アニメ・コミック

2008年5月 4日 (日)

「番線」:読みてし止まん

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本にまつわるエトセトラ
著者:久世番子
新書館2008年

「暴れん坊本屋さん」の作者が、様々な「本」の現場を取材したエッセイ・マンガ。
その取材範囲は友人、編集の担当者など身近なご近所さんから、国会図書館、三省堂辞書編集部まで。
そのテーマは装丁、写植、連載マンガのあおり文句など専門的なこともあれば、本の貸し借りや本棚収納、思い出の教科書など個人的なこともあり。特に外部には窺い知れない国会図書館内部潜入記は興味深くて必見さっ。

いずれの話もユーモアたっぷりで笑わせてくれる。
とりわけ身近なテーマでは、私にも身に覚えのある話が……sweat02
例えば「本棚どかしたら床がひずんでた」なんて(引っ越しの時に判明)。

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それからカラー口絵の番子さんの部屋--まるで自分と同じで笑ってしまった。私も今日買ってきた本(CDも)はとりあえず、袋に入れたまま部屋の隅に転がしておき(転がしたまま存在を忘れることもdash)、本棚に入りきらない本は横積み、友人に借りた本は借りた時の袋に入れて保存。
それから雑誌を読み終えてとりあえず横に置いておこうとすると、なぜか先月号が既にそのまま置いてあったりして……全く同じじゃねえ~かっω(TOT)ω

愛本家の人は必読よんheart02

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2008年3月30日 (日)

迂闊であった

《allcinema》より、ニュース欄に「諸星大二郎原作不条理コメディ「栞と紙魚子の怪奇事件簿」のDVD発売が決定。」とあるじゃにゃあですか(!o!)

え~~っdash全然知らんかった。こんなのやってたんですか。

段一知の奥さんはどうしたんだろ。声だけで登場かしらん。
それにしても肝心のヒロイン二人がどう見てもフツーの女子高生に見えるが、私の視力が落ちたせいかな(^^?
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←こちらは原作。リンク先のパッケージ写真とお比べ下せえ。

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2008年3月 8日 (土)

あの人は今--内田善美の巻

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以前の記事で、山田ミネコと樹村みのりが「あの人は今?」状態であったことに触れたが、もう一人懐かしい名前を見かけた。

実は全く関係ない政治ネタのリンクによってこちらの《AmlethMachina's Headoverheels》にたどりつき、ついでに「ゴシック」のカテゴリを眺めていたら遭遇したのが「内田善美とセピアカラーのノスタルジア」である。

しばらく耳にしなかった(目にしなかった)名前だなーと思いつつ懐かしさと共に記事を読ませてもらった。しかし、よく思い返してみると彼女の作品は今ひとつ理解しづらいところがあって、一応単行本は全部持っているが、残念ながら「ファンである」とまでは言えないのであった。当時、ただひたすら硬質で美しい線と画力に驚嘆してていたような気がする。
もっとも、歳月が過ぎてはや××年、今また読み直してみれば理解できるだろうか。
今でも印象的なのは、どの作品だか忘れてしまったが(^_^;)少年が年上の中年男に向かって「お皿の裏を洗わないなんて」と非難する場面だ。毎日皿を洗う度に思い出して、「おっと裏側も洗わなくちゃな」とゴシゴシ洗っている。

それにしても作品が再刊されないのは残念である。若い人が触れる機会がなくなってしまうからだ。ほとんどの若いマンガファンは名前も知るまい。とはいえ、文庫の大きさで出されてあの絵を見たとしてもなんだかなあという感はある。

リンク先の記事だと「作者のその後の消息は不明」となっているが、2ちゃんの過去のスレ(ここですな)を見ると、マンガ界とは縁を断って再刊の要請も断っているという説が出ている。
この時点でも「男性説」が取りざたされているのは驚くが、以前は「三原順男性説」やら萩尾望都を男だと思い込んでいたヤツ、などもあったのだから仕方ないのか。
ちなみに私が完全にだまされたのは 「かわ みなみ」 「かわみ なみ」だ。だーって、いかにも「男が無理して少女マンガ風に描いてみたマンガ」だったじゃないですか。違う(^^?

「消息不明」にしても「マンガ界とは断絶」にしてもこの人にいかにもありそうな「伝説」めいた話だから、どちらでも納得してしまう。


話は変わるが、上記のブログの「ゴシック」カテゴリに出てくるミュージシャン名も懐かしいのが多い。私は平凡なロック者だったので、多くは名前ぐらいを耳にしていた程度だが、4ADレーベルは音とアートワーク共にその一貫した美意識に圧倒されつつアルバムを手にしていた。

また、コクトー・ツインズも当時よく聞いたもんだが、マイ・ブラッディ・バレンタインの「ラブレス」に至っては、回数的にはレコードの溝が削れるぐらい聴きまくった--と言いたいところ。実際にはCDなんですり減りはしなかったけどね。
当時、あのアルバムを出したためにレーベルが潰れてしまったというウワサが流れたが、どうだったんだろうか?
彼らの新作も「出る出る」と言われたまま現在に至るが、スティーリー・ダンのように二十数年経ってアルバムを出した例もあるぐらいだからして、まだどうなるか分からないのである……と一応言っておこう。

……と、思ったら日本に来るんですねえ。《Cottonwoodhill 別別館》より「(発表)FUJI ROCK FESTIVAL '08の出演者 第1弾」
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→こちらはコクトー・ツインズです。

【追記】
「かわみなみ」の表記訂正しました。国立国会図書館のHPから検索したら、しっかり「かわみ,なみ」でしたな。

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2008年2月24日 (日)

「見送りの後で」:号泣のあまり枠線も見えず

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著者:樹村みのり
朝日新聞社2008年(眠れぬ夜の奇妙な話コミックス)

昔から活躍していて長年読んでいたマンガ家で、その後とんと消息を聞かなくなってしまったマンガ家に山田ミネコと樹村みのりがいた。山田ミネコについては同人誌の方で活動を続けていると聞いたが、樹村みのりの方は何かの本でイラストを描いていたのを見たような記憶があるだけで、半ば忘れかけていた状態である。

ところが最近になって、《慢棚通信》で「樹村みのりカムバック」という記事を読んでビックリ。新刊が出たというではないか。朝日新聞の書評欄でも南信長が紹介している。
で、あわてて購入した。なんでも新刊の作品集としては18年ぶりだそうである。(《慢棚》で紹介されているベアテ・シロタ・ゴードンの伝記は除いてということだろう)その前の単行本となると『母親の娘たち』(1990年刊)だが、これだって、オリジナルの連載は1984年だからさらに時が経過していることになる。

樹村みのりの作品で一番心に残るのは短編『病気の日』(1970年)だ。これは小学生の女の子を主人公に、病気になった時(ちょっとした風邪とか軽い症状限定)は楽しいな、という話である。学校は休めるしお母さんが妙に優しいし、おいしいものは食べさして貰えるし--本当にそれだけのことを描いたものなのだが、読んでいて思わずウンウンと頷いてしまうひそやかな感動がある。もっとも以前、とある知人に貸したら「なんだよ、ただそれだけの話じゃないか」と文句をつけられてしまった。分からないヤツにはワカランということか。
後にも先にも今でも、あのように日常のなにげない時間を新鮮に切り取ってみせてくれたマンガ家を他に知らない。

彼女が実は年齢からいえば「24年組」なのだと後で知って驚いた。もっと前から描いていて一世代上の人だとばかり思っていたからだ。しかし実際には中学生でデビュー(早い!)したので、そういう印象を持ってしまったようだ。
それにしても、同年齢の作家たちに比べてフォロワーがいないように思えるのはどうした事だろうか? 大島弓子とか萩尾望都なら露骨に影響を感じられる後輩マンガ家がいるんだが、彼女についてはどうにも思い当たらない。こうの史代が影響を受けたと語っているそうだが--。

「菜の花畑」シリーズのように楽しい作品もあるのだが、その後読んでいて重苦しくて痛々しい作品が段々と多くなってきた気がして、それで少し敬遠ぎみになってしまったのかも知れない(一応、ほとんどの作品は持っているが)。
特に『海辺のカイン』なんてあまりにつらくて今でも読み返すこともできない。どれほど苦しいかというと、三原順の次ぐらいに位置するほどだ(^=^;
他にもユダヤ人収容所の女看守を主人公にした『マルタとリーザ』(『パサジェルカ〈女船客〉』が原作)とか『ジョーン・Bの夏』とか『悪い子』とか--読んでてつらいのよ。(泣)
良きにつけ悪しきにつけ、まさしく彼女は「13歳の時から強制収容所のことしか考えたことがない」という一本槍に真っ直ぐな人なのであった。

さて、本題の『見送りの後で』だが、表題作を読んで号泣してしまった。読み返してもまた同じ場所で号泣してしまうから未だにそのページはよく見てない(←バカ)。他のページもめくる度に鼻水すすったり--という始末。いかんいかん。
なんで泣いちゃうのかはヒミツだよsecret

『柿の木のある風景』は昨今の昭和三十年代ブームに対抗?したのか、その時代を中心とした二つの家の年代記である。相変わらず子どもたちの描き方が秀逸だなー。私も葬式のおまんじゅうに憧れました。
それから、遊びに行った友だちの家のおベンジョの蓋が、私の家でも似たようなものを使ってたんで懐かしく……アワワ、懐かしくはないけどアリアリと思い出した。

なんと三十数年ぶりにリメイクされた『星に住む人々』、これも読んでて泣いちゃった。グスッ(T_T)歳取ると涙もろくなっちまうもんだねえ。
絵はかなり描き加えてあるが、セリフの方もちょこちょこと直してあるようだ。オリジナル版を久しく読み返していなかったにも関らずいくつかの場面を覚えていた。ということは、やはり昔から印象的な作品だったに違いない。母親が姉をおぶって帰る場面や、教条的な中国映画に三人三様の反応を示す所とか。←この場面で、「西さん大好き」という主人公が私は大好きです!(と、なぜか突然立ち上がって宣言してみる)

この機会に彼女の以前の作品を幾つか読み返してみて、ぶち当たったのが『水子の祭り』(1982年)という短編である。これが『星に住む人々』とポジとネガの関係にあるような話だ。
主人公が美大生で、精神病院へ依頼されて壁に絵を描きに行くという状況、さらに回想に出てくる父親が時計職人だという設定は同じである。
しかし、ストレートで前向きな『星に~』とは反対に、ヒロインは親との関係に悩み失恋に苦しみ精神失調に至る。病院で壁画を描くのは自らの治療のためだ。そして、これまた読んでいて苦しい話である。
特に結果的に父親を困らせることになった事件の顛末が明らかになる件を重ねてみると、まさに二つの作品は陰と陽--家族というものの持つ二面性の象徴として陽炎のように立ち上がってくるのである。

それにしても、よくこのようなこのようなテーマで描き続けてきたと思う。
いやそれとも、テーマとしては他の同年代のマンガ家と共通するところはあるが(「家族」とか「姉妹」とか)、作品として表現されたものは全く違っている--ということだろうか。

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【関連リンク】
短編としての『見送りの後で』の扉絵(同じもののカラー画が裏表紙に使われている)には「inspired by Kathe Kollwitz」と書き込まれている。
元ネタはこの戦前ドイツのアーティスト、ケーテ・コルヴィッツの作品らしい。ただし、杖を持って座っているのは男性である。前を通る裸足の人物は死神のようだ。

《くどさ、いろいろ。(レビュウ)》
記事の中で「壁画を描くシーンで、紙やすりか何かで「サリサリ」と壁を削るシーンがあった」というのは、『水子の祭り』の中の場面ですね。

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→こちらはオリジナル・ヴァージョンの方。1982年9月購入。


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2007年10月22日 (月)

トーキングヘッズ叢書 No.32出ました~そして大島弓子にスゴスゴと引き下がるの図

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トーキングヘッズ叢書(TH Series) No.32、今回の特集は「幻想少女~わ・た・しの国のアリス」であります。
詳しい内容はこちらをどうぞ。
興味のある方はお買い求めくださいませ。<(_ _)>

私はモンゴメリ、中勘助、大島弓子という珍妙な取り合わせで書いています。本来は大島弓子の短編『たそがれは逢魔の時間』について書くはずだったのが、これだけでは長くならない、と思って脱線したら本筋の方がおろそかになってしまったという最悪のパターン。大いに反省しとります。おまけに今になって、「売春」と「買春」を間違えている部分を発見。トホホ(+_+)


それにしても大島弓子について言語で語るのは難しい。彼女の作品についてちゃんとした文章を書いたのは初めてのことだと思うのだが、説明しようとすればするほど陳腐になっていくのはどうしようもない。
読んだことのない人のために説明すると、『たそがれは逢魔の時間』は1979年の作品。当時としては衝撃的な「少女売春」を題材にしたもの--しかも、少女の方ではなく中年男を主人公にしているのである。
ホントの大島弓子のファンだともう少し後の時期の作品を最高とするのだろうが、私はこの『たそがれ』前後の時期の作品の方が好きである。まあ私はニセのファンだからいいのだ。

冬枯れの木の枝にひっかかって見える少女の陰靡な「くすっ」という笑い、暗い森を二人で駆けぬける場面、一転、少女がテコテコと犬のように走り回る雪の中、などの喚起するイメージを文章で説明するのは極めて難しい。
また、少女が出現してからの中年夫婦のビミョーな関係の変化の表現もまた見事としかいいようがない。
さらに、中年男の記憶に眠る少年の純粋性が、そのまま直に少女への欲望と妄想へと転換していく描写も素晴らしい。
全てが完璧に隙なく構成されているように思える作品だ。
しかし、もちろん視覚的にはあの大島弓子の「絵」(ある意味、隙だらけの)なのだよねえ……。

と、また余計なことを書いてしまった。
うーむうーむ(-_-;)、多分、大島弓子の作品について分析的な文章を書くことは二度とないだろう。もうダメだ~(パッタリ)←敗退して倒れる音


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2007年9月 1日 (土)

「イムリ」1・2巻:早く続きを頼む

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著者:三宅乱丈
エンターブレイン(ビームコミックス)2007年

最近のマンガ事情に疎い私はこの作者について全く知らず、近くの書店のマンガ売り場に平積みになっているのを見かけて、表紙や「壮大なるファンタジー巨編」とかいう惹句に引かれて買ってみたのであった。中身分からんからこりゃ一種の賭けだねー。
そして、これまでその「賭け」に敗れたことが何度あったことか(T^T)クーッ

しかし、今度は勝った \(^o^)/
面白かった!

最初はハリ・ポタ以後流行の「魔法学校」ものかと思ったら急展開、『ナウシカ』や『デューン』みたいな生態系や社会システム、さらには政争まで入り乱れる話へと変化。
だが、2巻の最後では突然『指輪物語』に……(?_?;
とにかく、この手の話は長くなりがちで完結まで数年(どころか十ウン年とか)かかったり、未完のままなんてパターンもあるので是非是非結末まで読ませて欲しいもんである。
それにしても一つの世界を丸ごと作り上げているので、用語などが多くて老人脳のチューネンにはとても覚えきれません。なにかとゴッチャになって区別つかなくなるし。
あとカーマの男性はみんな年取るとハゲになっちゃうの? そんなのイヤ~ン(^=^;


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2007年8月24日 (金)

「理想の家庭」ってマジですか

町山智浩氏のブログの「映画版「ザ・シンプソンズ」声優変更に反対する」で、楽しみにしていた近日公開予定の映画版『ザ・シンプソンズ』の吹替声優が、TV版と違うことを初めて知った。
詳細は、「映画「ザ・シンプソンズ」の吹替版キャストにファンが猛反発。」にあり。

所ジョージ、和田アキ子……

 あ り え ね ~ ~ っ ! (>O<)

なんであれほどオリジナルともはや変わらないぐらいにハマっている声優陣を変えるかねえ。信じられん。
それに、《eiga.com》のニュースによると「“理想とする楽しい家庭”をテーマに決められた」という。

シンプソン家が理想……(?_?;;;;
一体、担当者は本当にあのアニメを見たことがあるのだろうか?

反対運動が始まっているようだが、もしこのままのメンツだったら字幕版を探して見ることにしよう。もし、字幕版がなかったらロードショーで見るのはやめて、DVDが出るのを待つよ。

なお、ちなみに私のご贔屓はバーンズ氏。姑息で守銭奴な大富豪ぶりがたまりません。

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2007年8月21日 (火)

プラネタリウムの場面は--

《たけくまメモ》のヤヲイ談義にてリンクされていた《1976腐女子》の記事を読む。

本文の記事よりもコメント欄の意見に驚いた。
なるほど『ガラスの仮面』がヤヲイ的構造を成しているというのは分かるが、それよりも皆さん真澄とマヤを暖かく見守って応援しているのにビックリ。

昔、知人が「真澄さんて80歳くらいになっても『おれは十歳も年下の少女に……』なんて悶々としてるのかしらー」と言って笑っていたが、私もまあ、そんな感じだ。
ちなみにプラネタリウムの場面はいつも飛ばして読んでます(火暴)

やはり目のつけ所、というか、ものの見方が違うというか、自分はヤヲイ的な萌え方とは無縁であるなあとつくづく感じたのであった。

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2007年8月 5日 (日)

「ヒストリエ」4巻

著者:岩明均
講談社(アフタヌーンKC)2007年

ギリシア時代を舞台にした歴史物ついに出ました、第4巻。待ってたのよ~。
奴隷になって船で運ばれる途中で難破、海沿いの村に拾われる→で、青年期を過ごした村を結局出ていって、遂に第1巻の冒頭にようやく戻った次第。
この作者の作品のいつも通り、どんな残酷な話も淡々とのほほ~んと描かれていくのがスゴイ。
「生物研究所」なんだか知らんが超ブキミ。また後で出てくるのかしらん。

とにかく早く続きが読みたーい。でもまた一年半以上待てと? あんまりだー。(号泣)

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2007年6月 7日 (木)

盗作のウワサより始まって……

幻冬舎新書から出た『新・UFO入門』職場で早速買ったんだけど、なんと《ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記》経由でブログからの盗作疑惑を知る。

えええーっ(!o!)注文してまだ実物も来てないというに、どーしよう。
で、その元のブログがこちら《漫棚通信ブログ版》であります。「これは盗作とちゃうんかいっ」以下のエントリをどうぞ。

で、ついでに他の文章も読んだんだけどこれが面白い。もうマンガの読者としては半分引退状態な私ではありますが、色々と興味を引かれる話がいっぱいですねー。
特に
「第11回手塚治虫文化賞感想」
には、ええっ、そんなウラ話があったんかいと驚かされ、
「お久しぶり、大友克洋」
には大いにウンウン('')(..)('')(..)と頷かせていただいた。

それと文章が温厚でさっぱりしてて読みやすい。ひねくれた文章ばっかり書いている私とは大違いである。(まあ、ブログのタイトルがこれですから、ひねくれてない文章だと「看板に偽りあり」になってしまうというのもあるんですが(^^ゞ)

早速、ブックマークさせて頂き、以後も継続チェックしていくことにした。

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2007年6月 3日 (日)

もはや「otaku」に日本は無関係

《ふぇみにすとの雑感@シカゴ》より、

「アニメセントラルコンベンション(A-Cen)」のレポート(「1」から「4」まであり)
「アメリカン・オタクの変遷」
「スタッフの視点からみたアメリカのアニメコンベンション」(「1」と「2」あり)

あちらのコンベンションの様子がよーく分かります。
読んで興味深かったのは

SFーとくに小説系のSF-には、以前はエリート主義的なところがあったが、アニメやマンガ系はもともと「子どもの読み物であるマンガ」的に捉えられがちなこともあり、SFファン的なエリート主義がなかったという。

これは元SF者として、何となく思い当たるような気がしなくもない。(汗)


パネルでは「日本」とか「日本人」は残っているようにみえるが、ブースをみても、コンベンションにきている人たちをみても、「日本」なんてそう大きな関係はない感じだった。むしろ、「日本」は自分たちの好みにあわせて導入するときはする、って感じだ。

もはやアメリカ人は、「日本」なんか超えてしまって、自分たちの文化の一部として楽しみはじめたと思えるのだ。

もはやオタク文化を日本が世界に発信、なんて悠長な事を言ってる場合じゃないってことですねえ……。

ところで今年のSF大会はワールドコンなわけだが、どうなるんじゃろか。

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2007年5月14日 (月)

目は口ほどにものを言い

《G★RDIAS》より「少女漫画と男性漫画の目の大きさ」

森脇真末味の絵も目が細かったぞ、と言ってみるだけ言ってみる。
吉田秋生より何年も後に出てきたという人という記憶があったが、年齢もデビューもそんなに変わらなかったのねー。ずっと勘違いしてた。

高野文子なんか目が点(・o・) まあ彼女の作品が少女マンガの範疇に入るかどうかはまた問題だが。

目の大きさと少女マンガ王道度は比例するのかもしれぬ。

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2007年2月10日 (土)

「ダ・ヴィンチ」の特集「テレプシコーラ」

雑誌「ダ・ヴィンチ」3月号が山岸凉子の連載『テレプシコーラ』第一部完結記念特集を組んでいる。ご本人のロング・インタビューや実際のダンサーへの取材などに加え、作家やマンガ家からの一言メッセージもある。
それを読むとやっぱり終盤の姉娘・千花のくだりは衝撃だった人が多かったんだなー、と改めて感じた(私σ(^^;)もその一人です)。えええー、そう来たか!?ってな感じ。

中でも、萩尾望都のコメント--連載でそこを読んでいったん寝たが「眠れなくて、読み違いではないかと、起きて一階に降りて再読した」というのは笑いつつも納得してしまった。
いまだにマンガ界を震撼させる山岸パワー恐るべし!というところだろうか。

あと、諸星センセの「空美ちゃんがどこでどう再登場してくるかが楽しみです」に激しく同意である。

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2006年12月29日 (金)

昔から大島弓子は人気があったわけではない(多分)

《へんぺんメモ》の「大島弓子って若者にそんなに読まれてないの?」で紹介されているリンク先へ行って、《少女漫画的日常》の「大島弓子が読めない女の子はいっぱいいる」を読んでみる。

うーん、どうでしょうね、確かに大島弓子を含めていわゆる「24年組」は今どきの若いモン(の大部分)には、テーマにしてもマンガ文法にしても好まれるようなものではないと思う。
しかし、だからと言って当時は大きな人気があったかというと、そんな事はないだろう。

マンガに限らず、映画や小説もそうだがウルサ方のマニアやファンの好む作品と一般の消費マーケットで売れる作品にはズレがある。その両者が一致する事は少ない。
例えば赤川次郎や西村京太郎がどんなに部数を売ったとしても、「このミス」や週刊文春のベストテンに入る事はないのだ。
また、マニアの評価も長い年月によって変化するし、「名作」と呼ばれるようになるかどうかはリアルタイムでは分からない。別のジャンルの話でまたも恐縮だが、「キネマ旬報」誌の映画評論家による毎年のベストテンでは『2001年宇宙の旅』は第4位(1968年)、『ゴッドファーザー』は第8位(1972年)である。『ロミオとジュリエット』が『2001』より上だって? 今ではとても信じられないランキングだ。

当時のマンガ誌編集部の人気のバロメーターは、プレゼント応募のアンケート葉書だった。そのターゲットは小中学生だろう。大人の読者やマニアは雑誌を買っていたとしても葉書を出したりしない。従って、24年組のように当時からマニアに支持されていたマンガ家は、そういう意味での「人気」は低かった。
萩尾望都の『トーマの心臓』は雑誌連載中に打ち切りの危機に瀕し、彼女は必死になって人物の背景に花を散らしたり、ファンレターに返事を出して「アンケート葉書にマルを付けて下さい」と読者に頼んだそうである。

大島弓子は『綿の国星』で商業的にブレイクしたが、それ以外の時期にどの程度の一般的な人気や認知度があったかは不明である。もちろんマニアは作品が出る度に騒いでいたけど。当時もマンガをよく読んでる子だからといって大島弓子の事を聞いても、「知らん」とか「興味ない」という返事が返ってくる率は高かったろう。

彼女が他の24年組とは違っていたのは中年男性の支持が高かったこと。誰だったか忘れたが、昔テレビで中年の評論家がホントに嬉しそうに本をナデナデしながら「大島さんの作品は--」なんて語っていたのを見た事がある。
荷宮和子はコマ割が他のマンガ家に比べて複雑でないから、中年のマンガを読み慣れていない人にも受け入れやすかった、と書いていたが実際どうだったのだろうか。


(以下懐古モードに突入)
大島弓子で忘れがたいのは、大昔の「ぱふ」誌--それともその前身の「だっくす」だったか?--で映画評論家の北川れい子が『綿の国星』を読んで激怒。こんな大甘な少女趣味のベタベタなマンガは許せねえ~という感想を、極めて性的な罵倒語を駆使して書いたもんだからちょっとした騒ぎになったことだ。
あまりにお下品な叙述に非難も多かったが、北川れい子は物足りず、さらに硬派バリバリな評論家平岡正明(当時『山口百恵は菩薩である』など歌謡曲評論で一躍有名に)に読ませて大批判対談大会をやろうと図ったのだった。
とっころが、意外にも平岡正明は『綿の国星』にはまってしまい、批判大会は腰砕け状態になってしまったのであった。恐らく、平岡正明は「大甘な少女趣味」の背後に性のメタファーを感じ取ったのだろうと思われる。

もう一つ印象的なエピソードとしては、橋本治が友人のロック・ミュージシャンのPANTAに、『バナナブレッドのプディング』を御茶屋峠の性格にPANTAがそっくりだと言って貸して読ませたという話だ。(ちなみに彼は読んで「なるほどオレだ」と思ったという)
私の友人一同すぐ疑問に感じたのは「えー、じゃあ橋本治はどのキャラクターが自分だと思ってるんだろか(?_?;」ということであった。
なお、PANTAも硬派なロッカーとして知られる。ただ、彼ははっぴいえんどの曲の中で「空色のくれよん」が一番好きだと言ってたぐらいなので、本質的にはロマンチストなのかも知れない。(だーって「空色のくれよん」ですよっ!)

(注-以上の文章は記憶だけで書いているので、事実と違っているところがあったらスマン)

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2006年8月25日 (金)

「時をかける少女」:青春は若いモンに任せるわッ!

監督: 細田守
声の出演:仲里依紗
日本2006年

ヤフー・レビューがやたらと高評価で話題になったアニメ。さらに本当かどうか知らんが、『ゲド』の工作員がわざと一つ星評価を付けているというウワサまで流れた。(確かに1行コメントのヤツは見ると勘繰りたくなる)
後でミクシィのレビューを見たら(ミクシィはネタバレ多いんでうかつに見られない)、さらに高評価でビックリ。

とにかく実際に見てみるべぇと行ってみた。客席は9割までヲタク野郎というウワサだったが、そんな事はなくて私よりも年上のオバハンの集団までいた。

内容はSF風味学園ラブコメ(一部シリアス)といった感じ。SF部分はかなり薄いし、展開はご都合主義で無理がある。
恋愛部分はかなり定番な要素が(意図的?に)満載。女一人に男二人の組み合わせってフィクションではよくあるが、現実では一度も見たことねーぞ、ゴルァ。三人で毎日放課後に野球?こんなのウソっぽ過ぎでは。親友が好きなあの人を、実は……というのも、有史以来一億回(当ブロク推定値)ぐらい使い古されたネタだ。

何気ない学校生活の描写はよく出来ている。壁に寄り掛かって本読んでる子とか、一つの机で二人が勉強してる場面とか……。いかにも夏休み直前のダルい放課後の雰囲気が出ていて、ノスタルジーを感じさせる。
(ただ、言葉づかいやファションがあまりにも完全に「今どき」なので、却って引いてしまった。これも意図的か? 15年後に見たら笑いが起きそうな不安)

そういうノスタルジーに満ちたベタな学園恋愛もの要素が難なく受け入れられる人には、このアニメは感動で涙ウルウルになるだろう。
だが、私は学校時代に戻るぐらいなら地獄に行った方がマシという人間である。居心地悪くて、もう勘弁してくれーっ(>_<)てなもんだ。

さらに登場人物がどういう心理状態なのかよくわからない。人間の感情や心理もタイムリープする度に変わっちゃうのか? それとも作り手は最初から同一性を放棄しているのか? そのため、どの人物にも共感したり感情移入することができなかった。
前半で一番驚いたのは、ヒロイン事故が起こるのを阻止するのではなく、他人に原因を押しつける事だ。確かにこれは常に一貫した彼女の行動の傾向で、後の展開に関係してくる部分なのだが、それにしてもあんまりである。
ヒロインはそういう性格で、だからこそこの物語は成立するのだ--と言われればそれまでだが。
ついでに言えば「おばさん」も「スカした感じでイヤーン」でイライラしてしまった。(チアキとコウスケのキャラクターも不満点ありだが、面倒くさいので省略)

それからさらに致命的なのは、未来人が来た理由となる肝心のモノがスクリーン上では全く魅力的にみえないことだ。いくら、セリフで「素晴らしい」とか言っても見ている方に現実にそう感じさせなければ、何の意味もない。残念ながらあのモノにそれほどの価値があるとはどーにも思えなかった。実際にそう思わせるのは至難の業であろうが--。だったら別の理由をでっち上げた方がよかっただろう。なんか今イチ必然性とか切迫性に欠けるんだよね。
ただ、一応観ている間はそれらの矛盾点をあまり気にさせない作りにはなっていたので、気にならない人は気にならんだろう(もちろん私は気になったが)。

結局、素直でないひねくれ者の私には到底向いてない作品であった。ギリアムの『ローズ・イン・タイドランド』には辛口の評を書いたが、どっちを取るかと言われたらギリアムの方を取ろう。だーって、あなた、愛しい男と久し振りに再会して××を×××××××しちゃうんですよっ。これこそ時を越えた愛ではないかっつーの! 文句あっか(ドン)←机を叩いて力説する音

ということで、当ブログとしては「ひねくれ者なら『時をかける少女』よりも『ローズ・イン・タイドランド』を見るべし!」と推奨させて頂く。


ところで「Time waits for no one」はやはりストーンズだったのか? こういうのがオヤヂ層の支持をも集める理由かね。
関係ないけど、本編前の予告でガンコ親父を沢田研二が演じてるのを見て結構衝撃だった。あのジュリーが……自分の歳をヒシと感じるのう(x_x) (映画のタイトルは『幸福のスイッチ』、予告見ただけで見る気が失せそうな健全な文科省推薦映画っぽい)


主観点:5点
客観点:7点

【関連リンク】
ケナしてばかりではナンなので、ほめている意見も紹介しよう。
「bobbys☆hiro☆goo☆シネプラザ」より《”時かけ”から”トキカケ”へ「時をかける少女」》
こちらのブログは比較的冷静な感想だが、TB群を見ればいかにアツく評価されているか一目瞭然だろう。

ようやく見つけた数少ない、絶賛ではない意見です。
「DREAMREAL」より《時をかける少女感想》

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2006年8月21日 (月)

あのマンガのアニメ化作品の予告を見た!

『ローズ・イン・タイドランド』の前に上映された予告で恐ろしいものを見てしまった。あの、ますむらひろしのマンガをアニメ化した『アタゴオルは猫の森』だ。原作は昔のサンコミックス時代からずーっと買っている。チラシは前から入手してたのだが、実際に映像を見てみるとなんと3D-CGアニメという事で、ヒデヨシの黄色の毛がフサフサと波打ち、さらにあのお腹がタプンタプンと揺れ動くのであった!

正直言って、ちょっとブキミ光線が発射されているのを感じる。な、なんだか一挙に見たい気が萎えましたですよ(>_<)
一方でテンプラなど人間勢は人形みたいなイメージでまた萎える。ギルバルスももっとカッコよくなくちゃ嫌だ~(単なるワガママ)。
でも、猫の目時計が何と言って時報を鳴くのか聴いてみたい気はするが……(考慮中)。

本棚から古い『アタゴオル物語』を引っ張り出してみた。たまたま開いたページで、ヒデヨシがテンプラにセミを取ってもらったお礼に「オレごちそうするわ」と言う場面が出てくるのでビックリした。現在のヒデヨシだったらゼ~ッタイ(^_^メ)にそんなこと言わないだろう。
今や物欲において、唯一『エロイカ』のジェイムズ君を凌駕する存在がヒデヨシなのである(^O^;

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2006年8月16日 (水)

「ゲド戦記」:タダ券で見れば腹も立たない--はずだったが

監督: 宮崎吾朗
声の出演:岡田准一、菅原文太
日本2006年

【序章】
ネットで荒れ狂う不評の嵐--仮想空間で互いに噛みつき合う擁護派と罵倒派、そして場外で倒れ伏したまま動かなくなった原作派。「何かがおかしい!」と察知した私は近くのシネコンのタダ券をゲット。念のためそれを使って見に行く事にした。タダ券ならば万が一つまらなくっても腹が立たないと考えたからである。

【起】
早速、タダ券を使ってシネコンの奥深く潜入する。用心深くお子ちゃまやご家族連れにジャマされないように通路側の席を確保。眠気覚ましのガムや冷房対策の上着など万全の準備をして鑑賞に臨んだのであった。
だが、開始早々問題にぶち当たる。嵐の効果音がデカ過ぎて人物が何を言っているのかよく分からないのである。??? 原作読んでいるので、多分あのあたりのセリフだろうと適当に脳内補完する。

そのまま話はサクサク進んでいくが、なぜかアースシー世界全体の設定の説明は出て来ない。広大な海の中に大小様々な島があって、そこに国があって、さらに魔法使いの島が--なんていう説明が全くされないのだ。こんなんで分かるんか?と不安になったが、後々まで見ていくと、そんな必要はないことが分かった。
なぜなら、全ての登場人物は最初の島から一歩も出ないからだ。(火暴)

【承】
その他にもツッコミどころ満載であっけに取られるのであった。ホントに基本的な物事の描写とか因果関係の説明とかが出来ていないのである。

もちろん、世の中に下らん映画はゴマンとあるし、まともな因果関係が描かれてない話はあるが、そういうのは大抵おバカなギャグ映画だったり、頭使わないで見られるアクション物だったり、見終った瞬間に全て忘れてしまうエンタテインメントだったりするわけである。
シリアスな感動を目指す、人間の生と死がどーのこーのという物語でそんなんじゃ困るんだと思うが……。あ、困りませんか。そーですか、すいません。
すいませんと言えば、この物語の中で二度ばかり登場人物が別の人物に謝る場面が出てくるのだが、二度ともどうして謝るのか全く理解できなかった。「謝っとけば、この場はおさまるだろう」とでも考えたのだろうか。分からんよ……(?_?;

一方で、ラストの悪者の末路の描き方は残酷さとグロテスクさにリキが入っていて、小さなお子様ならうなされそうなぐらい。素晴らしい \(^o^)/ 今後はこういう方面のジャンルの作品を極めたらどうだろうか。

あと、音楽がうるさい。演出で情感を喚起できないので、無理やりデッカイ音の音楽でなんとかしようという気か。
それと、背景の絵はいいけど人物が本当に荒っぽくてひどい。草原やら羊やら娘っ子が出て来て、新TVシリーズ「アルプスの少女ハイジ」かと思ってしまった。それにアレンは17歳にはとても見えない。だったら設定変えて13歳くらいにすればいいのにさ。
ついでに、なんだか白っぽい貧弱なドラゴンも魅力なし(←実はこれが一番ガッカリした)。

【転】
見ていて『カーズ』を思い浮かべた。両方とも基本的な構造はよく似ている。(そもそもよくある物語だが)
本当は能力を持つが今の所ダメダメな若者(内向的と外向的--とベクトルは逆だが)が、未知の土地に行って老いた先達や女性などと出会って、自己を見つめ生き方を変え、悪との闘いに勝ち危機を克服するという話である。未知の土地でさせられるのが、身体的な作業というのも同じだ。
アレン:マックイーン、ゲド:ドック、テナー&テルー:サリー&メーター、クモ:チック--という感じか。

しかも、双方共に主人公のターニング・ポイントとなるかなり長い場面がヒロインがらみで出現する。『カーズ』の場合は「わー、キレイだー」とその光景に感動するけど、『ゲド』では「えっ、この歌まだ続くの(冷汗)」となってしまったよ。
ネット上の感想で、この場面について「観客が泣く前に登場人物を泣かせちゃいけない」というのがあったが、全く同感である。また、その涙がロードショー館で本編上映前に必ず見せられてウンザリする、あの「映画を守ろう」CMの黒い涙にクリソツなのもイヤ~ンな印象だ。

一方、アレンのダメダメ具合は徹頭徹尾グダグダしていて、見ているのが嫌になる。これに比べればマックイーンのナルシスト振りなんぞカワイイもんだと思えてしまう。

【結】
何が一番不快だったかというと、死を恐れ不死を望む人間に対し「死を恐れてはイカン」と言いつつ殺してしまうこと。あたかも、今いる犯罪者を全て抹殺すれば犯罪そのものが地上から消えるとでもいうように、だ。
自らの弱さを克服するために他者に剣を振りかざすとはどういうことなのか。弱さと悪を見せる他者を消せば、自らの弱さと悪も消えるというのだろうか。

それからよーく分かったのは、中身がどんなもんであれ、電通と博報堂が手を組んで派手に宣伝して有名ブランドの箱と包装紙に包み、高級店で販売すれば、それなりに売れてしまうということである。

ブログなどネット上の意見を見ていて多かったのが、新人監督に対して「第一作めだから」とか「次作に期待」というものだった。皆さんの優しさにいささかビックリ。だーって、監督は次の作品を作れるかも知れんとしても、原作者のル・グウィンや原作ファンにはもう「次」はないんだぜ(三十年後ぐらいにはあるかも知れんが)。だったら最初から存在しなかったことにして欲しい。(>_<)
新米のペーペーだろうが、八十歳の超ベテラン監督だろうが、誰かの息子だろうがなんだろうが、どこのスタジオが作ろうが、作品の出来だけが全てを決めるはずである。場外の事情やらなんやらを観客が慮ってやる必要などない。

あと、実際の作品を見てないのにケナす奴、ほめる奴が多いのにも驚いた。こうなると単なる祭りだね。夏休みなんでみんなヒマで、単に乗っかって騒いでるだけなんだろう。

【終。章】
原作について書いておこう。
私はかつて『ゲド戦記』を「心の書」と定め、何度も何度も事あるごとに読み返していた。だが、ある日出たばかりの第4巻を読んで「なんじゃ、こりゃー(>O<)」と叫んで、本を真っ二つに引き裂いた--気分だったがそうしなかった。なぜなら、借りた本だったからである。
どうして、第4巻を読んでそのような怒りを感じたかは語りたくないし、語ることも不可能である。それ以来、どの巻も手に取ることは一度もなかった。
その後、第5巻が出た時も一応義理として読んだが、今の私にはもはやいかなる感情も呼び起こされることもない物語だった。正直、「老人力」入ってると感じてしまったよ。

今回、このアニメを見る前に第3巻だけ読み直したが、非常に映像にするのは困難な作品なのを痛感した。恐らくたとえ原作に忠実であっても、誰が作っても(例え宮崎父であっても)面白くないものになるだろう。なにせ1~3巻通じて、肝心な場面はすべて薄暗い闇の中で見せ場もなくゴソゴソと行なわれるだけなのだ。何か心にしみいるものがあるのは確かだが、それをそのまま「絵」にしても、訳分からんか退屈なだけである。
注-もちろんこのアニメは原作を完全にメチャメチャにしている。

ということで、このアニメが詰まらないので原作の方が面白いだろうと勘違いする者が出てくるかも知れないが、それは大いなる誤解である。もし映画の『ナルニア』や『ロード・オブ・ザ・リング』みたいな派手な展開を期待して読むんだったらやめた方がいい。きっと退屈してしまうだろう。

--と、これだけ言っておけばうかつに読もうなんて気はならないだろうよ(~ ^~)

それにしても、同世代の友人数人に原作のことを聞いてみたらみんな「昔読んだけど、忘れた」と答えた。オイオイ(-o-;)

【付録】
原作者本人のコメントが遂に出てしまった。有志による日本語訳である。

ホントに芝生で逆立ちしたのか?なんで??知りたいぞ。
雑誌「モエ」の特集で、ル・グウィンのインタビュー記事に『トトロ』のネコバスが気に入って、日本でぬいぐるみを買って来て貰ったと、10センチばかりのちっこいネコバスのぬいぐるみを嬉しそうに持って見せてる写真があった。なんだか、彼女が気の毒になってしまったよ……。

【追記】
な、なんと「きっこの日記」(「きっこのブログ」)でも原作者との行き違いネタが取り上げられた。ル・グウィンの声明の訳が上記と微妙に異なるので読み比べてみるといいかも知れない。


主観点:2点
客観点:3点


【関連リンク】
批判的なもの
「こっちゃんと映画をみまちょ」
「平気の平左」
「Badlands」
「おたくにチャイハナ」

内部のお家事情をネタに新解釈
《ゲド戦記を読み解く!》(具体的なストーリーのネタバレあり)

批判ばかりではなんなので誉めている感想も
「空飛ぶ教授のエコロジー日記」
「renkonnの日記」
 ↑連続記事で細かく分析

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2006年7月28日 (金)

「カーズ」(字幕版):最強のクリエイター集団に脱帽平伏

監督:ジョン・ラセター
声の出演:オーウェン・ウィルソン、ポール・ニューマン
米国2006年

自慢じゃないけど、クルマのことは全く分かんない。免許持ってないし。車種とかもよく知らん。事故や犯罪目撃しても「えーと、えーと、黒っぽい色の乗用車でドアが4つあったかな(?_?;」ぐらいしか証言できんぞ。

というわけで、ピクサーの新作の『カーズ』もあんまり期待してなかった。久々に監督として登板のJ・ラセターはカーキチだそうだが、私は上記のようにクルマに興味ないし、おまけに予告がさらに見る意欲を減退させてくれる。
だーって、あなた、自動車に目鼻ですよ! なに、こりゃ~っ(-o-;)てなもん。全然、期待できん。今イチ詰まらなそう。でも、まあ今までピクサーアニメは欠かさず見てきたからなあ……という消極的な理由で観に行った。字幕版を選んだのは、やはりなんと言ってもポール・ニューマンが声をやっているからである。

で、結果は--。

わたくしが悪うございました。m(__)mガバッ
ピクサー&ラセターは神と認定してよしっ。ヽ(^^)/\(^^)、

才能はあるが傲慢で自己チューの若者が、他者との関りの中で自分を見直し考えを改める--という物語は極めて定番な昔からある「感動」ものであり、もはや使い古されきっているとしか言いようがない。(例えばP・ニューマンの『ハスラー』一作目・二作目ともにそういう話)
そんな古臭い物語がどーしてここまで面白いのかっ!そして新鮮なのか?
ひたすら感心するだけだ~。

冒頭の華やかなレース場の場面。本当に全部、観客から始まって何もかもがクルマ尽くしになっていて笑っちゃうが、きらびやかで華々しく興奮が伝わってくる。
一転、主人公がつかまっちゃうド田舎のさびれた町の煤けた建物やサビついたりホコリ被ってるクルマ達の脱力な描写もある意味すごい。
しかし、その周囲の自然の本当に美しいこと。木々や滝の水だけでなく、なんか「空気」の美しさまで描いているのはオドロキ。主人公同様に観る者も感動してしまう。要するに、視覚的に全て説得力がある。これは当然のはずのことだが、なかなかに実現するのは難しいことだ。

徐々に夕闇が迫るハイウェイ、夜の中を疾走する蛍光色の暴走車(?)、畑の中で眠るトラクター牛(爆笑)、その他にも色々印象的な場面がある。

登場人物じゃなかった登場車物のキャラクター設定もツボを心得てるし、定番の物語を退屈させずに見せる脚本もよくできている。主人公が普通の自動車じゃなくてレーシングカーだというのも色々あるんですね。(ライトがないとか、未舗装のボコボコ道を知らないとか)
しかも、「古い」だけじゃない。地方の町の商店街がさびれていくという日米共通の問題(というより、日本が米国の後追いをしているのか)という現在の新しいネタについてもちゃんと訴えているのだ。
そう、それから「勝って何が悪い」とか「儲けるのがどうしていけないんですか」みたいな風潮にも。最後は泣けちゃったよ。

残念なのは、車やレースについての小ネタ大ネタ満載なのが、ほとんど理解できなかったこと。知識のある人は百倍以上楽しめるだろう。IMDBのトリヴィア欄を見るとレースのクラッシュ場面は実際のレースのものを再現してるとか、町のそばの巨大な岩石群が変な形してるなと思ったら、キャデラック・ランチ(スプリングスティーンの歌にもなっている)を模している、なんてあってビックリ。

というわけで、これからはピクサー・アニメがどんなに信じられないようなモノを主人公にしたり題材にしても絶対に観に行く事にしよう。
で、次回は「パリのレストランに住むグルメなネズミ」ですか……?
取りあえずは、吹替え版もそのうち見てみたい。

個人的に嬉しかったのは、音楽にランディ・ニューマンが久々に登板ということ。しかも、途中で聞いた事があるようなヴォーカルの歌が--と思ったら、なんと彼のオリジナル曲をジェイムズ・テイラーが歌っているではにゃあか(!o!)
ということは、R・ニューマンがまたアカデミー賞の候補になれば、授賞式で彼のピアノをバックにJ・テイラーが歌うなんて場面もありだっ。 \(^o^)/ よーし、今から録画チェ~ック決定。


ピクサーに全く興味のなかった私が見るようになったのは、ランディ・ニューマンのおかげである。『トイ・ストーリー』が公開されてた時に、たまたまつけていたTVで一部を紹介しているのを見かけた。
それはオモチャのバズが自分が玩具だとは信じず、空を飛べると思ってまさに飛ぼうとする場面である。他のキャラクターと観客はみんな彼が飛べないと分かっている。その心情を代弁するようにR・ニューマンの哀愁に満ちてちょっと残酷な歌声が流れるのだ。また、それが映像にピタリとうまくはまっていた。それで、『トイ・ストーリー』を見てみようという気になったのである。
あのTVをたまたま見なくて、彼の歌声を聴かなかったら、私は今でもピクサー・アニメなどバカにして見ていないだろう。偶然とは不思議なもんである。


主観点:9点
客観点:8点(車に興味のないお子様にはどうかな?)

【関連リンク】
「Feel so war?」より《カーズを観たずら》
うむむ、レースの裏側には色々あるんですねえ……。

「水曜日のシネマ日記」から《子供たちへの配慮が感じられる。『カーズ(日本語吹替版)』》
字幕版と吹替え版の差についての記事。ますます吹替え版が見たくなってきた。でもって、その後また字幕版が見たくなったりして(^=^;
確かに、本当に字幕版の主人公はどーしようもなくイヤな奴なんだよねえ。
「中身のない空っぽのカップ」と「ただの置き物」--むむむ、含蓄あり過ぎです。

【追記】
吹替版の感想こちらに書きました。

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2006年7月24日 (月)