書籍・雑誌

2019年9月 3日 (火)

「訣別」上・下巻

190904 著者:マイクル・コナリー
講談社文庫2019年

刑事ボッシュ・シリーズの19作目が早くも出た。
前作では心ならずも犯罪者の弁護側調査員として働いてしまったボッシュであったが、今は私立探偵の免許を取り直し、さらに近隣の小都市サンフェルナンド市の警察でボランティアとして働く日々である。

警察にボランティア(?_?)と驚くが、財政問題から人員を減らしたことへの対応策だという。完全無休で月2回出勤する代わりにバッジを持てるらしい。多分、実際にこういうボランティア制度が存在するのだろうが、作中で『ブレードランナー』の台詞が引用されているように「警官じゃないなら、お前はただの普通の男だ」という状況に耐えられない者が少なからずいるということか。
やはり刑事は3日やったら止められないようである。

二足のわらじを履く主人公に、ほぼ同時に探偵と刑事の案件が起こる。全く性質の異なるものだが、どちらも重大なネタである。
その二つがどこかで交差するのか、それともしないのか。
途中で起こるトラブルには、ボッシュが二足のわらじを履いていたのが原因ではないかと思われる節があり、彼がほぞを噛む思いをすることになる。
銃撃戦の場面があるが、描写はお見事で惚れ惚れする(^^)b

ボッシュはベトナム帰還兵という設定だが、これまでそれについての詳しい話は語られてこなかった。今回、ベトナムに派兵されていた男について調査する中で当時の思い出が登場する(少しだけだが)。
それで初めて知ったのだが、当時ベトナムの米兵(それも「戦闘経験者」)の間でトールキンの『指輪物語』の人気が高く、よく読まれていたという。
「自分たちがいまいる場所と自分たちがやっていることという現実から連れ去ってくれる」
これを読んで、私は太平洋戦争中に徴兵された若者が『黒死館殺人事件』を背嚢に入れていったという話を思い出した。

次に日本で刊行予定の作品はボッシュものを離れて、LA市警の女性刑事が主人公の作品になるとのこと。でももっと後の作品では二人は共演してるようなので、これまた楽しみである。

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2019年8月 8日 (木)

「ネット右翼とは何か」

190808 著者:樋口直人ほか
青弓社2019年

6人の著者による「ネット右翼」の実像に迫る論集。
「ネトウヨ」などというといわゆる「自宅警備員」(私もつい冗談で使ってしまうが)のような二、三十代のニートな若者を思い浮かべてしまう。
しかし冒頭、8万人対象の調査によって浮かび上がってきた「ネット右翼」像はそれとは全く異なるものである。ここで衝撃を受けるだろう。
正規雇用、経営者・自営業の男性で、年齢は中高年が多い。情報源としてよく利用するメディアはネット・SNSでTVのワイドショーや情報番組さらに新聞の影響は少ない。

また同じ排外主義でも与党・現政権を支持せず、政治的に保守でない(憲法や安保問題などについて)集団もあるという分析がなされている。
このどちらにも当てはまらない一般層の統計数値も出ているが、こちらでも驚いたことに嫌中・韓については支持する率が高い。つまり社会全体がそちらに傾いているということだろう。

他の章では、首相のフェイスブックへのコメント者を分析したものが面白い。
2015年12月、日韓での「慰安婦」合意について首相のフェイスブックに、「右」の立場から非難したコメントを書き込んだ1396人について調査。フェイスブックは情報を公開している者が多いので属性が分かる。いちいち調べていったのだろうからご苦労さんである。
学歴は大卒が6割、30~50歳代がほとんど、特徴的なサブカルチャーはミリオタ、宗教、武道ということで、やはり「ネトウヨ」イメージとは異なる。

一番興味深かったのはドイツの研究者の論文を訳した「ネット右翼と政治」だ。
2014年日本の総選挙において、選挙関係のツイートを分析すると60%がコピー(リツイートを除く)だというのだ。
これは主にbotとbot的な行動を取るユーザーにより行われ、複数のハッシュタグを利用して恣意的に異なる集団を結びつける役割を果たした。

SNSの特性として、ハッシュタグ、リツイート、いいねなどボタンをポチるだけで、自分自身の意見を述べる必要はない。それが「習慣的で反射的な高頻度のつながり」をもたらし繰り返されていくと、もはや意見ではなく単に「態度」を伝えることが中心となる。
個々の投稿は脈絡がなくて内容はくだらないけれども、ゆるやかに「つながり」を形成していく。それこそがネット右翼の活動だというのだ。(実際、自民党は2012年にネットサポータークラブを発足、会員数1万5千人)

現政権はナショナリズム的な目標(改憲、安全保障など)を表に出すと票が取れないため、2014年の選挙では経済改革だけを表に出して勝った。しかし、一方ソーシャルメディアではネット右翼がナショナリズム言説を潜在的に広めていった。表の世界での「良いアベ」とネットでの「本音のアベ」の両輪によって支持を大きくしたのである。
当時、首相の最後の街頭演説を秋葉原にしたのはそのような背景があった。「インターネットに長けたオタク(一部はネット右翼として活動している)の聖地で最後の演説をする自分たちの姿を撮らせたい」というアピールだったそうだ。(今年の選挙でもやはり最後の演説は秋葉原だった。同じ戦略を引き続き取っているのだろう)

注意したいのは、これが別に政権から指令が飛んで一斉に動いた、というようなものではないことである。どこそこに抗議電話・メールや脅迫FAXを送れと上意下達で伝えるわけではない。「インターネット時代に政治家からメディアへの直接介入はもはや必要ない」ということだ。

また終章では、歴史認識問題について「慰安婦」「徴用工」「南京大虐殺」などが、目的ではなく手段として使われていることが指摘されている。
すなわち歴史認識問題を正すためにネット右翼になるのではなく、ネット右翼になったらそれらの案件が「つながり」を作るためのツールと設定されていることで、初めて問題として認識することになる。
先日の美術展における「少女の像」の騒動の炎上を見れば納得できるだろう。像自体はどうでもいいし、表現の自由は関係ない。問題はそれが「主戦場」だと定まっているということなのだ。

このように読んでいて極めて興奮する論集であった。

しかしながら、ソーシャルメディアの有り様の分析を信じるならば、重要なのは単に「態度」の伝達なのだから、私がこのような感想をブログに書いてもほとんど意味を持たないのである。

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2019年7月25日 (木)

「〈性〉なる家族」

190725 著者:信田さよ子
春秋社2019年

これまで語られず闇へと葬られてきた家族内のDV、性虐待、セックスレス、トラウマなどをあからさまにして論ずる書である。特に母→息子、どころか母→娘への性虐待は読んでて恐ろしい。かなりヘコむ。
そも、近親「相」姦という言葉自体に虚偽が既に存在するのだ。そこには双方の上下・権力関係を覆い隠す効力がある。

家族のシステムを支えるロマンティック・ラブ・イデオロギー、個人の問題だけではない不妊治療、虐待によるPTSD、WeToo運動など問題は多岐に渡る。

そして最後は、国家の暴力と家族間の暴力の類似性を明らかにする。それは外部から見えにくく、内部では容認されていることで共通している。

それを端的に表すのが、国家の暴力の最たるものである戦争神経症だ。元々は第一次大戦で注目され、ヴェトナム戦争では帰還兵が社会的問題となった。
日本国内の問題としては知られなかったが、少し前のNHKのドキュメンタリーが太平洋戦争時の兵士を取り上げて大きな反響を呼んだという。

常時の暴力的な状態から帰還した戦争神経症の日本兵は、今度は家庭内暴力を振るった。国家の暴力である戦争が、家族にダメージを与える……。
私はこのドキュメンタリーを見ていないが、この本に紹介されている事例を読んで、私の父親もこれに当てはまるのではないかと初めて思った。
二十歳前に徴兵されて、満州に派遣され、終戦後はシベリア送りとなってから帰還した父親は、その後に酒で家族に多大なる迷惑をかけた。それは若い頃よりも歳をとるにつれ顕著になった。(結局、酒の飲み過ぎで死んだ)
今でも思い出すのが嫌になる。まあ、私より母や兄の方がもっと長い年数付き合ってたんだから、よけい大変だったろう。
本当に戦争神経症だったのかは分からないが。

ここに国家の暴力と家族の暴力がピタリと転写されている姿を見ることができる。覆い隠されたシステム内でのほころびである。

「家族、そして性については再学習」し、再定義し、過去を変えること--と著者は語る。「家族」に疑問を抱く人にお勧めしたい。
いや、逆に「家族」なるものに全く疑いや不安を抱いていない人にもお勧めしよう。

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2019年6月23日 (日)

「牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って」

190623 著者:三浦英之
小学館2019年

著者は朝日新聞社の記者で2014年からアフリカ特派員だった。その時期のルポルタージュである。

象牙は「サバンナのダイヤモンド」と呼ばれるそうな。1キログラム約20万円で闇取引され中国へ密輸入される。地元の政府職員や高官も抱き込んで組織的に行われ、一部はテロリストの資金にもなっているという。
主な消費地は中国に加え日本である。印鑑用だ。日本では既に国内にある物だけを使用しているはずだが、限りなく疑わしい。
しかし、密猟を放置すればもはや十数年でアフリカゾウは滅亡するらしい。象が死んでいなければ牙を取ることは不可能なのである。

著者は主にケニアやタンザニアで密輸組織の実態を調べようと試みるが、困難を極める。ただでさえ治安は悪く、簡単に協力してくれる関係者は見つからない。
そして浮かび上がる謎の中国人の存在……。
こう書くとまるでサスペンス映画のようだが、現実には劇的な展開はなかなか起こらない。
ここで驚くのは中国のアフリカ各国への食い込み度がかなりのものであること。事態の陰に中国政府ありだ。
昔は日本も「エコノミック・アニマル」などと言われたこともあったが今では完全に負けている。

そしてワシントン条約の締結国会議で、中国の突然の豹変と日本が示した「ゴネ得」の結果は?
とまあ、小説や映画と異なってスッキリしないのであった。これが現実というものだろう。

しかし、需要が減れば供給も比例して減るだろうから、闇市場撲滅を目指して日本では象牙の印鑑を作るのを止めればいいはず。高価なものは贈答用で人気があるらしいが、お高い印鑑を欲しい人には水晶製をオススメしたい。
親戚が印鑑製造をやっていたのだが、水晶というとクリスタルみたいな透明な物を思い浮かべてしまうけどそういうのではない。実際には様々な色の水晶があってパッと見には材質が何か分からないぐらいだ。
ということで、贈り物には水晶製印鑑をどうぞ(^^)/

この本の終章に、アフリカゾウよりもさらに絶滅目前のキタシロサイをケニアで取材したエピソードがある。ツノに薬効があるとされ(実際には効果はない)密猟されたあげく、この時には三匹しか生き残っていなかった。著者はそのうちの唯一のオスを見せて貰ったとある。この時、そのサイは既にかなりの高齢だった。

さて、たまたまこの本とほぼ同時に読んだ「ビッグイシュー」誌360号(2019年6月1日号)に、なんと著者が見たとおぼしきキタシロサイが老衰で死んだという記事と写真が載っていた。
記事によると、野生の最後の一頭が2004年に密猟されたために、2009年にチェコの動物園に残っていた4頭がケニアの保護区へ移送されたのだという。
三浦氏が見学した時には残っていたのは3頭とあるから、その前に既に1頭は死んでしまったことになる。
そして件のオスは2018年3月に息を引き取った。残るは高齢のメスだけで絶滅は決定的となったようだ。

記事中には草原で草を食むサイを密猟者から守るために、ライフルを構えた数人のレンジャーがものものしく警護している光景の写真もある。思わずなんだかなあ(T_T)と物寂しい気分になってしまった。
190623c
←のんびりと食事中のサイと武装レンジャーの対比が強烈である。




【訂正】タイトルを含めて「密猟」を全て「密漁」と変換していたですよ(+_+)トホホ 訂正しました。

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2019年6月 4日 (火)

「全ロック史」

190603 著者:西崎憲
人文書院2019年

人文書院がロックの本を(?_?) しかもその分厚さたるや510ページである。表紙がソフトカバーだからまだしも、これでハードカバーだったら重くてうかつに持ち歩けない。
しかし、読了した\(^^@)/ 読み飛ばしなし、である✨ もちろん、ちゃんと中身を理解しているかどうかは置いといて(ちょっと自信なし)。

冒頭、ブルースとカントリーの歴史から始まる。これはロック史としては当然のことだろう。その後50年代→60年代と進むが、60年代末から70年代にかけての一般にはロック勃興期とされる時期が妙に「薄く」感じた。
そしてさらに読み進めると、パンク以降の方が叙述が長かったのだ。これは意外だった。だが著者はロックの中で最も重要なのはパンクだと主張しているのである。

「ロックのジャンルのなかで一番重要なのものは何だろう。(中略)パンクであると答える人間は少なくないだろう。」

その後はジャンル別に記述が進む。80年代後半から90年代にかけてこれほどにジャンルの細分化が進んだのかと驚くほどだ。これでは同時代的に聞いてたとしても、「全ロック」をその時点で捉えるのはもはや不可能だろう。
だから読者から「あのバンドがないのはどうしたことか」と文句が出るのは(著者はあらかじめ予想しているが)致し方ないことだ。

特にハードコアパンク、ヘヴィーメタルについては極めて詳細。「こんなにたくさんサブジャンルあったの……」と驚いちゃうほど。詳細すぎてほとんどバンド名の羅列と化している部分もある。
ただ、その合間に「優れたバンドである」とか「いいデュオである」などというフレーズが出てくるけど、これは何がどういいのか不明で、あってもなくても変わらない無意味な記述ではないだろうか。

他に特徴としては英米中心、またバンド中心である。ソロミュージシャン(女性も多く含む)は数が少ない。また、バンドの後に長いソロ活動を続けているような人物は独立後の活動はあまり取り上げられてない。(例:ウォーレン・ジヴォン、ジェフ・ベック)スプリングスティーンやプリンスは「分類不能のバンド」の章にある。
非常に人気があって売れたバンドであっても、ないものはない。(例:ボストン、ジャーニー、シカゴ)

また歌詞の訳が頻出するのも意外。著者は翻訳家でもあり、そもそもこの本は訳詞集として企画されたそうだから当然のことか。「ロックが基本的に言語を必要としている」のであれば歌詞について語るのは不可欠ということになる。
となればこれは単に音楽やサウンドをたどるというよりは「全ロック精神史」なのだろう。精神を取り上げるのならば、売れたかどうかなどは関係ない。それであれほどヒットチャートを賑わしたあのバンドこのシンガーはいないのだ。

思えばロックはメビウスの輪のよう。正統と異端、メインストリームとオルタナティヴが裏返ってつながって、またひっくり返る。その精神は常に再生と死を繰り返すのであろう。

その膨大な流れを記した大部の力作、よくぞまとめたものよ。というわけで著者にはお疲れ様でしたm(_ _)mと言いたい。
とはいえ、やはり「ロック産業史」(「産業ロック史」ではない)みたいなものも読んでみたくなるのがファンというものだ。誰か書いてくれんかなー(あくまで他力本願)。プロデューサー名の羅列になりそうな気もするが……。


しかし、やはり文句言いたくなるのは仕方ないことであろう。完読した者には一カ所ケチつける権利を許してほしい。椹木野衣だって書評でマリリン・マンソンが一行しか出てこないと書いてたぞ。
U2よりデフ・レパードの記述の方が長いというのは全くもって納得いかない!(U2三行、デフ・レパード五行) せめて同じ行数にしてくれ(--#)

 

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2019年1月23日 (水)

「贖罪の街」上・下巻

190123
著者:マイクル・コナリー
講談社文庫2018年

刑事ボッシュ・シリーズの18作目である。
前作の事件で定年前にロス市警から停職処分を受けて、ただ今係争中のボッシュ。異母兄弟の弁護士ハラーから冤罪とおぼしき案件を調査を頼まれる。しかし弁護士側の調査員になるのは、元警官としては最も軽蔑されることとされていた。

悠々自適の毎日を送ろうと決心したはずが、目の前に事件をぶら下げられて揺らぐ主人公である。
「向こう側」へ渡るか渡るまいか最後まで悩むが、事件が俺を呼んでいる、いや自分が事件を欲しているのか--と、転がり出した石を止めることはできない。

冤罪事件の謎解きと並行して、弁護士側に付いた事を裏切りと見なされ非難を浴びることや、悪徳警官の非情な所業など、これぞ警察小説といった要素もたっぷりと描かれる。
警察ものが好きな人なら読んで損なしのオススメ本である。

ここしばらく何冊か海外の犯罪ミステリを読んだけど、やっぱりね、比べてみると段違い。コナリーは描写といい構成といい遥かに高水準なのをヒシと感じる。

一点問題あるとすれば、とある人の鍵の開け方だろうか。あんなんで開けられちゃって安全面はいいの

そういや一足先に定年引退したイアン・ランキンのリーバス警部シリーズ(スコットランド警察)があるが、やはりこちらでも主人公は定年後もウロウロと事件の周囲をかぎまわって邪魔者扱いされているのであった。
互いに作中で相手の小説に言及し合っているので、影響を及ぼし合っているのかも。共時性ってやつか。いずれにしろ「刑事は三日やったらやめられない」職業なのは間違いないようである。

さて、中心の事件に直接関係ないが、当時の前カリフォルニア州知事が引退する最後の公務で卑劣な行為を行ったことを、ボッシュが憤っている場面が出てくる。

前知事は超人的なヒーローを演じるのを得意にしていた映画スターだった--(中略)いまや彼はハリウッドに戻り、ふたたび映画スターになろうとしていた。だが、ボッシュは彼の出演した映画を--たとえTVで無料で見られるものですら--二度と見ない、とかたく心に誓っていた。

これって、シュワルツェネガーのことだよね。フィクションとはいえ、ベストセラー本となって多くの人が目にする中で公然と非難しているのは大したもんである。

次作では、彼はLAとは別の市で無給の嘱託刑事になるという。ということはボランティアなのだろうか? そんな役職があるんだ。
いずれにしても続巻は今年前半に訳されるとか。楽しみ早く読みたいっ(^o^)丿


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2019年1月11日 (金)

「ブルーバード、ブルーバード」

190111
著者:アッティカ・ロック
ハヤカワ・ミステリ2018年

黒人テキサス・レンジャー(当然、極めてまれな存在)を主人公としたサスペンス・ミステリ。
舞台となるのは二つの人種が緊密に隣り合うテキサス州の田舎町である。常に接触はしていても混ざり合うことはほとんどない。そんな軋轢の最前線と言える。

河に流れ着いた二人の男女の死体が、主人公の捜査に伴ってその内実をさらけ出す。双方の人種の、互いの愛情と憎悪がもはや表裏一体となっていることを。分かれているのに別れがたい。
その境界ギリギリの淵、ブルースの名曲と共に人種のエッジがこすれ合う音が聞こえてくるようだ。

犯罪捜査や暴力描写に全く問題ないが、男女の描き方がちょっと他のハードボイルド味の作品とは違うなと思ったら、作者は女性だった。最後まで気付かず。おまけに、TVドラマシリーズ『Empire 成功の代償』のプロデューサーの一人だって
ただ毒母の存在をさりげなく描くのは、やはり女性かと後から思ったりもした。男だったら、ああいう描き方しないよね。


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2018年12月18日 (火)

「花殺し月の殺人 インディアン連続怪死事件とFBIの誕生」

181218
著者:デイヴィッド・グラン
早川書房2018年

米国の先住民保留地での殺人--というと映画『ウインド・リバー』を思い浮かべるが、この本は1920年代初めが発端となる。オクラホマで起こった不可解な事件を取り上げたドキュメンタリーである。
オセージ族という部族の、ある年老いた母親とその娘たちが殺人・事故・病気などで亡くなっていく。それを発端として彼女たちだけではなく、白人の配偶者や関係者までも不可解な死や事故に至る。果たして関連はあるのか?
重要なのは、オセージ族が非常に裕福であるということだ。住んでいた土地を追い出され、辺鄙な保留地をあてがわれたのが、なんとそこから石油が出たのだ。そして、その利益を分配される権利を保持していたからである。となれば、財産目当ての犯罪の可能性は十分ありうる。

探偵社の調査員が雇われ、新聞がゴシップもどきに騒ぎ始め、創設されたばかりのFBIが捜査に乗り出す。その後長きに渡り長官を務めるフーヴァーは、前世紀の遺物っぽい保安官的な者ではなく、捜査官として法執行官らしい地味なダークスーツを着用し、地域とのしがらみのない人物を求めたという。あの、映画やドラマに登場する画一的イメージはそういうことだったのか。なるほど(@_@;)

一連の事件の犯人に関しては、優秀なベテラン捜査官の活躍によって挙げることはできた。
が、しかしこの本の著者はさらに公文書館に足を運び(文中の記述の出典がどの文書によるものか、全て細かく注が付いている)、当時密かに行われた恐ろしい犯罪を新たに発見したのであった。ここら辺はミステリ小説のような驚きと恐怖に満ちている。

そもそも当時のオセージ族は大きな財産を持っていても、自由に使うことはできなかった。先住民には必ず資産後見人が付いてその人物が全て管理していたのだ。なぜそのような制度がつくられたかというと、先住民は半人前でまともに金を使う能力がないとされたからである。そして、その莫大な富に多くの白人が群がったのだ。

まさに米国近代史の大いなる恥部 著者は過去の大量の記録をひたすら調べることによって、それを掘り起こしたといえよう。


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2018年11月23日 (金)

「「演劇の街」をつくった男 本多一夫と下北沢」

181123
本多一夫、徳永京子著
ぴあ2018年

あの本多劇場など8つも劇場を下北沢に作った人物の聞き書き。まさに小劇場時代から現在に至る演劇史の一端を覗き見る気分である。
映画俳優を目指すも失敗→飲食業界で大儲け→劇場作りへ情熱を傾ける、という波乱ありまくりな半生に驚く。
本多劇場については、演劇の劇場と音楽ホールは音響が全く違うということが書いてあって、大いに頷けた。どっちつかずは音楽と演劇双方から困るのよ~。

しかし、巻末の役者たち(錚々たるメンバー)のインタビューにちょこっと名前が出てくる酒井裕子というスタッフの人が、かなり重要な役割を担っていたのではないかとうかがえるのだが、その人への取材はない。

あと個人的には、インタビューに登場している人たちが、古田新太を除いてあまり見ていないのが我ながら意外だった。これでも一時期は週に3回芝居見てたりしたんだけどね……。
確かに下北だけであの時代の演劇が回っていたわけではない。私がよく見ていた劇団は下北をベースにしていたのではなかったのだろう。
何も知らずにこの本だけ読むと、劇団はみんな下北を目指していて運動の中心体みたいな印象を受けてしまうかも知れない。
それと夢の遊眠社は当時絶大な人気があったが(今も人気あるけど)、私はああいうタイプの芝居が全くダメで、受け付けない体質だった。そういう個人的な事情もある。

一方で、当時あった他のホールが結構なくなってしまったという話にハッと思った。シアター・トップス、青山劇場・円形劇場などなど--やはり継続しているというのは大変なことである。同時に自治体による公立ホールが増えてきて状況の変化があるという。

下北沢にはもう何年も行っていない。あそこで一番行ったのは多分ザ・スズナリだろう。また行くことがあるだろうか。


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2018年10月14日 (日)

「文字渦」

181014
著者:円城塔
新潮社2018年

何やら文字についての妄想を連ねたような連作小説集である。
ある時、漢字は物や人そのものであったり、遺伝情報のように組み合わせを変えて全く別のものに変化したり、漢字同士が闘ったりもする。文字の歴史を遡り、どれほど先か分からぬほどの未来の姿を見る章もある。
またある時は、本文に対しルビがレジスタンスを企てたり、文字が地層のように集積したり(字層?)、遂には横溝ミステリーのようなオドロオドロな殺人事件ならぬ殺字事件まで起こるのだ。
かと思えば、大量の文字によってプログラムされた世界は、独自の宇宙を形作り、冥王星の側にスターゲートならぬ「文字門」を存在せしめる。

かように、利己的な文字は自らをその界によって自由に形を変えて生成し、生き延びていくのである。
とすればその時、小説とは予め配列された文字によってしか書かれないものとなる。つまり、読むにあたって重要なのは文字そのものであり、「ストーリー」とか「メッセージ」ではないのだ。

そして私がこの本の「参考文献」「初出一覧」まで読み終え、最後のページの奥付にある「文字渦」の文字(明朝体か)を目にした時、その文字がグルグルと渦巻いてピチャンとさんずいに飛沫が撥ね上がるのまで確かに感じたのであった。

そうなると、全てが怪しくなってくるではないか。一体、各ページの余白は本当に余白なのか? 実際はスペースの連なりが余白を装っているのではないか。ところどころ「一行明け」がページの終わりや初めにわざとらしく置かれているのも気になる。そもそも、ページ数を表わす漢数字は正しいページを示しているのだろうか。
加えて、数多く現れる見たこともない漢字の数々--実在するとは到底思えない、でっち上げられたに違いないと思われるようなものが、実は存在したりして。あるのかないのか俄かには判断付け難い文字が目をくらます。
そう、文字は信用できない語り手、なのである。
181014b

と、あちこち本を繰っている間にも文字がスルリと抜け出して、何気ない振りをして裏側へ紛れ込んで張り付いているような気がする。。
しかし、ド近眼・乱視の上に老眼である私には、メガネを外したり掛けたりと読むだけで苦労しなくてはならず、文字のたくらみを見抜くことは非常に難しいのであった。
ああ、残念。


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