映画(最近見た作品)

2019年3月16日 (土)

ナショナル・シアター・ライヴ鑑賞記

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最近、行ってみたNTLの感想をまとめて書く。
芝居の収録というと昔のNHKの「劇場中継」みたいのを思い浮かべるが、昨今は進化していて、中には映画もどきのカメラワークのものもある。収録を前提にして演出した部分もあるんじゃないか(その上演時だけ?)と思ったりして。
実際の観劇では、役者の顔をアップで見たり、座席とは異なる位置から見ることは出来ないのだから、果たしてそれでよいのか。これも良し悪しだろう。

*「ジュリアス・シーザー」
観客参加型(?)演劇で、フロアで立ち見の客がローマ市民となりシーザーに旗を振ったり、ブルータスの演説に拍手したりする。(立ち見が疲れる人は見下ろす形の二階席がちゃんとある)
美術や衣装の設定は現代の都市になっていて、カフェで噂話のように交わされる密談、大統領を想起させるシーザー--市民「注視」の下に繰り広げられる暗殺と権力争奪戦は今まさに行われているようにスリリングである。

元は男性である人物が何人か女性が演じていて意外に感じたが、今はこういう方式が多いとのこと。確かにそうでもしないとこの芝居はほとんど男優しか出番がない。

進行に従ってステージがせりあがったり沈んだりして形がどんどん変わっていくので、スタッフが常に観客の「交通整理」をしていてご苦労さんだ。
こういうスタイルの舞台ならカメラが中に入って動いて中継するので、鑑賞に有効だろう。

冒頭ではロックバントが数曲演奏して(やや古めの曲のカバー)客を煽る。そのバンドも役者で脇役を演じていたので驚いた。皆さん達者である。
しかし冒頭がそれなら、ラストにはラップで高々と勝利宣言でも一発やって欲しかったところだった。


*「イェルマ」
原作はスペインの詩人ロルカの戯曲だとのこと。第二次大戦前に子どもが出来ない妻を主人公にした作品というのなら、家父長制的な家庭の中で苦しむ話だと想像するのだが(実際に封建的な農村という設定らしい)、この上演は翻案ということで現代のキャリアウーマンになっている。

巨大な水槽のようなガラス板に囲まれたスペースがあって、観客はそれを四方から取り囲むように座っている。最初はどこから人物が出入りしているのかと不思議だった。そこにいる客は当然、自分の座っている側からしか見られないので、舞台上の全てを見ることは不可能である。(役者が背を向けてたら表情や仕草も分からん)
やはりこういう場合は映像で見ると有利である。

設定を現代にしたはいいが、そうするとなぜ主人公がそこまでして自分の血を引いた子どもを欲しがるのか不明である。養子でもダメだと断言する。最初はちょっと際どいカップルもの海外ドラマみたいなノリだったのが、見ていて段々苦しくなってくる。
人工授精を繰り返しても失敗が続き、夫を怒鳴って喚き散らし暴れる彼女は、まるで理解不能な怪物である。最後までそんな調子で、芝居の作り手の意識の方を疑ってきたくなる。
そういや、音楽や効果音もなんだかホラーっぽい。 主役は女優賞取るのにふさわしい熱演とは思うが、水吐いたりして騒ぐのが果たして名演技なのかと疑問に思ってしまった。

演出家がこの脚本の方も担当したらしい。かつて私が段々と芝居を見なくなってしまったのは、小賢しい演出家兼脚本家が過激さを気取って先端的だと勘違いしているのにウンザリしたからだが、それを思い出させるものだった。


*「フォリーズ」

ミュージカルほとんど見ない人間だが面白そうなので行ってみた。
取壊しが決まった古い劇場で、レヴュー・ダンサー達の同窓会が開かれて30年ぶりに顔を揃える。
中心となるのは二人の元ダンサーとその夫たち。彼らは過去に四角関係(?)みたいないきさつがあって、未だに未練が残っているのだ。その未練は同時に失われた時代への哀惜と郷愁に重なるのだが。
その過去のいきさつが4人の若い役者たちによって、「今」の4人と絡むように演じられる。

さらに今回の上演での演出らしいのだが、それ以外のダンサーたちの過去の美しい分身が付きまとうように現れる(もちろんセリフはない)。
廃墟のように崩れかけた劇場のセットの合間に、華やかな衣装を着けた踊り子が幽霊のようにスーッと現れては、奥に見え隠れし佇む。曲もダンスも往年のミュージカルへのオマージュのようで過去と現在が幻の如く行き交う。

中心の二人の片方をイメルダ・スタウントンが演じている。彼女は「メアリーの総て」での優秀なメアリーに対するクレアのようなポジションで、ダンサーとしては大したことなく、ちょっと滑稽な印象を与える人物だと設定されていると思える。
だが恐るべし怪女優(注-褒め言葉である)、彼女はなんと若い自分役の女優さんよりも遥かに可愛く魅力的に見えてしまうのだった。

と、色々と面白いミュージカルだったのだが、撮影では複数のカメラを移動させたりクレーンを使って高い所から見下ろしたりする。おかげで折角の回り舞台の威力が半減してしまった。目の前で装置が回って変化していくのが見てて面白いのに、一緒にカメラが回っていったんじゃしょうがない。
あと、役者中心に映すので背後の無言のダンサーたちがほとんど画面に入っていないのも残念無念であった。
映画と舞台のいいとこ取りのはずが、どっちつかずになってしまった例と言えよう。


*「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」

1962年初上演。映画ではエリザベス・テイラーとリチャード・バートンが夫婦共演して賞を多数獲得した。いずれにしろタイトルのみ知っていて初めて見る。

中年大学教授とその妻、かつては出世コースを目指していたはずが挫折して、今では二人は何かあれば罵倒をぶつけ合っている。そんな深夜に新任の若い教授夫妻が訪れる。
ということで、4人の言葉のレスリングが開始。押しては引き、引いては投げ飛ばし隙を見せたら付け込まれると容赦ない。互いに傷つけあっても気にしない。
そういや、「イェルマ」の演出家がやりたかったのはこれの再現かしらんと思ってしまった。舞台美術の担当者は教授宅の絨毯をリングに例えていたのだが、「イェルマ」の巨大ガラス水槽もリングのようだったなあ。
でも、こんな悪態合戦は一つ作品があれば十分のような……

4人とも夜通しずっと酒を飲み続けている設定で、当然役者たちは酒に似せた飲料を飲んでいるのだろうけど、トイレ行きたくならないのかしらん(?_?)としょうもない疑問を抱いた。
それぞれ少しずつ退場する場面があるのはトイレ休憩用かな、とか(^^ゞ

難点はキャスティング。イメルダ・スタウントンとC・ヒル(「ゲーム・オブ・スローンズ」のハゲの人髪の毛あるので全く気付かなかった)の夫婦が挫折したインテリというより、なんとなく野暮というか田舎っぽい感じなことだ(フィルマークスでもそう評している人がいた)。
若夫婦の夫はエリート臭ふんぷんで鼻持ちならない自信家な設定だと思うが、「ボブ猫」の人なんで頼りない青二才風だし、妻は「地味な若妻」というより典型的「派手なブロンド・ヘアで中身は空っぽの娘」に見えた。

まあ、役者が変わっても一度見たら二度目はもう結構(ーー;)と言いたくなる芝居だった。


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2019年2月20日 (水)

「ホイットニー オールウェイズ・ラヴ・ユー」:成功と醜聞は表裏一体

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監督:ケヴィン・マクドナルド
イギリス2018年

ホイットニー・ヒューストンといっても、活躍してた当時は歌手としてはあまり関心がなく、ラジオやMTVでよくかかっていたのを漠然と聞き流していた程度だった。
個人的には音楽面より映画『ボディガード』の出演がハマリ役で印象が強い。ただ、ケビン・コスナーの方が株の上昇度は大きかったかも(人気が決定的となった)。
従って、その後のスキャンダル(夫のB・ブラウンがらみ)や2000年代に入ってからの凋落ぶり、さらには突然の死についてもあまりよく知らない。風の噂に聞く程度であった。

そんな彼女の生涯についてのドキュメンタリーである。監督のケヴィン・マクドナルドは『ラストキング・オブ・スコットランド』で知られるようになったが、過去にドキュメンタリーもよく撮っている。実は見たのも忘れていたのだが、『敵こそ、我が友 戦犯クラウス・バルビーの3つの人生』が、今回の作品に一番近いかも知れない。

ホイットニーと言えば、モデルやっていたというぐらいの容姿で、周囲に母親や親戚のディオンヌ・ワーウィックなど歌手として活躍してる者も多いということから、てっきり音楽ファミリーのサラブレッドのような印象を持っていた。しかし実際は全く違っていた。
母親はバック・ヴォーカリストとして巡業の日々で不在、子どもの頃は兄弟と共に他の家へ預けられていたというツラいものである。

ようやくレコードデビューを果たすも、回りは猛母、金に細かい父(マネージャーをやっていたが決別)、ダメ兄とドラッグ兄に囲まれ、結婚したボビ夫はDV野郎であった。
そんな身近な人物のエピソードをインタビューによって容赦なくほじくりかえしていく。ナレーションもなく後は過去映像をかぶせるぐらい。まことドキュメンタリーのお手本のようで、その容赦ない手腕に感心する。これで遺族公認とは驚いてしまう。

いくら稼いでも周囲に金がジャブジャブと流れ出していき、父親とは訴訟騒ぎ、無二の親友とは結婚後疎遠に、タバコにドラッグ、一人娘は不安定、歌唱力も低下--と全てが悪い方向に転がっていくのであった。

2時間強の長さだが途中でだれることもなく、最後に衝撃の事実に至る。これは米国で出ている伝記本にも書かれたことがない話らしい。見終わった後なんともいえない気分になった。

『ボディガード』で彼女には輝かしい華があったのは確か。日本でも大ヒットして満員のロードショー館で見た。あのイメージが残っている。
考えてみると、ミュージカル出身以外の歌手で当時映画に出て大成功した数少ない例かも知れない。プリンスもマドンナもうまく行かなかった。音楽と映画の両方で活躍する人はいるが、どちらか片方にギャップがある。最近ではレディー・ガガくらいだろうか。
なお、あの大ヒット曲「オールウェイズ・ラヴ・ユー」は実はカントリー・ソングで、最初に作曲して歌ったのはドリー・パートンだったそうだ。小林克也の番組でD・フォスターが話しててビックリ。知らなかった

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こうして見ると、彼女の生涯はほとんど「山岸凉子」案件だと気付いた。山岸マンガの登場人物に彼女はピッタリと重なる。猛母、強権父、家庭の不和、DV、児童虐待、離婚などなど、短編でもよく取り上げられた要素がテンコ盛りである。そのまま山岸凉子が彼女の伝記を描いてもおかしくないほどだ。

多くの山岸作品では、特別な能力を持つ天才や異才が共同体の中で自らの力を発揮しようとして成功する、あるいは挫折するという構造が中心となっている。その行く手を阻むのは共同体内の軋轢であり、決して同等の才能を持つライバルではない。
かつて、橋本治はそれを「主人公とその従者」という観点で分析したが、後の作品からは「従者」がいなくなってしまった。
今連載中の『レベレーション』でも主人公のジャンヌ・ダルクを支える従者はいない。これから火刑に向かって暗い坂を転がり落ちていくだけのジャンヌの姿に、ホイットニーが重なるのである。

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2019年2月12日 (火)

「ディザスター・アーティスト」:ノー・カット! 駄作も行き過ぎれば客が来る

監督:ジェームズ・フランコ
出演:ジェームズ・フランコ
米国2017年

DVDにて鑑賞。
米国に『ザ・ルーム』(2003年)なる映画あり。「史上最低の映画」と評されて笑いのネタとなり、映画マニアに愛されている駄作だそうだ。

この映画は『ザ・ルーム』がいかに作られたかを描いたもので、実話を元にしたコメディである。
こちらは極めて評判良く、ゴールデン・グローブ賞の作品賞にノミネート、監督兼主演のジェームズ・フランコは男優賞をゲットした。他にも放送批評家協会賞も取ったということで、このまま賞レースを突進してオスカー主演男優賞に手をかけたと思った途端、直前にフランコのセクハラ問題が発覚してしまい、一気になかったことにされてしまったといういわくつきの作品である(オスカーでは脚色賞候補のみ)。日本でも公開がなくビデオスルーになってしまった。

役者志望の若者が演劇学校で変なロン毛男トミーと知り合い、ルームメイトとなる。くすぶっているうちに彼から映画を共に作ろうと誘われる。トミーは身分不詳、果たして本名を名乗っているのかさえ分からないが、金だけは無尽蔵に持っているという謎の男であった。果たして大丈夫なのかと誰もが思うであろう。

プロデューサー兼監督兼脚本兼主演となったトミーであるが、実際には映画の製作については全く知らず、さらに演技もシロート以下と言っていいほどだった。そんなデタラメな混乱ぶりが若者の眼を通して描かれる。

その信じられないドタバタが見どころの一つだ。トミーは何度同じシーンを演じようとしても、セリフを覚えられない。あまりに繰り返すので、彼以外のスタッフはみな暗記してしまうほどだ(^◇^)
もう一つの見どころは有名な俳優があちらこちらに顔を出していること。ザック・エフロン、シャロン・ストーン、ジャッキー・ウィーヴァー、ジャド・アパトーなどなど。

そしてラストに至って、正体不明でデタラメで才能皆無だが映画をそれなりに愛しているトミーという人物を、観客は好きになる……はずである(多分)。
いかにも映画マニアが好みそうな話であるが、マニアの域には至っていない私のような人間には「ふーん、変なヤツがいたものよなあ」で終わってしまうのだった。
それと『ザ・ルーム』は、米国と違って日本では全く知られていないというのが痛い。

フランコはロン毛を振り乱して別人のような怪演&熱演。一方、作品全体は意図は分かるけどなんだか中途半端な印象で、監督としての手腕は今一つであった。
彼の弟のデイヴ・フランコが若者役を演じている。童顔で役柄にはあっているものの、なんだか口をパクパクさせる癖があって、これは俳優としてはかなり問題ありなのではないかと思った。

ところで最後に通行人みたいな役でなんと本物のトミーが登場。ちゃんとセリフ言えてたよ(!o!)

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2019年2月 8日 (金)

「メアリーの総て」:美女と怪物 天才と俗物

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監督:ハイファ・アル=マンスール
出演:エル・ファニング
イギリス・ルクセンブルク・米国2017年

言わずと知れた「フランケンシュタイン」の作者メアリー・シェリーが、作品を生み出すまでの物語。といっても執筆したのは18歳(これでホラーとSFの元祖な小説を書くとは大したもん)という若さなので、その描かれている年数自体は短い。

ここでの若きメアリーはヒラヒラした長い金髪で、墓地で墓石に寄りかかって夢見るように文章をノートに綴る--と、これぞ文系女子の憧れを凝縮させた姿で登場(#^.^#)
父親は堅実な文化人ながら義理の母親とはうまく行かず。悶々とする彼女の前に現われたのが今を時めく詩人のシェリー--なのだが、どう贔屓目に見ても「ちょっと、そこのお嬢さん、そいつ絶対ボンクラ男だからやめとき」とオバサンモードになって小一時間は説教したくなるようなヤツなのだった。

従って、見ててメアリーが一体彼のどこに惹かれたのかよく分からない。「シェリーはシェリーだからいい」としか描かれていない。極端に言えば、家から連れ出してくれるなら誰でもよかったんじゃないのと思っちゃう。
彼に付いて行ったはいいが金が尽きるし、悪い友人が出入りするしで散々である。

一緒に家出した義理の妹クレアの縁で、バイロンの別荘へ。この状況に集う三人の男を紹介すると--
*バイロン:軽薄でムラ気、何も考えていない。
*シェリー:言葉だけで実(じつ)がない。
*ポリドリ:真摯だが面白みがない。
となる。
点数付けると、外見・性格を共にポリドリが一番になっちゃうのが困ったもんだ。
伝説化したあの「ディオダディ荘の怪奇談義」もなんだかよく分からないうちに、バイロンにまとめられちゃって終了である。
全体的に直球過ぎてひねりなし、盛り上がりに欠けたままだった。かなりの長さのはずの『フランケンシュタイン』もあっという間に薄いノートに書いちゃうし、夫のシェリーも改心しましたよ\(^o^)/で終了--ではなんとも面白味に欠ける。

ロクでもない男たちに邪魔されつつも、なんとか『フランケンシュタイン』出版にこぎつける彼女の才能と努力を称揚し、女性パワーを描くのはいいけど、その割にはクレアの描き方はひどくないか? メアリーにくっ付いてるだけの、まるっきり粗忽で愚かなミーハー娘扱いである。

監督はサウジアラビア映画『少女は自転車にのって』のハイファ・アル=マンスールである。
えー、母国出てこういう作品を撮ったんだ。男に行動を妨害されても頑張る女を描くという点では一致しているかもしれないけど……。

エル・ファニングは18歳の閨秀作家(←死語)という年齢的にもピッタリな役であった。美少女だし ポリドリ役はただ今『ボヘミアン・ラプソディ』でも評判のベン・ハーディ、好感です。

なお、この映画を見た人は是非ケン・ラッセルの『ゴシック』も見ていただきたい。何せ、こちらはバイロンがガブリエル・バーン、シェリーがジュリアン・サンズだっ ポリドリ役のティモシー・スポールは残念無念だけどな。
『ゴシック』は一度目は恐怖におののき、二度目以降は笑えるという一粒で二度おいしい作品であるよ。ただソフト出ているか不明……(ーー;)

なお「『フランケンシュタイン』は過去の名作をつなぎ合わせただけの小説だ」というような意見を見かけたが、過去の映画をパクリまくってつなげたような作品で評価を得た映画監督もいるんだから、いいんじゃね=^_^=

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←やはりビデオ再生専用機、買うべきか。

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2019年2月 2日 (土)

「恐怖の報酬 オリジナル完全版」:デンジャラス・ロード 爆走!トラック野郎は止められない

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監督:ウィリアム・フリードキン
出演:ロイ・シャイダー
米国1977年

「短縮版」の方は××年前に、多分レンタルビデオで見た。その後、オリジナルのクルーゾーの方も借りて見て、やっぱりクルーゾー版には負けてるなと思った記憶がある。しかし、あまりに昔なのでよく覚えていない(^^ゞ

それが今になって「完全版」の出現である。監督に無断で30分もカットされていたのをようやく元に戻せたのだという。その長さ121分

それぞれヤバイ案件で自国から逃げ出した4人の男が、南米某国の油田のある町に吹きだまり、正体を隠して働いている。油田での作業は過酷な労働で事故で死人まで出る。このあたりの経緯は、どうしても今の日本で話題の外国人実習生を思わず連想してしまうじゃありませんか(>y<;)

報酬に釣られて危険なニトログリセリン運搬に応募する。2台のトラックに分乗してソロソロと進むが……。

冒頭のエルサレムでの爆破シーンからして、これ絶対にケガ人出ているよなと確信できるド迫力。
暴風雨の中ボロボロの吊り橋を渡る場面など一体どうやって撮ったのよ(?_?)と思うほど。見てて身がすくんじゃうのである。なんでも放水塔から水まいて上空にヘリコプターを旋回させたそうだ。(5回もトラックが転落したらしい)
もう恐ろしくて見てて目が離せない。ドキドキして死にそうだ~(@_@;) タンジェリン・ドリームのサウンドがさらに拍車をかける。

そういや『七人の侍』でも終盤の嵐シーンは近くの消防車を数台借りて放水したとかいうから、撮影現場の行く着くところは同じようである。
ロイ・シャイダーはじめ役者の方々はご苦労さんm(__)m
他にも油田事故の炎上場面など「どうやって撮った」案件続出である。事故だけじゃなくて村人の暴動場面もクドイほどに渦巻くような描写だ。
いずれも情緒をそぎ取ったような素っ気なさが特徴的である。

ラストは短縮版ではハッピーエンドだった(?_?)らしいが、こちらでは観客をホッと油断させといて、最後の最期でひっくり返すような展開を取る。
似たような結末だとヒューストンの『黄金』、キューブリックの『現金に体を張れ』があるけど、諦念も皮肉も感じさせないのがフリードキンたる所以だろうか。
この完全版を見る価値は十分にありとタイコ判を押したい。ただ、クルーゾー版の方もまた見たくなってしまった。

さて、そもそもニトロの箱3つをあんなデカいトラック2台で運ぶ必要があるのかというツッコミがあった。た、確かに…… もっと小さい荷台の車でロープで固定するとか?
それはともかくとしても、メキシコ人の殺し屋はなんで参加したのかあまりよく分からなかった。他の男たちは金もなく行ける場所もないが、彼は望んで町に居残ったのである。

あと、タランティーノの映画で強盗する犯人が黒ずくめで登場するのがある。この映画からの引用だよね。タランティーノではそういう格好している意味が不明だが、こちらは結婚式に出席するという設定なのだ。


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2019年1月17日 (木)

「バーバラと心の巨人」:ウサ耳付けても心はホラー

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監督:アンダース・ウォルター
出演:マディソン・ウルフ
米国・ベルギー・イギリス・中国2017年

原作はグラフィック・ノベルとのこと。
海辺の町に住む孤独な少女が、迫りくる巨人とたった一人で戦う。ただし、その巨人は彼女にしか見えないらしいのだが……。

これってモロに『怪物はささやく』ではないですか(!o!) 映画は見てないが原作を読んだ。
『怪物』の方は主人公の少年は小学生高学年ぐらい?だったと記憶しているが、そのあたりの年齢なら巨人を信じていても納得できるが、こちらは高校生ぐらいだからちょっと無理がある。
そのせいもあってか、現実と幻想の境界が曖昧としていく恐ろしさの描写がうまく行っているようには見えなかった。本当ならゾクゾクするような迫力があっていいと思うのだが。
主人公の観点からホラーファンタジーのように描くか、友人から見たリアル視点そのままにするかどちらかに寄った方がよかった。
また、邦題がネタバレではないかという意見もあり。(原題は「私は巨人をぶっ殺す」)

保護者代わりのお姉ちゃんは働くのに忙し過ぎて構ってもらえない。兄は自分勝手。そういう寂しい境遇の女の子に共感する人には向いているかも。
あと、主人公はウサギの耳を付けた不思議女子。何やら風変わりでカワイイ小物を防壁のように自らの世界の周囲に置いている。その手のスタイルに憧れる女子も多いだろう。

学校カウンセラー役のゾーイ・サルダナと、くたびれた姉役のイモージェン・プーツが手堅く好演であった。

ところで一つ疑問なんだけど、最初の方に兄が友人とゲームして騒いでいる場面があった。でも、あの状況でやりますかね?……(@_@;)


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2019年1月 5日 (土)

「2001年宇宙の旅」IMAX版鑑賞記

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国立映画アーカイブでの70mm版は見事チケットを取り損ねたので、代わりにIMAX版を見に行った。大きなスクリーンで見られるのもこれで最後かもと思ったのである。以前に行ったのは多分10年ぐらい前の新宿プラザでの最終上映だった。

実はIMAX自体、見るのが初めて。確かにスクリーン巨大だし、本編前にかかった予告の映像を見ると、鮮明だし立体感もかなりのもんだ。
事前にスクリーンに対して画面の比率はどうなるのか、などという論議があったが(設定によって端が欠けてしまう)、タテヨコ比はほぼ70mm版と同じ。色彩は記憶の中のオリジナルに近いものだった(と思う)。

行ったのは平日の昼間だったが、年寄りだけでなく各年齢層の人が来ていた。レディースデイのせいか若い女性も多かった。
昔は(今も?)「女は2001に興味を持たない」言説が横行していたが、これが間違いであることは明らかだろう。

上映手順はキューブリック指定通りに行われた。予告の後に黒画面でオープニングの音楽が流れ、休憩は15分。終了はやはり真っ暗画面で追い出し音楽が流れる。そこまで残って最後の白黒ロゴまで見ていた客は、さすがに十数人だった。
なお、私の記憶ではこの上映手順を守るようになったのは2000年代に入ってからではないかと思う。それまでは休憩もなかったし、オープニングとラストの音楽の時は客電が付いていて、私はてっきり劇場側がサントラを流しているのだとばかり思っていたのだ。

さて、映像が鮮明になることで却ってあらが見えるのではないかという噂があったが、確かにこれまで気にならなかったスクリーンプロセスとそうでない部分の差が分かるし、地球の映像も平坦気味に見えた。
でもロープとかワイヤとか余計なものはもちろん見えなかった。あ、当時からZ級SFだと見えてましたよね(^◇^)
一方でラストの寝台上の胎児の眼がかすかに動くのをようやく確認。もっとも、これは今まで私が注意不足で気付かなかっただけかもしれない。

残念ながらシネラマに比べて奥行や立体感に欠けていたように思う。これは多分、いま製作されるIMAX用の映画なら効果を発揮するのだろうと思うが、「2001」にはあまり効かなかったようだ。

音響は高音も低音もクリアで、そもそも音量が大きく設定されていた。意外にも音楽の弦の音が潰れて聞こえて、ノイズも感じられた。これはそもそも使われている音源が古いのだから仕方ないのか。それとも昔の映画館はそんなデカい音を出さなかったから、気にならなかったのかね。

字幕では問題の「ハルも木から落ちる」がやはり使われていた。オリジナル公開時とは異なっていて、なんでも2001年記念興行の際に新訳になり、その時から使われているそうだ。全くふざけている オヤジギャグと核兵器は地球上から殲滅したい。
ちなみに、少し後にNHK-BSで放映されたヴァージョンでは新しい字幕が付けられていた。確か女性の訳者だった。
HALがボーマンの絵を見ながら会話する場面も、これまでとは微妙に訳が違っていてこの時点のHALの意図も異なって感じられた。もう一度確認したかったが、録画してなかったので残念(ーー;)
ただ、このNHK版は色彩がかなり変わっていた(モノリスが紫っぽかった!)のでオススメはできない。

HALの意図と言えば、昔から「HALはボーマンに惚れていた」とか「嫉妬してプールを殺した」等の説は存在した。別に今に始まったことではない。柴門ふみが別名で某雑誌にそういうパロディマンガを描いていたこともある。まあ、それが一番手っ取り早い解釈だろうな……(*_*;

私が最初に見たのは(歳が分かるが)公開10年後のリバイバル時、テアトル東京でのシネラマ上映である。この頃のロードショー館は入替制もなく、自由席だったので、昼食用のサンドイッチと牛乳を持って午前中に入り、一日中繰り返して観るなんてこともやった。さっき右側から見たから今度は左寄りの席に行こう、なんて(^^ゞ

当時はHALが人間のような口をきくと会場から笑いが起こったものだ。今やAIが流行していて、時代は変わった。--というより時代が追い付いたのか。

今回あらためて気づいたのは、HALが情報を出力したのがパンチカードだったことである。そう言えば、光瀬龍のSFでも人間の情報がパンチカードで記録されていた。
今考えると、えーっパンチカード(!o!)となってしまうが、60年代末のTVシリーズ『プリズナーNo.6』ではコンピューターの出力は紙のパンチテープだった。そういう時代である。この手のメディアを予測するのはいかに難しいことか。『2001』で一瞬しか映らなかったのは幸運である。
それを考えるとフロッピーディスクの発明は画期的だったわけだが、そのフロッピーも若い人には「なんですか、それ?」物件だろう。

それから、思ったのは結構「分かりやすく」作ってあるということ。こう言うと、どこが分かりやすいと思うだろうが、取り上げてるテーマやメッセージは難解だが、その見せ方はそうではない。モノリスの場面は登場する度に同じ音楽が流れ惑星が直列し--とボーっと見てても何かが起こるというのが必ず分かるようになっていて親切なのだ。

それから、ラストのスターゲイトを出た後のホテル場面、ここは視線の切返しが重要になっている。ポッドの中のボーマンが外にいる自分を見た瞬間にそれまでの彼は消滅する。その後は毎回「見た側」が消える。この繰り返しである。
この「視線」は短いカットと同化している。最後にモノリスを見た彼は、モノリスから見返された時に胎児に変貌している。ここを長回しで撮らないキューブリックはダメだという意見を見たが、とんでもない。それまでと同様にカットの連続でつないでいかなければ意味がないのだ。
そして、ラストに胎児が見るのは地球--かとこれまで思っていたのだが、そうではなくスクリーン越しに観客の方を見たのだ。となれば、最後の最後に胎児は消滅して観客が残ることになる。なんたること、今頃気づくかよ(>O<)である。

次にIMAX版で見たいのはなんといっても『バリー・リンドン』である(そもそもデジタル化されているのか?)。「映画カメラマンに聞くイチ押しのキューブリック作品は?」というと、これが一位になるらしい。
あの、照明がローソクだけの場面を始め、映像がどんな風に見えるか。でも、興行的にはサエなかった作品だから無理でしょうな……。


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2018年12月26日 (水)

「僕の帰る場所」:ロスト・ボーイ 幻の故郷

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監督:藤元明緒
出演:カウン・ミャッ・トゥ
日本・ミャンマー2017年

若い監督の第1作目。実話に基づいて日本で難民認定申請中のミャンマー人家族を描く。夫婦と息子二人の4人家族で、そのうち母親と二人の子どもは実際の家族だという。4人とも役者としては完全に素人でそのままの役柄で起用している(劇中の名前も同じ)。

夫は民主化活動が原因で日本に亡命してきたため帰国はできず、密かに不法就労で生活費を稼ぐしかない。しかし不安定な生活ゆえ、妻の方はウツウツとして毎日を過ごすのだった。
遂に妻は夫を東京に残し、息子たちを連れてミャンマーに帰る。しおれた植物のようだった彼女は実家に戻って生き生きと蘇る。
しかし、日本語しか話せず小学校生活になじんでいた長男は反発するのだった。

ミャンマーのワイザツで活気に満ちた街は少年にとって、自分の国にもかかわらず異文化に他ならない。
実家での会話は全く理解できず、生活様式も違う。風呂はシャワーだけ、しかも水しか出ない。こりゃキツイ。どうにもできない子どもはつらいよ、大人もつらいけど。

そのような日常と変化の日々が淡々と描かれるのだった。
子どもと母の会話はとても演技とは思えない。そりゃ、実際の親子だから当然といやあ当然なんだけど……(@_@;) ドキュメンタリーと見まがう作りである。そうなると是枝監督作品を想起するだろう。

ただ、そこから一時だけ幻想の世界の門が開く。長男が雑踏で出会う謎の少年たちはモノノケかアヤカシか妖精ではないのかな。そんな風に思えた。
となると、ラストシーンで突然ファンタジーの世界へなだれ込んでいく『フロリダ・プロジェクト』も思い浮かぶ。
あの映画も主役の女優さんは半分素人のようだった。類似性に、影響を受けたのかしらんと思ったが、編集に2年半もかけたとのことで(キューブリック並み)たまたま似たらしい。日米で同じような問題が進行しているのか。
いかなる子どもであろうとそこにいる限り、国は保護する義務があるはずなのだが。

ということで、是枝作品や『フロリダ~』を好きな人にはオススメだろう。
難点は「素材」に頼り過ぎというところか。ドキュメンタリーとフィクションの境が曖昧な作品なのだからだから意図的だろうけど。
監督は現在ミャンマーに在住とのこと。実家のおじさんはタクシーをやっている設定なのは、たまたま実際に乗ったタクシーの運転手さんをそのまま起用したそうな(^O^)

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東中野のポレポレ坐は久し振りに行った。朝日新聞に二度も紹介されたのだけど、平日の昼間のせいか、観客は映画ファンより難民問題に興味を持っている人がほとんどだったようだ。
短い時間でも宣伝しようと、プロデューサーと出演者(日本人の役者さん)がアフタートークに来ていた。


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2018年12月18日 (火)

「運命は踊る」:冥土の道にも検問あり

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監督:サミュエル・マオズ
出演:リオル・アシュケナージ
イスラエル・ドイツ・フランス・スイス2017年

前作「レバノン」はなかなかの衝撃作だったので、期待して行った。

三幕物みたいな構成になっている。
冒頭、兵役(イスラエル軍)に行っている息子が死亡したという通知を両親が受け取る。いきなり母親が倒れて、それ以後の場面は見てて非常に気分が悪いものだった。
通知を持ってきたのも若い軍人なのだが、ぶっ倒れてヒクヒクしている母親を勝手に寝室に引きずっていく(どうして寝室の位置が分かるの?)。夫に何も聞かずにいきなり勝手に注射を打つ(普通、アレルギーあるかとかダンナに聞くよね)。その他色々あり。

こんな乱暴なのがイスラエル軍の通常のやり口でそれを批判してるのか、それとも監督がわざとそのように描いているのか、画面を見ているだけでは判断できない。

続いて「第2幕」は時間が戻って息子の軍隊生活が舞台となる。その任務が荒野のど真ん中、一本道の検問所で通行車をチェックするだけで、退屈極まりない。
この部分は、同じく波風一つ立たない静かな戦場を描いた前作を思わせる不条理さである。ここまでダラダラと退屈な任務だと、通行者に嫌がらせするぐらいしか楽しみはない。
荒野と空、トレーラーなどの色彩の対比が美しい。

3幕目はまた家族の家に戻る。お決まりの和解劇である。正直なところ、もうこういうのは(人間関係を壊して→くっ付ける)いい加減にしてほしいと思った。グダグダした作りで眠くなってしまい、蛇足としか思えなかった。

どうせなら、面白かった2幕目だけでやってくれればよかったのに。
父親の職業は建築家という設定で、住んでるアパートが心象風景と一致しているというの点はかなりズビャギンツェフっぽかった。
ただ、父親を辛辣に描いたアニメを挿入したのは、全体からみると唐突で意味不明。結局何を描きたかったのか最後までよく分からなかった。
これがヴェネチア国際映画祭で高評価なのかと疑問に思った。


全くの余談だが、日本で徴兵制が行なわれない理由として「現代の兵士には専門的技術が必要だから、一般の人間じゃ役に立たない」というのを見かけたのだが、検問みたいな任務なら専門技術って要らないんじゃないの(?_?)


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2018年12月 3日 (月)

「バッド・ジーニアス 危険な天才たち」:ノー・モア・チャンス 試験戦線異状あり

監督:ナタウット・プーンピリヤ
出演:チュティモン・ジョンジャルーンスックジン
タイ2017年

珍しやタイ製映画である。もっともこの少し前に、象を連れて歩く男の映画(やはりタイ作品)をやっていたので、そんなに珍しくないのか。(本作で父親役をやっている人が主演)
しかも、あらすじだけ聞いたらどこの国の映画でもおかしくはない内容である。それどころか一見しただけではどこかも分からない無国籍ぶりになっている。

頭は非常に良いが家は裕福ではない少女が、特待生となって金持ちの子弟ばかりの進学校に入る。ここで良い成績を取れば海外留学できる資格を得られるのだ。
なんたる皮肉なことか金がなければ頭が良くて勉強がいくらできようと、学問の道には進めない。一方で、財力もあり親から「勉強して良い大学へ行け」と言われる子どもは学問にも自分の未来にも全く興味はない。 

主人公は出来の悪い同級生やそのボーイフレンドに試験中に答えを教えてやり、さらに他の成績不良の生徒相手にビジネスとして逆カンニングすることになる。
そこにもう一人やはり同じく貧しい特待生の男子が登場する。

真に貧富や階級の差を背景に、持つ者と持たざる者をシビアに描いた作品である。しかも、着想やカンニング場面のハラドキ具合はサスペンスものとしてもかなりな出来だ。

ただ、この逆カンニングは最前列に座った者には使えないのではないかという疑問が頭から離れなかった。それと留学試験の監視員がまるでターミネーターみたいにコワくて思わず笑ってしまった。
その後半のカンニングのシステムはかなり大掛かりでよく考えられている。それを考えたのは友人とBFなんだけど、そんな知恵があるなら別に進学しなくても起業家としてやっていけるんじゃないの(^^?)なんて思っちゃった。

中心となる4人を演じる若い役者たちがルックスも良ければ演技も良し 特にヒロインのチュティモン・ジョンジャルーンスックジンはモデルもやってるそうで、柳のような長身。しかもキリッとしている。街を歩いていたら思わず振り返っちゃう。
それと友人役の女の子も、若い頃の薬師丸ひろ子っぽい可愛さ。作中では私、頭悪いし~とか言ってる役柄だが、こちらも勉強よりアイドル養成学校に行ってスタアを目指せ、と言いたくなるぐらいだ。

お見それしましたタイ映画(^^ゞ 世の中が不公平なのは万国共通、沈む者は永遠に沈みっぱなしで這い上がれないというのが身にしみた。
ラストの「校歌」には爆笑してしまった。
欠点は、音がデカ過ぎること。音楽や打ち込みの効果音みたいなノイズ自体はいいんだけど、ちとうるさかったですよ。あともう少し短く編集してくれればよかったんだけどねえ……。

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