書籍・雑誌

2021年8月29日 (日)

【少女マンガ再読】「見えない秋」(樹村みのり)

210829 *初出「別冊少女コミック」誌1974年11月号、『ポケットの中の季節』第1巻(小学館フラワーコミックス1976年)所収

訳あって樹村みのりの古いコミックスを掘り返してチラ見していたら、思わずドトーのように涙を流してしまったのがこの短編である。

樹村みのりには「病気の日」という名短編があって、これは小学生の女の子が家で寝ていて「病気の日はちょっと楽しいな🎵」と思うという、ストーリー的にはただそれだけの作品なのだ。
この「見えない秋」も同じタイプで、同級生の突然の死を知った少女の心理をたどるだけで、やはり明確なストーリーはない。しかし同様に短編マンガとしての完成度は極めて高いものだ。

夏休みが終わって小学校に登校すると、担任の先生から同じクラスの少年の急な死が告げられる。

こんなふうにして その男の子は 突然みんなのあいだから いなくなってしまったのでした

主人公の少女は静かな少年の何気ない言葉や行動を何かと思い出す。それは他の子どもたちも目撃していたはずだが、実際覚えているのは彼女だけなのだ。
生の象徴である夏の終わりが近づくにつれ、忍び寄ってくる秋と同様に死もまた日常に潜んでいることを少女は感じ取る。それは根源的な恐怖と不安だ。

あんなにたしかだったことも 私が死んでしまうといっしょにうしなわれてしまうのでしょうか?

そして転校生がやってくる。その子は少年とは完全に正反対なのだが、空いていた少年の席に座ることになった。少女はそれを遠くから見守るだけ。もはや少年の存在の痕跡はどこにもない。
そして運動会の季節がやってくる。

俊足の転校生が走る徒競走、そしてくす玉割りをクライマックスとして、それまで少女の内心を代弁するように続いていた語りが突然変化する。

だから小さい子 こわがってはいけません おびえてしまってはいけません 死ぬことは死にまかせなさい

割れるくす玉に激しい生のエネルギーが重ね合わされる。そしてその後に付け加えられた転校生との短いエピソードによって、日常の生へと回帰していく。
このあたりの流れと構成は見事と言うしかない。コマ割りも素晴らしい。
夏休みに雲を追いかける光景に散りばめられた記憶、対比される秋口の路地の静けさ……。読者の視線の動きを完璧に計算しているとしか思えないようなページもある。

私はよく考えるのだが、このような巧みな表現はライター講座とかマンガ教室のような所で学べるものだろうか。おそらくは作者は本能で描いているのだろう。読むたびに感心するのだ。

言葉にもできぬもの、絵にも描けぬものを確実に表現する、そのような作品である。

樹村みのりは基本的に短編作家であり長編といっても1巻ぐらい。何十巻も続くようなものは描いていない。
やはりマンガの人気作とか代表作と言えばどうしても長尺な作品を思い浮かべてしまう。彼女のような短編作家は認められにくいだろう。残念である。

なお、彼女の作品は紙本は入手が難しいらしいが電子書籍では読めるようだ。

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2021年8月22日 (日)

「令和元年のテロリズム」

210822 著者:磯部涼
新潮社2021年

他の人の感想を見かけて興味を持ったルポルタージュ書である。
平成31年=令和元年に起こった4つの事件を取り上げている。「川崎殺傷事件」(R元年5/28)、「元農水省事務次官長男殺害事件」(同6/1)、「京都アニメーション放火殺傷事件」(同7/18)、「東池袋自動車暴走死傷事故」(H31年4/19)。

読み始めて衝撃だったのは、第1章の川崎の殺傷事件(スクールバスを待つ小学生・保護者などを襲撃)は20人もの被害者を出したのだが、私は事件以降スッパリと完璧に忘れていたことだ。
そういえば、確かにその事件あったな……と思い出した自分がイヤ~ッ(><)

この事件と長男殺害事件は明確に関連がある。同じような事件を長男が起こすのではと恐れた父親が正当防衛で殺害したのだ(と自身が動機を語っている)。
第4章は後者の事件の裁判傍聴記となっているが、一番驚いたのは同じ家にいた母親が犯行後に「事態を察し」て荷物をまとめてタクシーに乗りホテルに避難した、という件りだった。「ええー(!o!)」てなもんである。

第3章は説明も必要のないであろう京アニ事件である。
著者はこの三件の事件を広義のテロリズムと解釈している。すなわちその「恐怖が社会に対して影響をもたらす犯罪」である。そして改元時に起こったこれらの犯罪の加害者二人と被害者一人について、共通のものを見出そうとしているようだ。
居住地は川崎、練馬区、さいたまということで実際に現地を訪ねて取材している。

しかし世代が近いとはいえ彼らの生育環境や階層はかなり異なるし、その土地の雰囲気は何も語らないであろう。果たしてそこに関連あるのか。著者(および読者)の勝手な思い込みが生じているだけと思えなくもない。

ただネット上での反応は苛烈なものがある。かつて昭和時代にあったようなある種、犯罪に対するロマンチシズムのようなものは存在しない。
唯一平成の元号下に起こった池袋の暴走事故の、加害者に対する根拠なき陰謀論めいたネット論議が沸騰した。そのことが現状を示すようだ。

いずれの事件も原因は明確にならないまま通り過ぎていく。ネットを騒がせるネタとして消費されただけに終わらないように願う。


そういえば、つい最近起こった小田急線刺傷事件の犯人は登戸駅から快速急行に乗り換えたそうな。「床にサラダ油をまいて火をつけようとした」というのは明らかに京アニ事件を思い出させる。やはり悪意は伝染するのか。

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2021年6月 3日 (木)

「レベレーション 啓示」/「王妃マルゴ」

「レベレーション 啓示」全6巻
著者:山岸凉子
小学館(モーニングKC)2015年~2020年

「王妃マルゴ」全8巻
著者:萩尾望都
集英社2013年~2020年

210603a フランスを舞台にした歴史マンガ二作について、いつか感想を書こうと思いつつここまで、引き延ばしてしまった。なんとか書いてみたい。

まずはジャンヌ・ダルクを主人公にした『レベレーション』である。
元々は「神がかった人間はどういうものなのか」を描きたいという動機があったとのことだ。候補は3人いたが「モーニング」連載の話があって、男性読者にウケるならジャンヌ・ダルクがいいかと選んだそうな。すると候補の他の二人は男ということになる。一体誰だったのか知りたくなる。

さらに毎月はキツイという理由で隔月連載にしてもらったら、同時期に『王妃マルゴ』を毎月連載中の萩尾望都から「隔月って、残りの一か月は一体何をしているの」と言われたとか(^▽^;)

山岸の長編作品の特徴として、社会や共同体の中で特異な能力を持った人物がその能力を発揮して成功する、あるいは失敗する過程を描くものが多い。この作品でもそれは同様である。
神の声を聞くという力に目覚めた「羊飼いの娘」ジャンヌは父親が持ってきた結婚話を拒否して、声に突き動かされ自ら複雑な政治的・宗教的対立の中に分け入っていく。女・農民・若年--とすべての面で当時の体制からは外れている存在であり、本来なら相手にされなくて当然だ。さらに男装しているとあれば異端でしかない。

その幻視能力、嫌がらせに近い審問や試練にも耐える機転、権威や権力を恐れず、そしてなにより強い信念により、軍隊を率いるまでになる。
しかし、その後に複数の勢力の思惑の中で孤立するのもまた信念の強さのためである。

フランスの領土を取り戻しシャルル7世の戴冠に大きく貢献したとあれば救国の英雄だろう。しかし、その彼女を最後に待ち構えていたのは44人のオヤジ(若い者もまざっているが)による異端審問であった……💣
それすなわち身分も地位もある高僧が字も読めぬ娘っ子をいぢめるという図に他ならない。

ジャンヌは回想の中で、故郷に帰り「羊飼いの娘」に戻る機会があったのに戻らなかったと認める。「正直今はパンをこねたり糸を紡ぐ自分は考えられない」と突き進んだのだと……。
「女に男の服を着られるだけで侮辱を感じる」という時代となれば、素朴な農民の娘から逸脱、どころか侵犯してきた男装の女戦士を社会は許すはずもなく、魔女と認定され火刑に処せられるしかない。
それでも、信念を貫き通した彼女にとっては悲劇ではなかった--と結末は訴える。そして、そこに中世からルネサンス期の狭間という大昔に生きた少女が今現在においても、生々しく立ち上がってくるのだった。

それにしても第1巻あたりの神の啓示場面は限りなくホラーに近い。夜中に見たら心臓に悪いぐらいである。さすが霊感を持つという山岸凉子💦と言いたくなるぐらいだ。


210603b さて『レベレーション』冒頭は1425年に始まり、1431年に終わる。当時の英仏絡んだ歴史的背景は複雑だが、カトリック×プロテスタントの宗教対立まで絡んでくる『王妃マルゴ』の背景も極めて複雑である。
こちらは130年ほど後、マルゴことマルグリット・ド・ヴァロワが6歳の時から始まる。ジャンヌが貧しい農民の娘なら、一方マルゴはフランス国王の美しい娘である。天と地ぐらいの差だ。
加えて政争と戦乱の中で62歳まで長生きしたというのもジャンヌと対照的である。

「一番ステキな夢は美しい王子様と結婚すること」と愛を夢見る少女のマルゴだったが、残念ながら王族の一人であるからそんな自由はない。初恋の相手とは引き離され、国家と宗教の間で政略結婚をさせられるのみ。
しかも肝心の結婚相手のアンリ(4世)はあらゆる意味で信頼できない男であった💢

さらに、その背後には恐ろしい猛母たるカトリーヌ・ド・メディチが存在する。息子たちを次々に王位につける中で隠然たる支配力を奮う。それは敵どころか自分の子どもでさえ暗殺することも辞さない、非常に恐ろしい母親である。読んでいてコワ過ぎて泣きそうなぐらいだ。
マルゴも自分の母親に殺されるのではないかと常に戦々恐々とする。この恐るべき母を描く萩尾望都の筆致は実に容赦がない。まさに真骨頂と言えるだろう。

その血で血を洗う複雑な勢力関係の荒波の中で、夢見る少女はやがて自らの美貌と肉体を武器にすることを辞さぬまでになる。
後世に彼女は「華麗なる恋愛遍歴」、別の言い方をすれば「淫乱」などと評されたようだ。しかしそのような人物像ではなく、作者は天寿を全うするまでただ一人の男への愛を貫いた純粋な女としての一代記を描いたのである。

この作品は驚いたことに萩尾望都の初の歴史ものだという。「ポー」シリーズなどで様々な時代を風俗にこだわって描いているので、てっきり歴史ものも描いていると思ったのだが違ったのね(;^ω^)
しかも最初の掲載誌が休刊になり、別の雑誌に引っ越し連載という災難にあった。そのせいか終盤が駆け足っぽくなってしまったのはちと残念である。


ベテランのマンガ家が二人揃ってフランス史に残る女性(しかし極めて対照的な)を描いたことは奇遇としか言いようがないが、その背後に存在するテーマは若い頃からこだわってきたものと不変であり、「三つ子の魂百までも」なのが読み取れる。
そして、自らの信仰と意志を貫き逸脱したジャンヌが二十歳前に早世し、身分と政治の境界の中で流されてサバイブしたマルゴが長生きしたというのも、何やらいつの世であっても変わらぬ女の行く末を描いているようだ。


210603c 【オマケ】
ついでに関連した音楽を紹介しよう。
ジャック・リヴェットが1994年に作った『ジャンヌ・ダルク』前・後編のサウンドトラック。音楽担当はジョルディ・サヴァールで、「ロム・アルメ」(武装した人)をモチーフに使い、当時の写本の曲、デュファイの作品、そしてサヴァールのオリジナル曲から構成されている。
公開当時、サンドリーヌ・ボヌールのジャンヌがナウシカみたいだと話題になった。ここにもハヤオの影響が(!o!)

210603d ルネサンス期作品をレパートリーとするデュース・メモワールによる、デュ・コーロワの作品集。彼はアンリ4世(マルゴの元夫)の宮廷楽団の音楽監督だった。
2枚組の片方に、暗殺にあったアンリ4世の葬儀で演奏された「国王のためのレクイエム」を収録している。(司祭の説教まで付いている)
演奏の水準は高く極めて美しく、何度でも聞きたくなる。
付属のブックレットには、暗殺時に乗っていたものとおぼしき国王の馬車の写真が載っている。実物が残ってるんでしょうか。

210603e

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2021年5月22日 (土)

今ひとたびの「一度きりの大泉の話」

210522 自分の感想を書いてから、他の人の評などを読んで思ったことを追加したい。

私は小学生低学年の頃は少女マンガをよく読んでいたが、その後は縁遠くなってしまった。萩尾望都を初めて読んだのは、高校の同じクラスでマン研に入っている子が「布教用」に持っている『ポー』や『トーマ』を貸してくれた時である。
家へ持って帰って読んでいたら、6歳上の兄も一緒になって読んで「すごい!」と興奮して、大学のマン研所属の友人に電話をかけ「遠藤周作とかヘッセみたいなんだ」(←兄が好きな作家)と力説した。もっともその人はマン研内でもエロ劇画専門だったので、今ひとつ反応は薄かったようだ。

その後、定期的に少女マンガ雑誌数種類を立ち読みするようにまでなった(昔は金はないが体力だけはあった)。
当時、『風と木の詩』は連載開始前から話題になっていて「遂に世に出るのか」「なんか過激らしい」みたいな噂が流れていた。まさに満を持して登場✨といった状況である。
雑誌が発売された時はいち早く本屋に行って、周囲に人がいないかキョロキョロと気にしつつドキドキして立ち読みした。

リアルタイムでは萩尾作品と似ているとは思わず、単にヨーロッパの男子校寄宿舎という設定がはやっているのだなあという感じで読んでいた。確か池田理代子(『オルフェウスの窓』第一部、か?)や坂田靖子も描いていたはずだ。
『小鳥の巣』はゴシックホラー、『トーマ』はミステリ志向であって、『風木』とはジャンルからして異なるという印象だった。

しかし後から考えてみると、竹宮惠子にとっては自分こそ少年愛の先駆者だ、先駆者たらねばならない⚡という強烈な自負があったに違いない。
その自負心の前では、当時だろうが現在だろうが「全く似てない」とか「盗作じゃない」などと他者が論じても意味はないのだ。
なんで『11月のギムナジウム』の時はOKだったのに『小鳥の巣』や『トーマ』になるとダメなのか(?_?)と問うても無駄である。

唯一で最高の作品を描くのは先駆者の彼女なのであり、だから全ての尺度は彼女が決めるのである。これはもはや論理ではない。自らを恃む強い意志と感情なのだろう。

さらに問題は、竹宮は萩尾を自分に脅威を与えるライバルと見なしたけど、萩尾の方は心強い「仲間」とか「同好の士」と思っていたのではないかということだ。

登山を引き合いに出してみると、同じ山頂をめざして山登りをする仲間なら競争ではないのだから足を引っ張り合うことなどはなく、個々人がただ黙々と進んでいけばいいだけである。
途中で別ルートに別れたり、道が交差したりもするし、道具や水筒を貸してやったりもするだろう。それぞれ躓いたり休んだり時間差も出るかもしれない。が、とりあえず登っていけばいい。

そう思って歩いていたら--突然に道の前に立ちはだかり「あんたは登ってくるな」と突き落とされたらどうなるだろうか。「な、なんで~?」と斜面を転がり落ちながら思うはずだ。

萩尾は『一度』の中で、これが狭い道一本しかなく一人しか選ばれないバレエの舞台とか、親から平等に扱われるはずの姉妹関係なら「嫉妬というのもわかる」と書いている。
しかし山頂は広くみんなに開かれていて誰でも登るのは可能ではなかったのか。
一緒に登っていたはずがいつ敵になってしまったのだろう。そもそも山頂は独占するような狭いものだったのかな。

他の感想を見ると「天才過ぎて竹宮の作品など相手にしなかった」さらには「見下していた」などという極端な解釈まであったが、そりゃ違うだろうと思う。「無神経で鈍感だから気付かなかった」に至ってはナニソレ┐( ̄ヘ ̄)┌である。

「仲間」と思っていれば、自分の所に送られてこない掲載誌や描いたクロッキーブックを見せてもらうのは普通だし、その他情報を共有したりお喋りしにいくのも当たり前のはずだ。
しかし「敵」だと思われていたらどうなるか。相手からは「邪魔」「鬱陶しい」「スパイか?」となるだろう。

少女マンガの仲間だと思っていたら「敵」だったというのがそもそもの食い違いであり、悲劇の始まりだったのではないか。そして、二人が別の人格である限りこれはどうにもしようがないことなのだ。


なお、独特の文体で書かれているために「幼い」などと見当はずれの形容をする意見も見たが、勘違いだろう。「事件」が起きた時は20代前半の若い子ではあっても現在はベテランの表現者である。回想の表現が整然としてなくても、至る所に「証拠はある」「文句があるなら毅然とした態度をとる」意志は感じさせるのよねえ。
いずれにせよ、今年最大の話題書の候補に入るだろう。

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2021年5月 8日 (土)

「一度きりの大泉の話」

210508a 著者:萩尾望都
河出書房新社2021年

(以下、全て敬称略)
発売前の告知だけで少女マンガ界隈が騒然となった手記である。
1970年秋から若い少女マンガ家(とその卵やファン)が集ったいわゆる「大泉サロン」については、半ば「伝説」と化していた。
近年、竹宮惠子がその時代を回顧した『少年の名はジルベール』(2016年)が出版された。さらにそれをふまえた上で他の資料・記録を検証し他のマンガの動向も合わせてまとめたのが中川右介『萩尾望都と竹宮惠子』(感想はこちら)である。
一方、これまで萩尾サイドからはまとまったものは何もなかった。

『少年』の趣旨は--増山法恵と少女マンガに革命を起こそうと誓い、その場所を作るため「トキワ荘」めざして増山の自宅のそばに家を借りた。
様々な人々が訪れたが、自身のスランプと萩尾の才能のプレッシャーのために精神と身体に不調が起きたので、大泉から去る。そして、拒否され続けてきたライフワーク『風と木の詩』の連載になんとかこぎつけることに成功した。

私はこれを発売してすぐ読んだ時、連載をこなし商業的に既に成功していたという印象が強い竹宮が、萩尾に対してそこまでプレッシャーとジェラシーを感じたというのが、ちょっと信じられず意外に感じた。
とはいえ「大泉」に関してはこのように述べている。

私たち三人が一緒に住んだ場所は、のちに1970年代少女マンガの基礎を築いた「大泉サロン」と言われるようになる。そこには、「24年組」と呼ばれることになる私たちの物語が詰まっている。

心身不調の中で去ったにしろ、極めて肯定的なとらえ方だ。

さて、そこで『一度きりの大泉の話』である。
これは衝撃的告白&告発の書だ。しかも過去に裁判沙汰になっても受けて立つことを考えたとまで書いてある。かなり不穏ではないか、ヒエーッ(>y<;)

回顧録の形を取っており、その内容をざっくりまとめると
・「少年愛」については増山が旗を振っていたけれど、自分は少年は好きだが少年愛には興味はない。
・「風木」の盗作疑惑で竹宮(&増山)からバッシングを受けた。疑惑は完全否定する。
・「大泉サロン」「花の24年組」は虚構。自分は関係ない。これからも関わりたくない。

最大の衝撃箇所は、その盗作疑惑宣告を受けた状況である。『少年』の中においては「萩尾に対し距離を置きたいと告げた」などと2行で終了している。しかし、こちらではその後萩尾はショックのあまり飲まず食わずで街中で倒れこみ、ストレスで眼が見えなくなったというのだ。
まさに「50年を経ても生々しいトラウマ記憶」(信田さよ子)ではないか。これほどの被害を受けたと訴えているからには、もはや牧歌的「大泉」観を漫然と受け入れるわけにはいかないだろう。

そういう意味では少女マンガ史を震撼させる内容だ。同時に個人としての告発本でもあるといえる。

以後、萩尾は竹宮本人と接触を断ちその作品も一切目にしていないという。『少年』発行時に本を送ってきたが封筒に触ることもできなかった。これこそトラウマの影響のように思える。
にも関わらず、『少年』の内容を念頭にした記述と思しきものが幾つか見られる。恐らく、マネージャーの城章子が概要を伝えたのだろうか(あくまでも推測です)。

両書で共通している部分。
・クロッキーブック(ノート)の使用について
これは一見マンガ家のアイデア発想法みたいだが、双方とも「ここに証拠は残っている」と言っているように思えるのはうがち過ぎか。

・『風木』と『小鳥の巣』『トーマの心臓』の発想時期
『少年』を再読して初めて気付いたのだが、「風木」の冒頭50pをクロッキーノートに描いたのが1971年1月21日だと日付まで書いている。その時に萩尾を含む周囲に作品の存在について話したとある(ノートを見せたとは書いていない)。
対して、萩尾はそのノートを見せてもらったのは6月のことであり、「トーマ」の習作を描いたのはそれよりも早い3月で、竹宮、増山にも見せたと細かく反証している。

・萩尾の〈無神経さ〉について
『一度』では「本当に鈍いのですが、本当にわからなかったのです」「人間関係において空気の読めない私は、距離感をうまく取れない」「私が何か配慮足らずで」「私が苦しめていた。無自覚に。無神経に。」というような表現が頻出する。
これは『少年』において、竹宮が離れたくて大泉から引っ越すことを決めたのに萩尾が気づいていなかった(結局また近所に来た)。さらに新居にやってきて自分が仕事中なのに増山と談笑しているのにいらだった--という部分を念頭に置いているように思える。

・両者とも互いの存在に対して心身のストレスを感じて耐えられなかった。

異なるのは、竹宮が萩尾に宣告して離れて数年後に復調し『風木』の連載を勝ち取ったことである。
一方、萩尾の方は接触せずなるべく目に触れないようにしていたにも関わらず、「共通の知人から、たびたび“あちらのご不快”の話が急に出て」きたというのだ。詳細は書いてないがその後も続いていたのか(?_?)
そして彼女のトラウマはまだ回復していないのだ。

加えて、二人とも共通したアシスタントを使いそれぞれにファンや友人知人がいただろうから、当人たちに関係なく外野から勝手な噂が流れたりもしたと推測できる。そして、さらに被害拡大……(ーー;)
以前、というかウン十年前の大昔にとあるイベントで某マンガ家(注-どちらの本にも出てこない人物)を目撃した。その人の周囲にファンが二重ぐらい取り巻いている中で通路を移動していたので驚いたことがある。そういう取り巻きの人々が何か噂してもコントロールできないだろう。

それにしても、発端は半世紀も前である❗ 未だ払拭できず苦しむとは、人の心の複雑さと闇であるとしか言いようがない。
最大の問題はそのような事件を過去の美談として回収し、事実を塗り替えようとする動向と圧力の存在だろう。
だから「大泉というドラマ」を否定するのは当然だが、代わりに「二人の才能ある作家の悲劇」とか「若さゆえの未熟な友情と嫉妬」みたいな別のドラマに持っていくことも避けたい。
中には「萩尾は天才だから竹宮がああいう行動に出るのは仕方ない」なんて「萩尾アゲ」のあまり逆行しちゃってる意見まで見かけるほどだ。

結局、萩尾の「理解しますけど、謝りません。なぜなら原因は双方にあって、双方とも傷ついたからです」という一節に尽きるのである。

なお、文体はかなり特徴あり過ぎの上に、なんだか統一感に欠けてフラフラしている。インタビュー形式で語ったものをさらに自分で修正・追加したとのことだが、こういう形でしか書け(語れ)なかったのだろう。
そこにまたある種の迫力が感じられるのだ。


その他、断片的な感想を。
謎なのは増山という人である。私はこれまでプロデューサーか編集者的な人かと考えていたが、なんだかどうも違うようだ。
それこそ「世紀末の文化サロンの女主人」(?)ですかね。

「24年組」の言説に関しては、以前から誰がその範疇に該当するのかがかなり恣意的という印象はあった。青池保子や大和和紀はどうなのか、池田理代子や一条ゆかりだって同世代だろう。明確な定義は存在しないってことだろうか。
なお、『一度』で書かれている山田ミネコ発案説については、ツイッターで山田ご本人が「確かに言ったが、そういう意味ではない」と否定している。さらにその意味を何者かが「わざとで意図があった」上で変えたとのこと。

光瀬龍について、竹宮もまたファンらしいと知って以後は彼から「何かのお誘いがあってもお断りして逃げました」とある。これは光瀬ファンの元SF者としては悲しかった。

佐藤史生と増山が意気投合し過ぎて、まだ一作もマンガ作品を描いたことがないのに、互いに「あなたすごいわ💕」と褒め合っていたというのは映画『ブックスマート』の主人公二人みたいで笑った。

萩尾が山岸凉子に嫉妬という感情が分からないと話したら「ええ、萩尾さんには分からないと思うわ」と答えたという。その時の山岸の心境を聞きたい。

西原理恵子が「画力対決」で竹宮にエドガーを、萩尾にジルベールを描かせたというのは、盗作疑惑の噂を知っててやったのだろうか。そうだとしたら大した根性である。(ホメてません💢)
「画力対決」の記録

【追記】追加の感想を新たに書きました。

210508b ←本棚から発掘できた。


 

読んでヨカッタと思えたら、目立たないですが下↓のイイネマークを押して下せえ。

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2021年5月 2日 (日)

祝!「ランド」手塚治虫文化賞マンガ大賞

210502 なんと山下和美『ランド』(全11巻)が手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞した。(ネタバレなし感想はこちら
候補に入っていたことは知っていたが、人気シリーズが複数候補になっているし、内容が内容だけにまず無理だろうと思っていたのでビックリである。(関連記事
ご本人も「驚いて椅子から転げ落ちそうに」なったと言っているぐらいだ。

第一次の選考結果を見ると最下位の5点である(同点が5作品あるが)。票を入れているのは中条省平一人である。
それをどうやって上位の『鬼滅』『ネバーランド』と並べて最終選考にねじ込んで、さらに受賞までたどり着いたのか知りたいところだ。説得力か政治力だろうか(^^?

とはいえメデタイ✨ことには変わりない。
朝日新聞のインタビューによると、連載始めて人気が出なくて「3巻で終わらせて」と言われたという。連載打ち切りのプレッシャーは今も昔も変わらずに存在するのだなあ。
あと、やはり終盤のウイルス出現は、期せずして現実を先取りした形になったそうだ。こりゃ予言の書か。
受賞してもアニメ化などあるとは思えない。内容が不穏過ぎである。

読み終わって、何がイヤってあの世界全てが人々が望んでそうなったということ。思わず震え上がっちゃう。

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2021年3月 7日 (日)

「小池百合子 権力につかれた女」

ドキュメント東京都知事の1400日
著者:和田泰明
光文社新書2020年

著者は「週刊文春」の記者だそうである。都庁や都議会の取材を続けているとのことで、あの『女帝』とは異なる観点から描いているのではないかと思って読んだのだが……💦

内容は都知事に立候補するあたりからのことだが、大部分が国会の方も巻き込んだ政治家同士の勢力争いなのには驚いた。こんなに勢力争いに力と時間を費やしているのでは、都の政策を立てて計画・実行する暇なんかないのではと思えるほどだ。
誰それと手を結んで、その後は別の勢力に接近し、次はあの人物を切り捨て--この繰り返しに終始する。

そんな都知事を著者は批判していると見せて、実はほめているようでもあり、明確にしないことで結局は肯定しているようである。週刊誌の数ページの記事ならそういう書き方もアリだろうけど、独立した一冊の本なら書き手の考えや認識を明確にさせてくれないとさ。
こんなでは、『女帝』の便乗本と言われても仕方ないだろう。ガックリだ~。

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2021年1月 6日 (水)

「素晴らしき世界」上・下

210106 著者:マイクル・コナリー
訳者:古沢嘉道
講談社文庫2020年

おお(!o!)2020年はコナリーが3冊も翻訳出版だ~✨
--と喜び勇んで読む。
相変わらず定年後に非常勤刑事を務めるボッシュと、『レイトショー』で初登場したLA市警深夜勤務のバラードのシリーズが合体である。
交互に二人を章立てして過去の事件に迫っていくという体裁を取っており、両者の前作(ボッシュ・シリーズは『汚名』)を読んでいるのが前提条件である。

俄かにボッシュが年齢を感じさせる年寄りモードになってしまい、長年付き合ってきたヒーローが遂に老境に(T^T)……と涙を流したいところだがそのヒマもなく展開する。

異常なまでのカンの良さと無謀なまでの行動力を持つが公職の立場に縛られるバラードに対し、彼女を補完するようにボッシュは解き放たれて(もう年金は貰っているから怖いモノなし)仕置人のようになっていくのだろうか。(ならないとは思うが)

これもカリン・クサマ監督(『ストレイ・ドッグ』)で映画またはTVドラマシリーズ化してほしいね(^^)

前作「汚名」には恒例の訳者あとがきがなくて読者の疑念を巻き起こした。しかし、今回はちゃんとあとがきがあり、理由がちゃんと明らかにされていてホッとした。一時期ファンはパニックになったもんなあ。

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2020年12月24日 (木)

「その名を暴け #MeTooに火をつけたジャーナリストたちの闘い」

201224 著者:ジョディ・カンター&ミーガン・トゥーイー
新潮社2020年

数々のヒット作(と良作)を放った映画プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインのセクハラと性暴力を報じたNYタイムズ記者によるノンフィクションである。事件そのものだけでなく、いかに取材したかがかなり詳細に描かれている。

匿名でしか話せないという被害者に連絡し、他の被害者を知っていたら紹介してもらい、実名で取材に応じられる者を探し、情報提供者に会うために飛行機に乗り--と大変な努力と周到な準備で記事が準備されたことが分かる。
しかも記事が完成したら、最後にはワインスタイン側に事前に記事の内容を明らかにし、反論を併記する準備もしなくてはならない。もちろん両社とも弁護士が控えている。

確認に確認を重ね、上司のGOサインを得て、あらゆる事態を想定しての弁護士との打ち合わせは必須。その間も取材に応じた被害者が気を変えないかハラハラして時を待つ。
当然ながら社のバックアップがなくてはできない。調査報道とはこれだけ大変なのかということがよーく分かった。

ところで、この事件の被害者だったアシュレイ・ジャッドは若い頃日本で働いていて性暴力にあったというエピソードが出てくる。
キャメロン・ディアスも同じく十代の時に日本でバイトしててイヤな目にあったとか。
日本の評判は既に地に落ちているようである(ーー;)

難点を一つ上げると、ページを開くと行間が狭くて非常に読みにくい印象を受けることだ。実際に読むと文章自体はそんなことはないのだが、本を開いてパッと見たところでそう感じてしまう。
読みやすいレイアウトにする(ページ当たりの行数を減らす)とその分ページ数が増えてしまうから苦肉の策だと思うけど……難しいですな💨

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2020年12月 1日 (火)

「アメリカン・セレブリティーズ」

201201 著者:辰巳JUNK
スモール出版2020年

おおっ、私のようなゴシップ大好き人間のための一冊ではないか(*^^)v
そう思って読み始めたのだが、最近の米国音楽事情にうとい人間にはちょっと無理があった。登場する名前がレディー・ガガとかマイケル・ジャクソン以外は、多くがよく知らない名前ばかりなんである。
最近のR&Bアーティストやラッパーはもとより、キム・カーダシアンみたいにTV番組から有名になったような人については完全お手上げだった。誰?それ(^^?みたいな感じだ。

とはいえ個人についてよくは知らなくても面白いのは確か。ゴシップやスキャンダルの類いでさえも勲章代わりにして自らそれを宣伝して競い、さらには武器にする。そこまでやるかと思ってしまう。日本とはあまりに異なり過ぎて驚くのみだ。

終わりの数章は映画関係なのでさすがに知っている名前ばかりだった。
中でも、苛烈なアカデミー賞レースを取り上げた部分を読むと、どうして性格悪かったり愛想の悪い俳優は賞が取れないのかよく理解できた。事前キャンペーンで業界人たちに愛想を振りまくのも獲得に大事なことなのだ。(だからワインスタインみたいにその戦略に熱心だと「優秀」とされる)

終章は米国での「コンマリ」ブームの分析。ここでも日米の差異が明らかにされている。大統領選だけでなくこういう部分も興味深い国である。

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