書籍・雑誌

2008年4月20日 (日)

本日の収穫:スズキコージ編

新宿のジュンク堂にスズキコージ60歳記念shineコーナーが作られていて、つい買ってしまった。

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←「ブラックカードホワイトカード」(架空社)
定型外のポストカード集。変な絵がいっぱいだー。ただ、もうカードって滅多に送る機会なくなってしまったなあ。

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→「スズキコージズキンの大魔法画集」(平凡社)
これまでの絵本以外の作品を集めたもの、かな?

さらにタワレコにも寄ったが、こちらは収穫全くなし(T_T)


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2008年3月29日 (土)

「死刑」:死刑に惑う

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著者:森達也
朝日出版社2008年

身近に死刑になった奴、あるいはなりそうな奴はいない。
逆に、重犯罪の被害者もいない。
もちろん実際に死刑を見たことはないし、自分が将来なるとも思っていない--。

かように何も知らない状態で論議が出来るのか?ということで、死刑に関る様々な人に会って話を聞いたルポルタージュである。
その期間は数年に渡り、著者は廃止論者側だが、その間に意見が変わってもいいやと思いつつインタビューしていく。その中にはテレビなどによく登場する人もいるが、全然そのイメージが違うのに驚く。やはりワイドショーなんかではなんにも分からないと思った。
全体の印象はヨタヨタとためらいつつインタビューしていく、という感じ。とても、死刑問題をスパッと斬るというものではない。
その迷いは多くの読者の迷いでもあろう。(「いや、オレは迷ってないよ」という人もいるかも知れんが)

論議は既に尽くされていると著者は言う。もはや情緒の問題であると。
確かに、死刑存置国の中に日本、中国、韓国、北朝鮮が入ってるのを見ると、これは東アジア的感性に関る問題なのかとも思う。
論理でダメだから、情緒によって著者は結論に至る。それは納得行くものだけど、だからといって、論理で意見を変えなかった者がこの本を読んで意見を変えるとは思えないなあ。
とはいえ、今まで知らなかった死刑のことを知るには適書だろう。


以下は個人的に思ったこと。
死刑問題に関して必ず浮上するのは被害者遺族の感情という問題である。遺族のためにも死刑を--というのは分かるが、そうすると別の問題が出てくる。
早い話、じゃあ「遺族」のいない人間--たとえば、身寄りのない高齢のホームレスなんかが殺されたらどうなるのか。誰も「死刑を望む」と叫ぶ人はいないんだから、罪は軽くなるのか。とすれば身寄りのない人間は殺し得か。さらには、一人の人間の生命の価値は家族がいるかいないかで変わるのか。
また、しばらく前に起こった兄が妹を殺害した事件のように、被害者・加害者双方ともに家族である親が減刑を願ったらどうなのだろうか。その場合も、被害者の生命の価値は変わるのだろうか。

しかし、これを別の点からとらえ直してみよう。生命の価値が異なる、と見なすのではなくて、遺族に対する「迷惑料」……というのはあまりにナンだから、「苦痛料」としよう。
家族が100人(あくまでも数字上の仮定ですよ)いる者と家族が10人いる者の場合、後者よりも前者が被害にあった時の方がそれだけ多くの人びとに犯人は苦痛を与えているのだから、罰が重くなっても当然と考えるのである。こうなれば遺族の心情が量刑に関ってくるのは仕方ない。

だが、そもそも「苦痛」とは量的に測ることのできないものである。そんな不確定なものを法律に適用できるのだろうか。
それとも、もはや死刑とは法律の埒外なのだろうか。

そしてさらに考えてみると、一般の無関係な人々にとっては、いつか加害者同様に被害者もまた「苦痛を与える者」に転化してしまう可能性がある。この場合、「苦痛」というよりは「ケガレ」と言った方がいいかも知れない……。
すなわち清潔で公正で健全な社会に対し、違和感を与える瑕疵的な存在である。加害者は死刑によって消滅するが被害者の方は当然そうではない。
近ごろの被害者叩きの風潮を見ていると、そんな風にも感じてしまう。

……などと、グチャグチャどうでもいいことを考えてしまう間に、死刑は今日もまた粛々と執行されている--かも知れない。

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2008年3月20日 (木)

「新世界より」(上)(下):恐怖と郷愁

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著者:貴志祐介
講談社2008年

舞台は一千年後の日本、関東の一地方にあるコロニーである。上巻では中心となる人物たちが小学生から中学生になるぐらいの間の出来事が描かれる。
住人は全員、呪力なるもの(超能力)を持っている。コロニーの周囲には注連縄がめぐらされて結界が張られ、子どもは外に出られない。外には恐ろしい怪物や未知の生物がいるらしい。

基本的にコロニーは、現在の感覚でいうと少し古めかしい田舎の旧弊な共同体みたいな印象だ。読者の多くはやや郷愁を覚えるだろう(昭和三十年代風?)。
ただ、そこには奇妙な言い伝えやタブーが幾つもあって、学校の中庭にはなにか恐ろしいモノがありそうだし、子どもが急にいなくなってしまったりするのは都市伝説や「学校の階段」ぽい。学校で呪力の勉強をするのは「ハリポタ」なんかの魔法学校を思い起こさせる。外界の異様な生態系は「ナウシカ」のようでもある。
過去での超能力者の国家の盛衰が語られる部分は、まるで中国王朝史だ。

下巻に入ると、ヒロインをはじめ主要人物は大人になっていって、より世界は明確になりSF風になる。特に変わり果てた東京の光景は迫力に思わず口アングリ状態である。

千年後の世界の実相は、仲間うちでは友愛を唱えながら、少しでも異分子的な兆候を見せた者は容赦なく消してしまう。そして、人間以外の生物は滅亡させるも生き長らえさせるも思いのまま。これまた容赦ない。徹底した管理社会である。
そしてケガレを外部の世界に押し流し、自らの世界は清浄に保つ。真実をねじ曲げ歴史を作り上げる……。

形式としてはホラー、ファンタジー、SF(あるいはゲーム小説的な部分も)などの体裁を取っているが、顧みればこれらは遠い世界の話ではなく、全て過去にあった、そして現在も存在する事象ではないか。
そういう意味では単にエンタテインメントではなく極めて毒を持った風刺的作品だといえるだろう。

つまり、自らの国家や共同体を維持し守るために、都合良いように歴史を書き換え事実として強制する。同胞でも異を唱えるものは弾圧し、他の民族や人種を人間以下の家畜やあるいは単なるモノとして扱い差別する。虐殺も平然と行う。
その背後に、報復としての外部の反抗(テロ)と内部からの崩壊への恐怖が絶えず潜んでいる。
--まさしくこれらは実際に今も世界のいずこかで起こっていることだ。そう思うと、何やら冷汗がsweat01流れてくるのであった。

一応、前向きなエンディングだけど読後感は非常に悪い。人がやたらと死ぬのと、この世界の実相をあからさまに描いているせいだろうか。
特にドボルザークの「家路」はもう正気では聞けない気がする。

コロニーや外界の描写は詳細で実に力が入っている。これほどに描くのは相当な苦労があっただろうと思えるほど。スカな部分はどこもない。
ただ、個人的には今イチこの作者は文体に引きつけられるところがないんで、大絶賛というわけにはいかないのが残念である。

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2007年11月23日 (金)

「議論のルールブック」:おっしゃることは誠にごもっともですが

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著者:岩田宗之
新潮新書2007年

世にネット上での諍いは絶えず。煽り・釣り・中傷は当たり前、さらには匿名実名・騙り・炎上と果てしもない。
この本はそうしたネットの議論が諍いに終わらず、建設的になるようなルールを解説している。
内容的には論理学の難しいトコロなんかも出て来ていると思うのだが、実例は極めて卑近なネタを使っていてとっつきやすい。
例えば「感情論」の章では「納豆問題」、「議論の形態」の章では「バナナはおやつに含まれるか問題」である。

読みやすくてタメになった。是非、ご家庭に一冊、一パソコンに一冊お買い求めください……と言いたいところだが、ここに書いてあることを実践できるかというとまた別問題だろう。

自分に反対するような意見を見た時にムカーッ(`´メ)と頭に血が上って、夜も眠れず、仕事中もいかに反撃するかを思い巡らし気もそぞろ--なんてことは珍しくもない。分かっちゃいるけどやめられないんである。
いや、そもそも、この本はみんながまっとうな議論を行いたいと考えているいう、ある種の性善説を前提にしている。最初から議論なぞする気がない人間がいたら、このルールは無効になってしまう。

とある女優のファンが「○○を批判」(○○は女優名)という検索でぶち当たったブログに片端から匿名のイヤミ一行コメントを書き込んで行くような行為もある。もちろん一行コメントなんか相手にするなというのが正しい対応だろうが、それが一応ハンドル名を使い長文のコメントだったら、相手が同じようなイヤミのスタンスであっても無視するわけにはいくまい。

まあ、とりあえず正しい議論を行いたい人にオススメしたい。ただ、実践は難しいニャー(特に私には)。

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2007年11月10日 (土)

「ガイサンシー《蓋山西》とその姉妹たち」(書籍):全ては時とともに忘れ去られていくのか

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著者:班忠義
梨の木舎2006年

(映画に登場していた中でも既に亡くなった方がいる →)

同名のドキュメンタリー映画を見て、監督がその前に出していた本の方も読みたくなった。当然ながら、本の方が映画より詳しく書かれているだろうからだ。

前半は映画で中心になっていた「ガイサンシーの姉妹たち」へのインタビューの内容、またその経緯などが詳しく書かれている。映画では一度だけのような印象だったが、著者は数年に渡って何度も現地へ足を運んでいたのが分かった。それにしても、エラい田舎である。中国はやっぱり信じられんぐらい広いんだのうと感じた。

後半は複数の元日本兵への取材(これも色々と経緯がある)と、「姉妹たち」の戦後の生活が詳細に描かれている。特にガイサンシーはその後激動かつ厳しく悲惨な人生を送った。それは中国の変転激しい戦後状況もかなり関係しているだろう。

多くの戦争被害女性はトラウマ(精神的外傷)に苦しめられ、健康では、婦人病をはじめ、さまざまな病に悩まされている。そして多くの人が過去の体験で生殖能力を失い、子どもを持てなかった。(中略)中国政府はこの戦争女性被害の問題において、沈黙を守り曖昧な態度を取り続け、いわゆる政府の“不作為”を貫いてきた。

日中両国政府から無視され、地元でも冷遇されてきた彼女たちを初めて認めたのは、なんと日本での民衆法廷であった(あの教育テレビのドキュメンタリーが問題になった「女性国際戦犯法廷」)。民衆法廷というのではなんの実効力もないわけだが、にもかかわらず判事が判決を読み上げると皆、狂喜して歓声を上げ感動の涙を流したという。
これまで、それほど多くの人々が彼女たちの話に耳を傾けたことはなかったし、過去の苦難が認められたこともなかったからだ。この場面は極めて印象的である。

著者は一方で当時ガイサンシーたちのいた地域に駐留していた部隊の行方を追う。その結果、部隊はその後沖縄の激戦地に送られほとんど全滅状態で戦死したということが判明した。
彼女たちを率先して虐待した古参兵や指揮官も、である。所詮、兵士たちも使い捨て状態だった。

ここに加害者と被害者の両側の人間が同じ地球にまだ生きている、つまり、一方はこのように豊かで静かに、悠然と生きているのに、他方では大変な苦難と苦痛に満ちた人生を余儀なくさせられた。

当初はこのような怒りを感じていた著者だったが、最後には次のように述べる。

近藤さんの話を受けて、戦争に人生を奪われた日本の軍人たちへの同情もいささか沸いてきた。私はこの事実を中国人や日本人に伝えることが大切だと思わされた。

この終盤あたりは著者の真摯さがヒシと感じられる部分である。
戦争に伴う名も無き庶民たちに起こる運命の変転、そして被害者と加害者を分かつもの、個人の全てを際限なく覆い尽くす苦痛--などなど色んな事を考えさせられた。しかし、それらはあたかも天災のごとく自然発生して起こるのではない。何者かに原因の責任はあるはずなのだ。


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2007年10月22日 (月)

トーキングヘッズ叢書 No.32出ました~そして大島弓子にスゴスゴと引き下がるの図

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トーキングヘッズ叢書(TH Series) No.32、今回の特集は「幻想少女~わ・た・しの国のアリス」であります。
詳しい内容はこちらをどうぞ。
興味のある方はお買い求めくださいませ。<(_ _)>

私はモンゴメリ、中勘助、大島弓子という珍妙な取り合わせで書いています。本来は大島弓子の短編『たそがれは逢魔の時間』について書くはずだったのが、これだけでは長くならない、と思って脱線したら本筋の方がおろそかになってしまったという最悪のパターン。大いに反省しとります。おまけに今になって、「売春」と「買春」を間違えている部分を発見。トホホ(+_+)


それにしても大島弓子について言語で語るのは難しい。彼女の作品についてちゃんとした文章を書いたのは初めてのことだと思うのだが、説明しようとすればするほど陳腐になっていくのはどうしようもない。
読んだことのない人のために説明すると、『たそがれは逢魔の時間』は1979年の作品。当時としては衝撃的な「少女売春」を題材にしたもの--しかも、少女の方ではなく中年男を主人公にしているのである。
ホントの大島弓子のファンだともう少し後の時期の作品を最高とするのだろうが、私はこの『たそがれ』前後の時期の作品の方が好きである。まあ私はニセのファンだからいいのだ。

冬枯れの木の枝にひっかかって見える少女の陰靡な「くすっ」という笑い、暗い森を二人で駆けぬける場面、一転、少女がテコテコと犬のように走り回る雪の中、などの喚起するイメージを文章で説明するのは極めて難しい。
また、少女が出現してからの中年夫婦のビミョーな関係の変化の表現もまた見事としかいいようがない。
さらに、中年男の記憶に眠る少年の純粋性が、そのまま直に少女への欲望と妄想へと転換していく描写も素晴らしい。
全てが完璧に隙なく構成されているように思える作品だ。
しかし、もちろん視覚的にはあの大島弓子の「絵」(ある意味、隙だらけの)なのだよねえ……。

と、また余計なことを書いてしまった。
うーむうーむ(-_-;)、多分、大島弓子の作品について分析的な文章を書くことは二度とないだろう。もうダメだ~(パッタリ)←敗退して倒れる音


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2007年10月14日 (日)

「終決者たち」上・下:面白いけど地味、地味だけど面白い

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著者:マイクル・コナリー
講談社文庫2007年

ロス市警にヒエロニムス・ボッシュ復帰、
キタ━━━━━('∀')━━━━━!!!!
まあ、私立探偵時代は作者も描きにくかったんでしょうか。刑事に戻って、まずは大多数の読者もこりゃメデタイってことで祝杯をあげるのであった。

さて、原題は The Closers --となると、つい先日CS放送でシーズン2が始まった警察ドラマ『クローザー』を連想してしまう。
警察内部(同じくロス市警)の嫌味ったらしい権力関係が描かれるところは同じ。だが、主人公は女性捜査官なれど最後の自白を犯人から引き出す名手、という意味での「クローザー」で、読んでいくとどうもこちらは意味が違うようだ。

ボッシュとこれまた現場&相棒復帰のキズミン・ライダーが配属されたのは強盗殺人課の未解決事件班。長年、迷宮入りの事件を掘り起こして解決するのが仕事である。--となると、すぐに思い浮かべるのはWOWOWで放送中の『コールドケース』。フィラデルフィア市警殺人課、女刑事リリー・ラッシュ、未解決凶悪犯罪となるではないの。(実際、作中にもこのドラマのことが出てくる)

しかし、これまたドラマとはかなりイメージが違う。『コールドケース』だと事件の話が出ると、すぐに当時の回想シーンが始まり、流行った音楽がバンバンと流される。気分はすっかり六十年代、みたいな感じだ。ヒット曲やファッションの再現がウリの一つで色彩豊かだ。
しかし実際には、再捜査には膨大な調書や証拠を探し漁り読み尽くさなくてはならない。極めてジミ~な作業である。関係者にまた話を聞きに行くにしても、みんな歳を取っている。『コールドケース』みたいにちょっとつついただけで犯人が簡単にゲロしてくれるわけはない。昔の迷宮入りの事件といっても、結局のところ「現在」の話に他ならないのだ。そういうことが、ヒシと感じられる地味さである。

従ってこれまで、同じシリーズにあったハードボイルド味はほとんどない。かなり警察小説よりだと言えるだろう。
被害者の家族や友人に話を聞き、古い証拠やアリバイを検討してもそれがうまく行くわけではない。派手な部分は皆無で、話の本筋にあまりつながらない枝葉末節やら寄り道やら失敗も出てくる。読み手によってはそういう描写は余計で退屈だと思うかもしれない。
しかし、私は読んでいて全体を通じて存在する何か流れ、というかうねりのようなものを感じた。そしてそれに乗ってあっという間に読み通してしまった。いくつかの部分は後戻りして、何度も読み返して味わった。音楽で気に入った曲を何回も聞き直すようにである。
下巻の途中では「ああっ、もう読み終わってしまう」などと名残惜しくなってしまったくらいだ。

やはりどうせ小説を読むならばこういうのを読みたいのう。単なる状況説明文のような小説なんて時間の無駄ムダ無駄(`´メ)。噛めば噛むほどスルメのように味が出てくる文章を心から望むのであるよ。
そういう意味ではドラマでは『ホミサイド』に一番似ているだろう。まあ、あの『ホミサイド』を引き合いに出すのはあまりにほめ過ぎかも知れないが……。あんなクセのある同僚の刑事たちは出て来ないしね。
それでも真実と虚無の狭間を歩む捜査官たちの寂寥感はよく似ていると思った。

それから、さっき枝葉末節が多いと書いたが、それはあくまで捜査上の話で、逆に捜査以外の話がほとんど出て来ないというのがまたオドロキである。ボッシュのヨメと娘の件もチョコっとだけだ。それ以外全くなしの一本勝負。
あと、ストーリーの本筋には関係ないが、人間の責任の取り方というものについて考えさせられた。自分の考えが原因で取り返しのつかない犠牲を出してしまった時にどう対処するのか、シミジミシミジミ考えてしまったよ。

不満なのはただ一つ、新たな上司たちがいい人っぽいこと。特に終盤に出てくる本部長の言葉には、ボッシュ、あんた丸め込まれてるんじゃないのと言いたくなったが、逆に見れば意味は似てても、ものは言いよう。部下にヤル気を出させる上司のその一言、として中間管理職の方々は参考にするといいかも(^○^)

ドラマといえば、『CSI』や『ロー&オーダー』の名も中に出てきて、しかも鑑識係が詳しく事件の様相を説明する場面も登場する。も、もしかしてコナリーも愛読ならぬ愛視聴してるのかしらん(^-^;
ま、CSI:マイアミだけは見てないのは確かだろうけどさっ。

過去2作の感想はこちら。
『天使と罪の街』
『暗く聖なる夜』

【追記】
2007年の週刊文春ミステリーベスト10にてめでたく海外部門第8位になりました。
が、「このミステリーがすごい!」では残念ながら21位以下の番外に(T_T)

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2007年10月 5日 (金)

今や懐かしの「サイパン」なのか

《万来堂日記2nd》より「ライトノベルもサイバーパンクも似たようなもんです。きっと。/あれ? 運動が巨大化してジャンルになるのか?」の感想。

「ライトノベル」はとっくにジャンル化していると思うが、違うだろうか?
まあ、何をもって「ジャンル」と見なすかによるが。少なくともマーケット的には巨大だろう。そして、それしか読まない読者が多数いるはずだ。

身近にいる高校生はライトノベル文庫のファンだが、一冊二十~三十分で読んでしまうという。だから一日に5冊ぐらいは軽く読んじゃう。で、自分が読んでるシリーズの作者がハードカバーで新作出しても読んだりはしない。別に作者の名前で読んでいるわけではないからだ。
例えば桜庭一樹の『Gosick』を熱心に読んでる中高生が『赤朽葉家の伝説』を読むかというとそういう訳ではない、ということだ。
そのように強固に固まっている「壁」が存在していることが、逆に強固なジャンルであることを証明しているよう思える。

さて、ひるがえってサイバーパンクだが、日本のSF界では結局のところどう位置づけられたのか?
途中でSFファンダムから足を洗ってしまった私は現在の状況を知らないが、欧米(というか、米国だけか?)でのようなムーブメントであったかどうかは怪しい。
確かに海外の作品に同調する、あるいは影響を受けて作られた作品はあるけど、それを日本におけるムーブメントと言えるのかヒジョーに疑問である。
そもそものサイバーパンクは過去のオールドウェーブ(&ニューウェーブな)SFへのアンチ的な位置づけで出て来たと記憶しているが、日本では全くそんなことはなかった。
最初から「ジャンル」として入って来たと思う。

そうなると、ムーブメントが固定化してしまうとジャンルになるという見方もできるわけである。そういや、コバルト文庫の初期なんてメチャクチャでとても「ジャンル」なんて言えなかったですよねえ。

えー、結局何が言いたいかというとライトノベルもサイバーパンクも初めっからジャンルであったということで。だから、なんだって言われると困るんだが。
まあ、他の人の意見も聞きたいところだ。

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2007年8月28日 (火)

「宙飛ぶ教室」:宝塚ネタはよく分からん

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著者:小倉千加子
朝日新聞社2007年

雑誌に連載してた連作エッセイを収録していたもの。タイトルは「そらとぶ~」と読む。
内容は
*宝塚ネタ(書名の「宙」は宝塚の宙組から来てるらしい)
*大阪というか関西の土地や人の気質の話

で三分の二を占めている。どちらも私は知らない分野なんで読んでてよく分からず隔靴掻痒という感じだ。
残りの三分の一は面白かったが……。
「河合隼雄の言いそうなことを言っている自分を、誰か止めてほしい」という所は思わず笑ってしまったし、大学の講義でいつも最前列に座って著者の話を聞いているデコボココンビの男子学生は微笑ましかった。

ちょうど今週の「アエラ」で、このエッセイの中で大きく取り上げられている元宝塚の人が表紙になっていた(検索して来る人がいると悪いので、名前は書かない)。その写真をつらつらと眺めてみたが、やはりステージを見てみなくては何も分からないようだ。
もちろん、宝塚の話はジェンダー関係につながるんだろうけどさ。

【追記】
元宝塚の人の写真集の新聞広告を見かけた。で、NHK-BSでやってるアニメ『精霊の守り人』のヒロインに似てるなーと思ったのは私だけじゃろか。
もちろん、「似てる」っても実際のところは逆で、キャラクターの設定の時にモデルにしたのかも知れないってことになるわけだが。
『攻殻』の時もモデルとして吉永小百合とか金城武の名前が出ていたからなあ--あり得ない話ではないと思うぞ。

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2007年8月26日 (日)

「私刑連鎖犯」上・下:よくできた話のつまらなさよ

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著者:ジャン・バーク
講談社文庫2007年

ミステリ・チャンネルの「ミステリ・ブックナビ」という番組でその月のオススメ本として紹介されていた小説。
FBIの指名手配凶悪犯リストに入っている悪人が残酷な方法で次々と殺されていく。その裏の犯人の真意は……。

と書くと面白そうだが、犯人とその意図は最初から明らかにされていて、謎解きの面白さはほとんどない。むしろ、追跡する刑事と犯人と関りのある別のグループがどう行動するかというサスペンスが中心。

視点は一人の人物に限定されてなくて、映画のように場面ごとにクルクル変わる。今時のエンタテインメント小説はみんなこんな感じなんだろうか。
明日にでもすぐ映画にできそうだが、小説としては全く面白みがない。

複線もよく張られているし(ただし人物の行動に納得行かない部分あり)、登場人物も多種多彩でまことに結構だが、いかんせん刑事である主人公のキャラクターに全く魅力がないのはどーしようもない。
よくできた小説のつまらなさ--とでもいおうか。
時間を無駄にしました、ハイ(+_+)

ちなみにこの手のヒーローは子どもと小動物に好かれるのが必須条件なんですかね。だとしたら、オイラは永遠にヒーローにゃなれねえなあ(^O^)ケケケ

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2007年8月19日 (日)

「奇術師」:ウサン臭いのが好きっ

著者:クリストファー・プリースト
早川書房(ハヤカワ文庫FT)2004年

映画『プレステージ』を観たら、猛烈に原作を読んでみたくなった。
で、読んでみた結果は--「これをよくぞ映画にしたなー」とか「なるほど、ああいう風にしか映画にできないなー」と思った。

形式的には現代と19世紀末の複数の人物の手記(語り)を交互に置き(一部、三人称の部分もある)、特に過去の記述では何が事実なんだか語り手の主観なんだかよく分からない。
それゆえ、明確なストーリーがあるわけではなし、誰が主人公なのかというのもハッキリしていない。

映画では過去の事件だけに限定し、二人の男の争いを中心にし、なんとか白黒善悪をつけて、一応ハッピーエンドに仕立てている。
ハリウッド製娯楽映画としてはそうせざるを得なかったのだろうが、どちらの人物にも共感できないという点は、元々の原作の設定をある程度生かしている--というより、つい出てしまったと言った方がいいか--と分かった。

「こんなのマジックと言えない」と映画ファンから非難されたネタについては、原作でも果たしてこれが奇術といえるのか、と自問自答している。
また「決してネタをばらさないでください」というのは奇術の解説書の冒頭にも記されている言葉で、映画でもそれをなぞっていると判明。
そういう所は原作をよく生かしているのであった。

とにかく、原作も映画と同じくウサン臭くて楽しめた。一つのネタで二度楽しめる、って感じですか。
気に入ったので、今度は最新作『双生児』を読んでみる予定。

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2007年8月15日 (水)

「廃帝奇譚」:滅亡の残照

著者:宇月原晴明
中央公論新社2007年

奇想天外な歴史ファンタジーとでもいうべき物語を見事な筆致でまとめた『安徳天皇漂海記』。その後日譚である連作短編集だ。
三編は中国の元と明の皇帝3人について、最後の一編が鎌倉幕府に対し挙兵し隠岐に流された後の後鳥羽院を描く。いずれも『安徳~』に登場する金色の玉に取り憑かれており、その脳裏を支配する金色の光とは、自らの統治する帝国に差しそめる滅亡の残照に他ならない。
まさしくこれは滅びゆく者の物語である。

それにしても、こういう華麗な文章いいですねえ~。読んでいてウットリしちゃう。

北村薫は『メッタ斬り文学賞・2007年版』によると『安徳~』について嬉しそうに歌の講釈をしたというが、今回も後鳥羽院が既に亡くなっている実朝に幻の歌合をしかける件についても大いに語りそうだ。

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2007年8月12日 (日)

「働きすぎる若者たち」:期待外れの一言

「自分探し」の果てに
著者:阿部真大
NHK出版(生活人新書)2007年

本のソデの所に書かれた紹介文で「「あり地獄」とも称されるケアワーカーの実態調査を通して」と書かれていたので、てっきり介護・福祉の分野の若者の厳しい労働の実情が取材されている本かと思ったら全然違った。
もちろん、「集団ケア」から「ユニットケア」へという流れについては、門外漢には興味深いことだったが、それ以外の若いモンの実態話はあんまり出て来ない。

それよりもむしろ「若き社会学者がロストジェネレーション(25~35歳)の労働問題の構造と本質をえぐり出」しているかどうかはワカランが、少なくともそういう推察や分析が主な感じである。

ケアワーカーの仕事は過酷で低賃金だが、今さら給料が上がるわけはないので、その仕事にのめり込まずに趣味や愉しみなどの方面でなんとか自己実現してやり過ごそう。そのためには中高年の皆さんはボランティアに行ってくれ。
--こういうことですか?

でも、低賃金じゃ結婚もできんじゃないの。どーすんの?
例にあげられているヤンキーの皆さんはまだ集団的開放的だからいいけど、ヲタク系趣味の人とか芸術系指向の人にもそれであてはめちゃっていいのか。

ラスト一行「この本がその一歩になればと願っている。」
--なんだ、言いっぱなしということか。ガックリである。

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2007年8月 9日 (木)

「湖の南」:琵琶湖とテキサスタワー

著者:富岡多恵子
新潮社2007年

以前、中勘助の評伝を読んでいたく感心したことがある富岡多恵子の新作。扱っているのは「大津事件」の犯人とのことではないか。で、早速買ってみた。

だが大津事件といっても、なんだか日本史の教科書の明治時代あたりで名前を見かけたような気がするなあ--ぐらいのもんである。それも一行説明があったかなかったかってなもんだ。記憶の曖昧なままとにかく読んでみる。

だが、しかし果たしてこれは評伝なのか小説なのか手記なのか?全く判然としない。
事件の舞台の近く、琵琶湖を臨む地域に引っ越してきた「わたし」が著者自身であることは間違いないのだが、後半に登場する「わたし」に奇妙な手紙をよこしてくる謎の男といい、それを語る飄々としたユーモアを含んだ他人事のような文章といい、なんだかどこまでが事実なんだか、虚構が交じってるんだかよく分からない。

極めつけは、冒頭で紹介されているロシア育ちのドイツ人マックス・ダウテンダイなる作家が書いたという『ビワ湖八景』なる短編集である。日本を舞台にした八篇の「愛の物語」集だという。その中の一編が大津事件をモデルにしているという。

ダウテンダイ?日本の愛の物語?……うっさんくさーっヾ(^^#)ゝヾ(^^#)ゝ
どう考えても『鼻行類』みたいなナンチャッテ本の類いとしか思えない。しかも国立国会図書館のサイトで検索しても出て来ないし、全国書誌データを調べても、書店系のサイトを見ても同様だ。存在しない本じゃねーの??

当時の国際関係においてはロシアとの関係は最重要。そこの皇太子が警護する側の巡査に襲われたってんだから大事件である。
今日びだったらワイドショー、ニュース、新聞、週刊誌……ありとあらゆるメディアが一カ月ぶっちぎりで騒ぎたて、ネット上には「犯人逝ってよし」「よくやった(w」などの書込みがあふれまくったことであろう。
何せ、明治天皇がわざわざ見舞いに赴き、大臣たちは犯人の処遇をめぐって夜中の駅で酔っぱらって喧嘩をし、全国から見舞品が届き、歌舞音曲は自粛、遊郭は休業したというほどだ。

著者は史料や書簡類を丹念に読んで犯人の巡査の人物像を調べている。
士族の次男坊が兵役に取られて西南戦争を戦い、家が心配で早く帰りたいのにさらに兵役を延長。ようやく帰ってきて、巡査の職につくが……。
その西南戦争が「雨アラレのように撃ち合うタマとタマが空中でぶつかってしまう偶然が一度や二度でなく」という熾烈なものとは知らなかった。2個の銃弾がくっついた「行きあい弾」が実際に残っているという。
私見だが、おそらく彼はその激しい戦争のPTSDではなかったかと思われる。さらに、その後の生活にも満足できたわけでなく、そういう鬱憤がたまっていたのではないか。
なんとなく「テキサスタワー乱射事件」あたりを思い浮かべてしまう。
そういう点ではまさしくこれは「現代的な」事件だった。

どうやら、これはとっくに終わった「教科書一行分の事件」--というわけではなかったようである。
平穏でしかし何か不気味な現在の琵琶湖畔の風景とどこかでつながっているのだろう。

さて、文中では『ビワ湖八景』、巻末の参考文献リストでは『近江八景の幻影』なる本だが、アマゾンで検索したらなんと出てきたではないか! さらに地元の大津市立図書館のサイトで検索したら6冊も所蔵している。
どうも、版元が国立国会図書館に納本しなかったようだ。地方出版物は納本しないと、全国書誌データにも載らずもちろん書店系にも出てこず、そもそも存在自体アヤシクなってしまうとは、こりゃオドロキ。
ということで、版元さん納本ちゃんとしてくださいよう。

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2007年8月 6日 (月)

真の名前と「通りすがり」

たまたま図書館で『阿部謹也著作集』の第1巻(筑摩書房)を見かけて借りた。代表作『ハーメルンの笛吹き男』と『中世の星の下で』が収録されている。
巻末にはさらに小論が幾つかあって、「ヨーロッパの名前--グリム童話を中心に」というのが目を引いた。

わずか3ページの短いものだが、

人間に限らず、動物やモノの場合でも、名称がそのもの自体と不可分の関係にあることは、ヨーロッパでも同様であった。(中略)名前を呼ぶことが相手を支配するのと同じことであると考えられていた。

これを読んですぐに思い浮かべたのは『ゲド戦記』であった。かつて一作目『影との戦い』を読んだ時に、「このような〈真の名前〉という考え方は西欧によくあるものなんだろうか? それともル・グウィンのオリジナルだろうか」という疑問を感じた。
その後『クリスタル・ドラゴン』にも重要な設定として出てくるが、これは『影と~』より数年後の作品だから設定を借りたのかもしれず、当時はよく分からなかった。

しかしこの小論を読むかぎり、名前には魔力のようなパワーが存在したと考えられていたようである。

名前がこのように大きな意味をもっているとすれば、何らかの不都合が生じたときに、その状態を変えたり、新しい事態にいたったときに、名前をつけかえるということも起こってくる。(中略)教皇も国王もその地位につくと新しい名をつけるのである。俳優や芸術家も舞台では別の名を用いる。

とすれば、現代でも多くの作家が実名ではなくペンネームを使うのもそのためではないか!……であれば、ネット上で我々がハンドルネームを使うのももしかして同じなのか?
中世から続く教皇の名とハンドルネームがよもや同じものとは--思いもよらなかったことである。

また特定の団体に入ると、そのなかでは別の名を呼びあう例も見られる。(中略)これらはみな名前が現実を生むと同時に新しい現実が新しい名前を必要としているためと考えるからである。

かつて(既に大昔か)ニフティのパソコン通信ではほとんどの人がハンドルネームを使用していた。実名の人もたまにはいたが……。(そういや、谷山浩子ご本人事件なんてのもありましたな) そして、その名前の元に新たな人格をまとって書きこみをしていたわけだ。まさにこれは上記の「特定の団体」に該当する。
しかしやがて、インターネットが一般化し2ちゃんねるが登場して盛んになってくると、ニフのフォーラムにまで「通りすがり」が出没してきた。掲示板に特定の名前を持たないことを前提に書き込むということ自体、当時は不可解であったし、さらに2ちゃんの中に留まっておればいいものを、フォーラムにまで出張ってきて「通りすがり」を使用するとは何事じゃっ!と腹立たしく思ったものだった。

ブログの時代になって、ハンドルネームはだいぶ目立たなくなってきたが(どちらかというとブログ名の方が目立つ)、それでも炎上したブログのコメント欄に多くの「通りすがり」(あるいは「名無しさん」も)が跋扈したりすると、妙にいらだたしく感じる。「匿名」とか「匿名希望」とか名前の欄を空欄のままにするのよりも、なぜかそのいらだたしさは大きいのだ。

かつて私は、書き手のアイデンティティの問題だろうかなどと考えていたが、実はそうではなかった。「通りすがり」という名前にあらざる名前が、明らかに名前の魔力を否定しているからである。ハンドルネームを喜んで使うような人間にはその否定は許しがたく感じる。その名前に支えられた暗黙の「現実=共同体」をも否定しているように思えるのだろう。

とすれば、しばらく前に(今でも?)ネットをにぎわしたブログの「実名・匿名論争」も、本当はネット上のモラルやヒエラルキーの問題ではなく、「真の名前=実名」がその者の本質を示し支配的な力を持つという認識から生じたものなのかもしれない。

阿部謹也は「名前が単なる記号と化しつつある現代では理解しがたくなっている」と書いているが、どっこい名前の魔法は現代でも生きているのだ。そしてこれからも形を変えて生き続けることだろう。

【関連リンク】
《技術系サラリーマンの交差点》より「実名ブロガーは「匿名による批判へのポリシー」を示しておいてはどうか」
《シナトラ千代子》より「匿名実名論争をムダにしないためにも小倉先生にお願いしたいこと」
  ↑こちらを見るとまだ論争は続いていたんですねえ……。

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2007年5月27日 (日)

「18歳の今を生きぬく」:若いモンもつらいのよ

高卒一年目の選択
著者:東京都立大学「高卒者の進路問題動向に関する調査」グループ
青木書店2006年

東京都内の二つのタイプの異なる高校で、三年生の生徒に進路について聞き取り調査を行い、さらに一年後に彼らの現状を追跡した調査をした結果をまとめた本である。

就職にしろ進学にしろフリーターにしろ、実に様々な若者の現状が紹介されている。高校生の頃からバイトで家に金を入れ、さらに卒業後は専門学校への進学を目指して費用を貯めるためにフリーターになるも、状況の厳しさに思うようにならずズルズルと……というパターンや、或いは就職できなかったために進学を選ぶなんて事例もある。
こういうのを見ていると、私の世代の進学・就職観というものは全く通用しないのを痛感する。

またいずれの事例にしろ親の資産(経済的なものに限らず)によって大きく左右されること、そして進路先の環境や対人関係も重要な意味を持つことが分かる。
個人的に意外だったのは、生まれてから高校卒業まで自転車で移動できる地元地域内のみで生活してきた若者にとっては、仕事のため長時間電車で移動を繰り返すというのは大きなストレスになるということ。考えてもみなかったが、うむむむ……なるほど、そういうこともあるのね。

上っ面の話だけ聞けば「今どきの若いモンは--」と言いたくなるような話でも、隠れている実情と背景を知れば、やむを得ずそうなってしまったのだということがよーく分かった。
聞き取り件数は決して多いとは言えないが、単なる統計の数値では決して知ることのできないことばかりである。

一方、第2章の統計分析を見るだけでも驚く部分がある。「東京の若年層雇用形態」というグラフを見ると1992年を境に正規雇用・非正規雇用の割合が逆転し、さらにそれまで無かった男女差が生じて年ごとに拡大している。
つまり、東京で若い女性が安定した雇用を得るのは今では非常に困難であるということだ。

正直言って、この手の問題を扱った本の中では読んで一番役に立った。「今どきの若いモンは」と言いたい人には一読をお勧めしたい。

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2007年5月17日 (木)

「オンナらしさ入門(笑)」:ウン十年前に読めてたらよかったかも

著者:小倉千加子
理論社(よりみちパン!セ)2007年

理論社から出ているヤングアダルト向けの新書(より一回り大きい判型だが)から出された女子向け人生指南書。ちなみにこのシリーズからは既に男子対象の本は3冊ほど出ている。

内容はこれまでの著者のジェンダー論などを分かりやすく噛み砕いて書いている。『ナイトメア』とも重なる部分は多い。
冒頭にマザーグースの歌を引用し(「おんなのこは おさとうと スパイスとすてきななにもかも」でできている)、歌の内容にもかかわらずイバラの道を歩かなければならないことを説く。
ただし、あくまでも青少年向けであるからには、終章は希望にあふれたものとなっている。彼女の他の本のように辛辣な終わり方は禁止!だ。
とはいえ、キビシイ指摘は文中の至る所に登場するので要注意である。

大学生の男子の「見にいく娯楽」の第一位は、観賞でも鑑賞でもなく、観戦です。男子は勝ち負けを見にいき、女子は作品を見にいく。

なんかここを読んで思わず笑ってしまったのは私だけか。

もちろん、これは甘い「おんなのこ」のイバラの道を歩くことに疑問を感じる女子向けであり、そうでない女子は読む必要はないだろう。あ、「おとこのこ」(「かえるに かたつむりに こいぬのしっぽ」で構成)がイヤな男子も読むのはOK。


余談だが、マザーグースの歌で思い出したのはウェールズの伝説の中の物語である。魔法使いが砂糖やスパイスや素敵なもの--ならぬ花で美しい女を作って自分の甥に与えるのだが、その結末は極めて不条理で陰惨なものだ。
伝説の中で示されているのは不変の真実なのだろうか、それとも太古の昔から存在した道を外れた女への規範なのだろうか。

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2007年5月 7日 (月)

「いじめと現代社会」

著者:内藤朝雄
双風舎2007年

正直言って、かなり期待外れだった。本当は同じ著者の『いじめと社会理論』の方を読むべきだったと思う。でも、電車の中で読むには難しいかなーと考えて、こちらにしてしまった。

色々な媒体での対談や論文やエッセイを集めたもので、そういう意味では統一性はない。
特に「図書新聞」に連載していた短めの論文(エッセイ?)群は、なんだかアジテーション文読まされているようで、全く納得できなかった。
「タカ派の議員たちを次の選挙で落としまくらなければ、日本の将来はない」ったって、やっぱりそういう議員は当選するし、『国家の品格』はベストセラーとして売れ続けるわけだ。どーすんのよ。
現在の天皇に対する過度なほどの熱い思い入れもよく理解できなかった。そんなに思い入れられたって、あちらさんだって困るだろう。ひねくれ者たる私にはどうしてそこまで完全な他者に期待してしまえるのかよく分からない。

それから対談で本田由紀が、あたかも専門高校では閉鎖的ではなくいじめもない人間関係が作れるようなことを述べているが、現状の専門高校では普通高校と変わらぬ閉塞的な状況にあり、いじめもしっかり存在する事例がある。それから普通高校に変な職業コースを作って失敗した話も聞いたことがあるぞ。実態を把握して言っているのだろうか?

まあ、いつか余裕が出来たら『いじめと社会理論』を読むことにしたい。

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2007年5月 5日 (土)

「身体をめぐるレッスン 2 資源としての身体」:役立つ身体をあなたは持っているか

編者:荻野美穂
岩波書店2006年

様々な面からの身体論のアンソロジー・シリーズの2巻目。他の巻は未読だが、テーマが面白そうなので読んでみた。

内容は色々である。難しくてよく分からんやつもあれば、他の本でも似たことを書いててもうイイヤな人もいる。

面白かったのは、日本のハンセン病施策を「隔離」という点から見た「隔離される身体」。家族を解体して隔離された身体が「国家」へ回収される過程は極めて興味深いものである。

「卵子・胚・胎児の資源化」は自分の身体の一部(であったもの)が知らないままに、あるいははっきりと認識しないままに研究者に回され利益を産み出している構造を描いている。それがいかに多額であっても、提供者に還元されることはない--というか、そういう事実があったのかどうかさえ分からないのだ。

「生かさないことの現象学」は安楽死・尊厳死に潜む、表には見えることのない「生かさないこと」への選別の存在を明らかにしたもの。事故現場でのトリアージについても書かれている。
そのような場面での「生かさないこと」の選択は、本人の自己決定ではなく、その時代の社会的規範と結びついている。例えば、高齢者、重病人、障害者、さらには中毒者、ホームレス、売春婦など。
医療現場で日々、そのような選別が行われているというのは恐ろしいことだが、一方で人々がそれを無意識に一つの価値観として受け入れてしまっているのもまた事実であろう。

さて、一番面白かったのは「バンキングと身体」である。私の子供の頃は献血をした人には優先的に輸血を受けられるという優先権があったはずなのだが、それがいつの間にか献血してもしなくても同じということになっていた。
実はその背後には昭和初期からの日本の血液事業の変遷が絡んでいたのだ。輸血による事故、血液の安定供給と品質低下防止、売血から献血へと、様々な動きがあった。
時折街中で耳にする献血を呼びかける声の背後にこんな歴史があったとは--いやはや、わからんもんですねえ。

ということで、全ての論文がヨカッタとは言えないが、2700円の元は充分取れた本だといえよう。

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2007年5月 4日 (金)

「ナイトメア」:怪談、あるいは「女」という病

心の迷路の物語
著者:小倉千加子
岩波書店2007年

毎日新聞のサイトで連載したコラムを単行本化したもの。
私はその連載をずっと読んでいたのだが、実は冒頭から見逃していた一文があった。
「小説を書いている私には、読者からしばしば手紙が届く。」
--という文章である。私はここを読んでいたはずなのに、脳内から追い払ってしまっていた。小倉千加子は小説家ではないのだから、これは「以降の内容はフィクションである」という宣言なのだ。
だが、それを読み飛ばした私は「ナイトメア」とこの中で呼ばれている女性が実在して小倉千加子に本当に手紙を送ってきたのだと思い込んでしまったのである。

しかし「ナイトメア」は完全な虚構の存在ではないだろう。恐らくは著者が出会った複数の若い女性を重ね合わせた人物かと思われる。点々と語られる「ナイトメア」のエピソードは「ああ、そういうヤツいるいる」と思わせるものが多い。
一番、印象に残ったのは歴史ものの芝居を観に行って旗の紋章が違うといって、もはや芝居自体を拒否してしまう話だ。確かにいるよなー、と思ってしまった。

彼女はあまりに知性があり過ぎるため、知に拘泥するためにどこにも安住できない。女は知的であってはイカンのである。家庭では良い娘、良い妹、良い妻、良い母にはなれないし、学校や職場では鬱陶しがられるだろう。それを完全に隠蔽するだけの世俗的な一面は持ってない。もはやどこにも行く場所はないのだ。

数年に渡り作家の「私」に対し手紙が送られてくるうちに、段々と彼女の内面(あるいは「正体」)が明らかになってくる。しかしそれに反比例するように現実の彼女の存在感は薄れてくる。ここら辺の経緯は何やら怪談のように恐ろしくて、読んでてゾーッとした。

だが、より不可解だったのは「私」の反応である。「ナイトメア」の家庭での生育歴の中で決定的な出来事が明らかになった時、
「ナイトメアの苦しみの原因は内側のものではなく外側のものということになる。恐らく、私はそれを認めたくなかったのであろう。」
というのだ。
なぜ「私」は苦悩の原因を構造的でなくて偶発的なことであるのを拒否するのか。フェミニズムが女であることを構造的にとらえようとしていることへの寓意なのだろうか。

なににせよ、「新しい「苦の世界」を、ナイトメアは生きている」のであるならば、それは不治の病なのだ。治癒の方法があるとすれば、恐らくそれはただ一つ「死」であろう。

だが、結末での「私」の語りについては--私には理解しにくいものだった。なぜなら、もはや私自身にはそこで語られる「内面」などほとんど残っていないからだ。

内面のない人間はただ転がり続けるのみ。止まったらパッタリ倒れてしまうのである。内面について思い巡らしたりする余裕はないのだ。
だから、この物語はやはり怪談ということにしておこう。


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