書籍・雑誌

2022年6月 3日 (金)

「プリズン・サークル」

220603 著者:坂上香
岩波書店2022年

著者は犯罪者の更生プログラムを描く『ライファーズ』、元受刑者が参加するプロジェクトのドキュメンタリー『トークバック 沈黙を破る女たち』を作って来た監督である。
最新作の『プリズン・サークル』では日本の刑務所で唯一行われている犯罪者更生プログラムを取材した。これはその書籍版だ。雑誌「世界」に連載したものをさらに加筆している。

取材に至った経緯、行われたプログラムの詳細な内容、映画では入れられなかった個人の背景やその後、さらに他の研修生のエピソード、取材の困難さ(色々とあったらしい)も描かれている。
「映画」後の状況については、現在は当時のスタッフが去ってプログラムも縮小されてしまったそうな。ショックである(!o!) 残念の一言だ。

以前とある研究者がこの映画について「性犯罪者に対しても同じようなスタンスが取れるのか」とやや批判的な意見を述べていた。ここでは、映画に登場しなかった性犯罪者たちについても一章割かれている。(なぜ映画には登場させなかったか理由もあり)

また、エピローグの著者の「告白」には驚いた。表現者と現実との相克というようなものを感じた。生きることはつらい……などと思ってしまった。

この本を読めば映画のシーンが頭に浮かびあがると同時に、また別の情景が見える。小説と映像化の関係だけでなく、ノンフィクションにおいても文章には文章、映像には映像なりに描けるものがそれぞれに存在するのだと実感した。
映画を見てない人、見た人の双方にオススメである。

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2022年3月26日 (土)

「パワー・オブ・ザ・ドッグ」:大いなる西部で叫ぶ

220325 監督:ジェーン・カンピオン
出演:ベネディクト・カンバーバッチ
米国・イギリス・ニュージーランド・カナダ・オーストラリア2021年

本来ネトフリ配信作品であるが、開始前の映画館特別上映で見た。
1920年代のモンタナで牧場を営む兄弟。威圧的で容赦がない兄に対し従順で大人しい弟--正反対の二人であったが、長年共に過ごしてきたらしい。

驚くのはいい歳した兄弟なのに同じ一つのベッドに寝ていることである(狭苦しい💨)。部屋がないわけではなく、住んでいるのは立派な大邸宅なのだ。しかし、弟が近隣に住む未亡人と結婚したことから関係が揺らぐ。
前半は突然に変化した生活に、兄フィルに扮するカンバーバッチの悶々としたアップが続く。同時に再婚相手のローズにとっても同じ屋根の下に暮らすのは大きな圧力だった。

そして彼女の連れ子の少年が牧場に現れたことでさらに変化が生じ、後半は何やらサイコホラーかサスペンスか、みたいな雰囲気になってくる。『2001』のリゲティを思わせるJ・グリーンウッドの音楽が煽ってさらに拍車をかける。
そして、中心の4人の誰もが最初に見た通りの人物ではないことが徐々に明らかになるのだった。

その中でも特に浮かび上がってくるのは一人の孤独な男の肖像である。宣伝の段階で過去の別の映画が引き合いに出されていて「こりゃネタバレだっ(!o!)」問題が生じたけど、それよりも連想するのは『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』だろう。

傲慢で粗野と見えて実は大学出で教養があり手先も器用、何一つ表面には見せないという矛盾に満ちた人物像をカンバーバッチは的確に演じている。
対するキルステン・ダンストのローズは、幸福を願いながら細いヒールの足元みたいに不安定。弟(ジェシー・プレモンス)の優しさと穏やかさは無神経と紙一重、そして軟弱な息子役のコディ・スミット=マクフィーもジワジワと来る。
彼ら4人の演技は全くもってケチが付けようがない。

こんな内容ではネットフリックスでしか資金を出してくれないなーと思う。一方、モンタナの広大な風景(実際のロケ地はニュージーランドだが💦)の美しさは大スクリーンで見なけりゃソンソン👀のレベルだろう。
案の定、サム・エリオットがこんなのはカウボーイじゃない<(`^´)>とケチをつけて話題になった。同じくモンタナの牧場とカウボーイたちを描く(と言っても、現代のだが)TVシリーズ『イエローストーン』を作っているテイラー・シェリダン監督ならなんと言うだろうか。聞いてみたいところだ。

問題は、兄弟のバックグラウンドが仄めかされるだけでよく分からない部分があること。両親との関係も不明である。
それと前半のテンポがゆったり過ぎなのが難点だ。

今年のアカデミー賞では最多11部門ノミネートとなった。はてどのくらい取れるだろうか。俳優部門は4人とも入っているけど難しいようだ。カンバーバッチは主演男優賞確実と思ったものの、ウィル・スミスの方に行くのかな……(?_?)
スミット=マクフィーは、まるで金子國義描く若者みたいで思わずスクリーンをガン見してしまった。


さてその後、物語の背景を詳しく知りたくなって原作小説を読んだ。
版権の関係なのか、なぜか角川文庫と早川書房のハードカバー版が数か月の差で出版された。しかも書名が、冒頭に「ザ」があるかないかという微妙な差をつけている。
値段を考えれば文庫版一択だ……が、本屋で散々迷って見比べた挙句(スイマセン)早川の『ザ・パワー・オブ・ザ・ドッグ』(山中朝晶訳)を選んだ。説明的な部分の訳文が丁寧な印象を受けたからである。値段は3倍だけどな(;^_^A

原作小説はトマス・サヴェージが1967年に出したものだ。読んでみて映画はかなり原作に忠実だったことに驚いた。
ローズの食堂でのトラブルや、終盤のフィルと少年が関わる過程はわりとあっさり短めの記述である。映画の方が長く膨らませている。

原作に詳しく描かれているのは、ローズと先夫のなれそめと結婚生活だ。夫がどのように死に至ったのかはかなり重要だろう。
それから兄弟の若い頃のエピソード。特に面白かったのはフィルが西海岸の名門大学に入学した時の「事件」だ。資産家の子弟ということで、数多ある友愛会から勧誘がひきも切らず招待された。しかし、入会決定最終日に彼は学生たちに小バカにした態度を見せて全てを否定して立ち去ったのである。
そのとばっちりで二年後に弟が入学した時には、期待して待ち構えていたのに誰も誘ってくれなかったという……(^O^;)

とにかく彼は「俗物」が嫌いなのだ。その代表は自分の両親であり、結局牧場から追い出してしまう。そして今や「俗物」の最たるものがローズなのである。
彼女の未熟なピアノも我慢ならない(元々は映画館で無声映画の伴奏をやっていた)。映画内でも描かれていたが、芸術の才能にも秀でた彼はバンジョーで楽譜なしで彼女より遥かに正確に同じ曲を弾ける(ちなみに、バンジョーは非常に演奏が難しい楽器らしい)。
またフィルは年にニ、三回しか床屋に行かない(弟が車に乗せて町へ出かける)とあるが、そうなると行く直前は手入れなしのロン毛にモジャモジャ髭という恐ろしい外見になってたはず⚡

というようにフィルとローズの心理状態はかなり詳細に描写している。ローズが大邸宅の中で孤独に追い詰められていく様子はまるで『レベッカ』のようである。
あと先住民の父子について二章をさいて描いているが、映画では一瞬しか登場しない。

全体としては異なる人物の異なる時期の各エピソードのつなげ方がやや乱暴に投げ出されているような気がした。そのせいか読後は映画よりアッサリ感がある。
もっとも「衝撃のラスト」を事前に知って読んだせいかもしれないが。
発表当時、舞台となっている1920年代は既に古めかしい過去の時代となっていただろう。しかし懐古するのではなく、突き放した極めて現代的な物語となっている。

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2022年3月19日 (土)

「巨大映画館の記憶」

著者:青木圭一郎
ワイズ出版2021年
https://www.honyaclub.com/shop/g/g20475818/

新聞書評欄で短く紹介されたのを見かけたのだが、たまたま検索したら意外にも地元の図書館に入っていた。それでとりあえず借りてみた。

東京にかつてあった巨大映画館をもれなく詳しく紹介。歴史・変遷から写真、座席表まで載っている。全体の半分以上のページを主要劇場の全上映作品リスト(もちろん戦前から)が占めているということで、読むというより資料としての要素が高い。
映画自体の研究だけでなく、昭和時代を舞台に小説とかシナリオ書く人にも役立ちそうな内容だ。

戦前は芝居・音楽の実演と映画上映を並行してやっていたのが普通だったらしい。二千席以上の劇場も珍しくなく館数も多かったが、現在ではゼロになってしまった💨
新宿コマ劇場も昔は映画をやっていたと初めて知った。

専門家でもない私は単純に昔行った映画館をチェックしてみた。よく行ったのはやはり新宿プラザやミラノ座あたりかな。
ミラノ座一日最大入場者数は1986年『ロッキー4』の22323人だって(◎_◎;) 当時の座席数1500弱だから立ち見を入れてギュウギュウだったはずだ。新宿プラザは『スター・ウォーズ』のえぴ4~6ロードショーでは必ず行った。

というわけで、資料としての用途以外は昔を懐かしむ映画ファン向けだろう。著者は5年ぐらい前に東京の名画座についての本を出している。

大昔、ケン・ラッセル『アルタード・ステーツ』のロードショーを日比谷(多分)の大映画館で見た時、恐ろしいほどの不入りだった。外は連休で人が大勢さざめき歩いているのに館内はニ、三十人しかいなくて冷気が漂っていた💦のを記憶している。

それがどの映画館だったか確認したくて、当該年月日の上映作品リストを眺めたのだが出ていない。他の地区のリストも探したがそもそも『アルタード~』自体見つからないのだ。
もしかして闇歴史として葬られたかしらん(^^?

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2022年1月13日 (木)

「漫画家の自画像」

220113 著者:南信長
左右社2021年

本を開くまでは「ふむふむ、よくマンガ家が描いている自画像を見比べた本ね」と簡単に思っていた。しかし実際読んでみたらそんな単純なもんではなかった。

正確にはマンガで描かれたマンガ家について様々な角度から論じた書である。その多くは作品内で個性あるキャラクターとして活躍している。それをジャンル分けし、歴史をさかのぼり他作品と比較・分析する。

まずご本人が自分を描いたものがあれば、同じ人物を他のマンガ家から見たものもある。手塚治虫のように自作のフィクション内に登場させたり、ノンフィクションとしての自伝や評伝マンガの場合もある。私小説ならぬ私マンガ、埋め草的な近況報告、さらには独自ジャンルを形成するエッセーマンガも忘れてはならない。
小説だとここまでキャラクター化して作品内に出てくるのは珍しい。マンガの特性ゆえだろうか。

一方で、連載雑誌の目次や巻末コーナーに登場するワンカットの自画像、さらに過去にはスター・アイドルさながら本人が顔出しするリアル写真もあった。(当時は住所も平然と載ってましたな(^▽^;)
加えて、実在人物が登場するのではないが業界マンガにマンガ家マンガ、さらにマンガ家入門マンガなどなど、ネタは尽きず面白い。
おまけに年譜、系譜図、索引付きまで付いているではないか(!o!) 読み応えあり&資料としても役立つ。

ここまで広範囲に資料をさかのぼり調べるのは非常な苦労だっただろう。頭が下がっちゃうm(__)m
早速、とり・みきからSNSで「エッセーマンガを始めた時期は自分の方が早いのではないか」という意見が流れてきた。チェックが大変だ~👀

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2021年11月 6日 (土)

「みみをすますように 酒井駒子展 もういちど」

211106a 会場:PLAY!MUSEUM
2021年9月18日~11月14日

立川にて宿願の酒井駒子展を見てきた。春にも開催していたのだが、コロナ禍で会期が短くなったのでこの秋に再展示してくれたのである。(追加作品あり)

初めて行った会場なのでよく分からなかったのだが、シールを渡されてこれを見える所に貼っておけば1日の内に何度でも入れるようだった。会場内でも付けてなければいけないのかな。とりあえず服の上腕に張り付けてる人が多かった。

多くの作品は絵本の内容に沿って連続して原画を見せる形になっている。
ただ、壁に掲示するだけじゃなくて木製の台の横や上面に設置しているものもあった。中には低いテーブルの天板にガラスをかぶせて置いてあったり……(テーブル脇の椅子に座って眺める)。

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中には絵本の内容に合わせた展示法も。『よるくま』の原画は黒いカーテンで周囲を囲われた暗いスペース内にあった。夜の気分🌙
また巨大ディスプレイで流す作品もあり(『ゆきがやんだら』だったかな)。

原画のほとんどは小さく、その小さいところにさらに繊細に描かれている。小さい子の髪がボワッとなっているところ、子猫のヒゲやウサギの頭のフワ~としてるところ、夜の闇のボンヤリしているところなどなど、穴が開くほど眺めてしまった(^^)
段ボールに直に描いている作品が結構な数あって、保存が効くのだろうかなどと心配になったり。
駒子ワールドにじっくりと全身浸れて嬉しかった💕

211106d 酒井駒子の絵は美しくて可愛くてホワホワしていてちょっと秘密めいていて、でも芯が一本シンッと通っているのだよね✨
そして、それら全ては現在の私にはない要素ばかりなのだ..._| ̄|○ ガクッ

平日の昼間なので、客は家族連れや子どもはいなくてほとんど女性ばかりだった。男は3人ぐらい見かけた。
図録は小型だけど分厚くて国語の辞書みたい。しかもハードカバーだ。4千円以上するので、迷った挙句買うのをやめた……が、今は激しく後悔している。
買えばよかったーっ(>O<)

代わりにポスターを購入。2種類あったので両方買うべきだった。880円ナリ。
カレンダー売ってたら絶対ゲットするぞーと意気込んでたら売ってなくてガックリだい。


なお同時に、1年間展示の「ぐりとぐら しあわせの本」も併設されていた。あのぐりぐらの世界が等身大(?)に再現されてその中で遊べるというもの。小さいお子ちゃまはこちらの方が嬉しいかな(^^?

巨大片手ナベにこんもりふくらんだ黄色いカステラも、もちろんある。カステラは小さいスポンジ製のかけらが詰まってて絵本さながら取り出してみんなに配れるようになっていた。
若い女の子たちがキャーキャー言いながら自撮りしていた。
オバサン一人ではただ眺めるのみである。無念。
211106e







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2021年10月22日 (金)

「ルート66を聴く」

211022 アメリカン・ロード・ソングは何を歌っているのか
著者:朝日順子
青土社2021年

ルート66って名前はよく聞くが具体的には……よく分かりません(^^ゞ などと曖昧な知識しかないのだが、シカゴからロサンジェルスまで米国の3分の2ぐらいを横切る道路である。しかし、やがて州間高速道路のインターステイトが使われるようになってさびれてしまったそうな。(ピクサーの『カーズ』の背景はこれなのね)
イメージとしては、時代遅れの「各駅停車」といったところなのだろうか。
そのような道路沿いにミュージシャンたちが暮らし、あるいは移動する中で生まれたロード・ソング、それをたどっていくのがこの本の趣旨である。
著者は滞米歴が長いだけあって、その土地に根差した曲が生まれたエピソードがリアリティをもって浮かび上がってくる。

取り上げられているのは有名どころではドリー・パートン、チャック・ベリー、プレスリー、イーグルス、ボブ・ディランと幅が広い。
中にはオザーク・マウンテン・デアデヴィビルスなんて懐かしい名前も登場する。聞いたのは恥ずかしなから「ジャッキー・ブルー」ぐらいだが、ヒッピー・カルチャーを背景を持ったバンドだったのを初めて知った。

ザ・バンドに関しては、彼らの歌に出てくるような米国像は架空のものだという論(グリール・マーカスの説だとは知らなかった)が定番だが、著者は長い過酷なツアー生活の中でのリアルな体験や感情から生まれたものだとして否定している。
また、レーナード・スキナードのロニー・ヴァン・ザントが「素晴らしい詩人」というのは全くの同感である。「スイート・ホーム・アラバマ」がかつて(今も?)派手に「炎上」したのはその文才だからこそと言えるだろう。

大きな特徴として、一般に無視されがちなボストン、ジャーニーといった「産業ロック」(こんな名称考えたヤツは責任取れ💢と言いたい)のバンドも取り上げているのが嬉しい。

「ビジネスの規模にかかわらず作り手の情熱が無ければ、聴き手は耳を傾けないはずだ」

自宅の地下室で一人で黙々と宅録……というのは今だったら珍しくもないが、トム・ショルツは時代が早すぎた。「天才」とは呼ばれていたものの完全に「変人」扱いされていたよね。
その後のバンドのトラブルは、恐らく彼が地下室で作り出した音楽自体と「個人作業」のイメージのギャップが大きかったことによるものだろうか。

他には、50人しかいない客の前でピアノを弾き語りするレオン・ラッセルを5ドルの入場料で見て、その数年後エルトン・ジョンによってカムバックしたというエピソード。
また、ストーンズのライヴでキースが歌い始めると客のトイレタイムになる(^^;目撃談が印象深い。

中学生の頃から中古盤漁りしてエドガー・ウィンターのファンだった⚡という著者は「筋金入り」という印象である。一方で都会派やパンク、ニュー・ウェーブは興味がないようで、読者を選ぶ本ではある。
似たような内容でフー・ファイターズでが過去に映像シリーズ「ソニック・ハイウェイ」を出している。巡っている土地も結構重なっているのが興味深い。当然、取り上げているバンドは当然異なるが、取材に応じているベテラン・ミュージシャンはこの本にも登場する(例えばドリー・パートン、バディ・ガイなど)。

やはり米国の広大さが音楽の重層性を支えているんだろう。日本だと地域の差はあるとはいえ、そこまで行かないよね。

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2021年8月29日 (日)

【少女マンガ再読】「見えない秋」(樹村みのり)

210829 *初出「別冊少女コミック」誌1974年11月号、『ポケットの中の季節』第1巻(小学館フラワーコミックス1976年)所収

訳あって樹村みのりの古いコミックスを掘り返してチラ見していたら、思わずドトーのように涙を流してしまったのがこの短編である。

樹村みのりには「病気の日」という名短編があって、これは小学生の女の子が家で寝ていて「病気の日はちょっと楽しいな🎵」と思うという、ストーリー的にはただそれだけの作品なのだ。
この「見えない秋」も同じタイプで、同級生の突然の死を知った少女の心理をたどるだけで、やはり明確なストーリーはない。しかし同様に短編マンガとしての完成度は極めて高いものだ。

夏休みが終わって小学校に登校すると、担任の先生から同じクラスの少年の急な死が告げられる。

こんなふうにして その男の子は 突然みんなのあいだから いなくなってしまったのでした

主人公の少女は静かな少年の何気ない言葉や行動を何かと思い出す。それは他の子どもたちも目撃していたはずだが、実際覚えているのは彼女だけなのだ。
生の象徴である夏の終わりが近づくにつれ、忍び寄ってくる秋と同様に死もまた日常に潜んでいることを少女は感じ取る。それは根源的な恐怖と不安だ。

あんなにたしかだったことも 私が死んでしまうといっしょにうしなわれてしまうのでしょうか?

そして転校生がやってくる。その子は少年とは完全に正反対なのだが、空いていた少年の席に座ることになった。少女はそれを遠くから見守るだけ。もはや少年の存在の痕跡はどこにもない。
そして運動会の季節がやってくる。

俊足の転校生が走る徒競走、そしてくす玉割りをクライマックスとして、それまで少女の内心を代弁するように続いていた語りが突然変化する。

だから小さい子 こわがってはいけません おびえてしまってはいけません 死ぬことは死にまかせなさい

割れるくす玉に激しい生のエネルギーが重ね合わされる。そしてその後に付け加えられた転校生との短いエピソードによって、日常の生へと回帰していく。
このあたりの流れと構成は見事と言うしかない。コマ割りも素晴らしい。
夏休みに雲を追いかける光景に散りばめられた記憶、対比される秋口の路地の静けさ……。読者の視線の動きを完璧に計算しているとしか思えないようなページもある。

私はよく考えるのだが、このような巧みな表現はライター講座とかマンガ教室のような所で学べるものだろうか。おそらくは作者は本能で描いているのだろう。読むたびに感心するのだ。

言葉にもできぬもの、絵にも描けぬものを確実に表現する、そのような作品である。

樹村みのりは基本的に短編作家であり長編といっても1巻ぐらい。何十巻も続くようなものは描いていない。
やはりマンガの人気作とか代表作と言えばどうしても長尺な作品を思い浮かべてしまう。彼女のような短編作家は認められにくいだろう。残念である。

なお、彼女の作品は紙本は入手が難しいらしいが電子書籍では読めるようだ。

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2021年8月22日 (日)

「令和元年のテロリズム」

210822 著者:磯部涼
新潮社2021年

他の人の感想を見かけて興味を持ったルポルタージュ書である。
平成31年=令和元年に起こった4つの事件を取り上げている。「川崎殺傷事件」(R元年5/28)、「元農水省事務次官長男殺害事件」(同6/1)、「京都アニメーション放火殺傷事件」(同7/18)、「東池袋自動車暴走死傷事故」(H31年4/19)。

読み始めて衝撃だったのは、第1章の川崎の殺傷事件(スクールバスを待つ小学生・保護者などを襲撃)は20人もの被害者を出したのだが、私は事件以降スッパリと完璧に忘れていたことだ。
そういえば、確かにその事件あったな……と思い出した自分がイヤ~ッ(><)

この事件と長男殺害事件は明確に関連がある。同じような事件を長男が起こすのではと恐れた父親が正当防衛で殺害したのだ(と自身が動機を語っている)。
第4章は後者の事件の裁判傍聴記となっているが、一番驚いたのは同じ家にいた母親が犯行後に「事態を察し」て荷物をまとめてタクシーに乗りホテルに避難した、という件りだった。「ええー(!o!)」てなもんである。

第3章は説明も必要のないであろう京アニ事件である。
著者はこの三件の事件を広義のテロリズムと解釈している。すなわちその「恐怖が社会に対して影響をもたらす犯罪」である。そして改元時に起こったこれらの犯罪の加害者二人と被害者一人について、共通のものを見出そうとしているようだ。
居住地は川崎、練馬区、さいたまということで実際に現地を訪ねて取材している。

しかし世代が近いとはいえ彼らの生育環境や階層はかなり異なるし、その土地の雰囲気は何も語らないであろう。果たしてそこに関連あるのか。著者(および読者)の勝手な思い込みが生じているだけと思えなくもない。

ただネット上での反応は苛烈なものがある。かつて昭和時代にあったようなある種、犯罪に対するロマンチシズムのようなものは存在しない。
唯一平成の元号下に起こった池袋の暴走事故の、加害者に対する根拠なき陰謀論めいたネット論議が沸騰した。そのことが現状を示すようだ。

いずれの事件も原因は明確にならないまま通り過ぎていく。ネットを騒がせるネタとして消費されただけに終わらないように願う。


そういえば、つい最近起こった小田急線刺傷事件の犯人は登戸駅から快速急行に乗り換えたそうな。「床にサラダ油をまいて火をつけようとした」というのは明らかに京アニ事件を思い出させる。やはり悪意は伝染するのか。

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2021年6月 3日 (木)

「レベレーション 啓示」/「王妃マルゴ」

「レベレーション 啓示」全6巻
著者:山岸凉子
小学館(モーニングKC)2015年~2020年

「王妃マルゴ」全8巻
著者:萩尾望都
集英社2013年~2020年

210603a フランスを舞台にした歴史マンガ二作について、いつか感想を書こうと思いつつここまで、引き延ばしてしまった。なんとか書いてみたい。

まずはジャンヌ・ダルクを主人公にした『レベレーション』である。
元々は「神がかった人間はどういうものなのか」を描きたいという動機があったとのことだ。候補は3人いたが「モーニング」連載の話があって、男性読者にウケるならジャンヌ・ダルクがいいかと選んだそうな。すると候補の他の二人は男ということになる。一体誰だったのか知りたくなる。

さらに毎月はキツイという理由で隔月連載にしてもらったら、同時期に『王妃マルゴ』を毎月連載中の萩尾望都から「隔月って、残りの一か月は一体何をしているの」と言われたとか(^▽^;)

山岸の長編作品の特徴として、社会や共同体の中で特異な能力を持った人物がその能力を発揮して成功する、あるいは失敗する過程を描くものが多い。この作品でもそれは同様である。
神の声を聞くという力に目覚めた「羊飼いの娘」ジャンヌは父親が持ってきた結婚話を拒否して、声に突き動かされ自ら複雑な政治的・宗教的対立の中に分け入っていく。女・農民・若年--とすべての面で当時の体制からは外れている存在であり、本来なら相手にされなくて当然だ。さらに男装しているとあれば異端でしかない。

その幻視能力、嫌がらせに近い審問や試練にも耐える機転、権威や権力を恐れず、そしてなにより強い信念により、軍隊を率いるまでになる。
しかし、その後に複数の勢力の思惑の中で孤立するのもまた信念の強さのためである。

フランスの領土を取り戻しシャルル7世の戴冠に大きく貢献したとあれば救国の英雄だろう。しかし、その彼女を最後に待ち構えていたのは44人のオヤジ(若い者もまざっているが)による異端審問であった……💣
それすなわち身分も地位もある高僧が字も読めぬ娘っ子をいぢめるという図に他ならない。

ジャンヌは回想の中で、故郷に帰り「羊飼いの娘」に戻る機会があったのに戻らなかったと認める。「正直今はパンをこねたり糸を紡ぐ自分は考えられない」と突き進んだのだと……。
「女に男の服を着られるだけで侮辱を感じる」という時代となれば、素朴な農民の娘から逸脱、どころか侵犯してきた男装の女戦士を社会は許すはずもなく、魔女と認定され火刑に処せられるしかない。
それでも、信念を貫き通した彼女にとっては悲劇ではなかった--と結末は訴える。そして、そこに中世からルネサンス期の狭間という大昔に生きた少女が今現在においても、生々しく立ち上がってくるのだった。

それにしても第1巻あたりの神の啓示場面は限りなくホラーに近い。夜中に見たら心臓に悪いぐらいである。さすが霊感を持つという山岸凉子💦と言いたくなるぐらいだ。


210603b さて『レベレーション』冒頭は1425年に始まり、1431年に終わる。当時の英仏絡んだ歴史的背景は複雑だが、カトリック×プロテスタントの宗教対立まで絡んでくる『王妃マルゴ』の背景も極めて複雑である。
こちらは130年ほど後、マルゴことマルグリット・ド・ヴァロワが6歳の時から始まる。ジャンヌが貧しい農民の娘なら、一方マルゴはフランス国王の美しい娘である。天と地ぐらいの差だ。
加えて政争と戦乱の中で62歳まで長生きしたというのもジャンヌと対照的である。

「一番ステキな夢は美しい王子様と結婚すること」と愛を夢見る少女のマルゴだったが、残念ながら王族の一人であるからそんな自由はない。初恋の相手とは引き離され、国家と宗教の間で政略結婚をさせられるのみ。
しかも肝心の結婚相手のアンリ(4世)はあらゆる意味で信頼できない男であった💢

さらに、その背後には恐ろしい猛母たるカトリーヌ・ド・メディチが存在する。息子たちを次々に王位につける中で隠然たる支配力を奮う。それは敵どころか自分の子どもでさえ暗殺することも辞さない、非常に恐ろしい母親である。読んでいてコワ過ぎて泣きそうなぐらいだ。
マルゴも自分の母親に殺されるのではないかと常に戦々恐々とする。この恐るべき母を描く萩尾望都の筆致は実に容赦がない。まさに真骨頂と言えるだろう。

その血で血を洗う複雑な勢力関係の荒波の中で、夢見る少女はやがて自らの美貌と肉体を武器にすることを辞さぬまでになる。
後世に彼女は「華麗なる恋愛遍歴」、別の言い方をすれば「淫乱」などと評されたようだ。しかしそのような人物像ではなく、作者は天寿を全うするまでただ一人の男への愛を貫いた純粋な女としての一代記を描いたのである。

この作品は驚いたことに萩尾望都の初の歴史ものだという。「ポー」シリーズなどで様々な時代を風俗にこだわって描いているので、てっきり歴史ものも描いていると思ったのだが違ったのね(;^ω^)
しかも最初の掲載誌が休刊になり、別の雑誌に引っ越し連載という災難にあった。そのせいか終盤が駆け足っぽくなってしまったのはちと残念である。


ベテランのマンガ家が二人揃ってフランス史に残る女性(しかし極めて対照的な)を描いたことは奇遇としか言いようがないが、その背後に存在するテーマは若い頃からこだわってきたものと不変であり、「三つ子の魂百までも」なのが読み取れる。
そして、自らの信仰と意志を貫き逸脱したジャンヌが二十歳前に早世し、身分と政治の境界の中で流されてサバイブしたマルゴが長生きしたというのも、何やらいつの世であっても変わらぬ女の行く末を描いているようだ。


210603c 【オマケ】
ついでに関連した音楽を紹介しよう。
ジャック・リヴェットが1994年に作った『ジャンヌ・ダルク』前・後編のサウンドトラック。音楽担当はジョルディ・サヴァールで、「ロム・アルメ」(武装した人)をモチーフに使い、当時の写本の曲、デュファイの作品、そしてサヴァールのオリジナル曲から構成されている。
公開当時、サンドリーヌ・ボヌールのジャンヌがナウシカみたいだと話題になった。ここにもハヤオの影響が(!o!)

210603d ルネサンス期作品をレパートリーとするデュース・メモワールによる、デュ・コーロワの作品集。彼はアンリ4世(マルゴの元夫)の宮廷楽団の音楽監督だった。
2枚組の片方に、暗殺にあったアンリ4世の葬儀で演奏された「国王のためのレクイエム」を収録している。(司祭の説教まで付いている)
演奏の水準は高く極めて美しく、何度でも聞きたくなる。
付属のブックレットには、暗殺時に乗っていたものとおぼしき国王の馬車の写真が載っている。実物が残ってるんでしょうか。

210603e

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2021年5月22日 (土)

今ひとたびの「一度きりの大泉の話」

210522 自分の感想を書いてから、他の人の評などを読んで思ったことを追加したい。

私は小学生低学年の頃は少女マンガをよく読んでいたが、その後は縁遠くなってしまった。萩尾望都を初めて読んだのは、高校の同じクラスでマン研に入っている子が「布教用」に持っている『ポー』や『トーマ』を貸してくれた時である。
家へ持って帰って読んでいたら、6歳上の兄も一緒になって読んで「すごい!」と興奮して、大学のマン研所属の友人に電話をかけ「遠藤周作とかヘッセみたいなんだ」(←兄が好きな作家)と力説した。もっともその人はマン研内でもエロ劇画専門だったので、今ひとつ反応は薄かったようだ。

その後、定期的に少女マンガ雑誌数種類を立ち読みするようにまでなった(昔は金はないが体力だけはあった)。
当時、『風と木の詩』は連載開始前から話題になっていて「遂に世に出るのか」「なんか過激らしい」みたいな噂が流れていた。まさに満を持して登場✨といった状況である。
雑誌が発売された時はいち早く本屋に行って、周囲に人がいないかキョロキョロと気にしつつドキドキして立ち読みした。

リアルタイムでは萩尾作品と似ているとは思わず、単にヨーロッパの男子校寄宿舎という設定がはやっているのだなあという感じで読んでいた。確か池田理代子(『オルフェウスの窓』第一部、か?)や坂田靖子も描いていたはずだ。
『小鳥の巣』はゴシックホラー、『トーマ』はミステリ志向であって、『風木』とはジャンルからして異なるという印象だった。

しかし後から考えてみると、竹宮惠子にとっては自分こそ少年愛の先駆者だ、先駆者たらねばならない⚡という強烈な自負があったに違いない。
その自負心の前では、当時だろうが現在だろうが「全く似てない」とか「盗作じゃない」などと他者が論じても意味はないのだ。
なんで『11月のギムナジウム』の時はOKだったのに『小鳥の巣』や『トーマ』になるとダメなのか(?_?)と問うても無駄である。

唯一で最高の作品を描くのは先駆者の彼女なのであり、だから全ての尺度は彼女が決めるのである。これはもはや論理ではない。自らを恃む強い意志と感情なのだろう。

さらに問題は、竹宮は萩尾を自分に脅威を与えるライバルと見なしたけど、萩尾の方は心強い「仲間」とか「同好の士」と思っていたのではないかということだ。

登山を引き合いに出してみると、同じ山頂をめざして山登りをする仲間なら競争ではないのだから足を引っ張り合うことなどはなく、個々人がただ黙々と進んでいけばいいだけである。
途中で別ルートに別れたり、道が交差したりもするし、道具や水筒を貸してやったりもするだろう。それぞれ躓いたり休んだり時間差も出るかもしれない。が、とりあえず登っていけばいい。

そう思って歩いていたら--突然に道の前に立ちはだかり「あんたは登ってくるな」と突き落とされたらどうなるだろうか。「な、なんで~?」と斜面を転がり落ちながら思うはずだ。

萩尾は『一度』の中で、これが狭い道一本しかなく一人しか選ばれないバレエの舞台とか、親から平等に扱われるはずの姉妹関係なら「嫉妬というのもわかる」と書いている。
しかし山頂は広くみんなに開かれていて誰でも登るのは可能ではなかったのか。
一緒に登っていたはずがいつ敵になってしまったのだろう。そもそも山頂は独占するような狭いものだったのかな。

他の感想を見ると「天才過ぎて竹宮の作品など相手にしなかった」さらには「見下していた」などという極端な解釈まであったが、そりゃ違うだろうと思う。「無神経で鈍感だから気付かなかった」に至ってはナニソレ┐( ̄ヘ ̄)┌である。

「仲間」と思っていれば、自分の所に送られてこない掲載誌や描いたクロッキーブックを見せてもらうのは普通だし、その他情報を共有したりお喋りしにいくのも当たり前のはずだ。
しかし「敵」だと思われていたらどうなるか。相手からは「邪魔」「鬱陶しい」「スパイか?」となるだろう。

少女マンガの仲間だと思っていたら「敵」だったというのがそもそもの食い違いであり、悲劇の始まりだったのではないか。そして、二人が別の人格である限りこれはどうにもしようがないことなのだ。


なお、独特の文体で書かれているために「幼い」などと見当はずれの形容をする意見も見たが、勘違いだろう。「事件」が起きた時は20代前半の若い子ではあっても現在はベテランの表現者である。回想の表現が整然としてなくても、至る所に「証拠はある」「文句があるなら毅然とした態度をとる」意志は感じさせるのよねえ。
いずれにせよ、今年最大の話題書の候補に入るだろう。

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