アニメ・コミック

2020年3月17日 (火)

「薔薇はシュラバで生まれる」

200317 70年代少女まんがアシスタント奮闘記
著者:笹生那実
イースト・プレス2019年
→A5判だけど装丁はコミックス仕様。

1970年代に少女マンガ家たちのアシスタントをした経験を綴った回想録マンガである。数々の名作誕生に立ち会った体験は貴重なものだ。
一番多く登場するのは美内すずえ、そしてくらもちふさこ、樹村みのり、三原順、山岸凉子などなど。それぞれのマンガ家の顔がその作風のタッチで描かれているのが面白い。
他にも綺羅星のごとく当時のマンガ家たち(私も愛読しておりました)の名が方々に登場する。

迫る締切にカンヅメで不眠不休食事もせず風呂も入らずというような描写から、シュラバの定番「コワイ話」もあり。ただ、さすがに男性のマンガ家みたいに窓から逃げ出したというような逸話はない。

個人的には樹村みのりが作品そのまんまの人物なのに感動。真面目かつ頼りになる人柄ですね✨ 三原順は人物像を全く知らなかったので、これまた感慨深かった。
名編集者の小長井氏は、二年前に一度持ち込みをして作品を見せた著者に「何してんですか?」と電話をかけてきたという。こまめに新人フォローしてたんだなと感心。

意外だったのは、あの『天人唐草』は「青春もの」をという依頼で描かれたという! ええーっ、あの恐ろしい話が青春……(>y<;) さらにその後日談はファンには感慨深い。
そして、『ガラかめ』月影先生の(一張羅の?)黒服は作者も「暑そう」と思いつつ描いていた。いや、美内先生たまには涼やかな白の夏服を月影先生に着せてくださいよ~💨
などなど驚くエピソード多数であった。

当時の少女マンガの愛好者、興味のある人は読んで損なしだろう。特に同時代の読者なら感動の涙は必至。
しかし、マンガ描くのもデジタル化した今は、もうシュラバ(場所としての)は存在しないんですねえ。

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2020年1月22日 (水)

「ナウシカ考 風の谷の黙示録」

200122a 著者:赤坂憲雄
岩波書店2019年

マンガ版の『風の谷のナウシカ』を民俗学の立場から俯瞰する解読の書である。論が進むにつれ著者の専門分野を飛び出し、宗教や文学のフィールドも巻き込んで読んでいく。それゆえ、現在マンガ批評の主流である絵柄やコマ割りからの分析はほとんどない。
結末に至るまでかなり詳細に紹介してあるので、マンガ読了者のみにオススメする。

アニメしか見ていないという人は多いだろうが、マンガ版は全7巻。連載途中でアニメ化されたために2巻目の途中までの内容しか入っていない。当然、結末は異なるし「青き衣」の意味も違ってくる。
マンガ後半で登場する人物もいて、クシャナなどは性格も設定も異なる。(赤坂憲雄はアニメのクシャナは『もののけ姫』のエボシ御前に近いと述べている)

途中までは過去にも書かれてきたディストピアSF、エコロジーSFの系列かと思って読んでいたが、結末に至って「えええーっ」と仰天した。それまでのSFにおける《常識》を完全にひっくり返すものだったからだ。
アニメとマンガは似て非なるものと言ってよいだろう。

この論はその結末の読解への導入として、新聞連載されたマンガ『砂漠の民』と絵物語『シュナの旅』の紹介・比較から始まる。昔、新聞連載のマンガなんて描いていたとは知らなかった。

これまで何度となくマンガ版を繰り返し読んでいたが、今まで謎だったことが幾つか理解できた。
ナウシカはなぜ過剰なまでに「母」なのか。
どうして彼女の発する破壊と混沌の匂いに、みな惹かれてついていくのか。
全てが終わった後に指導者ではなく、無名の人となって消えたのはなぜか。

それ以外にも色々と注目すべき指摘がある。

ナウシカはあくまで「族長」であり、「王」ではない。
他の宮崎作品でも同様に「母の不在」が見られる→『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』『魔女の宅急便』『もののけ姫」『千と千尋の神隠し』。「不在の母がナウシカ的世界を覆い尽くしている」と。
文字で騙られる歴史によって搾取と支配が繰り返される。
……などなど。

最終章は原作のストーリーに沿って「シュナの庭」の主と「シュナの墓所」の主との対話(対決)について論じている。
ここで改めてマンガの「庭」を見てみると、美しい自然・清浄な空気・澄んだ空と陽光・穏やかな耕作地などが描かれている。さらにどうしようもなく下劣で愚かな人物であったクシャナの兄たちが、この地に入ると全てを忘却し、一転して教養あふれる芸術家に変貌するという不思議なことが起こるのだった。

しかし赤塚が指摘するように、そのような楽園の陰には支配と搾取のシステムがセットで存在するのだ。加えて生のエネルギーを甚だしく欠いた世界でもある。
そして善と悪の二元論的な戦いと黙示録的終末観を否定する物語として提示し、読解の手がかりを残して論を終了する。実に説得力ある論考である。そして猛烈にマンガ版を読み返したくなった。

難点をあげると、繰り返しが多いのが気になる(特に後半)。原作のセリフを引用し、それを著者自身の言葉で書き直し、さらに解釈を付け加えている。しかも同じ箇所が数回出て来たりするのだ。
それから、途中に「ウィキペディアで調べると--」みたいな部分がありガクッ💨となってしまった。せめて図書館で専門辞典の類を使ってくだせえ。

さて、冒頭に「関連年表」がある。それを見ると、宮崎駿はマンガ版を連載しつつ並行してその12年間にアニメ版『ナウシカ』と『ラピュタ』『トトロ』『魔女宅』『紅の豚』を作っているのだ……ハヤオ、恐ろしい子❗


以下は、『ナウシカ考』を経て再読してみたマンガ版の感想である。(ネタバレあり)

『ナウシカ考』でも詳しく考察された「シュナの庭」と「シュナの墓所」(の主との対話)--最初読んだ時、特に前者の地についてなぜナウシカがこれを否定するのか私には全く理解できなかった。最終戦争で汚染された世界を清浄化し、美しい場所で学芸を愛する人々が穏やかに暮らす。そのような未来世界が保証されているのなら結構なことではないか。なぜそれを妨げるのか。
そして実際彼女は「墓所」へ行って破壊を選択する。その瞬間も「自分の罪深さにおののきます」と自覚してやっているのだ。

それまでのSFの常識だったら、破壊された世界を元に戻すシステムが確保されていたことが判明してメデタシメデタシとなるはずなのに、完全に逆である。この行為はどうにも解せない。

ところで、先日TVを見ていたら皇居のニュースをやっていた。
映像で見ると都心にまっただ中にありながら、美しい草木に溢れ小動物が生息し穏やかな陽光が降り注ぐ、まさに庭である。
私はその時に「シュナの庭」とはこのような場所であろうかと思い至った。

考えてみればそこに住む人々もよく似ている。
ナウシカと「庭」の主との対話ではこのように語られている。「汚染されていない 動植物の原種 農作物 音楽と詩 それらを生きたままで伝えていく 客人とヒドラ……」

皇族は歌会を催し、文学について語り、クラシック音楽をたしなみ、歴史や環境について研究し、さらに儀式的な農作業(稲作や養蚕)を行う。
一方そこには工業技術に関するものは見当たらないようである。(奇しくもナウシカは「工房の技や知識」が「庭」に欠けていることを指摘している)

しかしひとたび皇居の外に出れば、そこは美とも平穏とも優雅ともかけ離れた都会が広がる。加えて、老後に二千万円貯めておかなければ生きていけない自己責任論はびこる殺伐とした世界である。
『ナウシカ』においても「庭」の外は荒野である。マスク無しに暮らせる土地でも子どもは育たず人口が減り、「森」の厳しい生態系の中では人間は一瞬たりとも生きられない。
このように二つの庭は似通っていて、「墓所」の主の計画した未来をどのようなものか考えるようとすると、皇居のありようが参考になる。

ここで人間は、皇族のように穏やかで優雅な暮らしを選ぶか、それとも過酷な生態系の中で容赦のない弱肉強食の生活をするか、秤に掛けて、どちらかを選ばなければならない。
普通ならば前者?……がしかし、ナウシカは後者を選んだ。それも人類の未来なのに一人で勝手に決めたのだ。果たして彼女にそのような資格があるのだろうか。

今回読み直して初めて気付いたのだが、ナウシカがかつての初代神聖皇帝と同じだと自ら認識する場面が2カ所ほどある。皇帝は世を救おうとヒドラを連れて「庭」から出て行くが、その姿は彼女が巡り会った者たちを引き連れて進みつつある状況と、明らかに重ね合わされている。
逆に言えば、彼女が「救世主」たる資格を持っていることも示す(「墓」でそのように認識される場面あり)。
結局彼女は救世主であることを否定し、それまでの救世主と正反対の行為を行うのだ。

そこで、いつも連想するのが光瀬龍のSFである。多分『たそがれに還る』かと記憶しているが、乗組員が誰もいない宇宙船の中で人々のデータを記録したカードが発見される。いつかそのデータが復元され生き返ることを期待してのことだ。
しかし驚いたことに、主人公はそのカード群を躊躇することなく踏みにじって捨ててしまう。そのようにものは生に値せず、そうまでして自らを残そうとするのは浅ましいと見なしてだろうか。光瀬龍は確か同じモチーフを宇宙年代記の短編でも使っており、強くこだわりを持っていたに違いない。

現在のSFでは彼のこのような考えは古くさいとされている。『攻殻機動隊』のように人格がデータとなってネットの海に漂っているような世界では、紙のカードであろうとデータ化されていれば復元できるのだから、生き続けているとみなされるだろう。

だが私は、データ化したカードを踏みにじる行為とナウシカが「墓」で行なった破壊は極めて似ていると思う。作者二人の年齢差は十数年のようだが共に戦前生まれだ。単に旧弊ということではなく「生」についての認識が通ずる所があるのではないか。


ついでに、もう一つ別の観点から見直してみよう。トルメキアが近世ヨーロッパの絶対王政を模しているなら、土着の原始宗教を駆逐した土鬼帝国はさしずめ近現代中国か(ヒドラを連れて改革を行なった初代皇帝は毛沢東?) とすれば海に近く大国の狭間で独立する風の谷は、宮崎駿が理想とする日本の姿なのか。
やはりハヤオ、恐ろしい子💥……なのである(;^_^A

200122b ←マンガの第7巻から当時の挟み込みチラシが出てきた。なお裏側は『平成狸合戦ぽんぽこ』のビデオ(12800円!)の広告。

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2019年8月 4日 (日)

「塩田千春展 魂がふるえる」:作品の糸はどこに

190804a 会場:森美術館
2019年6月20日~10月27日

夏休み期間に入ると会場の六本木ヒルズは混雑するだろうということで、その前に素早く見てきた。
チラシにも使われている赤い糸と鉄枠のボート、黒い糸と焼け焦げたピアノと木の椅子、つり下がった旅行鞄の群れなど大規模インスタレーションが目を奪う。
写真などで見るとやや重々しい印象を感じるが、実際に見るとそんなことはなく軽やかであっさりしていた。個人的には重くてどんよりしているものが好きなので、その点ではやや期待からずれていた。
以前評判になった《巨大な泥まみれの服を水が洗う》系の作品はなかった。見てみたかったけど……。一方、初期作品は《自分をいぢめる》系のパフォーマンスだったのか。映像になって残っていて、見てると苦しい。

中程度の大きさの作品で「ふたつのドレス」というのが面白かった。枠の中に二着の同じドレスが下がっているのだが、鏡が真ん中に入っていて、どこからどこまでが実物なのか鏡像なのかじっと眺めていてもよく分からない。ふと気付くと自分の姿が写っている。
舞台美術もかなり担当しているようで、海外だけでなく日本の新国立劇場のオペラもやっていた。

今時の美術展は撮影可能かどうかハッキリ明示するのが普通らしい。ここでも会場図を配って禁止の場所を知らせていた。
映像作品以外は撮影可能(9割以上OKだった)なのはいいけど、他人のカメラに入らないように鑑賞するのが一苦労である。
焦げたピアノをずっと何枚も撮ってる人がいたので、そこに近寄って見られない。宙づりトランクの展示室では、部屋の端から反対側の端に立ってる連れの女の子をずーっと撮ってる人がいて、その前を通らずには奥へ進めない。
どうやって通過したらええんじゃよ(`´メ) ちょっと腹が立った。

撮影に夢中になって、背負ったリュックが作品の糸に引っかかりそうになった人を見かけた。スタッフが必死に監視していたけど、土日曜とか混雑する時はかなり危ないように思えた。

私が行った時点では、図録がまだ出来てなくて予約のみになっていた。それなのに作品リストの配布も無し(撮影禁止場所の案内図は配ったのに)とはあんまりである。
ボルタンスキー展ではちゃんと作品リスト配ってくれたのにさ。これが国立と民間の違いか。
とはいえ同じ六本木で同時期にボルタンスキーと塩田千春を見られるとは幸運✨である。一日に双方を見て回ると面白いかもしれない。(あきらかにボルタンスキーっぽい作品もあった)

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ついでに隣の展望台フロアでやってる「PIXERのひみつ展」にも入った。コンセプトは以前に東京都現代美術館での展覧会で展示していた様々な技法を、解説部分を簡略化して実際に映像を操作して遊べるというもの。
私もいくつかやってみましたよ。素人や子ども対象のものなので、複雑なものはなかった。
この日は天気悪くて人が少なかったが、夏休みに入って家族連れが押しかけたらどうなるのかね。操作台は順番待ちになっちゃうのか。

客のほとんどは若いカップルか友人同士。中高年で来ているのは私だけ(周囲の展望窓を見ている人はいた)だし、一人で操作してたのも私だけだった(^0^;)ナハハ
でも頑張ってグッズ売場にも突入したぞ。若いおかーさんが小さい子そっちのけで、両手いっぱいに細々したグッズを抱えていた。購入用のバスケットありますよ(^^) 多分、ピクサー見て育った世代。きっと自分用ですね🎵

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2018年8月27日 (月)

「白暮のクロニクル」1~11巻

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著者:ゆうきまさみ
小学館(ビッグ コミックス)2014~17年

歴史の陰で連綿と生きてきた謎の種属がいた--というのはSFやファンタジーではさほど珍しい設定ではない。ましてや、それが吸血鬼に似ているとなれば、である。

オキナガ(息長)とは不老不死、太陽光に弱く、主に生肉を食し、ごくたま~に吸血することもあるが、彼らが仲間を増やすのはむしろ自らの血を相手に与える行為によるのだ。日本に10万人程度在住、長いものでは千年以上生きている者もいるという。
彼らはその存在を古くから知られ、現在の日本では登録されて厚労省の管理下にあるのだった。

で、オキナガを管轄する部署に配属された新人公務員伏木あかりは、一見18歳の若者、実年齢は88歳の魁と共に、オキナガ周辺に起こる怪事件の解明に関わることになる。

各巻ほぼ一つの事件が起こり、それが解決される過程には謎解きミステリーの面白さがある。しかも、巻が進むにつれて主軸となる連続殺人事件が浮かび上がってくるという、凝った構成である。
さらに、ハラドキ感満載のサスペンス展開に続き、最終巻まで読み進んだ時にはアッと驚く意外な真相にたどり着く。これは、ほとんどの読者に予想が付かないのは間違いないだろう。

また、この手の物語だと謎の種族の設定の説明だけでページを費やし、特殊な設定がさらに別の設定を呼ぶみたいな事態になることが多いが、そういう混乱もない。

加えて、時々に現われる回想場面に伴って日本の歴史の実相が見え隠れする。応仁の乱、キリシタン弾圧、太平洋戦争の沖縄戦……そして、主人公の魁が受ける人体実験は731部隊を想起させるのだ。
彼が追う連続殺人で冤罪により死刑になったエピソードも、実際の同じような事件がモデルだろう。

また、終盤には戦争直後の浮浪児となった戦争孤児たちが登場する。ちょうど最終巻を読んだ同時期に、新聞記事で「狩り込み」という行政による浮浪児の強制収容が行なわれたという話が載っていた。上野駅で捕まえた子どもたちをトラックに乗せて、なんとそのまま山奥に捨ててきたというのだ! 野良犬猫扱い 恐ろしい事である。
一方で、作者は真珠湾攻撃のニュースを聞いて喜ぶ市民(主人公を含む)の姿も忌憚なく描くのも忘れていない。
そこに存在するのは陽光の下にはさらせない歴史の暗黒面だ。

死にかけた人間に血を与えることによってのみ仲間が増えるというオキナガとは、すなわち日本の歴史の血にまみれた暴力による暗部と共に連綿と生きてきた、それを象徴する存在である。陽の当たる表には出られないのも当然と言えるだろう。
それを考えると千六百年も「宮仕え」してきたという、あかりの上司・竹之内の人物造形も興味深い。

こう書くといかにも重苦しいシリアスな作品だと思えるが、全体のタッチはあくまでもユーモラスなのだから恐れ入る。エンタテインメント性も完璧だ。
特に笑っちゃったのは、3巻に登場するオキナガの画家。狩野派から始まって浮世絵、西洋画と三百年間もその時々の「先端」を描いてきた--ってスゴイことではないの。
逆にシンミリしたのは、母親がオキナガになっちゃって娘だけがどんどん歳を取ってしまったエピソード。娘の方は今にも倒れそうな老人なのに、母はいつまでも若いままなのである。

とにかく、これは超力技作品と太鼓判をドンと押したい。
願わくば、復帰したあかり&魁の凸凹コンビによる怪事件捜査ものというスピンオフを描いてもらえんかなあ。新作始まっちゃったから無理だろうけど(ーー;)


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2017年3月27日 (月)

王妃マルゴとジャンヌ・ダルク

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しばらく前に萩尾望都の『王妃マルゴ』第5巻(集英社)と山岸凉子の『レベレーション -啓示-』第2巻(講談社)が前後して刊行された。
扱っている時代は異なるとはいえ、同い年の二人がフランスを舞台にした歴史物(しかも宗教がらみの)を同時に描いているというのは興味深いことである。

『マルゴ』では遂にサン・バルテルミーの虐殺が勃発。プロテスタント側の死体がゴロゴロと……。
たまたま1995年のフランス映画『王妃マルゴ』をケーブルTVでやっていたので見てみたら、似ている場面がかなりあった。もっとも、両者とも同じ資料(絵画など)を使っている結果なのかもしれない。
マルゴがナヴァル公アンリとの結婚式でなかなか「はい」と答えないので、弟のアンリが後ろから彼女を背後からどついて返事したことにしてしまう--というギャグみたいな話が双方とも出てくるのだが、これって史実なのかね? ビックリである

実はこの映画、私は公開時に見ているのだが、その時は誰が誰やら人間関係がさっぱり分からなかったように記憶している。今は萩尾作品を読んでるからようやく分かった
逆に言えば、複雑な宮廷の人間関係--縁戚関係に加え宗教上の関係が入り乱れているのを萩尾望都はよく描いているということになる。
画的にも極めてエネルギッシュでパワーがコマから溢れているのだった。同世代の女性マンガ家では一番精力的に活動していると言ってよいだろう。

ただ、問題なのは私にはどうもマルゴという主人公が何を考えているのかよく分からないのだ。王女に生まれついたけど、中身は愛を求める普通の女性ということなのかね。むむむ……(=_=)

フランスの古楽グループ、デュース・メモワールのCDにデュ・コーロワ作品集があって、この中に入っている「フランス王のためのレクイエム」というのが、よくよく見ると(ナヴァル公の方の)アンリ4世の葬儀用だったのだ(!o!) 美しいポリフォニーによる合唱や管楽器合奏が再現されていて、なんと僧正の説教まで入っている。
付録のブックレットには当時の絵画・風俗画、豪華な装飾品や剣、さらにはアンリが暗殺された時に乗っていた馬車の写真まで掲載されている。


ジャンヌ・ダルクを少女時代から描いた『レベレーション』は、1巻目ではどうなることか(-o-;)ハラハラ、山岸凉子老いたりなどと思ってしまったが、2巻目ではようやく面白くなってきた。
ここではジャンヌが男装してオルレアンに向かうところまで来たが、物語自体は処刑場に向かう彼女が回想するという設定になっている。神の声を直接に聞いた彼女がどのように神から見放される(?)に至ったのか--早く知りた~い(>O<)が、先はまだ長い。

歳取ってきて視力など色々衰えてきたので、編集部に頼んで隔月連載にしてもらった、とインタビューで山岸凉子自身が語っていたので、ますます時間がかかるだろう。
こちらは精力的に毎月連載を続けている萩尾望都に、「隔月連載って、残りの一か月は何をやっているの!」と言われたという話には笑ってしまった。

以前ネットで、ベテランマンガ家が歴史物を書くのは歳くって「現在」の話を描けなくなったためであり、それは後退だ、というような意見を見かけた。しかし、文学の世界に目を転じれば、高校生でデビューして文学賞取ったような作家が、延々と高校生を主人公にした話を書いているなんてことはない。歳相応に夫婦関係の話になったり子どもネタが出てきたりする。(しまいには若いモンに毒づいたりすることも)
それを思えば描き手も読み手も年齢層が広がっているのだから、「若い子」の話ばかり書き続けるのが少女マンガ家の使命ではあるまいよ。(その点、吉田秋生なんか常に現役だから感心するが)

むしろ感じたのは、二人とも昔から描き続けているテーマをここでもやはり取り上げていることである。時は移り変われども、これはもう執念としか言いようがない。
『マルゴ』では、当然ながら作者がこだわり続けてきた恐ろしい「母」の存在である。マルゴの母カトリーヌ・ド・メディチ、強大な支配者にして策謀家である。その前には娘の生命さえどうでもよいのだ。
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『レベレーション』を読んで初めて気付いたのは、山岸凉子は常に天才あるいは特殊な能力を持った人物が集団(共同体)のヒエラルキーの中でどう生きていくのか--を描き続けてきたということだ。そしてある者は成功し能力を発揮するが、またある者は挫折する。それは『アラベスク』の頃から一貫したテーマである。
ただ、かつては「従者」となる人物がいたのだが、近年の作品ではそういう人物は登場していないようだ。

いずれにしても「三つ子のテーマ百までも」とはこのことか。両者とも今後の展開が楽しみである。

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2016年5月23日 (月)

ピクサー展

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会場:東京都現代美術館
2016年3月5日~5月29日

3月中に行けばよかったのに、結局時間が取れず5月になってしまったピクサー展。休日はかなり混んでいるというので(もちろん若冲展レベルではないが)平日に休みを取れる日に行ってきた。お子ちゃまは当然いないのですいているだろう……と思ったのだ。
この東京都現代美術館も久し振り。6年ぐらい行ってないか? 周囲はモロ下町だったのが、こじゃれた店が増えている。

さて、確かにすいてはいた。並ばずに直に入れた。お子ちゃまはいなかった(*^^)v
代わりに若い学生がいっぱいいた(!o!) 6割以上が女子だった。デート風のカップルもかなりいた。
私ぐらいの年齢の人間は、娘に連れられてきたとおぼしき中年の母親2名を見かけたのみ。オヤヂに至ってはゼロ名であった。中高年男性は興味ないのか?

内容はさすが現美というだけあって、ピクサーといってもお子ちゃま向けでは全くなく、クリエーターやデザイナーを目指す人にはさぞ参考になるであろうようなものだった。
ピクサーの歴史を簡単におさらいして、各作品ごとにスケッチ、ドローイング、カラースクリプトという色彩を確認する連続画から、CGの制作工程を見せる映像まで。設定を確認するためのキャラクターのフィギュアなんてのもあった。
また、各部門のクリエイターたちのインタビューも相当数流されている。
すべてビジュアル部門に関して限定されていて、演出や脚本についてはわざと除外してあるもよう。

膨大な枚数のカラースクリプトや、一つのキャラクターの検討に8週間かけたなんてインタビューを聞いていると、これだけの時間と物量と人員を投入してこそ、あれだけの作品ができあがるのだなあと身にしみるのであった。
『カーズ 2』に登場するグランプリ場面一つにどれだけ手間をかけているかを紹介するモニター映像があって、ビックリ&感心してしまった。

作品映像は本当に初期の作品(電気スタンド親子のショートアニメあり)、劇場で長編作品の前にかかる短編、「アートスケープ」という大型スクリーンで見る過去作品のイメージ映像(キャラクターは出てこない)があった。

短編についてはラセターご当人が作っていた初期作品の3つがやっぱり非常に面白かった。どれも2分間の作品だが、その中にユーモア、ウィットが詰め込まれそして最後には人生の悲哀(「人」じゃなくて「物」だけど)まで感じさせる。
特にスノードームのやつ(タイトル忘れた)はストーリーが逆転逆転また逆転、よくも考え付くものだ。場内からはしきりに笑いが起こっていた。
それに比べると近年の短編は、時間は長いけど中身は……。

やはり才能のある人はジャンルとかメディアとか関係なく、本当に【才能】というのがデーンとあるんだなと感じた次第である。

また、アニメーションの元祖ゾートロープでは「トイ・ストーリー」のキャラクターたちが高速回転して浮かび上がり、客から思わず歓声が上がっていた。

私は3時間弱で見たが、全部のインタビュー映像などを見ていくともっとかかってしまうに違いない。
展示場所は細かくパーティションなどで細かく区分けされていたが、細かすぎて大勢の観覧者には対応できないだろうと思った。
また、作品の上映室は広い部屋の前方にベンチが数個置いてあるだけで、現代アートの映像ならいいだろうが、多数の人間が立ち見するとなると不向きだろう。

グッズ売場では、若いコをかき分けてオバハンは奮闘! メモ帳と定期入れをゲットした。クリアファイルは色んなのが家にたくさんあるし、Tシャツは着る機会がないだろうし、トートバッグは5千円近いのであきらめた。

正直疲れ切って常設展や、一部で話題となっている併設の「キセイノセイキ」を見る力は残ってなかった。やはり歳か……(;_;)


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2015年11月 8日 (日)

祝!第26巻発売記念「クリスタル・ドラゴン」全巻イッキ読み

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所沢でコンサートがあった帰り、航空公園駅の書店に寄ってみたら、あしべゆうほの『クリスタル・ドラゴン』(略称「クリドラ」)の新しい巻が平積みになっていて驚愕した。出るとは全く知らなかったからだ。別の書店を見た時はなかったのに……。さすが、やせても枯れてもH林堂である

帯には「7年ぶりの堂々復活!」と書かれている。
確か『悪魔の花嫁』(こちらの連載開始は『クリドラ』よりも早い)の続きを描くために中断していたはずだ。7年も経ってしまったのね。

で、買ってきた26巻を開いてみたのだが、話が全く分からない--というか、ほとんど何も覚えていないのであった。こりゃ、何巻か前から読み直さなくちゃダメだと思ったが、どうも数巻さかのぼったぐらいでは追いつかないような感じだ。
ええい<`ヘ´>それならいっそ最初から読み返してしまえいと思い立って、イッキ読みすることにしたのであった。

引っ張り出してきた第1巻、発行は1982年(昭和57年)だ 巻末にある同じ秋田書店のプリンセス・コミックスの広告には『アンジェリク』(木原敏江のだよね)が載ってて懐かしい。さらに『王家の紋章』がまだ9巻目までしか出ていない(!o!) なんてこったい。こりゃ大昔だ。

当時は『ロード・オブ・ザ・リング』の登場やRPGの隆盛などより遥か昔、ファンタジーなぞ一部の好事家にしか受け入れられてなかった時代である。このような正調ファンタジー(小説も含めて)を描いていたのは、他には中山星香ぐらいだろう。よくぞ連載が続いたもんである。
今考えてみると、半分歴史物の要素があったから一般の読者にも受け入れたのか、とも思う。

さて、主人公アリアンロッドの第1巻からの動きを辿ってみよう。(以下、軽いネタバレあり。地名は現代のもの)

アイルランド→ブリテン本島→(大陸への航路の途中でバイキングと)スカンジナビア→アイスランド?(竜の宝物庫へ)→フランス(巫女姫問題発現)→アルプス?(地下で「おっかさま」遭遇)→ローマ(剣闘士修行)→再びアルプス→(ドワーフ王出現して)地下

ローマの件りでは、なんと『テルマエ・ロマエ』よりはるか以前に公衆風呂を描いていたのが判明。ちゃんとヘラで垢をこそげ落としている。
このあたりまではよかったのだが、この後が時間空間が錯綜してくる。

過去の世界→世界樹(庭師出現)→水晶宮→ドワーフの国→海辺の町(行き倒れの女を救う)→常若の国→樫の巨木(小枝を得る)→再びドワーフの国→竜の夢の中

このあたりの一連のストーリーは、連続して読めばなんとか分かるけど、一巻一巻刊行されるたびに読み継いでた時には何が何だかさっぱり理解できなかった。ドワーフ王が与えた水晶の卵(状の物体)は結局何よ?
おまけに、アリアンロッドは子ども体型に戻ってしまい、やたらと高いところから落ちたり水に流されたりして、口から出る言葉は「ぎゃーっ」とか「あれっ」みたいな単語ばかりで、ロクな台詞がないのだ。

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で、晴れて26巻に到達したのだが、初期の濃い絵柄から変化してかなり「薄く」なっている。話を急いで進めるためなのか省略も多いようである。
それと、レギオンが○○○○○になってしまったのにはビックリした。誰がこんな展開を予想しようか。

とはいえ、再開はメデタイ ぜひこのままラストまで到達して欲しいものだ。

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2013年8月22日 (木)

「スティーブ・ジョブズ」第1巻

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著者:ヤマザキマリ
講談社2013年

W・アイザックソン原作のジョブズの伝記をヤマザキマリがマンガ化--と聴いた時は耳を疑った。全く両者に関連があるとは思えなかったからである。
もっとも、私はジョブズについては「アップル創ったえらい人」ぐらいの知識しかないのだが……(^^;ゞ

第1巻は子ども時代からS・ウォズニアックとの出会い、大学をドロップアウトしてアタリ社に入り、インド放浪までが描かれる。その合間に、アイザックソンとジョブズの回想と対話が挿入される。
つくづく、こんな人間が傍にいなくてヨカッタ\(^o^)/と思った。まあ、それが天才たる所以ではあろうが、歩く迷惑みたいな人である。
それにLSD、スピリチュアリズム、ドロップアウト、東洋主義--という、ある意味、当時の定型を通ってきた人なのね。

まあ、そういう人物を距離を置いて冷静に描いているマンガである。
絵のタッチについてはこれまでとは少し違う。「ヤマザキマリがここまでマンガがうまいとは思わなかった。すみません。」と漫棚通信さんがツイッターでつぶやいていたが、全くその通りである。
なお、米国では伝記映画も公開。さらに話題を呼ぶに違いない。

ただ、「ジャコモ・フォスカリ」の方はどうなるのだろうか。こちらも続きを読みたいのよん

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各章の終わりに、ヤマザキマリ個人の感想のようなひとコマ、ふたコマのマンガが付いていてこれが面白い。


←この子ども時代のジョブズがまるで「オーメン」のダミアンみたいな目つきなのが笑える。


【追記】漫棚通信さんの感想出ました。

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2013年7月 9日 (火)

「言霊」

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著者:山岸凉子
講談社2013年(KCデラックス)

職場の同僚にこれを貸したら、「『アラベスク』も『舞姫』もこのパターンだった!」と言って返してきた。
なるほど、才能の片鱗はあれど内向的なバレエ少女が主人公で、彼女を導くような男が登場して--というパターンは、舞台がどこであれ同じである。
この作品の主人公は東京周辺のバレエ・スクールに通う高校一年の少女である。本番時のメンタル面が弱いという設定だ。そこにドイツ留学が決まっている青年が出現する。

思い返してみると、『日出処の天子』は導いてくれる男と出会ったが、結局関係が破たんしてしまったという話ではあるな。橋本治はその人物を「従者」と定義していたが。

それにしても「乙女のロマンかと思っていたけど 本当にいたのね“白馬に乗った王子さま”」という台詞が出てくるんですけと……山岸先生、本当に王子様いるって信じていいんですかーっ(>O<)
ま、個人的には今さら王子様が現れてもな(-"-)

もう一つの中編「快談・怪談」はかなりの脱力系だった。

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2013年3月17日 (日)

「よつばと!」12巻

著者:あずまきよひこ
角川グループパブリッシング(電撃コミックス)2013年

以前から大きな事件などはほとんど起こらず、登場人物たちの日常を淡々と描いているだけだのマンガっぽかったが、この第12巻では本当に何も起こっていない!
ハロウィーンにお菓子を貰うとか、みんなでキャンプに行くというだけの話なのに、よくもまあここまで読ませるとは。驚きであり、そして感心した\(◎o◎)/!

それは、怒涛のようなストーリー展開とか波乱万丈でハラハラドキドキといったようなものに対するのとは全く異なった種類の感動だった。

ここに描かれているのは何一つ欠けるところのない全き世界である。思い煩うこともなく、苦しみも悲しみもない、永遠の日曜日だ。
純粋で輝く幸福感に満ちている。

小倉千加子の本だったか、人間が生きていく上にはそういう体験が一度でも必要なのだと読んだことがある。恐らくそれは、その時には分からなくて後になってあの瞬間がそうだったのだと気付くようなものなのだろう。
ここまで来ると、もはや涅槃の境地だろうか。

最終ページの最後のコマが印象的だが(私は見た瞬間、虚を突かれた)、その他にハロウィーンのエピソードの終わりも思わず見入ってしまった。お菓子を貰ったよつばが風香たちに挟まれて歩くシーンのコマが四つ、田の字に並んでいるだけだ。しかし、子どもの仕草の一瞬を完璧に、反復するそのコマの中に捉えている。ストーリー的には全く意味のない場面である。

別の意味でもう一つ気になるコマが……。ジャンボの花屋を訪ねたとーちゃんが花に埋もれているように描かれていたが、あれは何(^^?)
そういや、とーちゃんが実に父親らしいことをしている(添い寝とか)のも、なんだか感心してしまったよ。


ところでそれとは別に、よつばの正体は常にすご~く気になる。緑色の髪をした外人のような女の子で、本当は5歳なのに6歳だと思い込んでいる、とは何者だ?
これまで色々と考えた--。宇宙人の子どもか 謎の秘密組織によって生み出された植物人間か

今回思いついたのは「よつば桃娘」説である。
とーちゃんが南の島を放浪して海辺にたたずんでいると、海から巨大な桃がドンブラコッコと流れ着いた。彼は珍しい果物だと思って、日本に持って帰り田舎で引退生活を送る両親の所への手土産にする。
ばーちゃんが包丁で果物を割ると、中から緑色の髪の赤ん坊が出てきたのであった。
しかし、これだと出生届はどうしたのかという問題が生じる。
まだまだこの正体問題は検討中(^^ゞ

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