書籍・雑誌

2018年10月14日 (日)

「文字渦」

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著者:円城塔
新潮社2018年

何やら文字についての妄想を連ねたような連作小説集である。
ある時、漢字は物や人そのものであったり、遺伝情報のように組み合わせを変えて全く別のものに変化したり、漢字同士が闘ったりもする。文字の歴史を遡り、どれほど先か分からぬほどの未来の姿を見る章もある。
またある時は、本文に対しルビがレジスタンスを企てたり、文字が地層のように集積したり(字層?)、遂には横溝ミステリーのようなオドロオドロな殺人事件ならぬ殺字事件まで起こるのだ。
かと思えば、大量の文字によってプログラムされた世界は、独自の宇宙を形作り、冥王星の側にスターゲートならぬ「文字門」を存在せしめる。

かように、利己的な文字は自らをその界によって自由に形を変えて生成し、生き延びていくのである。
とすればその時、小説とは予め配列された文字によってしか書かれないものとなる。つまり、読むにあたって重要なのは文字そのものであり、「ストーリー」とか「メッセージ」ではないのだ。

そして私がこの本の「参考文献」「初出一覧」まで読み終え、最後のページの奥付にある「文字渦」の文字(明朝体か)を目にした時、その文字がグルグルと渦巻いてピチャンとさんずいに飛沫が撥ね上がるのまで確かに感じたのであった。

そうなると、全てが怪しくなってくるではないか。一体、各ページの余白は本当に余白なのか? 実際はスペースの連なりが余白を装っているのではないか。ところどころ「一行明け」がページの終わりや初めにわざとらしく置かれているのも気になる。そもそも、ページ数を表わす漢数字は正しいページを示しているのだろうか。
加えて、数多く現れる見たこともない漢字の数々--実在するとは到底思えない、でっち上げられたに違いないと思われるようなものが、実は存在したりして。あるのかないのか俄かには判断付け難い文字が目をくらます。
そう、文字は信用できない語り手、なのである。
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と、あちこち本を繰っている間にも文字がスルリと抜け出して、何気ない振りをして裏側へ紛れ込んで張り付いているような気がする。。
しかし、ド近眼・乱視の上に老眼である私には、メガネを外したり掛けたりと読むだけで苦労しなくてはならず、文字のたくらみを見抜くことは非常に難しいのであった。
ああ、残念。


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2018年9月17日 (月)

「名盤レコーディングから読み解くロックのウラ教科書」

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著者:中村公輔
リットーミュージック2018年

以前とあるバンドのアルバムを順に聞いてて、4枚目以降がどうも気に入らなくなってしまった。しかし、メンバーも曲調もアレンジも何も変化はないし、これといった欠点も見つからない。一体何が違うのか。何度聞いても分からないのである。だが、何かが異なる。
そして、唯一の違いはプロデューサーが変わったことだった。
このよく分からない変化はサウンド(漠然とした意味の)にあるのではないか--と感じたことから、この本を録音とか機材などは全く無知なのだが読んでみた。

知っている人は知ってるのかも知れんが、シロートには驚きの記述が続出。
生楽器と電気楽器の共演は録音でもライブでも難しい。
ギターの低音を有効に聞かせるために、ベースの音を消してしまうことあり。
パンチのある音になるよう音を大きく録音するために、音量を部分的に圧縮する。
バスドラムに性能の違う二本のマイクを離して立てて、後でその二つの音をミックスする手法あり。
出来上がったサウンドがどのように作られたのか、ミュージシャン自身にも分からないことがある。
楽器を鳴らす場所(スタジオ、ホール)も楽器の一部。
弦楽四重奏とオーケストラでは録音の手法は全く違う。
ストーンズ「シャイン・ア・ライト」で、C・ワッツは高齢のため強くキックを踏めないので、過去の自分の音源からバスドラの音を抜き出して差し替えた。(後から入れ替えたのではなくリアルタイムで)
サンプリング技術は進んでいて、素人には元の楽器の音と区別が付かない。
オートチューンの登場でヴォーカルのタイミング、ピッチ共に完全に修正できるようになった。
アナログレコードは音質が良いのは外周部分。内側に行くにつれ歪みが出る。

いやー、知らなかった!ことばかり。
プロデューサーが変わればエンジニアも交代するらしいので、音が変わるのは当然か。

スティーリー・ダンについて、私は「エイジャ」からどうも熱心に聞けなくなってしまったのだが、それはサウンド的に大きな変化があったからだろう。この本に取り上げられているのはその次の「ガウチョ」だが、もう一度聞き直してみるか。

また、クラシックの録音についてはどうなのだろうか。例えば、録音を小節ごとに切り貼りすることはあるのか。また音程の怪しい部分を修正したりとかは(^^?)
ロックやポップスほど、クラシックではプロデューサーやエンジニアについて語られないが(そもそもクレジットがない場合も)その存在はどうなのか。

私がクラシック……というか古楽の録音について疑問を感じるようになったのは、アンサンブル・クレマン・ジャヌカンを聞いてからである。多分、録音では彼らの演奏は十分の一ぐらいしか再現できていない。一体この差はなんなのだろうか。知りたいもんである。

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2018年8月16日 (木)

「介護する息子たち 男性性の死角とケアのジェンダー分析」

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著者:平山亮
勁草書房2017年

数か月間途中で放り出しておいたのをようやく読了した。
親を介護する男性の経験を通して「息子としての男性」、ひいては「男性性」そのものを考察する。さらには一時期盛んに取り上げられた「男性の生きづらさ」も批判するものである。

介護に限らず「ケア労働」(女性が多く担う)に必要な「感覚的活動」とは何か。「食事を作る」という行為にしても、冷蔵庫に残る食材や使い残しの量を勘案し購入するところから始めなければならない。さらに家族の好き嫌い、どの時間に出すか--など「状態や状況を感知すること、それを踏まえて必要な者や人々の関係について思考」しなければならず、ただ料理することだけではないのだ。
夫が妻の家事手伝いをしようとしたが感謝されない、というような事案はこの「感覚的活動」を意識していないからだろう。それは不可視なもので認識されていないのだ。

実際には、男性性は家庭という私的領域ではこのような不可視の関係調整作業を女性にゆだねて依存しており、決して自立・自律してはいない。そして、著者は公的領域だけにおいて理想化され、依存のない男性像を「自立と自律のフィクション」と呼ぶ。
このような性別分業の元では妻は夫の稼得に頼る。そして妻の生殺与奪は夫が握ることとなる。

ここで注目すべきは「だからこそ、妻自身の就労機会や稼得能力は(中略)何よりも「生の基盤」として必要なのである。そして就労機会や稼得能力が構造的に制限されることは、個人としての生存そのものを困難にさせられること」という件りである。
まさにこれこそ、つい先日発覚した東京医大の入試で行われた不正ではないか!生存そのものの困難!「女はすぐ辞めるからなー、仕方ない」どころではない。

もちろんこれは一般論であり、当てはまらない男女は様々に存在するのは当然である。

かように色々と示唆に富む内容であった。(読むのに時間かかっちゃったけど) 興味のある方はご一読ください。

関連して、こちらのツイートでもハッ(゜o゜)と思った。「女性は誰かを愛するのがノルマ」というのは、まさに女性が行なうケア労働の中に「愛すること」が入っているのではないか。だから「男」として愛することを当然のこととして請求するのである。
そういや、確か多木浩二が書いていたな。「愛とは家庭内だけで流通する通貨である」

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2016年12月31日 (土)

なんとか2016年を振り返ってみたぞ

★古楽コンサート部門
シギスヴァルト・クイケン&ラ・プティット・バンド「マタイ受難曲」
これまで聞いたことも見たこともない「マタイ」であった。孫(?)ぐらいの若い奏者を多く起用しているのも驚いた。それにしても、1000人近い聴衆および共演者を待たせて悠然とガンバの調弦をするなんてできるのは、シギス親爺ぐらいなもんだろう。北は北海道、南は沖縄まで全国津々浦々巡回してほしかった。

「室内楽の夕べ バッハとテレマン」(木の器)
地道ながら、着実な活動を続けている。

「ヴェネツィアの休日」(ベルリン古楽アカデミー)
リー・サンタナの意外な活躍にも注目。

フライブルク・バロック・オーケストラ
素晴らしいの一言。久々に心から「聞けてヨカッタ(^◇^)」と思えたコンサートだった。

*大貫妙子「Symphonic Concert 2016」
フルオーケストラと共演という、相変わらずの「攻め」の姿勢に感服しましたm(__)m


★録音部門
◆古楽系
*「マラン・マレ1689」(パオロ・パンドルフォ)

*「バッハとライバルたち」(バッハ・プレイヤーズ)
ライプツィヒの音楽監督のオーディションにおける提出作品聴き比べ、という企画の勝利みたいなテレマン、グラウプナー、バッハのカンタータ集。

*”A Breath Of New Life”(Saskia Coolen他)
よく分からないけど買ったら当たりだったリコーダー・アンサンブル集。ジャケットのデザインも変わっている。

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◆ロック・ポップス系
*"Dig In Deep" (ボニー・レイット)
さすがに歌声は衰えた印象だが、ソングライティング、アレンジ、演奏、どれも近年にない出来。聞きほれちゃう。でも。これって国内盤出てないのか(?_?) なんてこったいdanger

*"Colvin & Earle"
二人ともベテランだが、その音楽は瑞々しい。

*「ザ・ゲッタウェイ」 (レッド・ホット・チリ・ペッパーズ)

*「ア・ムーン・シェイプト・プール」(レディオヘッド)
レッチリもレディオヘッドもこれまでとは違う作風で戸惑ったが、聞きこむとやはり完成度は高い。

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★本
「転落の街」(マイクル・コナリー)

*「ランド」1~3巻(山下和美)
確実に現在の不穏な社会状況を反映している。早く続きが読みたーい\(-o-)/

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2016年11月20日 (日)

「転落の街」上・下

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著者:マイクル・コナリー
講談社文庫2016年

ロス市警の刑事ハリー・ボッシュのシリーズ。邦訳としては15作目ぐらいになるか? 訳者あとがきで「香港で派手なドンパチを繰り広げた前作とは打って変わり」と書かれているように、『ナイン・ドラゴンズ』では主人公は誘拐された娘を救うためにチャイニーズ・マフィア相手に異国で暴れまくったのであった(^_^メ)

しかし、今回は以前の地道な警察小説路線に復帰。(もっとも、さらに前のシリーズの初期はハードボイルド色が強かったが)
殺人課未解決事件班(いわゆる「コールドケース」捜査)として、新たなDNA鑑定によって過去の事件の関係者として浮上した人物を担当することになる。

一方、かつての上司で今は市議会議員のアーヴィングからご指名を受けて、管轄外の転落事件を捜査する羽目になるのだった。
シリーズ初期はかなり以前に読んだきりなのでうろ覚えだが、アーヴィングはボッシュの宿敵であり、さらに自分の父親ではないかと疑ったこともあったという複雑な関係なのである。
議員は今では警察批判の急先鋒になっていて、こちらの事件の結果如何によっては大騒動になりかねない。

二つの事件が最初無関係に見えたのが、物語が進むにつれてその関連が明らかになる--というのはよくあるパターンだが、本作では主人公が同時に担当しているという以外に共通点がないままに進む。これは関係ないまま終わるのか、と思ったところであっと驚く展開になるのだった。こいつはやられました(!o!)

その背後には警察内部の権力争いや過去の因縁などが潜む。決して表面には現れることのない組織内の力学であり、駆け引きである。警察という組織が本来掲げる「正義」とか「規範」というものを完全に反するのだ。

以前、やはり警察組織の勢力争いを描いた日本のミステリを数冊読んだが、正直「組織内の抗争を描くのが主で、事件はそのための道具に過ぎないんじゃ?」と思ったものだ。早い話が、これが警察でなくて広告代理店が舞台で「クライアントが第一じゃないのか~annoy」と叫ぶ、みたいな内容でも全く変わらない。

本作では事件と権力抗争は表裏一体となっている。抗争は事件の陰に隠れて定かには見えない。しかし明らかに存在している。主人公はその渦中にいるはずなのだが、何が起こっているかも分からないのだ。
それが最後になって噴出してくる。事件を利用するなどというのは、犯罪被害者や遺族の益を一義に考えるボッシュにとっては我慢のならないことである。

この状態は二匹のヘビが互いに尻尾を食い合っているようなもので、彼は選択を迫られるが、実はどちらを選んでもうまくは行かないだろう。決然と自分の道を選んでも、絶望感が覆い尽くす。
混沌とした状況を二重構造で描き出すコナリーの手腕を見ると、申し訳ないが前述の日本の警察小説は児戯に等しいとさえ感じてしまった。

それにしても、彼ととある人物の決別は読んでて苦しいtyphoon 二人の道は完全に分かれたのである。

次作では彼がどのような状況になっているのか、早く知りたい。定年延長問題はあのままか。日本でも刊行が決まっているようなので、翻訳早くお願いします(^人^)


ところで、高校生の娘がショッピングモールに友人と遊びに行くのに、主人公が警備の状況まで細かくチェックするのは驚いた。確かに銃犯罪とか誘拐とか心配だろうけど……。
日本だと、小学生同士でもウロウロしているもんなー。

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2016年4月 3日 (日)

「バラカ」

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著者:桐野夏生
集英社2016年

読むだけで消耗してしまう小説である。マイッタ(@_@;)

大震災の後、原発4基が全て爆発し、首都は東京から大阪へ移転している。住民が避難した群馬県某市でボランティアが一人残された幼女を発見する。「バラカ」とは彼女が喋った唯一の言葉だ。

その少女をめぐって、震災前そして後も、様々な人の思惑やら事件やらが渦巻いていく。カネ、宗教、家族、愛欲……typhoon
登場する人物のほとんどはろくでもないヤツばかりだ。悪意の塊のような人物も現れる(某事件を想起)。原発派も反原発派も彼女を利用することしか考えていない。しかも人間がどんどん消えていく。
読んでて暗澹としてくるのは仕方ない。神も仏もないとはこのことだ。

そして、何やら背後にうごめく陰謀めいたもの。それも明確に姿を見せないまま消えていく。漠とした不安と恐怖……それは震災後に頭上を覆うものを象徴しているように思えた。ドス黒い流れのような何か。

この小説の連載が始まったのはなんと2011年の8月である(構想自体は震災より前からとのこと)。ならば書き始めた時にはまだ原発全部爆発bombというような事態になる可能性も生々しかったはずだ。作者はよく書いたもんである。オリンピックについての批判も厳しい。

それだけに結末には、いささか気が抜けたような気分になった。だが、ここは素直に近所のオバサン目線で「幸せになってよかったねgood」と言っておこう。
それと、終盤の「なぜなら、私たちは何も法律を犯していません。(中略)だから、私たちが彼らを助けないで、誰が助けるのでしょう」というセリフの力強さには心動かされたですよ。

決して好きだとは言い難い小説だが、今の日本の暗部を確実に描いていると言えるだろう。

ただ、とある人物の最後の死は理由が分からなかった。後で何か説明が出てくるのかと期待していたが結局何もなかったし。そういう人間だから、では納得できん。

それにしても「きれいな服を着せて可愛がりたい」というような理由で養子を貰おうとする人間が現実にいるのだろうか。いないことを願う。金魚でも飼ってろと言いたい。

カバーの写真は森山大道の作品。強烈である。


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2016年2月27日 (土)

元祖文壇ゴシップ

知人が小島政二郎の本を読んでいたのをきっかけに、私も読んでみた。恥ずかしながら、それまで彼の名前を聞いたことがなかった(一応、学校ではその方面を専攻したんですが(・・;))。

小島政二郎は1894年生まれ、同い年には江戸川乱歩、高群逸枝がいる。戦前戦後と直木賞の選考委員を長くやっていたが、トラブルが多くて委員を辞めた時には一同がバンザイヽ(^o^)丿を叫んだ--というのは本当かい。

読んだのは『鴎外荷風万太郎』(文藝春秋新社刊、1965年)で、そのタイトルで想像つくように5人の作家についての回想録となっている。もっとも、一部は「見てきたような嘘を言い」ではないが、第三者が知りえないような部分が小説もどきで書かれている(荷風と芸者富松の会話など)。

文書は読みやすくて、これがまためっぽう面白い。身近に付き合っていた芥川龍之介が死に傾いていく様子や、軍服を着てカイゼル髭の森鴎外を電車の中で初めて目撃したエピソードなど、丁寧に描かれている。この二人についてはだ……。

一方、鈴木三重吉となるとこりゃひどい(!o!) これを読んだ誰もが「三重吉サイテーpunchとんでもないDV野郎だ。雑誌『赤い鳥』の話なんて二度と聞きたくない」と思うに違いない。

私はこの年になるまで、三重吉ほど冷酷で無慚な人間を見たことがなかった

と断言しているほどなのだから相当なもんである。

続いて荷風については若いころ読んで心酔したと書きながら、荷風が鴎外の「舞姫」事件について自分なら女に後を追わせるようなヘマはしない、と自慢げに語るのを聞くと思ったのは

いつでも女があとを追ってこないように用心して付き合っていたからだ。(中略)主人公の女に対する態度を見るがいい。一人として女を自分と対等に見ている者はいない。荷風ほどの文明批評家が、女を見ること無頼漢に等しい。

最後の一文など実に痛烈な批判である。まさに二重規範のというものの一面をついて現代でも通用しそうだ。しかも、本人に向かって言ったら激怒されたそうな。……本人に言うかね(^^;)

なお、学生時代には勉強もしないで荷風を読みふけっていたために、父親に本を庭に投げ捨てられたそうだ。しばらく前にネットで、子どもがさぼったためにゲーム機を親に壊されたというのが話題になっていたが、昔荷風で今ゲーム機(^O^) 親のやることは本質的に変わっていないようである。

久保田万太郎に関しても手厳しい。

一面センチメンタルであるくせに、一度弱い立場に立った者に対しては、実に冷酷無慙だった。

そして若い頃は「気が弱く、女々しい、移り気な」で生活下手で、作家としてだけ生きていたら落伍していただろうが、戦後に演劇界、芸能界に勢力を築き君臨し「文化勲章を背景に翳した偉大なボス」となったのを皮肉交じりに描いている。

もっとも、万太郎にしても荷風にしてもキビシイことを書いていても、愛憎半ばという様子がチラチラする。
てなわけで非常に面白かった。

小島政二郎のヒット作となった「食いしん坊」も少し読んだが、冒頭、下戸の甘いもの好きとあって、現在も東京にある老舗の和菓子屋について書いている。
それらの店の餡を「震災後からダメになって、戦争後はもっとひどくなった」などとクサしている。震災というのはもちろん関東大震災のことだ。餡が小豆の味がしないのだという。
そんな昔からダメなら現在となってはもっとひどいのだろうかng

それを読んでいるうちに、私の母親の作ったお汁粉を思い出した。母親は、実家から送ってきた小豆をゆでて、甘さを控えて小豆がた~っぷり入ったお汁粉を作って食べさせてくれた。今でもあの小豆の舌触りを覚えている。
あのお汁粉をもう一度食べたーい(>O<)

なに?自分で作ればいいじゃないかって? そんなことができれば苦労はせんよspa

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2015年12月31日 (木)

2015年を振り返ってみましたよ

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★古楽コンサート部門
「夏の夜のダルカディア」(アンサンブル・リクレアツィオン・ダルカディア)
誰もよく知らない作曲家シリーズをこれからもお願いしたい。

J.S.バッハ「フーガの技法」(ザ・ロイヤルコンソート)

「コレッリ!!」(寺神戸亮&チョー・ソンヨン)
以前にも聞いたことはあったが、小さな会場で間近に見ると「フォリア」を弾く寺神戸亮の背後からはメ~ラメラとコレッリ魂が燃え上がっていた。涙目になってしまった。
当然のことではあるが、音楽のもたらす感動というのは会場の規模とか客の数とか、そういうもんには何にも関係ないなあと、ヒシと感じた。

「室内楽の夕べ フランスとドイツの作品を集めて」
「室内楽の夕べ ダブルリード楽器の饗宴」
この二つとも木の器主催。前者は3人の全く対等にして多彩なアンサンブルに感動。後者については、やはりオーボエ二本によるゼレンカのソナタ。もう二度とナマで聴く機会はあるまいよ。
ただ、残念なのは客が少ないこと。来年はもっと増えて欲しいなあ(*^_^*)

「オルフェ 18世紀ベルサイユ宮殿にて王に捧げられた音楽」(高橋美千子)
2016年は美千子萌え~heart02になりそう。

ヘンデル オペラ「フラーヴィオ」(日本ヘンデル協会)
ヘンリー・パーセル「妖精の女王」(北とぴあ国際音楽祭)
やはりオペラは歌手が生きてナンボと感じた。とはいえ、バロックオペラを5本も見られて(聞けて)幸運な年でしたよfuji

*コンサートに関する事件としては、「親密な語らい」(前田りり子&佐野健二)中の地震だろう。
揺れには負けぬが、緊急防災放送には負けた_| ̄|○


★録音部門
note古楽系
*「ドレスデン宮廷の室内楽作品集」(ヨハネス・プラムゾーラー&アンサンブル・ディドロ)
新進気鋭のヴァイオリニストによるヘンデル、ファッシュ、フックスなど。一人だけ突出したりせずにアンサンブルの調和のツボを押さえているのも好感。

*「パッヘルベルとバッハ」(ザ・バッハ・プレイヤーズ)
先輩パッヘルベルと後輩バッハの美しい(?)絆を抽出する好企画盤。特にBWV4が素晴らしい。来日してくれんかなー。

*「名器「グライフ」によるバッハとヴァイスの音楽」(佐藤豊彦)
もはや枯淡の域である。

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notesロック・ポップス系
*「Tint」(大貫妙子&小松亮太)
歌唱・演奏はもちろん、選曲、曲順、アレンジ、録音、さらにパッケージ・デザインまで完璧に統一された美意識に貫かれている。一曲ごとの配信が普通という時代に、このベテランの意地みたいのには感嘆する。

*「カヴァード」(ロバート・グラスパー)
今の音楽状況のキーマンの一人。ジャズは守備範囲外だが、完成度高く聞かせるものがある。

*「オーケストリオン」(パット・メセニー)
録音自体は数年前に出ていてこんなものかと思ってたが、今年になって演奏の映像が出て認識を改めた。様々なアコースティック楽器に自分一人が弾いたフレーズをループさせ、どんどん変化させていく。古びた教会で、触りもしない楽器が演奏している様は懐かしい幽霊たちと共演しているようでなぜか郷愁を感じさせる。

*「アイ・ワズント・ボーン・トゥ・ルーズ・ユー」(スワーヴドライヴァー) ←忘れてて後から追加
昔よく聞いたバンドが、なんと17年ぶりに復活だいpunch 元祖シューゲイザーということらしいが、マイブラの新盤がどうも今イチだった人間には、このパワーアップは嬉しい。


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2015年8月19日 (水)

「ソラリス」

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著者:スタニスワフ・レム
ハヤカワ文庫2015年

感想を書くのは映画やコンサートに押されて、本はどうしても後回しになってしまう。刊行されてすぐに読んだのに、ここまで時間が開いてしまった。

飯田規和訳の『ソラリスの陽のもとに』は、大昔にご近所の公共図書館で借りて読んだ。早川書房の『世界SF全集』(1968年)である。後に文庫版が出た時に買おうかと思って、結局SF全集のその巻を買うことにした。ハードカバーなのに値段があまり違わないうえに、全集の方にはもう一つ長編『砂漠の惑星』(『砂の惑星』と違うので注意danger)が収録されているからだ。実は『砂漠~』も非常に気に入っていたのだ。
もっとも買った後、ほとんど開かなかったのだが……。

この度の『ソラリス』は、沼野充義訳で2004年に国書刊行会から出版されたもの。それがハヤカワ文庫から再刊された。飯田訳では割愛された部分もある完訳版ということで、××年ぶりに読んでみた。

冒頭はよく指摘されているようにホラー小説のようである。前回読んだ時は全く感じなかったのだが。
ソラリスは表面全てが「海」に覆われた惑星だ。その上空に浮かぶステーションに「私」が到着すると、何やら荒廃した雰囲気が漂っている。しかも、3人いた研究者のうち一人は死亡、もう一人は姿を隠し、残った一人は挙動不審である。
さらにステーション内にはいるはずのない何者かが出没……(>O<)ギャ~~ッ!
そして、遂に「私」の元にもそれは来るのだsweat01

もう一つ感じたのは、人間とソラリスの遭遇経過や、「ソラリス学」の系譜をたどる部分がかなりページを費やしていることである。こんなに長かったっけ(?_?)と思う程で、人によっては退屈で投げ出してしまうかもしれない。しかし、自分でも意外だが結構面白くこの部分を読み進んだ。

執拗なまでに反復される二重太陽からの陽光の描写、刻々と変わる海の形状、一番恐ろしかったのは終盤近くで声が聞こえてくる場面である。やはりここは幽霊屋敷なのか。
確かにそこで人間は過去の亡霊と遭遇するのだ。

そもそもソラリスの海全体が一つの巨大な生命体という設定が驚くべきものがある。
作者の意図は次のような一文に現われている。

われわれは宇宙を征服したいわけでは全然なく、ただ、宇宙の果てまで地球を押し広げたいだけなんだ。(中略)人間は人間以外の誰も求めてはいないんだ。われわれは他の世界なんて必要としていない。われわれに必要なのは、鏡なんだ。(中略)そこで自分自身の理想化された姿を見つけたくなるのさ。

人間は他の世界、他の文明と出会うために出かけて行ったくせに、自分自身のことも完全に知らないのだ。

ソラリスは絶対的な他者であり、敵対的でも友好的でもない。タコとか爬虫類とか分かりやすい生物に似てはいない。そもそもコミュニケーションが取れるのかも不明である。
この小説の書かれた前にもまた書かれた後にも生み出された幾多の物語。そこに出現する友好的で親しみやすい、あるいは敵対的で醜悪な地球外生物、というような範疇から全く外れている。

遥か宇宙へ出て行って他の知性体との接触を目指すが、折角遭遇した相手は予想外の形状でコンタクトもできない。しかも、向こうが一方的に送り付けてきたのは人間の内部に潜んでいるものなのである。
わざわざ手間をかけて宇宙へ出かけ、結局遭遇したのは自分自身である、というのは大いなる皮肉だ。

しかし、意図は必ずしも結果を保証しない。読み手は作者の意図を越えて様々に解釈することが可能である。
それが、他のレムの作品に比べてこの『ソラリス』がポピュラーな人気を博している理由だろう。

レムは恐らく映画好きだと思われる。訳者の解説によると二本の映画化作品(タルコフスキーとソダーバーグ)両方とも気に入っていないと言明している。また別の小説(『枯草熱』だっかな?)では主人公の活躍がハリウッドで映画化されて内容が興ざめだった、みたいなことが述べられている。映画に興味が無かったら、そんなことをわざわざ書かないだろう。

私は二本ともロードショー公開時に見た。確かに、原作の立場から見ると「う~む」と思わざるを得ない。
そういや、タルコフスキー版の方は多分初めて自分一人で見に行った映画じゃないかと記憶している。上映館は岩波ホールで、当時から古~っぽいイメージだった。(出来たばかりだったと記憶してるけど……)

もし3回目の映画化があるのなら、今度はホラー映画仕立てでやると面白いだろう。『シャイニング』みたいな調子で、「到着一日目」という字幕がドーンと出てきたりするとコワくていいかも。


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2015年8月 6日 (木)

「ゲルマニア」

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著者:ハラルト・ギルバース
集英社文庫2015年

ドイツ産ミステリ。ジャンル的には警察捜査ものになるか。
珍しいのは設定である。舞台は1944年の空襲下のベルリン。元刑事の主人公はユダヤ人で公職を追われたが、「疎開」(収容所へ送られること)を免れているのは妻がユダヤ人ではないからである。

ある晩、突然に親衛隊将校に殺人現場に連れて来られる。そこにあったのは極めて残虐な方法で殺された死体であった……。将校は有能な刑事だった彼に捜査の助けを求めたかったのだ。背景にはそれまでの警察が隅に追いやられ、親衛隊情報部、国家秘密警察(ゲシュタポ)が割り込んで混乱をきたしているということがある。
主人公は久々の事件に刑事魂が復活、捜査するうちに連続殺人ではないかと推理する。おまけに、役得で本物のコーヒーにありつけたりもする。

作者は1969年生まれということだが、かなり当時の市民生活が書き込まれている。頻繁な空襲、街の破壊、物資不足、ユダヤ人アパートなど。それと共にこんな描写もある。

 その日はじめて、人々は自らの国の虜囚となったことに気付いた。ヒルデも路面電車で黒焦げになったシナゴーグのそばを通りすぎた。路面電車に乗っている人々が勝利に沸くことはなかった。「反ユダヤ主義はいいが、やりすぎだ」と、乗客の誰かがつぶやいた。だが同調する者はいなかった。みんな、臆病だったのだ。

うむむ、過去の他国の話とも言い切れない(ーー;)

この手のミステリは犯人の意外性よりは、どうやってたどり着くかという過程に重きが置かれるものだ。だが、それにしてもラストは緒と性急すぎた感がある。
でも読ませる力のある作者なので、続編が出たらよろしくお願いしまーす。


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