アニメ・コミック

2024年4月14日 (日)

「フキダシ論 マンガの声と身体」

240414 著者:細馬宏通
青土社2023年

「いろんな種類のフキダシが紹介されてる本だろう」と、気軽な本かと思って読み始めたら全く違っていた。マンガのフキダシがいかに読者の視覚を枠やコマを超えて導いていくかという考察なのだった。

コマ割りについてはこれまで色々と論じられてきて本も複数出ている。しかしそれとはまた異なるものだ。
一つのフキダシには話し手、その相手、語られる内容がおのおの存在する。しかもそれらが必ずしもコマ内に描かれているとは限らない。複雑に絡み合って紙面での展開を認知させていく。

よくよく考えるとそれを読み取るのはある種の能力である。マンガを読むことができないという人がいるのも納得だ。
三原順作品を分析した章があるが、フキダシと読み手の視線とさらには登場人物の視線が大胆に交錯しており目が回りそうだ。
翻って考えればマンガ家はそれだけ高度な作業を恐らくはほとんど無意識で行っている?ということだろうか。凡人には不可能なことである。

取り上げられているマンガは時代もジャンルも様々である。一番古いのは『のらくろ』だ。その中の一枚絵の分析には感心した。フキダシが時間と空間を構築する。

 

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2022年6月 9日 (木)

「シチリアを征服したクマ王国の物語」(字幕版):食われる前に騙れ

220609 監督:ロレンツォ・マトッティ
声の出演:レイラ・ベクティ
フランス・イタリア2019年

原作はイタリアの作家ブッツァーティの児童文学、フランス在住のイタリア人監督がアニメ化したものである(言語は仏語)。
見ればアッと驚くのはうけあい、とにかく物語も語り口も絵柄もぶっ飛んでいる。

町を回っては芝居を見せる旅芸人の老人と少女の二人組。一夜の寝床を求めて洞窟に入ると、巨大なクマが突如出現する。食われないために二人はクマが登場する持ちネタを必死で披露しようとする。
それは、クマの王の息子が人間にさらわれてしまい亡国の危機に陥る。そのため人間の支配するシチリアへと向かうという波乱万丈の物語だった。

独特の造形・色彩による自然描写に目を奪われる。全体のイメージもキリコのパロディあれば、戦争場面はロシア構成主義が元ネタだろうか。
雪玉を転がし幽霊と踊る。変なものが色々と登場し、イノシシ風船と化け猫には笑ってしまった。魔術師にシチリアの大公--人間も怪しいキャラに欠かない。
次々と起こる奇想天外⚡子どもが吹替版で見ればさぞ楽しいことだろう。

でも、お話の方は色々と含蓄がありそうで一筋縄ではいかぬ。語り手が変わると、当初予定されていた「本編」だけでは終わらない。語り方の巧みさが面白さを2割増ししているようだ。

後から知ったが、原作には少女(たち)は登場しないそうだ。また、後半の展開も映画のオリジナルらしい。どうりでなんとなく今どきのファンタジーぽい感じがした。
とはいえ、突飛な面白さは保証付き。82分という長さもちょうどよい。

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2022年3月14日 (月)

「ほんとうのピノッキオ」「ホフマニアダ ホフマンの物語」:よい子には見せられねえ~!古典名作映画化作品

「ほんとうのピノッキオ」
監督:マッテオ・ガローネ
出演:ロベルト・ベニーニ
イタリア2019年

「ホフマニアダ ホフマンの物語」
監督:スタニスラフ・ソコロフ
ロシア2018年
*TV録画視聴

よい子は絶対鑑賞禁止💥 悪い大人にだけ推奨の2作を紹介したい。

まず、最初は『ゴモラ』『ドッグマン』などのマッテオ・ガローネ監督が、自国の超有名童話を実写映画化した『ほんとうのピノッキオ』である。
「ピノキオ」といやあ誰でも知っているよ(^O^)bと言いたいが、実際に原作をちゃんと読んだ人は少ないのではないか。私も小さい頃に絵本で読んだ気がするが、ほとんど覚えてない。かろうじて記憶しているのは鼻がのびるところぐらいだ。

原作が出たのは19世紀末、その当時の社会をあくまでもリアルに小汚く描き、背景として奇想天外な教訓話が進行していく。
木片の時から暴れん坊(^^?なピノッキオは、作り主のジェペット爺さんが質入れして買ってくれた教科書を持って学校へ向かうはずが人形芝居小屋へ行ってしまう。
こりゃ、悪い子というよりは欲望と好奇心に素直に従って気まぐれに動いているような感じだ。おかげで波乱万丈な物語は紆余曲折して続くのであった。

その世界は醜悪で精緻、グロテスクと華麗さ、卑俗と潔癖が同居している。
子どもたちを集めて売り払う人さらい、厳しく代償を要求する雑貨屋、虐待と紙一重な体罰の学校などが登場するが、実際に当時存在したものだろう。
そんな写実の中にカタツムリの侍女(かなり不気味)、忠告・説教するコオロギ、サルの裁判官などどれも違和感なく溶け込んでいる。人形芝居の操り人形たちはあくまでも糸が付いたまま動くのだった(^▽^;)
最後はメデタシメデタシで終わるが、なんとなく湧き上がる「これでいいのか」感も含めて、まさにそのままの映画化といえる。

ただ、ワルモノのネコとキツネだけは人間っぽい外見なのはなぜなのだろうか。しかも、彼らの食い意地の迫力と終盤のヨレヨレと哀れな姿の描写は全くもって容赦がない。
なおピノッキオたちを海で助けるマグロ(?)には久しぶりに「人面魚」という言葉を思い出した(^^;;;コワイヨ~

ジェペット爺さん役は『ピノッキオ』にこだわりを持つロベルト・ベニーニ。なに、今年70歳だって? 若い💡

もうこの「ピノキオ」が本場もんで本命、これ以上のものはないっ❗……と断言したいところなのだが、ロバート・ゼメキス監督、爺さん役トム・ハンクスで映画化進行中らしい。(ただし、ディズニーなんで過激な描写は期待できず)
それどころか、ギレルモ・デル・トロもストップモーション・アニメ製作中だとか。
今なぜピノキオなのか? その謎を解くためにはさらにオタクの密林奥深く探検隊が進まねばなるまいよ。


ドイツの作家E・T・A・ホフマンというとオペラ『ホフマン物語』バレエや『くるみ割り人形』『コッペリア』で知られるのだが、そのどちらの世界にも疎いのでこれまで名前を聞いたぐらいだった。
『ホフマニアダ』は彼が夢想した物語群を、作者自身の境遇と共に映像化したロシア製ストップモーション・アニメである。
この手法は『ホフマン物語』と同じものらしいが、取り上げられている小説は異なるようだ。

しがない官吏生活に汲々とするホフマンは、歌劇場に就職を目指しつつ幻想的かつ悪夢的な物語を綴る--。
それらは彼自身を取り込んで、陰鬱な生活の周囲に万華鏡のように断片として散りばめられ、観る者を幻惑する。
その映像の印象はコワい・キモい・エロいの三拍子~🎵 こりゃ圧倒された。

特に「砂男」の部分はドロドロした悪夢のよう。映画館の大画面で観たら恐怖で震え上がりそうだ。良い子にはとても見せられねえ。夜中にうなされちゃう。
木の枝に絡んだヘビ娘の色気たっぷりの妖しい動きよ。見ていいのは悪い大人だけ!
渾身の力を込めて描かれたいかがわしさに感動するのは間違いない。

作ったのは老舗アニメスタジオだそうだけど、これからもプーチンの横暴に負けずエロくてコワい作品を出してほしい。

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2022年1月13日 (木)

「漫画家の自画像」

220113 著者:南信長
左右社2021年

本を開くまでは「ふむふむ、よくマンガ家が描いている自画像を見比べた本ね」と簡単に思っていた。しかし実際読んでみたらそんな単純なもんではなかった。

正確にはマンガで描かれたマンガ家について様々な角度から論じた書である。その多くは作品内で個性あるキャラクターとして活躍している。それをジャンル分けし、歴史をさかのぼり他作品と比較・分析する。

まずご本人が自分を描いたものがあれば、同じ人物を他のマンガ家から見たものもある。手塚治虫のように自作のフィクション内に登場させたり、ノンフィクションとしての自伝や評伝マンガの場合もある。私小説ならぬ私マンガ、埋め草的な近況報告、さらには独自ジャンルを形成するエッセーマンガも忘れてはならない。
小説だとここまでキャラクター化して作品内に出てくるのは珍しい。マンガの特性ゆえだろうか。

一方で、連載雑誌の目次や巻末コーナーに登場するワンカットの自画像、さらに過去にはスター・アイドルさながら本人が顔出しするリアル写真もあった。(当時は住所も平然と載ってましたな(^▽^;)
加えて、実在人物が登場するのではないが業界マンガにマンガ家マンガ、さらにマンガ家入門マンガなどなど、ネタは尽きず面白い。
おまけに年譜、系譜図、索引付きまで付いているではないか(!o!) 読み応えあり&資料としても役立つ。

ここまで広範囲に資料をさかのぼり調べるのは非常な苦労だっただろう。頭が下がっちゃうm(__)m
早速、とり・みきからSNSで「エッセーマンガを始めた時期は自分の方が早いのではないか」という意見が流れてきた。チェックが大変だ~👀

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2021年8月29日 (日)

【少女マンガ再読】「見えない秋」(樹村みのり)

210829 *初出「別冊少女コミック」誌1974年11月号、『ポケットの中の季節』第1巻(小学館フラワーコミックス1976年)所収

訳あって樹村みのりの古いコミックスを掘り返してチラ見していたら、思わずドトーのように涙を流してしまったのがこの短編である。

樹村みのりには「病気の日」という名短編があって、これは小学生の女の子が家で寝ていて「病気の日はちょっと楽しいな🎵」と思うという、ストーリー的にはただそれだけの作品なのだ。
この「見えない秋」も同じタイプで、同級生の突然の死を知った少女の心理をたどるだけで、やはり明確なストーリーはない。しかし同様に短編マンガとしての完成度は極めて高いものだ。

夏休みが終わって小学校に登校すると、担任の先生から同じクラスの少年の急な死が告げられる。

こんなふうにして その男の子は 突然みんなのあいだから いなくなってしまったのでした

主人公の少女は静かな少年の何気ない言葉や行動を何かと思い出す。それは他の子どもたちも目撃していたはずだが、実際覚えているのは彼女だけなのだ。
生の象徴である夏の終わりが近づくにつれ、忍び寄ってくる秋と同様に死もまた日常に潜んでいることを少女は感じ取る。それは根源的な恐怖と不安だ。

あんなにたしかだったことも 私が死んでしまうといっしょにうしなわれてしまうのでしょうか?

そして転校生がやってくる。その子は少年とは完全に正反対なのだが、空いていた少年の席に座ることになった。少女はそれを遠くから見守るだけ。もはや少年の存在の痕跡はどこにもない。
そして運動会の季節がやってくる。

俊足の転校生が走る徒競走、そしてくす玉割りをクライマックスとして、それまで少女の内心を代弁するように続いていた語りが突然変化する。

だから小さい子 こわがってはいけません おびえてしまってはいけません 死ぬことは死にまかせなさい

割れるくす玉に激しい生のエネルギーが重ね合わされる。そしてその後に付け加えられた転校生との短いエピソードによって、日常の生へと回帰していく。
このあたりの流れと構成は見事と言うしかない。コマ割りも素晴らしい。
夏休みに雲を追いかける光景に散りばめられた記憶、対比される秋口の路地の静けさ……。読者の視線の動きを完璧に計算しているとしか思えないようなページもある。

私はよく考えるのだが、このような巧みな表現はライター講座とかマンガ教室のような所で学べるものだろうか。おそらくは作者は本能で描いているのだろう。読むたびに感心するのだ。

言葉にもできぬもの、絵にも描けぬものを確実に表現する、そのような作品である。

樹村みのりは基本的に短編作家であり長編といっても1巻ぐらい。何十巻も続くようなものは描いていない。
やはりマンガの人気作とか代表作と言えばどうしても長尺な作品を思い浮かべてしまう。彼女のような短編作家は認められにくいだろう。残念である。

なお、彼女の作品は紙本は入手が難しいらしいが電子書籍では読めるようだ。

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2021年6月 3日 (木)

「レベレーション 啓示」/「王妃マルゴ」

「レベレーション 啓示」全6巻
著者:山岸凉子
小学館(モーニングKC)2015年~2020年

「王妃マルゴ」全8巻
著者:萩尾望都
集英社2013年~2020年

210603a フランスを舞台にした歴史マンガ二作について、いつか感想を書こうと思いつつここまで、引き延ばしてしまった。なんとか書いてみたい。

まずはジャンヌ・ダルクを主人公にした『レベレーション』である。
元々は「神がかった人間はどういうものなのか」を描きたいという動機があったとのことだ。候補は3人いたが「モーニング」連載の話があって、男性読者にウケるならジャンヌ・ダルクがいいかと選んだそうな。すると候補の他の二人は男ということになる。一体誰だったのか知りたくなる。

さらに毎月はキツイという理由で隔月連載にしてもらったら、同時期に『王妃マルゴ』を毎月連載中の萩尾望都から「隔月って、残りの一か月は一体何をしているの」と言われたとか(^▽^;)

山岸の長編作品の特徴として、社会や共同体の中で特異な能力を持った人物がその能力を発揮して成功する、あるいは失敗する過程を描くものが多い。この作品でもそれは同様である。
神の声を聞くという力に目覚めた「羊飼いの娘」ジャンヌは父親が持ってきた結婚話を拒否して、声に突き動かされ自ら複雑な政治的・宗教的対立の中に分け入っていく。女・農民・若年--とすべての面で当時の体制からは外れている存在であり、本来なら相手にされなくて当然だ。さらに男装しているとあれば異端でしかない。

その幻視能力、嫌がらせに近い審問や試練にも耐える機転、権威や権力を恐れず、そしてなにより強い信念により、軍隊を率いるまでになる。
しかし、その後に複数の勢力の思惑の中で孤立するのもまた信念の強さのためである。

フランスの領土を取り戻しシャルル7世の戴冠に大きく貢献したとあれば救国の英雄だろう。しかし、その彼女を最後に待ち構えていたのは44人のオヤジ(若い者もまざっているが)による異端審問であった……💣
それすなわち身分も地位もある高僧が字も読めぬ娘っ子をいぢめるという図に他ならない。

ジャンヌは回想の中で、故郷に帰り「羊飼いの娘」に戻る機会があったのに戻らなかったと認める。「正直今はパンをこねたり糸を紡ぐ自分は考えられない」と突き進んだのだと……。
「女に男の服を着られるだけで侮辱を感じる」という時代となれば、素朴な農民の娘から逸脱、どころか侵犯してきた男装の女戦士を社会は許すはずもなく、魔女と認定され火刑に処せられるしかない。
それでも、信念を貫き通した彼女にとっては悲劇ではなかった--と結末は訴える。そして、そこに中世からルネサンス期の狭間という大昔に生きた少女が今現在においても、生々しく立ち上がってくるのだった。

それにしても第1巻あたりの神の啓示場面は限りなくホラーに近い。夜中に見たら心臓に悪いぐらいである。さすが霊感を持つという山岸凉子💦と言いたくなるぐらいだ。


210603b さて『レベレーション』冒頭は1425年に始まり、1431年に終わる。当時の英仏絡んだ歴史的背景は複雑だが、カトリック×プロテスタントの宗教対立まで絡んでくる『王妃マルゴ』の背景も極めて複雑である。
こちらは130年ほど後、マルゴことマルグリット・ド・ヴァロワが6歳の時から始まる。ジャンヌが貧しい農民の娘なら、一方マルゴはフランス国王の美しい娘である。天と地ぐらいの差だ。
加えて政争と戦乱の中で62歳まで長生きしたというのもジャンヌと対照的である。

「一番ステキな夢は美しい王子様と結婚すること」と愛を夢見る少女のマルゴだったが、残念ながら王族の一人であるからそんな自由はない。初恋の相手とは引き離され、国家と宗教の間で政略結婚をさせられるのみ。
しかも肝心の結婚相手のアンリ(4世)はあらゆる意味で信頼できない男であった💢

さらに、その背後には恐ろしい猛母たるカトリーヌ・ド・メディチが存在する。息子たちを次々に王位につける中で隠然たる支配力を奮う。それは敵どころか自分の子どもでさえ暗殺することも辞さない、非常に恐ろしい母親である。読んでいてコワ過ぎて泣きそうなぐらいだ。
マルゴも自分の母親に殺されるのではないかと常に戦々恐々とする。この恐るべき母を描く萩尾望都の筆致は実に容赦がない。まさに真骨頂と言えるだろう。

その血で血を洗う複雑な勢力関係の荒波の中で、夢見る少女はやがて自らの美貌と肉体を武器にすることを辞さぬまでになる。
後世に彼女は「華麗なる恋愛遍歴」、別の言い方をすれば「淫乱」などと評されたようだ。しかしそのような人物像ではなく、作者は天寿を全うするまでただ一人の男への愛を貫いた純粋な女としての一代記を描いたのである。

この作品は驚いたことに萩尾望都の初の歴史ものだという。「ポー」シリーズなどで様々な時代を風俗にこだわって描いているので、てっきり歴史ものも描いていると思ったのだが違ったのね(;^ω^)
しかも最初の掲載誌が休刊になり、別の雑誌に引っ越し連載という災難にあった。そのせいか終盤が駆け足っぽくなってしまったのはちと残念である。


ベテランのマンガ家が二人揃ってフランス史に残る女性(しかし極めて対照的な)を描いたことは奇遇としか言いようがないが、その背後に存在するテーマは若い頃からこだわってきたものと不変であり、「三つ子の魂百までも」なのが読み取れる。
そして、自らの信仰と意志を貫き逸脱したジャンヌが二十歳前に早世し、身分と政治の境界の中で流されてサバイブしたマルゴが長生きしたというのも、何やらいつの世であっても変わらぬ女の行く末を描いているようだ。


210603c 【オマケ】
ついでに関連した音楽を紹介しよう。
ジャック・リヴェットが1994年に作った『ジャンヌ・ダルク』前・後編のサウンドトラック。音楽担当はジョルディ・サヴァールで、「ロム・アルメ」(武装した人)をモチーフに使い、当時の写本の曲、デュファイの作品、そしてサヴァールのオリジナル曲から構成されている。
公開当時、サンドリーヌ・ボヌールのジャンヌがナウシカみたいだと話題になった。ここにもハヤオの影響が(!o!)

210603d ルネサンス期作品をレパートリーとするデュース・メモワールによる、デュ・コーロワの作品集。彼はアンリ4世(マルゴの元夫)の宮廷楽団の音楽監督だった。
2枚組の片方に、暗殺にあったアンリ4世の葬儀で演奏された「国王のためのレクイエム」を収録している。(司祭の説教まで付いている)
演奏の水準は高く極めて美しく、何度でも聞きたくなる。
付属のブックレットには、暗殺時に乗っていたものとおぼしき国王の馬車の写真が載っている。実物が残ってるんでしょうか。

210603e

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2021年5月22日 (土)

今ひとたびの「一度きりの大泉の話」

210522 自分の感想を書いてから、他の人の評などを読んで思ったことを追加したい。

私は小学生低学年の頃は少女マンガをよく読んでいたが、その後は縁遠くなってしまった。萩尾望都を初めて読んだのは、高校の同じクラスでマン研に入っている子が「布教用」に持っている『ポー』や『トーマ』を貸してくれた時である。
家へ持って帰って読んでいたら、6歳上の兄も一緒になって読んで「すごい!」と興奮して、大学のマン研所属の友人に電話をかけ「遠藤周作とかヘッセみたいなんだ」(←兄が好きな作家)と力説した。もっともその人はマン研内でもエロ劇画専門だったので、今ひとつ反応は薄かったようだ。

その後、定期的に少女マンガ雑誌数種類を立ち読みするようにまでなった(昔は金はないが体力だけはあった)。
当時、『風と木の詩』は連載開始前から話題になっていて「遂に世に出るのか」「なんか過激らしい」みたいな噂が流れていた。まさに満を持して登場✨といった状況である。
雑誌が発売された時はいち早く本屋に行って、周囲に人がいないかキョロキョロと気にしつつドキドキして立ち読みした。

リアルタイムでは萩尾作品と似ているとは思わず、単にヨーロッパの男子校寄宿舎という設定がはやっているのだなあという感じで読んでいた。確か池田理代子(『オルフェウスの窓』第一部、か?)や坂田靖子も描いていたはずだ。
『小鳥の巣』はゴシックホラー、『トーマ』はミステリ志向であって、『風木』とはジャンルからして異なるという印象だった。

しかし後から考えてみると、竹宮惠子にとっては自分こそ少年愛の先駆者だ、先駆者たらねばならない⚡という強烈な自負があったに違いない。
その自負心の前では、当時だろうが現在だろうが「全く似てない」とか「盗作じゃない」などと他者が論じても意味はないのだ。
なんで『11月のギムナジウム』の時はOKだったのに『小鳥の巣』や『トーマ』になるとダメなのか(?_?)と問うても無駄である。

唯一で最高の作品を描くのは先駆者の彼女なのであり、だから全ての尺度は彼女が決めるのである。これはもはや論理ではない。自らを恃む強い意志と感情なのだろう。

さらに問題は、竹宮は萩尾を自分に脅威を与えるライバルと見なしたけど、萩尾の方は心強い「仲間」とか「同好の士」と思っていたのではないかということだ。

登山を引き合いに出してみると、同じ山頂をめざして山登りをする仲間なら競争ではないのだから足を引っ張り合うことなどはなく、個々人がただ黙々と進んでいけばいいだけである。
途中で別ルートに別れたり、道が交差したりもするし、道具や水筒を貸してやったりもするだろう。それぞれ躓いたり休んだり時間差も出るかもしれない。が、とりあえず登っていけばいい。

そう思って歩いていたら--突然に道の前に立ちはだかり「あんたは登ってくるな」と突き落とされたらどうなるだろうか。「な、なんで~?」と斜面を転がり落ちながら思うはずだ。

萩尾は『一度』の中で、これが狭い道一本しかなく一人しか選ばれないバレエの舞台とか、親から平等に扱われるはずの姉妹関係なら「嫉妬というのもわかる」と書いている。
しかし山頂は広くみんなに開かれていて誰でも登るのは可能ではなかったのか。
一緒に登っていたはずがいつ敵になってしまったのだろう。そもそも山頂は独占するような狭いものだったのかな。

他の感想を見ると「天才過ぎて竹宮の作品など相手にしなかった」さらには「見下していた」などという極端な解釈まであったが、そりゃ違うだろうと思う。「無神経で鈍感だから気付かなかった」に至ってはナニソレ┐( ̄ヘ ̄)┌である。

「仲間」と思っていれば、自分の所に送られてこない掲載誌や描いたクロッキーブックを見せてもらうのは普通だし、その他情報を共有したりお喋りしにいくのも当たり前のはずだ。
しかし「敵」だと思われていたらどうなるか。相手からは「邪魔」「鬱陶しい」「スパイか?」となるだろう。

少女マンガの仲間だと思っていたら「敵」だったというのがそもそもの食い違いであり、悲劇の始まりだったのではないか。そして、二人が別の人格である限りこれはどうにもしようがないことなのだ。


なお、独特の文体で書かれているために「幼い」などと見当はずれの形容をする意見も見たが、勘違いだろう。「事件」が起きた時は20代前半の若い子ではあっても現在はベテランの表現者である。回想の表現が整然としてなくても、至る所に「証拠はある」「文句があるなら毅然とした態度をとる」意志は感じさせるのよねえ。
いずれにせよ、今年最大の話題書の候補に入るだろう。

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2021年5月 8日 (土)

「一度きりの大泉の話」

210508a 著者:萩尾望都
河出書房新社2021年

(以下、全て敬称略)
発売前の告知だけで少女マンガ界隈が騒然となった手記である。
1970年秋から若い少女マンガ家(とその卵やファン)が集ったいわゆる「大泉サロン」については、半ば「伝説」と化していた。
近年、竹宮惠子がその時代を回顧した『少年の名はジルベール』(2016年)が出版された。さらにそれをふまえた上で他の資料・記録を検証し他のマンガの動向も合わせてまとめたのが中川右介『萩尾望都と竹宮惠子』(感想はこちら)である。
一方、これまで萩尾サイドからはまとまったものは何もなかった。

『少年』の趣旨は--増山法恵と少女マンガに革命を起こそうと誓い、その場所を作るため「トキワ荘」めざして増山の自宅のそばに家を借りた。
様々な人々が訪れたが、自身のスランプと萩尾の才能のプレッシャーのために精神と身体に不調が起きたので、大泉から去る。そして、拒否され続けてきたライフワーク『風と木の詩』の連載になんとかこぎつけることに成功した。

私はこれを発売してすぐ読んだ時、連載をこなし商業的に既に成功していたという印象が強い竹宮が、萩尾に対してそこまでプレッシャーとジェラシーを感じたというのが、ちょっと信じられず意外に感じた。
とはいえ「大泉」に関してはこのように述べている。

私たち三人が一緒に住んだ場所は、のちに1970年代少女マンガの基礎を築いた「大泉サロン」と言われるようになる。そこには、「24年組」と呼ばれることになる私たちの物語が詰まっている。

心身不調の中で去ったにしろ、極めて肯定的なとらえ方だ。

さて、そこで『一度きりの大泉の話』である。
これは衝撃的告白&告発の書だ。しかも過去に裁判沙汰になっても受けて立つことを考えたとまで書いてある。かなり不穏ではないか、ヒエーッ(>y<;)

回顧録の形を取っており、その内容をざっくりまとめると
・「少年愛」については増山が旗を振っていたけれど、自分は少年は好きだが少年愛には興味はない。
・「風木」の盗作疑惑で竹宮(&増山)からバッシングを受けた。疑惑は完全否定する。
・「大泉サロン」「花の24年組」は虚構。自分は関係ない。これからも関わりたくない。

最大の衝撃箇所は、その盗作疑惑宣告を受けた状況である。『少年』の中においては「萩尾に対し距離を置きたいと告げた」などと2行で終了している。しかし、こちらではその後萩尾はショックのあまり飲まず食わずで街中で倒れこみ、ストレスで眼が見えなくなったというのだ。
まさに「50年を経ても生々しいトラウマ記憶」(信田さよ子)ではないか。これほどの被害を受けたと訴えているからには、もはや牧歌的「大泉」観を漫然と受け入れるわけにはいかないだろう。

そういう意味では少女マンガ史を震撼させる内容だ。同時に個人としての告発本でもあるといえる。

以後、萩尾は竹宮本人と接触を断ちその作品も一切目にしていないという。『少年』発行時に本を送ってきたが封筒に触ることもできなかった。これこそトラウマの影響のように思える。
にも関わらず、『少年』の内容を念頭にした記述と思しきものが幾つか見られる。恐らく、マネージャーの城章子が概要を伝えたのだろうか(あくまでも推測です)。

両書で共通している部分。
・クロッキーブック(ノート)の使用について
これは一見マンガ家のアイデア発想法みたいだが、双方とも「ここに証拠は残っている」と言っているように思えるのはうがち過ぎか。

・『風木』と『小鳥の巣』『トーマの心臓』の発想時期
『少年』を再読して初めて気付いたのだが、「風木」の冒頭50pをクロッキーノートに描いたのが1971年1月21日だと日付まで書いている。その時に萩尾を含む周囲に作品の存在について話したとある(ノートを見せたとは書いていない)。
対して、萩尾はそのノートを見せてもらったのは6月のことであり、「トーマ」の習作を描いたのはそれよりも早い3月で、竹宮、増山にも見せたと細かく反証している。

・萩尾の〈無神経さ〉について
『一度』では「本当に鈍いのですが、本当にわからなかったのです」「人間関係において空気の読めない私は、距離感をうまく取れない」「私が何か配慮足らずで」「私が苦しめていた。無自覚に。無神経に。」というような表現が頻出する。
これは『少年』において、竹宮が離れたくて大泉から引っ越すことを決めたのに萩尾が気づいていなかった(結局また近所に来た)。さらに新居にやってきて自分が仕事中なのに増山と談笑しているのにいらだった--という部分を念頭に置いているように思える。

・両者とも互いの存在に対して心身のストレスを感じて耐えられなかった。

異なるのは、竹宮が萩尾に宣告して離れて数年後に復調し『風木』の連載を勝ち取ったことである。
一方、萩尾の方は接触せずなるべく目に触れないようにしていたにも関わらず、「共通の知人から、たびたび“あちらのご不快”の話が急に出て」きたというのだ。詳細は書いてないがその後も続いていたのか(?_?)
そして彼女のトラウマはまだ回復していないのだ。

加えて、二人とも共通したアシスタントを使いそれぞれにファンや友人知人がいただろうから、当人たちに関係なく外野から勝手な噂が流れたりもしたと推測できる。そして、さらに被害拡大……(ーー;)
以前、というかウン十年前の大昔にとあるイベントで某マンガ家(注-どちらの本にも出てこない人物)を目撃した。その人の周囲にファンが二重ぐらい取り巻いている中で通路を移動していたので驚いたことがある。そういう取り巻きの人々が何か噂してもコントロールできないだろう。

それにしても、発端は半世紀も前である❗ 未だ払拭できず苦しむとは、人の心の複雑さと闇であるとしか言いようがない。
最大の問題はそのような事件を過去の美談として回収し、事実を塗り替えようとする動向と圧力の存在だろう。
だから「大泉というドラマ」を否定するのは当然だが、代わりに「二人の才能ある作家の悲劇」とか「若さゆえの未熟な友情と嫉妬」みたいな別のドラマに持っていくことも避けたい。
中には「萩尾は天才だから竹宮がああいう行動に出るのは仕方ない」なんて「萩尾アゲ」のあまり逆行しちゃってる意見まで見かけるほどだ。

結局、萩尾の「理解しますけど、謝りません。なぜなら原因は双方にあって、双方とも傷ついたからです」という一節に尽きるのである。

なお、文体はかなり特徴あり過ぎの上に、なんだか統一感に欠けてフラフラしている。インタビュー形式で語ったものをさらに自分で修正・追加したとのことだが、こういう形でしか書け(語れ)なかったのだろう。
そこにまたある種の迫力が感じられるのだ。


その他、断片的な感想を。
謎なのは増山という人である。私はこれまでプロデューサーか編集者的な人かと考えていたが、なんだかどうも違うようだ。
それこそ「世紀末の文化サロンの女主人」(?)ですかね。

「24年組」の言説に関しては、以前から誰がその範疇に該当するのかがかなり恣意的という印象はあった。青池保子や大和和紀はどうなのか、池田理代子や一条ゆかりだって同世代だろう。明確な定義は存在しないってことだろうか。
なお、『一度』で書かれている山田ミネコ発案説については、ツイッターで山田ご本人が「確かに言ったが、そういう意味ではない」と否定している。さらにその意味を何者かが「わざとで意図があった」上で変えたとのこと。

光瀬龍について、竹宮もまたファンらしいと知って以後は彼から「何かのお誘いがあってもお断りして逃げました」とある。これは光瀬ファンの元SF者としては悲しかった。

佐藤史生と増山が意気投合し過ぎて、まだ一作もマンガ作品を描いたことがないのに、互いに「あなたすごいわ💕」と褒め合っていたというのは映画『ブックスマート』の主人公二人みたいで笑った。

萩尾が山岸凉子に嫉妬という感情が分からないと話したら「ええ、萩尾さんには分からないと思うわ」と答えたという。その時の山岸の心境を聞きたい。

西原理恵子が「画力対決」で竹宮にエドガーを、萩尾にジルベールを描かせたというのは、盗作疑惑の噂を知っててやったのだろうか。そうだとしたら大した根性である。(ホメてません💢)
「画力対決」の記録

【追記】追加の感想を新たに書きました。

210508b ←本棚から発掘できた。


 

読んでヨカッタと思えたら、目立たないですが下↓のイイネマークを押して下せえ。

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2021年5月 2日 (日)

祝!「ランド」手塚治虫文化賞マンガ大賞

210502 なんと山下和美『ランド』(全11巻)が手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞した。(ネタバレなし感想はこちら
候補に入っていたことは知っていたが、人気シリーズが複数候補になっているし、内容が内容だけにまず無理だろうと思っていたのでビックリである。(関連記事
ご本人も「驚いて椅子から転げ落ちそうに」なったと言っているぐらいだ。

第一次の選考結果を見ると最下位の5点である(同点が5作品あるが)。票を入れているのは中条省平一人である。
それをどうやって上位の『鬼滅』『ネバーランド』と並べて最終選考にねじ込んで、さらに受賞までたどり着いたのか知りたいところだ。説得力か政治力だろうか(^^?

とはいえメデタイ✨ことには変わりない。
朝日新聞のインタビューによると、連載始めて人気が出なくて「3巻で終わらせて」と言われたという。連載打ち切りのプレッシャーは今も昔も変わらずに存在するのだなあ。
あと、やはり終盤のウイルス出現は、期せずして現実を先取りした形になったそうだ。こりゃ予言の書か。
受賞してもアニメ化などあるとは思えない。内容が不穏過ぎである。

読み終わって、何がイヤってあの世界全てが人々が望んでそうなったということ。思わず震え上がっちゃう。

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2021年4月14日 (水)

「ウルフウォーカー」/「ミッシング・リンク 英国紳士と秘密の相棒」:異種族との接近遭遇

210414a「ウルフウォーカー」(字幕版)
監督:トム・ムーア、ロス・スチュワート
声の出演:オナー・ニーフシー
アイルランド・ルクセンブルク2020年

秀作アニメを生み出すアイルランドのカートゥーン・サルーン長編第4作目である。内容をかなり乱雑にまとめれば、アイルランド版「もののけ姫」といったところか。
絵柄が超個性的だ。中世絵画風の立体感なしに描かれる町の遠景や城内。対して森はケルトの渦巻き文様に彩られた生命にあふれている。

舞台は17世紀半ばの英国統治下のアイルランドの町である。周囲は人を拒む森林に囲まれ、森とそこに住む狼への攻撃はその支配の一環なのだ。
父親が狼ハンターでイングランドから街にやって来た少女は、半分狼の種族の少女と知り合い仲良くなる。敵対する立場だが、二人は共にここではアウトサイダーでもある。

主人公の少女は最初向こう気が強くて狼を狩る気満々なのだが、厳しい現実にぶつかって泣くしかない。しかし、さらに成長して変貌を遂げる。
父親は娘に森でなく城の台所(これがまた、森と違って陰々滅滅とした場所)に行くよう命じる。だが、子どもの自立を止めることはできないという事実を認めるざるを得ないのだった。

映像、ストーリー共によく出来ているが、難点はあまりに「もののけ」過ぎるところだろう。
ただ狼少女は「もののけ」みたいに美少女ではないし(野性味あり過ぎ💦)、絵柄やデザインが非情に独特で、日本の商業アニメとは一線を画している。また、シスターフッドが強調されているのは今風だ。
最初、少年少女だった組み合わせを少女二人に変えたと監督がインタビューで語っていたが、代わりに父親の方は「やはりそう来たか」という定番な展開だった。

ところで登場する羊が『ひつじのショーン』ぽいのは、わざとかな(^^?

過去の3作品『ブレンダンとケルズの秘密』『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』『生きのびるために』(劇場公開名は『ブレッドウィナー』)は全てアカデミー賞にノミネートされているが、この作品もめでたく2020年長編アニメ賞ノミネートされた。


210414b「ミッシング・リンク 英国紳士と秘密の相棒」(字幕版)
監督:クリス・バトラー
声の出演:ヒュー・ジャックマン
カナダ・米国2019年

こちらは米国のスタジオ・ライカ新作。過去4作品のうち私が見たことあるのは『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』と『コララインとボタンの魔女』である。特徴は精緻なストップモーション・アニメだ。
なお、こちらは2019年アカデミー賞の候補となった。

ストーリーはインディ・ジョーンズ+『失われた世界』+『八十日間世界一周』というところか。
未知の生物を探す英国紳士の探検家がいざ遭遇したら、外見はコワいが人語を解し知識も教養もあった!--ということから、その仲間を探す旅に共に出る。世界一周とは言わないが半周以上はするだろう。

映像はCGかと思っちゃうほどの繊細さと大胆さである。風になびく毛や密林の風景、特に人の表情は生きているようだ。
冒険ものとしては定番の酒場での乱闘から氷の山のアクションまで、とてもストップモーション・アニメとは信じられねえ~。
芸が細かすぎてモニター画面なんかでは分からない。大きなスクリーンで見られてヨカッタ(^.^)

自己チューな主人公が生き方を変えるというのはよくあるパターンの話だが、中心となる3人(2人と1匹?)の付かず離れずの関係がよかった。
ただ折角たどり着いたシャングリラの描写(映像面ではなく)が物足りない。あれほど行きたかった割にはなんだか表面的にスルーしてしまったような。映像面は完璧な反面、『KUBO/クボ』も脚本がイマイチだったからそこら辺を補強してほしい。

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