいのに」と思ってしまったのは事実である。

原作は芝居ということで、ほとんどは役者の会話で進行する。ここはダルデンヌ兄弟とは大きな違いだ。そして(日本でも同様なのだが)この手のあえて不愉快さをまき散らすタイプの芝居を書く者の、鼻持ちならない尊大さに辟易してしまった。

さらに加えて人種差別を扱っていながら、別の偏見を強化するような内容なのはどうよ。出自や生育環境が複雑な人間は信用できないとか、子どもの頃に暴力的な環境に育った人間は本質的に変わらず暴力的であるとか--そういう言説を半ば肯定しているのではないか。
また作り手のミソジニーがにじみだしているような部分も感じる。標的の教師はフェミニストっぽいし、東洋系のガールフレンドはまるでエイリアンのように不気味な存在に撮られている。そして母親は「愚か」である。

ナオミ・ワッツやオクタヴィア・スペンサーをはじめ、いい役者を揃えているのにねえ。モッタイナ~イ💨

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2020年9月22日 (火)

「囚われた国家」:売国ならぬ売星の輩

監督:ルパート・ワイアット
出演:ジョン・グッドマン
米国2019年

B級SF設定プラス『影の軍隊』的レジスタンスものという、かなり珍しい取り合わせの映画。といってもかなり地味な作りで、もしコロナウイルスの影響で洋画の新作が入って来なくなったという事態がなければ、大々的な公開はなかったろう類の作品である。

異星人に侵略支配された近未来の地球、侵略者は地下で地球の資源を発掘奪取して自星に送る一方、地上では傀儡政権を操り人々を支配しているのであった。
--ってモロにナチス占領下のフランスっぽい。
なのでテーマは「抵抗」、レジスタンス物の名作『影の軍隊』を引き合いに出す人がいるのも納得だ。

かつての戦争の名残か、湖岸(舞台はシカゴだからミシガン湖?)に巨大戦闘ロボの残骸が残されたままになっている光景が面白い。
人々には監視装置が付けられていて、立入禁止区域に行ったりすると異星人の探索隊がすっ飛んでくる。一方で、「昔はひどい状態だった」と侵略者を支持する人間も多いのである。

そんな中でレジスタンス活動が進められていき、ストーリーは二転三転どう進んでいくのか読めなくてドキドキしながら見ていた。
アッと驚く結末で、見ごたえ大いにありの良作だった。

難点はエイリアンの造形がキモ過ぎて、とても支持する人間がいそうには思えないこと。
それから、レジスタンスではない普通の市民の描写がもう少しあってもよかったのではないか。最近のSFなど突飛な設定を描く作品で、そういう描写を飛ばしてしまうパターンが多い。そういう背景を描かないと設定の説得力に欠けると思う。

重低音の効いたサウンドもさらに迫力を増加していた。ただ、カメラを意味もなく振るのは勘弁してほしかった。
役者ではヴェラ・ファーミガがいい味出してました。
それにしても、壁を築き格差を広げ資源を収奪する異星人とは何者を表しているのだろうかね(^^?

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2020年7月31日 (金)

「ジュディ 虹の彼方に」:スタア再生

200731 監督:ルパート・グールド
出演:レネー・ゼルウィガー
米国2019年

ジュディ・ガーランド47歳、この世を去る直前に行なったロンドンでのショーを中心に、彼女の境遇と最後の日々を描いている。
酷使され悲惨だった子役時代の回想が現在と交互に挿入され、なぜそのような状態になったのかを観客によーく分かるようになっている。

かなり泣かせる内容だ。特に二人組の部屋で歌うところで涙(T^T)
子役時代のエピソードはまさに未成年虐待だろう(さらにセクハラ、あるいは性的虐待も仄めかされている)。常に他人にコントロールされる人生で、その体験が彼女の内部を長年支配してきたことが、終盤のケーキのシーンに表れているようだ。想像するとツライ(>_<)

金銭的に困り、子どもたちと離れてツアーに出かけざるを得ず、ヨレヨレとして精神的に不安定、ロクでもない男に引っかかる--という状態のジュディを、レネー・ゼルウィガーは完璧に演じている。歌ってる場面にも説得力あるのがよい。
アカデミー賞をはじめ主演女優賞連続獲得は確かに納得の出来である。

最後をコンサート場面で盛り上げるのは最近の流行りなのかな(^^?
ミッキー役はロビー・ロバートソンに似ているような気がした。

原作は舞台だったそうである。となると主役の女優の独り舞台的なものになるのだろうか。ステージ上で実力が試されるシビアな作品となるだろう。舞台版も見てみたい。
美空ひばりのAI復活みたいなものでは絶対不可能である。

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2020年6月30日 (火)

「スキャンダル」「ザ・ラウデスト・ボイス」:家族は大事だ!

200630a 「スキャンダル」
監督:ジェイ・ローチ
出演:シャーリーズ・セロン
米国2019年

「ザ・ラウデスト・ボイス アメリカを分断した男」
出演:ラッセル・クロウ
米国2019年
*WOWOWで放映

米国のFOXニュース社でのセクハラ事件を扱った問題作--といっても、米国では有名でも日本では知られてない事件である。私なんかそもそもFOXニュースとは?という基礎知識から欠けている。
また、中心となる三人の女性のうち二人は人気キャスターで「お茶の間の顔」だったらしいが、それ故のスキャンダル騒動は想像するしかない。本人を知らないからどれほどのそっくり度なのかも分からない。折角のアカデミー賞獲得のメイクも有難味が薄い。

そんな問題は色々あるが、十分面白かった。
発端は、ベテラン・キャスターのグレッチェン・カールソン(ニコール・キッドマン)が辞職して、CEOのエイルズをセクハラで訴えたこと。
看板キャスターのメーガン・ケリー(シャーリーズ・セロン)はそれを傍観。超保守系のFOXニュースだけあって、平気で「イエスは白人男性」などと番組で発言する人物だが、選挙討論会の司会でトランプと激突してひどい侮辱を受ける。
さらに、新人のケイラ・ポスピシル(マーゴット・ロビー)は野心満々、キャスターの座を獲得する夢を持っているが、エイルズからセクハラされる。

この三人のバラバラの行動が交互に描かれる。チラシや広告には三人がエレベーターで一緒になる場面が使われているが、多分この場面以外に揃う場面はなかったと思う。
つまり、予告を見て想像する「三人の女性が手を取って共にセクハラと闘う」というような内容ではないのだ。
三者がそれぞれに格闘する「連帯なき共闘」なのである。

実のところ三人とも共感できるかどうか微妙だ。(特にその保守的スタンスに同調できない者にとっては)
この三人がまとっている人工めいた美。その向こう側に保守系アイドルの実像が、隠されたメッセージとして言葉を介さずに浮かび上がってくる。怖いね~。

さて、ケイラは唯一実在ではない人物で、複数いた被害者を代表するようなキャラクターだ。
彼女がセクハラにあう場面は迫力である。それまでテンポよく進んでいた映画なのに、突然時間が停滞したようになって恐ろしさが凝縮され、極限まで引き延ばされる。
状況を理解できない(したくない)感情と笑って冗談にして済ませようとする意志が、M・ロビーの表情にモザイク状に入り混じる。
恐らく実際にセクハラの被害者はあの場面を見るとフラッシュバックしてしまうのではないか。要注意場面💥である。
彼女の演技はなるほどアカデミー賞候補になるだけのことはあった。

ここに冷静にあぶり出されるセクハラの真実とは、支配と暴力の構図である。
さらに、エイルズの周辺にいるベテランの秘書や女性スタッフは明らかにその構図に協力している。ケイラの同僚(レズビアンで民主党支持なのになぜかFOXにいる)は保身のために彼女を突き放す。
「女たちの共闘」などとというものが一筋縄でいかないことが描かれている(ここら辺は『ハスラーズ』とは正反対)。従って勝利しても感動は全くない。

ジョン・リスゴーは『ザ・クラウン』のチャーチルの時もそうだったが「鼻持ちならない傲慢な統治者」を演じたらうまい。M・マクダウェルはどこにいるのと思ったらマードック役だったのね。
セロンの主演女優賞ノミネートはメイクアップの力もありか?


『ザ・ラウデスト・ボイス』は同じ年に米国で放映された全7話のTVドラマシリーズである。『スキャンダル』を見てどうも判然としなかった部分がこれを見てよく分かった。
原作はノンフィクション書で、主人公はロジャー・エイルズ。ラッセル・クロウがメイクアップだけじゃない、お得意の体重増量を行なったとおぼしき鬼気迫るソックリぶりで演じている。

1995年、マードックの依頼を受けてFOXニュースを立ち上げる。最初から、リベラルな既存メディアがこれまで相手にしてこなかった「残りの半分」である保守層をターゲットにしている。
これはもはやジャーナリズムではなく、あおりと言っていい。それまでのニュース局の常識では考えられなかった手段を次々と取る。
経験のない若手をツッコミの良さだけでスカウトしキャスターに仕立てる。何も具体的な論拠や意見を述べず、ただ映像をつないでイメージをでっちあげる。

911が起こればありもしない大量破壊兵器を喧伝し戦争を起こさせる。宿敵オバマ大統領にはイスラム教徒疑惑とか「福祉詐欺」と大量報道し、遂には他メディアまで同調させ窮地に追い込む(ここら辺の執念深さはすごい)。
これでは、火のない所に煙を立てるどころか「煙もない所に強引に火事を起こす」状態である。
さらにはトランプに注目、大統領にしようと画策し、ヒラリーをあらゆる手段で攻撃しまくる。ここまで来ると、本当か❗と思っちゃうほどだ。

その一方、社内では暴君として君臨。腹心の部下でも気に入らないことがあればすぐに追放し、マードックからは経営権をもぎ取る。
セクハラは日常茶飯事、オフィスでは女性キャスターのスカートをまくり上げ、部下を愛人同様に囲う(その行為は『スキャンダル』でケイラが一部を電話で語っている通り)。

『スキャンダル』では脇に置かれていたグレッチェンの事件の一部始終が描かれる。長年キャスターとして活躍してきたのに、エイルズから性的な誘いと「トウが立ってきた」などと攻撃を同時に受けるのだ。まさにパワハラとセクハラは表裏一体である。
ここら辺の葛藤はナオミ・ワッツが熱演、クロウに劣らぬ迫力だ。
訴訟を起こして最後は和解に至り、事件については守秘義務を負っている……はずなんだけど、どうして詳細が知られているのかは不明である(^^?

さて『スキャンダル』を見てよく分からなかった点が二つあったが、こちらを見て納得できた。
疑問その1「どうしてエイルズはメーガンにトランプ攻撃を容認したのか」
その2「ひどいセクハラ野郎だが、病気になった従業員の面倒を見るような善い人物でもあるのは?」

エイルズは自分の出身地で新聞を出すため若い編集者を連れてきて身近に住まわせる。自身の父親に虐待された話をしながら、彼に「家族は大事だ」と語るのだ。
この「家族は大事」、なんか前にも聞いたことあるような--と思ったら、なんと同じくセクハラで訴えられたH・ワインスタインの発言だった。
ポン・ジュノが『スノーピアサー』を監督した時にプロデューサーのワインスタインから漁師の出てくる場面(そんな場面あったっけ(;^_^A)20分間カットしろと要求されたそうな。
そこでポン・ジュノはとっさに「父親が漁師なのでできない」と真っ赤な嘘をついたら、彼は「なんだそうだったのか、早く言え。家族は大事だ」と要求を引っ込めたという。

つまり、このようなセクハラ&パワハラ気質の人間にとっては身内かそうでないかは重要であり、身内の囲いの中にいる者は家族として認定し世話をしてやるが、同時に身体を撫でまわしたり性行為を強要するのもやって当然なのである。だって自分のモノなんだから。そこに基本的に差はない。

疑問1について、実際はメーガンは事前に言わずにトランプを攻撃したのだが、エイルズにとってはトランプは身内ではなく、単なる将棋の駒で他に交換が効くどーでもよい者である。だから身内のメーガンには何をしても許してかばうという態度を取る。
疑問2については上に書いた通り、別に善人なのではなく単に「身内しぐさ」に過ぎない。

というわけで、見ごたえありのTVシリーズだった。『スキャンダル』と合わせて見ると面白さ二乗であろう。
200630b

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2020年6月10日 (水)

「隣の影」:芝生が青けりゃ木もデカい

200610 監督:ハーフシュテイン・グンナル・シーグルズソン
出演:ステインソウル・フロアル・ステインソウルソン
アイスランド・デンマーク・ ポーランド・ドイツ2017年

公開時に見損なったのでDVD鑑賞。
見れば誰でも『パラサイト』を思い浮かべるだろう(日本公開はこちらが先)。
あちらは高台の邸宅と半地下でタテ関係の階層格差を扱い、夫が中心に話が動く。
こちらはモダンなテラスハウスの隣人で横関係、女同士がいがみあう。しかも「息子が芝生にテント」もあり!……と言っても、こちらの「息子」はあの資産家一家の父と同じぐらいの年齢の中年男だけど(^^;ゞ

テラスハウスは同じ構造の住宅が壁をくっつけて幾つも連なっている。マンションとも一戸建てとも微妙に異なる。住宅環境は全く同じ、だからこそなのか隣家同士でトラブルが発生。
ただならぬ事件が幾つも続き、互いに相手のせいだと主張するものの、果たして真実がどうなのか分からない。
さらにテラスハウスだけでなく、息子が住む団地っぽいマンション、元カノが住む高層マンション、保育園、そして小さな娘を連れていくイケアの隣の空き地--色々な場所が登場する。

にじみ出る人間不信。イヤ~な状態が続き後味悪く終わる。ラストは呆気にとられるのは確実だ。
ただ、母親の不安定な精神状態に罪をかぶせ過ぎているのでは?という気もした。

監督は観客に不快な感情を起こすのに長けているようだ。映画の尺が89分と短いのは、こんなの長々と見ていられねえー(>O<)からだろう。
アイスランド映画、やはりおそるべしである。
猫と犬が重要な役で登場するが、ワンコ好きな人は見ないことをオススメする。。


振り返れば、実家(東京の下町)も隣家と50年間ぐらいに渡りもめていた。こういうのはもう理屈じゃないのだよね。

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2020年3月27日 (金)

「トールキン 旅のはじまり」:旅から帰還した仲間は二つに分かれて塔で王となった

200327 監督:ドメ・カルコスキ
出演:ニコラス・ホルト
米国2019年

トールキンと言えば『指輪物語』の作者。彼の少年時代から家庭を得て執筆を書き始めるまでをN・ホルトが演じる。
親を亡くして子どもの時から苦労、パブリック・スクールでは仲良し4人組結成(ホビットの原型か)、特に戦死した親友との友情は感動的だ。第一次大戦に従軍すると、その状況が『指輪』と重なる。
もちろんホルトファンは必見。D・ジャコビ、コルム・ミーニイ(懐かし!)が脇を固る。少年時代の子役は繊細な美少年だし、映像については悲惨な戦場までもが美しい。
……と褒めたいのはやまやまだが(-_-;)

見終わって「参考になりました」という感想しか出てこない。まるで「絵解きトールキンの半生」のようである。
言語にこだわり神話までも自分で創り上げようする内的な要因を、形あるものとして映像で描くのは困難なことだろう。だからといって仕方ないと言ってしまえばそれまでよ、である。
ジェフリーとの友情以上恋愛未満な関係も詳しく見せて欲しかった。

何げに様々な部屋で使われている壁紙が見事だったですよ。

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2020年3月 4日 (水)

「人生、ただいま修行中」:この校門より入る者、全ての希望と絶望を抱け

監督:ニコラ・フィリベール
フランス2018年

パリ近郊の看護学校、入学した若者達の授業や実習の様子を淡々捉えていくドキュメンタリーである。ナレーションはおろか字幕ですら入らない。ただ映像をつないでいく手法だ。

最初はそれこそ手の洗い方から開始。医療関係者にとっては当たり前であろう基礎の基礎授業が続く。この方面に全く無知な人間にとっては「ふむふむ、なるほど(・_・)」などと新鮮に感じる。
淡々とはしていても引きつけられて見てしまうのだった。

さすがフランスだけあって、生徒の人種も民族も様々だ。教員たちが彼らに真摯に助言する様子にも密着する。

カメラは若者たちに寄り添ってはいるが、親和的というわけではなくあくまでも客観的にとらえる。邦題はホンワカなイメージを与えるが実際に見ると違う。冷静な眼差しで、生徒が突き当たる壁も描く。
それでも、実習先で四苦八苦する姿の描き方などさりげないユーモアは忘れない。

病院での実習を終えて、自分の活路を見いだす者、困難な現場をうまく乗り切ったタフな者もいれば、実習先になじめなかった者もいる。
とある生徒は、HIV検査に来た売春婦(お金がなくてゴムが買えなかった)にうまく対応できなかった事案を泣きながら報告する。さらには期間中に自宅で盗難事件発生してピンチ💥なんてケースもあり。
まだ若くて同じスタートラインは同じに立ったばかりだというのに、早くも人それぞれに差がついて分岐点が生じる。
そしてそれは彼ら自身にはどうにもできないことなのだ。

そんな人生の悲喜が映像を通して静かに浮かび上がってくる。優れたドキュメンタリーである。

しかし実習先で慣れない生徒たちの「実験台」になる患者はよくおとなしくしてるなあ。日本だったらキレる💢中高年で怒鳴りまくりそう(ーー;)
子細を見せているのに、生徒や教員の名前や個人情報は一切出てこない。徹底さに感心。

パンフレットから監督の言葉を引用している人がいて、それに感心したので以下にさらに引用させてもらう。
「初めてカメラを手にしたとき、私はプロのカメラマンよりも“綺麗”で素晴らしい映像を撮ろうと考えたのではなく、映す範囲(フレーミング)を制限しようと考えました。すべてを見せたいという誘惑に負けないためです。」
「フレームやカメラの中に収めるもの/収めないものの境界線は美的な問題だけでなく、倫理的、政治的問題でもあるのです。」

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2020年2月16日 (日)

「死の教室」:冥土からの宿題

200216 監督:アンジェイ・ワイダ
ポーランド1976年

東京都写真美術館のポーランド映画祭で上映。演劇史上有名なタデウシュ・カントルの作品を、ワイダが上演時に映像として記録したものである。カントルの芝居は日本でも過去に上演されたことがあるらしいが、全く見たことがないので、そもそもどんなものなのかと知りたくて行った。

地下蔵みたいな狭苦しい空間に観客が続々と入ってくる。若者が多い。
教室を模したステージに木製の机が並び、客は教室の横面から眺めることになる。しかしカメラは舞台の端に据えられていて、「生徒たち」の顔を正面から撮る。舞台の段差がないので時折客の顔も映るのだった。

「生徒」はみな大人の死者であり学校の制服を着ていても中高年の男女だ。子ども時代の自分を表す人形を抱えたりしょったりしている。なぜか窓枠を持った女教師もいる。
ワルツに乗って立ったり座ったり、号令で一斉に教室を出入りし、突飛な動作を行なう。質問されて答えるという授業もどきもあるが、一貫して台詞は全く意味を持たず、様々な言語が中途半端に混ざる。
結局のところ、死者たちが子ども時代を懐かしんでひたすら授業を模したバカ騒ぎを続けるだけに見える。シュールで不条理でデタラメ、理解はできないが退屈ではない。

謎なのは、素のままのカントール自身が同じ舞台上にいて、何やらキューを出したりしている。本人が言うには音楽を流す合図をしているだけというのだが、何も死者メイクをした役者たちに混ざってウロウロする必要はないだろう。
見ようによっては、この教室の担任、あるいは神のような存在として支配し動かしているようにも思える。

背景をよく知らずに鑑賞したのだが、大騒ぎする死者たちに深い沈鬱と抑圧を感じた。いくら生きている頃の真似をしても生者に戻れるわけではない。号令と音楽に合わせて動くしかないのだ。
この芝居を実演で見たらどう感じるだろうか。また、演技力のない役者がやったらどうなるか? そもそもこのような役柄に対しての演技力とは何なのか(メソッド演技ではできないだろう)などムクムクと疑問がわきあがり考えてしまった。

一行が地下蔵を飛び出して外を歩き回る場面が数回挿入されている。これはワイダのアイデアらしい。彼も舞台演出をしているせいもあるだろうが、撮影時カントルと衝突したとか。

とりあえず、普段見られないような珍しいものを見させて貰いました(^^)

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