映画(最近見た作品)

2026年9月12日 (土)

「シンプル・アクシデント/偶然」:愛国者は誰か

260911 監督:ジャファル・パナヒ
出演:ワヒド・モバシェリ
フランス・イラン・ルクセンブルク2025年

去年のカンヌでパルムドールを獲得。メデタイ!
しかし、このパナヒ監督の新作はこれまで常にあった苦くて脱力系のユーモアが中盤には出てきはするが、全体的に見れば影を潜めていると言えるだろう。

かつて不当に投獄された男が収容者たちを虐待した看守を偶然に発見する--といっても目隠しされていたからそいつの顔は分からない。しかし、主人公は衝動的に捕まえて監禁してしまう。しかし本当にその看守なのか??
で、監禁はしたけれど……かつての収容所仲間たちを巻き込んで街中をウロウロしたり、なぜかその人物の家族を助けたりする羽目に。その合間にイラン社会の不条理や滑稽な面が描かれるという次第だ。

やがて結末に向けて徐々に過去の苦悩やトラウマが蘇り、そして「殺すか生かすか」への葛藤へとなだれ込む。
しかし、そのように葛藤することこそが善人の証し。悪党だったら悩まないだろう。
固定したカメラの前で繰り広げられる終盤のシーンはあまりに苛烈な批判に満ち、その恐ろしさに私は震え上がった。
「こ、こんなものを撮ったら国は許さない……」

パナヒはこの映画の公開キャンペーンで欧米を回っていたようだが、帰国したら収監されるというのは分かっていたそうな。だから帰国せずに国外で映画を作り続けるという手もあったのではないのか--と部外者は勝手に考えたりして。
しかしパナヒはそれを承知で戦下の故国へ戻っていった。まこと彼こそ「愛国者」というべきであろう。

ところで街中のロケシーンが多くてそれはゲリラ撮影をしたらしい。ということは花嫁姿の女優さんを見て「結婚おめでとう」と声をかけた人たちは勘違いした本物の通行人だったのかな?

アカデミー賞脚本賞・国際長編映画賞ノミネート。日本の公開時には来てくれなくて残念であった。
平日の昼間とはいえ、観客がやたら高齢者ばかりで(しかも映画館に慣れていない)久々の「岩波ホール」状態だった。

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2026年8月30日 (日)

「オールド・オーク」:炭鉱旗の下に

260830 監督:ケン・ローチ
出演:デイヴ・ターナー
イギリス・フランス・ベルギー2023年

高齢のケン・ローチが最終作宣言して作った本作、彼らしい誠実さに溢れた映画だといえるだろう。
舞台は2016年のイングランドの古い炭鉱町。不景気もあって、長年に渡る鬱憤が吹き淀んでいる。政府の政策で空き家に難民が送り込まれていきつつある。
バスに乗ってやってくる難民に地元住民たちが不審も露わに差別的言辞を投げつける。これは今や日本でも似たような事が起こっている。

周囲の住人の憩いの場所(というか酒を飲んでグダグダしている)であるパブの店主は旧友の常連客たちと、新たに知り合った難民たちとの板挟み状態である。そもそもパブというのは地域の公共スペースでもあったという。それを難民たちに使わせて、旧住民は断るとなるとひと悶着起こるのは避けられないだろう。

自らを顧みると、正直言って職場の同僚やご近所の隣人が明白なヘイト発言や行為をした時に注意したり止めたりする勇気はない。
そのような人間に対し、正攻法として監督は一つの理想形を提示してみせたと言える。「やればできる」「望めばそうなる」……願わくばそうなってほしい。でも無理かも。そういうことを考えさせる映画である。
最後に満席の客席から拍手が起こったのはちと驚いた。

ただ、ワンコ関係のエピソードはちょっとどうなのよと思ってしまったですよ😑

なんでも本作と『わたしは、ダニエル・ブレイク』『家族を想うとき』を合わせて「イングランド北東部三部作」というらしい。
三作のうちで一番前向きなのが本作と言えるだろう。基本的に悪人は登場しない。ただ正直なところ、前向き過ぎて見ていて勢いで180度回転して後ろ向きの気分になってしまうのであった。困ったもんである。

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2026年8月23日 (日)

「落下音」:曖昧な母

260823 監督:マーシャ・シリンスキ
出演:ハンナ・ヘクト
ドイツ2025年

今期最大の恐怖、といっていい映画だった。
ドイツの農村地帯に立つとある家、そこで四つの異なる時代の住人たち、少女とその家族の存在が脈絡なくスイッチして描かれる。よほど注意深く見ていないとどれがどの時代やら混乱してしまうだろう。

時代順にみると、第一次大戦下・1940年代・1980年代(東西冷戦下)・現代となる。三つ目までは同じ一族だが、「現代」は廃屋となった家に越してきた家族が住人だ。
いずれの時代も少女が中心となって描かれる。彼女たちの目撃した光景、あるいは体験した出来事が不穏さと共に周囲の空気に溶解していく。
彼女たちの生きづらさ、あるいは苦痛、暴力--これらは耐えがたいものでありながら、いつでもどこでも普遍的に存在するものでもある。そして絶え間ないノイズ、かすかに存在する視線はどこから発しているのか。
分からない。分からないことだらけである。

第一の時代は閉鎖的で露骨な家父長制下での子どもたちの受難。第二の時代では敗戦による女たちの混乱が描かれる。
最初は気付かなかったのだが、第三の時代の少女アンゲリカが性虐待を受けているという指摘にはハッとした。あの自暴自棄に近い奔放さと挑発的なしぐさはその表れだったのだ。思いも及ばずうかつであった。
では一見平穏そうな第四の時代についてはどうか。何もなさそうだが、夫婦が自らの性行為を子どもに見せるのは立派な虐待である。その証拠に、その場面のすぐ後で幼い妹が泣く場面が挿入される。
姉の方も鬱屈を抱えている。それは近所に越してきた年上の少女を見るまなざしに収斂される。

この映画を思い返すたびに何か既視感が強まっていったのだが、今ここに至ってゲルハルト・リヒター「ビルケナウ」の元となった強制収容所の写真だと思い至った。あの曖昧さと遠さ、何かが起こっているのだが何なのか判然としない。しかし恐怖が感じられる。そんな印象だ。他にもリヒターを意識したような場面があった。(リヒターだけでなく別のアーティストや作品の引用もあるらしいが)

しかし、見ていて一番の恐怖は第一の時代--そこにおいて直接的には描かれなかった子どもたちの母についてである。
亡くなった幼い娘の遺体と共に写した写真の中、撮影する間にも悲しみで慟哭しているのだろうか。静止していることができないため、その姿は完全にぶれていて形も定かではなく亡霊のようだ。娘へと延ばされた腕とおぼしき白い影もぶれて曖昧である。しかしそこから執念に近い強い感情が発せられている。その内心は決して明かされない。
語られず顧みられぬ母、曖昧で消えゆく母。歴史の中に溶け行く母。私はこの光景に耐えがたい恐ろしさを感じた。夜中に思い出すと眠れなくなる。これ以上の恐怖はない。
しかも彼女はこの後、息子や娘を死地へと追い込む役割を夫と共に果たすのだ。

これを鑑賞することは滅多にない体験だが、面白いとも楽しいとも言えない。万人にはとてもお勧めできない映画だろう。


以下ネタバレになるが、多分パンフレットの誤った内容(勘違い?)のせいだろうか、誤解している人が多い箇所を2点指摘したい。
*第一の時代で両親が長男を突き落としたのは、息子を戦場に送るのが忍びないという親心からではない。末の娘がはっきりと「労災」のため、つまり金のためだと述べている。
*第二の時代で女たちを川に入っていくのは入水自殺のためではない。向こう岸に渡って逃げようとしたからだ。渡りきることができずに亡くなった者もいたということだろう。

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2026年7月23日 (木)

「そして彼女たちは」:兄弟仲良く映画を作る、手本は

260723 監督:ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ
出演:バベット・ファベーク
ベルギー・フランス2025年

あまり期待しないで見たが、ダルデンヌ兄弟は腐っても(腐ってないけど)ダルデンヌ兄弟であった。

映画の舞台は様々な問題を抱えた若い母親のための施設だ。どのくらい若いかというと未成年で、多くは家庭に問題があり母親とは仲が悪いか疎遠である。あるいは薬物依存などの問題を抱える者もいる。
そもそも自らの家族や自分自身について不全感を抱いている。なにせ彼女たち自身がまだ子どもなのだ。途中で母親の一人の年齢がハッキリ分かる場面があって、その未熟さも当然と納得してしまった。
自らも母親となってもなお「母親」を追い求め渇望する。

そんな十人十色の若過ぎる母親たちを群像として描くが、その筆致はあくまでも静かで落ち着いたものだ。遠からず近からず説教臭さもなく淡々と見据えている。

作中で二人の両極端で対照的な「祖母」が登場するが、その祖母役、若い俳優たち、施設のスタッフ役、いずれもドキュメンタリーかと思わせる演技だ。
加えて赤ん坊たちの「演技」には驚いた❗ 赤ん坊が機嫌よく無邪気に笑っていて、それ故に涙を誘う場面があるけれど、どうやってそんな場に即した反応を引き出せたのだろうか。謎である。
ダルデンヌ爺たちが「はいここで笑って。眠って。泣きわめいて~」などと指導しているのだろうか--などと想像して笑ってしまった。確か赤ん坊専門のトレーナーみたいな人がいるんだっけ(^^? さもなくば、本物の母親が背後にいて笑わせたりとか。

それて、これまた「何とかして欲しい邦題シリーズ」である。
英語タイトルも「若き母親の家」で地味だけどさ。少なくとも内容を的確に表してますよ。
カンヌ映画祭で脚本賞授賞。

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2026年7月 4日 (土)

「プロジェクト・ヘイル・メアリー」:異星人と共に幾年月

260703 監督:フィル・ロード、クリストファー・ミラー
出演:ライアン・ゴズリング
米国2026年

原作は昨年入院中に読んだ。その時にあまりの楽観主義に頭がクラクラしたが、映画版を見るとさらに楽観的な度合いが強まっていた。まあ巨額の予算をかけて映像化するのだから悲観主義とか暗~い話は避けたいだろう。
それよりも『2001』の引用があからさまなのに驚いた。(他にも引用があるのかもしれないが分からず)

圧迫上司でグイグイ迫ってきてコワいはずのストラットがいい人になってたり、逆にロッキーが手先の器用な「未開人」、または丸っこくてカワイイ子ども扱いになっているのはどうかと思ったりもした。
しかし原作読んでなかったらどういう話なのかも見てて理解できなかった恐れがあるので良し悪しである。特に科学的な理屈については???状態だったろう。

結論は、よくぞ2時間半にまとめました✨ということになる(ほめるのはそこかっ)。まあ原作の前編部分をあっさり削っているからな。
ライアン・ゴズリングの主人公は適役ですね(^^) ザンドラ・ヒュラーは上司の「いい人」化に大いに貢献している。
メリル・ストリープは「私がビーバーになる時」と共に声の出演で特出してますな。

主人公の名前(グレース)は元設定からだが、目が覚めた時のヒゲぼうぼうの顔はキリストっぽいし、終盤に聖書を連想させる場面が出てくるなど、映画はより「宗教化」している。これは新たなる福音書なのか。
--などと見ていて色々と心の中に湧き上がってくる映画であった。

最初に「楽観主義」と書いたのは主に異星人とのコンタクトについてである。S・レムはよくSF映画を見ていて「こんなに簡単にコミュニケーションできるはずがない!」と思っていたらしい。私はそれが『ソラリス』を書いた動機の一つではないかと勝手に推測している。
そういう観点から見れば、この映画もロッキーの形状はともかく思考や精神は人間ぽいのだった。いや、人間同士でさえ文化が違えばコミュニケーション不全になるのだからその点でどうなのよと思った。

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2026年6月19日 (金)

「決断するとき」:ギュイとつかんだ手

監督:ティム・ミーランツ
出演:キリアン・マーフィ
アイルランド2024年

アイルランドで修道院によって運営されていた女子矯正施設あり。その実態は若い女性を虐待してこき使ったりしていたという。実際、シネイド・オコーナーは母親にこういう場所に放り込まれていたらしい。(その影響は後々まで彼女を苦しめたようだ)
で、この事実とタイトルからすると当然キリアン・マーフィーがそれを勇ましく告発をする話かと思ったのだが……。

映像は終始、主人公の沈鬱な表情を描く。一体何を悩んでいるのかよく分からない。少年の頃の記憶の断片や、目撃したことが映像として差しはさまれるが、彼の内心は観客にも明らかにされない。
どうやら、彼が得意先として出入りする教会の矯正施設で見聞きしたことに起因するらしい。

しかし恐ろしや、彼の行動の些細な部分から何かを嗅ぎ取って、妻や周囲の住民が曖昧な圧力をかけてくる。極めつけはエミリー・ワトソンの修道院長だろう。そもそも修道院は彼にとってお得意先なのである。圧が🆘強いぞ!怖いぞ。

結果、彼が決断したことは非常に勇気がいる行為だと思うが、果たして家族(娘が5人!)はどうみなすだろうか。しかし、自らの過去を顧みて受け入れられると「決断」したのだろう。
キリアン・マーフィーは終始、出ずっぱりである。画面を占拠しっぱなしでも耐えられる役者と言えよう。
感情を表出させない主人公の心に同期するようなサウンドデザインが面白い。カラスの鳴き声、路上を流れる水。
唯一の難点は地味過ぎということか(退屈ということではない)。


地味な作品の鑑賞場所としてはこの日の日比谷シャンテはひどかった。近くに座ってた中年カップルが始終小声で喋っていて、さらにはスマホを見たり。
かと思えば、前に座った若い男が背がデカ過ぎて段差があるのに頭が字幕にかぶる。そいつがドリンクのカップを上に向けて氷をガコガコすする度に、カップが字幕にかぶる。
なんなんだ、ムカーッ(`´メ)

でもよくよく思い返してみると、シャンテっていつもそんな感じだよなあ。今日はポリ袋を音出してカシャカシャさせる奴がいなかっただけでもまだマシか。

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2026年6月 2日 (火)

「私がビーバーになる時」(字幕版):トゲトゲとモフモフの間

260601 監督:ダニエル・チョン
声の出演:パイパー・クールダ
米国2026年

ピクサー映画新作、見る予定はなかったけど高評価が多かったので行ってみた。字幕版やっている所が少ないっ。仕方ないけど。

大学生であるヒロインは一般の観客が見るとかなり感情移入しにくい人物である。小学生の頃から動物愛が高じて彼らのこととなるとどんな場所にも突撃を辞さず。人間に対しては常に不信感溢れる戦闘モードだ。おまけに髪の毛はその性格を表すようにグルグルと逆立っている。

目下の敵は開発ゴリ押しの市長だ。亡き祖母も愛した川や森を守らねば💢と戦う日々。そんな時に大学で、動物ロボットに意識を転送して森の中の動物コミュニティに潜り込む研究が進んでいることを知る……。
あら不思議😶髪の毛逆ち性格もトゲトゲしているヒロインも、ビーバー(のロボット)になるとモフモフしてかわいいではないか。同じ場面でも潜入モードと人間視線モードが異なるのが面白い。

その後は森の危機を巡って怒涛の展開でアクションが連続だ。年寄りにはもはや頭が付いていけねえ~。見回せば周囲の客は若い者が多数である。
そんなドタバタの中でも、主人公は攻撃して暴れているのだけではイカンと多くのことを学び取っていくのであった。

しかし今回のピクサーの売りは、森と川の生態の静かな美しさの描写だと見た。現実よりもさらに美しい世界を注視せよ。
でもやっぱり年寄りは疲れる映画ではある(>_<) 
最近動物アニメ・ラッシュなのはなぜ? 『野生の島のロズ』『Flow』『パフィンの小さな島』……他にもあるかな。

見て初めて知ったが、主人公は日系だったのね。名字がタナカなのである。
それと敵役の市長の設定が、母親と二人暮らしで甲斐甲斐しく介護もしているというのも目新しかった。
見に行ったシネコンではM菱地所のCMを長々やってて辟易。あそこがやってることは本作では敵認定されるんじゃね(・・?

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2026年5月14日 (木)

「ナースコール」:終わりなき時間

260513 監督:ペトラ・フォルペ
出演:レオニー・ベネシュ
スイス・ドイツ2025年

上映時間92分! 人手が足りないままに満員の病棟で遅番シフトに入った看護師。彼女が追い詰められていく様を92分の中に濃縮して描くものである。

舞台はスイス。どこの国も人手不足は同じなのだろうか。偶然が重なってその時間は2名で担当しなくてはならない。
カメラは細かい動作(注射器を密閉包装から出す、棚の鍵を開けて薬物を取り出す……など)にいちいち張り付いて撮っているので、その絶え間ない繰り返しの堆積が徐々に効いてくるのだった。
あらゆることが押し寄せてくる。外線が看護師のケータイに直に掛かってくるのも驚きだ。一方で不安な患者に精神的ケアもしなくてはならない。

全てが邪魔なノイズとして堆積し、主人公と共に観客が疲労感最大値になった時に、それまでの停滞と鬱屈が突然に変化する。ここら辺の展開がうまい。そして静謐さへと--。終わりなき時間もいつかは過ぎる。何かが変わるわけではないが。
細かいカメラワークがすごいのと同時に(リハーサルを何度も繰り返したのだろう)、脚本もよく出来ている。
それと主役のレオニー・ベネシュの演技は神技的であった。

観客はかなり入っていた。2週目からは上映回数が増えてロングランしていたようだ。
ところで劇中に登場する「4万フラン」という金額がピンと来なかったので後から検索してみた。そしたらなんと

814万円💥
うわーっ\(◎o◎)/!

我が身を振り返ると、私も入院してた時につまらないことで看護師さんに色々ご迷惑かけました。コインランドリーの使い方分からないとか……。
許して~(;_:)

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2026年4月25日 (土)

「ウィキッド 永遠の約束」(字幕版):魔法と詐欺の区別はつかぬ

監督:ジョン・M・チュウ
出演:シンシア・エリヴォ、アリアナ・グランデ
米国2025年

一作目(というか前編)と『オズの魔法使い』を直前復習して見に行った。もう忘れかけてた。
結果は「前作の方が面白かったなー」派に一票であった。キャッチーな曲がなかったし、長くて盛り上がり損ねているような印象。グリンダが鏡を幾重にも通り抜ける場面は新曲らしいが、映像に気を取られてしまいよく覚えていない💦

さて、幕を開けてみればグリンダはオズの光り輝く広告塔、エルファバはオズの体制に立ち向かうテロリストとなって嫌われ者となっている。さらに某王子が絡んで三角関係も勃発しているじゃありませんか。
それほどにビックリな展開なのに、後半は『オズの魔法使い』とのつじつま合わせに汲々としているようなところがある。特にカカシについてはかなり無理があるんじゃないの?などと思ったり。
またエルファバの妹の顛末についても、「えー😕そんなんありか」的な感想を抱いてしまった。グリンダはやっぱりひどいヤツではないか。

前編のきっちりした起承転結の盛り上がりぶりに比べ、今回はそれを持続できずに残念であった。舞台版はもっと短いんだって? 確かに長けりゃいいってものではないわな。
そもそも舞台のミュージカルというものでは前半に盛り上がるのが定番らしい。それを映画に持ってこられてもなー。
というわけで、グダグダ感をぬぐえぬままに終了した。残念である。

ご近所のシネコンで夕方の回の字幕版に入ったら、一番大きなシアターなのに客が3人しかいなかった(ーー;) 吹替版もあるとはいえ……。洋画の未来は暗いのか。
しかも設備が古いところなので、画面が暗くて参った。やはり都心の新しめの映画館に行かないとダメなのかな。


ところで、最近になって斎藤美奈子の『挑発する少女小説』を読んだ。すると『ウィキッド』は往年の少女小説(『若草物語』『赤毛のアン』など)の要素をかなり引き継いでいるように思えた。
その要素とはまず、

(1)主人公の多くは「みなしご」である。
→エルファバは親に見捨てられて孤児同然。グリンダも寮制の学校に入ることで親から切り離される。
(2)友情(同性愛)が恋愛(異性愛)を凌駕する。
→これは一致度が高い。
(3)少女期からの「卒業」(成長)が用意されている。
→そのまま。
(4)主人公は皆「おてんば」な少女である。
→これは当てはまりそうにない。
かつての少女小説は昔のジェンダー規範を飛び越えようとした少女たちを描いてきた。しかし「ウィキッド」の二人は違う……のか? よく分からない。

とはいえ、19世紀後半から20世紀前半を最盛期とする少女小説というジャンルを今に引き継いでいるのは確かなようだ。

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2026年3月28日 (土)

「センチメンタル・バリュー」:ア・ハウス・イズ・ノット・ア・ホーム

監督:ヨアキム・トリアー
出演:レナーテ・レインスヴェ 、ステラン・スカルスガルド
ノルウェー・ドイツ・デンマーク・フランス・スウェーデン・イギリス2025年

結論から言ってしまおう。私のような俗っぽい人間には高踏過ぎた😑 まあ見る前から予想はできたことだけど……。
過去に妻子を捨てた映画監督の父親、演劇の道を歩む姉娘、堅実に穏やかな家庭を築く妹。しかし、母親の葬儀に父が顔を見せたことから日常の小さな波紋が大きな波へと変わる。

姉は才能ある舞台俳優として主役を務めているが、開演直前に逃走しようとして皆が必死で止める。こういうのはコンサート関係では聞いたことがあるけど、演劇でも同じなんですかね(^^? 代役置いといたりしないの?
かつて巨匠と呼ばれた父親が十数年ぶりに映画を撮ろうとして娘に声をかけるのは、才能の枯渇を補うためとしか思えない。しかも映画の内容は自分の母親についてなのだ。当然、娘は断固拒否する。

演劇や映画好きにはハマる題材である。役者たちの好演、慈しむような映像、時折挿入される騙しカット。家から綴られる家族の歴史。既成曲の使い方も印象的だ。
この作中映画がネトフリ作品という設定なのが面白い。よくロゴの使用を許したものよ。

だが、この手の話では年老いた父親と娘が登場して「娘」の方が折れる(父を理解してやる)というパターンが多いのはどうしたことだろうか。そもそも父親と息子とか、母親と娘というのはあまり記憶がない。
偉大な映画監督の母親が突然現れて疎遠な息子に向かって「あんた映画に出て」とか言ったら、どうなるだろうかね。
ということでどうにも気に入らなかったのだった。主要な俳優4人がアカデミー賞候補になったけど、それほどのものかとも感じた。「家」は美しかったけどさ。

アカデミー賞国際長編映画賞獲得、8部門ノミネート。カンヌ映画祭グランプリ。


映画のモデルと俳優という点では互いに食うか食われるかという関係で、非常にバカバカしくて毒々しい『メイ・ディセンバー』みたいなのが気に入っている(感想は書いてない)。

また横暴な父と子ども(きょうだい)の関係を描いたものでは『白い刻印』というのがあった。もう20年近く前に見た映画なので詳しくは覚えてないのだが。
顔ぶれはジェームズ・コバーン、ニック・ノルティ、ウィレム・デフォーという恐ろしいもの。コバーンのコワい親父の重圧に、互いには正反対(長じて警官と大学教授になる)ながら手を取り合って耐え忍ぶ兄弟。その子ども時代が間接的に描かれる。もはやトラウマである。
本作が物足りなかった人には上記2作をオススメしたい。

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