文化・芸術

2019年7月15日 (月)

「クリスチャン・ボルタンスキー lifetime」:墓無き者に

190715a 会場:国立新美術館
2019年6月12日~9月2日

ボルタンスキー50年間にわたる活動の大回顧展来たる! 元々、単品では日本でも紹介されることの多かったアーティストだが、その性質上まとまっては見ることが出来なかった。過去に東京都庭園美術館で中規模の展覧会は行われている。(その感想はこちら

外は暑くてムシムシしている日だったが、中は冷房が効いていてかなり涼しい。上着持ってくればよかったというぐらい。
最初に観覧者を迎えるのは初期作品の映像だが、まともに見て(聞いてると)ゲゲエとなってしまうので、適当に飛ばす(^^; こんなのを過去に作っていたのかと驚きだ。
なお、上部の天井近い所にも「出発」という作品があるのでお見逃しなく。

入場時にやはり庭園美術館の時と同じく広げるとA2用紙の作品リストを渡される。客は暗い中をそれをゴソゴソと開いて作品をチェックすることになる。私のようにド近眼&老眼の人間にはかなりツライですな💨

広いスペースを取って展示されているのは「モニュメント」「聖遺物箱」「死んだスイス人の資料」など死者を扱った一連の作品である。二つの連続した展示室に祭壇のような幾つも連ねられている。死者の写真や引き出しのような箱、小さな電球が、ひんやりと暗く死の存在を伝えてくる。しかし箱やトランクケースは古めかしく、写真はぼんやりとしているのでその人物の姿は曖昧でしかない。
あたかも死の集積が存在の証であるようだ。なぜなら生きていなければ死ぬこともできない。忘れ去られた人が生きていたことを確かに伝えるのは死の事実だけなのである。

190715c もう一つの大きな空間は「ぼた山」で黒い服が巨大な山のように積み上げられている。
それの一画では「アニミタス」のシリーズが巨大スクリーンに映されている。今回、多数の風鈴が下げられているのはなんと冬のカナダの雪原で、そこは吹雪いている。
頭上からは冷房の風が吹き付けていて、真夏に見たら完全にかき氷を食べる以上に涼しくなれるだろう。
さらに別の巨大映像作品もあり(これはかなり音がウルサイ)。天井からも作品が下がっていたが、これはちょっと見にくかった。

190715d 黒服の山の周囲には、これまた黒服を着た簡略化された人型が数体点在している。こいつにはスピーカーが仕掛けてあり、そばに立つとそれぞれ異なる内容を喋るんである。「あなたはお母さんを一人で置いてきたの」みたいな結構シビアな語りかけだ(ーー;)
一体だけ無言のヤツがいるので注意。

その先には「来世」のネオンサインがペカペカと輝く。これを見ると彼の作品の基本は仏壇ではないかと思えてくる。思わず手を合わせる。

190715e


残りの作品は展示スペースが今ひとつ狭くて残念な感じだった。膨大な数の様々な衣服が壁に垂れ下がっている「保存室」は、もっと広い部屋だったら迫力だったろうけど……。
期間中に毎日3個ずつ電球が消えていく「黄昏」も狭い所に押し込められているようだった。ドーンと広い場所で見たい。
逆に小さな紙人形を使った「影」シリーズは、前に庭園美術館の小部屋で見た方が作品に合っていた。難しいもんである。
影の天使はチラシの写真だと古い教会の丸天井に飛ばしていたようだ。今回は下手すると気付かずに通り過ぎちゃう人も……。

190715b ボルタンスキーは死につつあることを証明するために生のイメージをも援用しているように思える。
ヒンヤリとした死の記憶と冷たい風景、そして小さくおぼろげなものへの郷愁--まことこの展覧会はお盆の時期に見るのにうってつけのようである。墓参りの代わりに行くのも一興だろう。

撮影可能スペースを一部に限定しているのはよかった。しばらく後に同じ六本木での塩田千春展行ったら、ほぼ全域で撮影できてみんな撮りまくっていた--のはいいけど、ハッキリ言って作品鑑賞のジャマ!であった。

なお、地下のアートショップやカフェのある無料フロアで、ボルタンスキーの過去をたどる映像(約50分)を常時やっているらしい。後で知って行けばよかったと思ったがもう遅いのであった(T_T)
また、表参道のルイ・ヴィトンでは関連企画で「アニミタス」シリーズの他作品をやっているとのこと。こちらは11月までと、かなり長期間だ。

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2019年7月 3日 (水)

音楽と身体その3「我らの人生のただ中にあって/バッハ無伴奏チェロ組曲」:動かざること……

190703a 出演:ローザス、ジャン=ギアス・ケレス
会場:東京芸術劇場プレイハウス
2019年5月18・19日

そもそもこれを見に行こうと思ったのはチェロのジャン=ギアス・ケラスが生演奏をするというのを知ったからである。
ベルギーのダンスカンパニーであるローザス--名前は聞いたことがあるぐらいだったが、この公演の広告をたまたま見たらチケット七千円じゃありませんか(!o!) ケラスの単独公演でも下手するとこの値段ぐらい取られそうなのに、さらに最先端のダンスとの合わせ技というのなら超お買い得である。
だからというわけではないだろうが、会場は満員だった。

しかし、ダンス公演というとどうも自分に合わないことが多いような……。かつて大枚はたいてフォーサイスを見たが「よく分からん」で終始してしまったことがある。ヤン・ファーブルについても同様だった。かなり不安あり。
ただ、昔はダムタイプが好きで何度か行ったし、少し前のノイズムも面白かった。もっともダムタイプはパフォーマンスの範疇だし、「ロミオとジュリエットたち」は半分演劇だから、純粋なダンスよりコンセプト寄りなのかしらん。

本作はバッハの無伴奏チェロを第1番から6番まで順番に、舞台上でケラスが弾くのに合わせて踊る(楽章飛ばす部分もあり)。曲ごとに四人の男性ダンサーのうち一人ずつ登場、主宰者兼振付のドゥ・ケースマイケルが途中で一緒に踊り出す(彼女はこれが最後の公演とのこと)。
5番はドゥ・ケースマイケル単独で、6番は全員で、と進行する。

ケラスはほぼ出ずっぱりで大変だー。ミスは許されない。途中でうっかり一音飛ばしちゃったらダンサーが足もつれさせて倒れたりして(^0^;;;
曲の間にダンサーがステージの上に星印(?)のような幾何学模様をテープで引っ張ったり描いたりする(1階席ではよく分からない。2階席からなら床面見えただろう)が、これはケラスのブレイクタイムの意味もあるだろう。
4番で彼が一度引っ込んでダンサーが無音で踊る場面があるのだが、すごーく小さくチェロの音が聞こえてこなかったか? 舞台の袖の奥の奥で弾いてるのではと思ったんだが。

で、結局私にはやっぱりよく分らなかったのだ💧 曲とダンスの関わりがである。あまりに身体の動きが不可解な言語のようでどうにも繋がらなかったのだ。
ゴルトベルク変奏曲聞くといつもラジオ体操を想起するのだが、今日もそれっぽい動きがあった。バッハ先生とラジオ体操は深いつながりがあるのだろうか。

唯一よかったのは5番で照明を絞った中で、ドゥ・ケースマイケルの身体が闇と光に見え隠れする部分だった。
まあ、前席に座っている二人の客の頭でステージがよく見えなかったせいもあるだろう。ステージ全体が見えるようにわざと後方の座席を選んだらこれである。二人とも男性だったがとりわけデカイという訳ではなく、劇場の構造のせいかもしれない。

その5番の中でケラスが一人真横からのスポットライトを背に浴びて弾く場面がある。その身体が放つパワーは強烈で、それを越えるものを他に見いだせなかった。
ほとんど動かず演奏し続ける彼こそがステージ上で最も雄弁であったように感じたのである。

17日18日と三日間連続で公演鑑賞したわけだが(疲れた!)、この日の彼を見て(聞いて)音楽の身体性を確認した三日間であったと再認識した。
通常、クラシックの公演では照明のような演出は行われないから、そのことは聴衆には明確に意識されないだろう。

が、優れた演奏家ならば既に音楽を自らの身体と一体化しているのだ。それを彼は闇と光のコントラストの中で明らかにして見せた。
思えば四百年前のリュートを爪弾く佐藤豊彦も、敬虔な静けさに満ちたスカルラッティを歌うエクス・ノーヴォ合唱団も、音楽の身体性を強く感じさせるものであった。

分かちがたく存在する音楽と身体、彼らは微動だにしなくともそれは明らかなのである。身体なくして音楽はなく、音楽なくしてその身体もない。
願わくば踊り手には演奏家に拮抗するだけの身体性を提示してもらいたかった。あくまで個人的な感想であるが--。まあやっぱり私はダンスはダメですな(+_+)

190703b しかし、ケラスの攻めの姿勢はすごいね。古楽グループと共演もすれば、このように異種格闘技のようなダンス公演にも参加とは。

さて、事前に無伴奏チェロを復習しておこうと思って我がCD棚を探したのだが、なんと鈴木秀美(の2回目の録音)しか見つからなかったのだ。思えば生演奏もヒデミ氏しか聞いてないような気が……。いや、スパッラのは何回か聞いたんですけど💦
CDガイドの類いを見ると、定番はモダン演奏ではカザルス、マイスキー、古楽系ではビルスマ、ヒデミとなっているようだ。
そこで既に沼(山ではない)と化している未聴CD群をごそごそと漁ったところ、引っ張り上げたのは、なんとP・パンドルフォのガンバによる演奏であった……(^^;ゞ ま、別にいいよね。




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2019年4月26日 (金)

「宮廷人の優雅なたしなみ」:画家の眼の中、音楽家の耳の中

190426ルネサンス音楽と絵画をつなぐ象徴の世界
演奏:ソフィオ・アルモニコ
会場:トーキョーコンサーツ・ラボ
2019年3月23日

ルネサンス・フルート吹き4人によるソフィオ・アルモニコ、コンサートは初めてである。この日はソプラノの鏑木綾とトークで愛知芸大の高梨光正が加わって、絵画と音楽の両面からルネサンスを体感するプログラムだった。

幾つかのテーマに分けて絵画の画像を出しながら解説しそれから演奏というもの。ただ、普通なら奏者は演奏だけでトークはしないという形式が多いが、この日はテーマごとに一人ずつ奏者も音楽面の方からの解説をやった。同じテーマでも音楽と絵画では捉え方が異なっていて、興味深かった。

特に「鳥」テーマで前田りり子が語ったアルカデルトの「優しい白鳥」についての音楽家側の解釈というのが、非常にぶっ飛んでいて笑ってしまった。(高梨氏には否定されてしまったが)
他に「運命」「目」「羊飼い」など。歌曲では歌詞の朗読もあり。ビックリしたり下世話な内容もあったりして(^^;盛りだくさん、分かりやすくて面白かった。
歌曲では歌詞の発音やアクセント、そして内容によって共感するイメージを作ると(妄想すると)うまく演奏できるそうである。では、果たして聞き手の方も妄想するといいのだろうか、なんて♨

美術史を教えているという高梨氏は高い年齢層の客席に向かって、学生向けのギャグを時折使用してはスベっていた。ギャグも対象を考慮して使用して頂きたいもんである。

会場は初めて行った場所。隣のスコットホールは以前来たことあるが。椅子を並べたレクチャールームみたいな部屋である。
客のとあるオヂサンは両隣に人がいないせいだと思うが、公演中に靴脱いで靴下(しかも穴が開いている)のクズを取っていた。そういうことは自分の家でやって欲しい。
また、客席内に前回前々回でも見かけた人をやはりここでも発見。狭い業界です(^^;ゞ


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2019年4月18日 (木)

「奇想の系譜展」記念コンサート 1:どちらも負けぬ!東西奇想比べ

190418aザ・バロック 江戸の奇才、ヨーロッパの奇才
演奏:江崎浩司ほか
会場:東京都美術館講堂
2019年3月17日

恒例、上野界隈で行われる「東京・春・音楽祭」の展覧会関連コンサート、今年はたまたま博物館・美術館の企画が近現代ものが多かったせいか、純粋に古楽系はこの一つだけだった。

リコーダー江崎浩司が中心のアンサンブル(ヴァイオリン2+ヴィオラ+チェロ)が、「奇想の系譜」で展示されている日本画と同時期で同じテーマの音楽をルネサンス、バロックの作品から選んで演奏するという趣向である。

この手の企画では定番のヴィヴァルディがもちろん最多登場。「鳥」テーマで『ごしきひわ』、「幽霊」「眠り」では『夜』(曲中に幽霊が登場)、そして『海の嵐』……と「奇想の系譜」にハマリ過ぎな作品の数々である。いずれもリコーダー大活躍だった。

リコーダーと言えばJ・ファン・エイク。『笛の楽園』から「鳥」の『ナイチンゲール』、そして「美人図」にちなんで『かわいいマルティーナ』(これは自殺した娼婦の曲とのこと)。もちろん江崎氏の独奏だ。
他にはラモー作品から「花」、J・ブロウでは「狩猟」、パーセルは「猿」となんでもあり。まさに展覧会だけでなく、こちらも「奇想」では負けてはいない。

しかし一番の注目(注耳?)は、まさに曲自体が奇想だということで選ばれたC・P・E・バッハのトリオソナタだろう。バスリコーダーを指定というのがそもそも珍しいが、さらにヴィオラ、チェロという奇妙な編成の作品である。確かにあまり聞いたことのないようなサウンドで驚いた。

かくも奇想尽くしのコンサート、江崎氏は展示作品との関連を曲ごとに解説し、アンサンブルではリーダーを務め、さらに独奏も披露し、ついでに発売したばかりのCDも宣伝し(もちろんサイン付き)……と大活躍だった。
聞いててサービス精神に富んでいて面白かったけど、一つ残念だったのはこの編成だともう一つ低音楽器が欲しかったところ。「ああ、ドスのきいた低音が聞きたい」なんて思っちゃいましたよ(^^ゞ

アンコールで初めて気付いたのだが、江崎氏が着ていたアロハみたいなシャツ、よくよく見たら、五色かは不明だが様々な色の鳥の羽根模様だった。さすがである。

客席に前日のアンジェリコの公演でも見かけた人がやはり来ていて、考えることは同じだなと思ったり……(^^;;

どうせだから展覧会の方も見て行こうかと思ったら、チケット売り場に行列が出来ていた。さらに係員が入口で「中は混雑しておりまーす」と叫んでいたので、あきらめてスゴスゴと帰った。
やはり本気で見るんだったら、平日の早い時間に上野駅の改札内の窓口でチケット買って行くぐらいじゃないとダメですわな💥
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2018年9月 1日 (土)

「音楽と美術の幸せな結婚 2」:音は人なり

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大塚直哉レクチャー・コンサート・シリーズ
肖像を刻む-視覚と聴覚によるポートレート:「ルーヴル美術館展」の名画と音楽
会場:よみうり大手町ホール
2018年8月6日

美術展にちなんだ大塚直哉のレクチャーコンサート、2回目はルーヴル美術館展である。(1回目はこちら
ゲストはなんとマンガ家ヤマザキマリですよ(!o!)

今回は主にフランスのチェンバロ独奏曲から人物を描いたものを演奏し、その合間に二人がトークをするという構成である。
実際の展覧会と同じ区分けで、男の肖像、芸術家、女……というようになっている。
冒頭はクープランで、クラヴサン曲集より「ラファエル」(ラファエロのことだと推測されている)が演奏されると、ヤマザキマリがラファエロについてここぞとばかり熱弁を振るうという次第。
ラファエロ自身もすぐれた肖像画家であり、一方クープランは様々な人々の肖像を音楽で描いた(大塚氏談)という共通点があった。

続いては、フォルクレとクープランがそれぞれに描いて作曲したオルレアン公(ただし曲調は正反対)と絵画における彼を比べる。
また、肖像には死者の思い出や記録という面もあるということで、フローベルガーが捧げたフェルディナント4世とブランロシェ氏(例の階段転落事件の人)への哀悼曲も。

当然、トークではヤマザキマリは猛烈に喋り倒していた。これに対抗するにはチェンバロ一台では到底足りぬ。バロックトランペット3本呼べ~と言いたいぐらい。
話題は時間が足りないぐらいにあちこち飛び、大塚氏も日頃の上品さからは想像できぬギャハハハ笑い(^O^)を連発していた。

ラストは人間ならぬ神様の「ジュピター」(フォルクレ作)で、これが驚くほどに速い演奏だった。それまでのギャハハハ笑いを返上、ビシッと決めたのてある。

肖像画を描かせる時は強調したいものを一緒に描くとのこと。例えば、指輪とか衣服とか……ということでアンコールはクープランの肖像画で彼が持っている楽譜の曲だった。

ヤマザキマリは舞台向け風(?)のドレスを着て現われたのだが、一時間ぐらい前に初めて顔合わせした時とあまりに差があったそうで(かなりカジュアルな格好をしていたらしい)、大塚氏がマジに驚いている様子が伝わってきた。そんなにスゴイ落差だったんかい

この日の使用チェンバロはなんと1月に近江楽堂で聞いたモンキー・チェンバロであった。レクチャー・コンサートの趣旨にピッタリである。ただ、音はやはり近江楽堂で聞いた方がずっといいけど……。
休憩時に黄金色の脚をよくよく観察したら、ヒヅメが割れてなかったんで馬の脚らしい。

それから、大塚氏がコソッと言ったので目立たなかったが、女性像のところで弾いたクープランの「フランスのフォリア、または色とりどりのドミノ」は全12曲並べるとタイトルが女性の特徴を年齢ごとを順番に表わしているらしい。それで、鈴木雅明は「これは女の一生だな」と言って、コンサートの時に全く原タイトルにはそんなことは入っていないのに、プログラムに「女の一生」と書いてしまったそうである。こりゃ、タイトル詐称じゃないの\(◎o◎)/!
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さて、ヤマザキマリがゲストにも関わらず、後ろの方の座席は結構空いていたとのこと。勿体ない。第3回目は是非満杯にしてほしい。
でも「ブリューゲル展」がテーマだから、そうするとルネサンス音楽になるのかな? ゲストは山田五郎が予定されているらしい。(あくまでも予定)

追記:次回のゲスト、山田五郎に決定したようです。演奏家の方は西谷尚己とR・ダンクザークミュラー。


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2018年1月28日 (日)

現代アート二題

また感想を書く機会を逃してしまいそうなので、とりあえず写真だけでも乗せとく。

★ザ・ユージーン・スタジオ「1/2 Century later」
会場:資生堂ギャラリー
2018年11月21日~12月24日
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全くのノーチェックだったが、こちらのブログに紹介されていたので、最終日(クリスマス・イヴですな)に駆けつけた。地下に降りる入口に行列が(!o!)と驚いたが、実は上階のパーラーの順番待ちの客だった。

「善悪の荒野」と名付けられた、『2001』のホテルの部屋(の廃墟)を復元した巨大インスタレーションは迫力あり過ぎ。実際に部屋を作ってから燃やしたらしい。
周囲に数点の作品があって、それらがまとまって一つのコンセプトを表わしているようなのだが、部屋のインスタが物体としてあまりに突出してしまっているので、コンセプトをかき消してしまっている。

なお、ちょうどベッドの正面にあたる方向に隣室のモノリス(風の展示壁)があって、その点でも映画にのっとっているようだ。

入場した時から、女性の監視員兼スタッフの人にものすごい不審な目つきで睨まれてしまった。そりゃ確かに周囲はアート系の若いモンばかりで、年齢高いのは私だけだったが、野暮なオバハンでも現代アートを見たいんだよ。
まあ無料だから文句も言えんが。
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★ゲルハルト・リヒター「ペインティング1992-2017」
会場:ワコウ・ワークス・オブ・アート
2017年12月16日~2018年1月31日

六本木のギャラリーが多く入ったビルの中の一つでリヒター展をやっていた。割と近年の作品を展示しているとのことである。
ほとんどは絵画だが、1点だけ銀色の球みたいな謎の物体(直径20センチぐらい)があった。とても気になったが、直接床に転がしてあるのでしげしげ見るには床に這いつくばらねばならない。むむむ、這いつくばって見ればよかったかしらん(^_^;)

写真をぼかしたような作風のものもあったが、抽象的な作品はかすれ具合とかにじみ具合とか絵具を削った部分とか、かなり見ていて脳ミソに直接来るものがあった。
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2017年8月26日 (土)

「遠藤利克展 聖性の考古学」

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会場:埼玉県立近代美術館
2017年7月15日~8月31日

埼玉近美(略称は「埼近」か(^^?)はほぼ一年前の「ジャック=アンリ・ラルティーグ 幸せの瞬間をつかまえて」以来だ。感想をブログに書く暇がなかったが、写真史的には非常に重要人物だというのに、館内にはほとんど人気がなかった(*_*; 
いや、でもゆっくりじっくり見られてよかったですよ

そして、今年はこの「遠藤克俊展」である。
じつはこのアーティストの事は全く知らなかった。彫刻家だというが、名前さえ聞いた覚えがない。しかし、この展覧会を紹介している美術系のサイトで、作品の画像を見た途端、私の頭にはすぐにとある詩を連想した。
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それは入沢康夫の「『木の船』のための素描」である。学生の頃に読んでいたく感動したのだが、それきり忘れていた。再び思い出したのは一年ほど前、「図書」(岩波書店PR誌)に連載の池澤夏樹のエッセイの中に取り上げられているのを読んだ時だ。
そこに描かれているのは誰も全景を知らない巨大な迷路のような箱舟であり、同時に棺とおぼしき木箱でもある。しかも、それは万葉集の中の一首に由来するのだという。

もし外部から見たとすればこの船は単に一個の木箱に過ぎない

それがそのまま眼前に現われたような作品があるというのなら、見に行かずばいられようか(!o!)--ってなもんだ。

さて、作品は デカイ
そして、それらが狭苦しい中に展示されていた。

もともと広い美術館ではないが、これは狭すぎでしょう(>_<)……と思ったら、わざと小さくスペースを区切って展示しているのだという。

彫刻というよりはインスタレーションに近い。巨大な木製の円型オブジェ(高さ2.4m×直径4.5m)やら長~い木の円筒(20メートル近い)を横にしたもの。また、カヌーを引き延ばしたような細長い船もある。その規模に度肝を抜かされる。しかも木の作品はみな燃やされて表面が黒く焼け焦げているのだった。
壁際にギリギリに置かれているものもあるので、下手すると触ってしまいそうである。太って腹の出たヤツが通り抜けようとして「お客様、お腹で作品を触れないようにお願いします」とか注意されそうだ。(もっとも、常設展会場に展示されている作品は広いスペースにある)

大きさには言葉もなく圧倒されるが、それだけでなく焦げた表面には何か威圧感あるいは不可触感がある。不吉、不安、不穏--なにやらそんなものが充満している。
「水路」というそれこそ水路の断面を横から見たような木の板の連なりには、表面に木目が残り、ソリソリとした感触を放つ。

そして目的の「寓話V-鉛の棺」はまさしく棺であった。「鉛」とタイトルにあるが本体は焼かれた木であり、上部の蓋に鉛の帯のような飾りが付いている。
私は何度も周囲をグルグル回って見た。「棺」というからには中に死者が入るのだろうか。表面が焼け焦げているのは、火葬ということではなくて何か禍々しいものを封じ込めるためであろうか。--などと色々、心に湧き上がってくる。
それにもかかわらず、その巨大な「棺」からは入沢康夫の詩の結末とは異なり、かぐわしい木の香りが微かに漂ってくるのだった。

非常に見ごたえありだったが難を言えば、黒焦げに燃やす過程も含めて一つの作品というコンセプトだという割には、その焼く過程を見せるビデオのモニター(二か所)が小さくてしょぼかった。(場所も目立たない)
吹き抜けに設置されている「薬療師の舟」は、吹き抜けの外から見なければならなかったけど、もっと近くに寄って見たかった。
あと、作者の解説が作品ごとに貼られているのだがこれがまた難し過ぎて、何を言っているのか素人には全く理解できぬ代物である。

夏休みと言えば、大抵の美術館ではファミリー向けにマンガやらアニメ関連の企画を行うのが定番となっているが、その風潮にあえて真っ向から挑むような内容、よくぞやったものよと英断に感心してしまった。
見に行ったのは平日とはいえ、やはりかなりの客の少なさであった。まあ今回もゆっくり見られてよかったけどな……(^o^;) こんなだと、県議会で「夏休みなのに入場者が少ないのはいかがなものか」などと言われないか、余計な心配をしてしまう。大丈夫か

とはいえ、小学生高学年ぐらいの子が一人で見て回っていて(夏休み課題?)、「スゲー」を連発していた。ということは、やはり作品の力はお子ちゃまにも伝わるものなのであろうか。


なんでこんなこと心配しているかというと、もう遥か昔(二十年以上前?)のこと、埼玉近美の予算がいきなり削られてしまい、「せっかく企画したのにできなかったんだよ、チクショー」(←脳内翻訳)展みたいなものでお茶を濁さざるを得なかった、という事案が起こったのである。今、サイトを見ても記録がないのだが、確か宮島達男を取り上げようとしたのだと記憶している。
これからも文化果つる地で、硬派な企画を頑張っていただきたい。
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←大きさをエレベーターのドアと比較してください。


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2016年12月24日 (土)

「クリスチャン・ボルタンスキー アニミタス_さざめく亡霊たち」:生存と滅亡の証

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会場:東京都庭園美術館
2016年9月22日~12月25日

ボルタンスキーの作品というと、小さなものを断片的に展示されているのを見た記憶しかない。展覧会を東京でやる(!o!)というならば万難を排して見に行かずばなるまいよ--というわけで、土日は混んでいるかもしれないから平日に行ったのだった。

会場は重要文化財となっている旧朝香宮邸である都の庭園美術館で、「アール・デコの花弁 旧朝香宮邸の室内空間」も同時開催となっている。
……というか、そもそもこの二つは同時に併せて見るようになっているのだ。

1階に「展示」されているボルタンスキーのインスタレーションは完全に音声によるもので、複数の男女によるセリフが流れてくる。それは過去にこの邸宅に住んでいた裕福な一族の盛衰を語っているようである。
観覧者はその声の断片を聞きながら、美しいアールデコ様式の食堂や客間を眺めるという趣向だ。食堂の中央にはかつて実際に使われていたらしい大きなテーブルとビロードの椅子が置かれていた。
黄金色のビロードを思わずさわりたくなったが、監視員さんの鋭い視線が……と、ちゃんと「触らないでください」マークがついていたのであった。危なかった(^O^;)

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豪奢な邸宅と音声インスタレーションの組合せはアイデアの勝利みたいな感がある。
問題は音声のクオリティがあまりよくないこと。セリフは訓練を受けた役者(かな?)が喋っているので、よく聞き取れるが明晰過ぎて逆に嘘っぽい。
しかも声の方向はほとんど上から降ってくるとハッキリわかるので、見上げると小スピーカーの存在が分かるのも興ざめだ。(一部は床に設置)

幾つかのフレーズを繰り返して流しているのだから、もっとスピーカーの設置場所を色んな所にしてみたり、音声も聞き取れないぐらいの音量のも混ぜるとかすれば、声の亡霊が浮遊している感じになったかもしれない。
まあ、文化財のお屋敷だから余り手を加えられないだろうけど--。

写真を撮っている人が多数。なんと平日は自由に撮影できるそうで、シャッター音が結構うるさい。中にはダンナはデジカメ、奥さんはスマホで撮っているという夫婦連れもいた
土日曜は人が多いだろうし平日はシャッター音というのでは、快適な作品鑑賞はやや難しいかも。

2階の二つの小部屋には、小さな紙人形やおもちゃに光を当てて影絵のように投影した「影の劇場」があった。彼の代表的作品とも言えるものだ。片方の部屋の人形は首つりをしていた(^^;)
四角い穴から暗い部屋の中を覗きこむと、ひんやりした空気が顔に当たる。中の様子はクモが巣を張るように悪霊たちが安住の場所を見つけたように見えた。

細長い小部屋である書庫では、香川県豊島で保存されている心臓音のサンプリングが。たまにテンポがずれるところがあって、聞いてて不安になる。

その後は残りの部屋を見て回って、新設されてた新館へ向かう。
こちらでは4種の巨大インスタレーションが展開されていた。何枚もの半透明カーテンが連ねられた中を歩く「眼差し」は、絵本「きりのなかのサーカス」を思い起こさせる。(絵本はトレーシングペーパーを使用したもの)
そのカーテンの真ん中には持ち主不明の大量の衣服の山を、金色のエマージェンシー・ジャケットで包んだ「帰郷」が展示されている。しかし、事前に解説を読んでいない人間には巨大なウ×コの山にしか見えないのが大いなる難点であった

隣の部屋ではワラが敷き詰められた部屋の中央に巨大な両面スクリーンに、チリのアタカマ砂漠と香川県豊島の森の中に、それぞれ吊るされた日本製の多数の風鈴の映像が映し出されている(十数分でループ)。
大切な人の名前を短冊に書いて風鈴をつるすという豊島の企画は今でも続いているそうだ。短冊がキラキラ光って瑞々しい森の風景とは対照的に、荒涼とした砂漠の風鈴はそのまま放置するように依頼してきたので、今ではほとんど残っていないだろうとのこと。

この話は、一室でボルタンスキーのインタビュー映像をやっていたので、それで知った。しかし、このように意図を聞かないとよく分からないというのは現代アートにはよくあるとはいえ、なんだかなあという気がした。もっとも、彼の話自体は興味深いものであったが。
見たことはなくてもそのようなものが存在する、ということを知っているだけでも意義はある、というのだ。

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邸内の一室より中庭をのぞむ。

2019年に国新美で大々的な回顧展が開かれるということで、その露払い的な意味もある展覧会であった。まあ、内容がショボいという意見もあるが、会場の旧朝香邸との組合せによって一見の価値はあったと思う。
2019年に期待することにしよう。

ただ、広げるとA2判の無料ガイドはいただけなかった。デカ過ぎだし、灰色の紙を使用しているので薄暗い場所ではよく見えない。老眼やド近眼の人間の事も考えて欲しい。


【関連リンク】
《はろるど》:写真多数あり。


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2016年11月 1日 (火)

「トーマス・ルフ展」「杉本博司 ロスト・ヒューマン」:写真から遠く遠く離れて

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*トーマス・ルフ
会場:東京国立近代美術館
2016年8月30日~11月13日

*杉本博司
会場:東京都写真美術館
2016年9月3日~11月13日

ルフはドイツの写真家である。ポスターに使われている女性のポートレート写真が印象的で展覧会に足を運んだが、だいぶ予想していたのとは違っていた。

実際のポートレートは巨大に引き延ばされていて、似たような若者を撮ったものが何枚もある。若い頃に学生仲間をモデルにしたとのことだ。

その後の作品は一転、家具や建築を写したスナップ写真といった趣のものだ。このシリーズが一番「写真」らしい。先のポートレート写真を白黒反転させる、といった写真自体を題材にしたものが増えてくる。

近年のものは自分で撮影はせず、天体写真や報道写真など「ありもの」をデジタル変換した巨大作品となっている。
火星の表面を撮影したものに彩色したものなど一見するとミニマリズム系の抽象絵画のように見えた。

そうなると元の写真が何であれ変換した意図がどうであろうと、鑑賞者にとっては大型絵画をみているのと変わらなくなってくる。そこでは既に「写真」という実態は消失しているのだ。
巨大作品の中で写真の存在は融解していた。私は一体何を見に来たのであろうかと、自問する羽目になってしまった。

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写真撮影可ということで、場内はスマホなどでやたらと撮影する人が多数だった。私もガラケーで頑張って撮ってみましたよ(かなりピンボケ)。巨大な「火星」シリーズの一枚。

常設展の方の写真作品を集めた一画にもベッヒャー、リヒター、ルフの別ヴァージョン作品などがあった。
盛りだくさんの常設展を回って疲れた頃に、ジュリアン・オピーの広重(?)風のインスタレーションにたどり着くと妙になごむのであったよ(^o^)丿


久々に東京国立近代美術館行くのに、大手町で地下鉄乗換をしたが、ただでさえ分かりにくいのに工事しててさらに分からなさが増量 遠回りしているのではないかと不安になった。
駅のホームで中年白人観光客の団体が10人くらい、案内板を見ながらずっと議論していた。日本人だって分からないのに、旅行客じゃもっと訳ワカラン状態だわな。

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東京都写真美術館のリニューアルオープン第一弾は杉本博司展。見に行く前から賛否両論の意見が聞こえていた。さて、実物はどんなもんか。

展示は3つに分かれていて、一番大規模なのは〈今日 世界は死んだ もしかすると昨日かも知れない〉である。人間の文明が衰退し、その破滅の様相を様々な立場(職業)の人間が語り、「遺物」を展示するという趣向である。
世界は既に廃墟化しているので、その展覧会場も古いトタン板のバラック状になっている。薄暗いその中を観覧者は解説のリーフレットを読みつつ、ウロウロするのであった。展示されている「遺物」もレトロっぽいものが多く、相当にうさん臭い雰囲気だ。(中には過去の自作も混じっている)

このように特定の設定によるテーマパーク状態の展示だと、人はなぜか見て回ることに熱中し、鑑賞自体はどこかに置き忘れてしまうのであった。30分おきに火花がバチバチ飛んだり、ラジオから歌が流れたりするので、その度に人はそこに殺到する。
現代アートといえ、小学生低学年の子どもも喜んで見て回っていた。

では展示自体はどうなのかというと……ウムム(-_-;)となってしまう。
例えば、ラブドールが語る滅亡は、展示されているのは明らかにデュシャンの作品のバロディなのだが、木の塀に四角く切り取られた穴から長椅子に寝るラブドールを眺めても粗雑な冗談にしか思えない。
意図的に質が悪いものにしているんだろうけど、なんだかなあである。

別のフロアでは「劇場」シリーズの発展形である「廃墟劇場」が展示されていた。前シリーズは営業中の映画館を借り切って上映された映画を撮影したが、今度は廃業して半ば朽ちた映画館で撮影している。
天井が落ち壁が崩壊しているようなホールもあって、こんな所で上映できたのかと驚いたが、プロジェクターなど一式持ち込んだという。忘れ去られ廃墟となった豪奢な映画館で上映される名画--その終末感はかなり迫ってくる。

杉本博司が選んだ映画作品はどれも名作だが(一つだけ『ディープ・インパクト』が名作かどうか疑問(^_^;))、完成した作品上を見る限りでは、実際にはいずれもほとんど差異のない長方形の光としてしか認識できない。
鑑賞者がそこに記された映画名を見た時に湧き上がる想念のようなものが、かろうじてその長方形の光の差異となるように思えた。その想念の上澄みを味わうしかないのだ。
だから、映画についての解説がついているのはその映画を知らない者のためだろう。ただ、文末にある日本古典の一節(「平家物語」など)は言わずもがなという気がした。

もう一つは三十三間堂の千手観音を撮った九枚の大型写真である。これは確か以前にどこか(森美術館か?)で見たと思うが、真ん中に大きな柱があって視角を遮りやや興ざめだった。

ルフにしても杉本博司にしても、既成の写真の概念から逸脱していくことを作品の推進力にしているようである。写真は写真だけで成り立たないのであろうか。写真は写真でなくなった時に記録から真にアートになるのだろうか。
……などと思ってしまった。


リニューアルした写美だが、どう見てもコインロッカーが足りないと思う。私が帰るころには、それほどの混雑ではないのに既に空きが一つもなかった。まあ、混雑しないような企画を目指すというならいいんですけど(^_^メ)


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2016年9月 3日 (土)

「木々との対話 再生をめぐる5つの風景」

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東京都美術館開館90周年記念展
会場:東京都美術館
2016年7月26日~10月2日

開館90周年記念と銘打ってはいるものの「ポンピドゥー・センター傑作展」の空いたスペースで併設しているような印象の展覧会である。

木を素材として使った5人の作家の作品を展示している。多くは木彫というよりインスタレーションである。
木材と煉瓦みたいなブロックによる、ワンフロアを占める巨大な作品(國安孝昌)は巨大すぎて上方から見下ろすしかない。(危険ということで内側には入れてもらえなかった)

かと思えば、小さすぎてどこにあるか教えてもらわないと分からないような繊細な作品(須田悦弘)もあった。

一番有名なのは舟越桂(彼の作品のみ撮影禁止)だろう。近年の彼の木像は「聖」というのを超えて、もはやブキミな域に入っているという気が眺めているうちにしてきた。

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見てホッとしたのは土屋仁応という人の動物の白っぽい彫像。眼の部分が水晶やクリスタルガラスが入っているのが特徴的である。
鹿や豹の実物大に近いもの、さらに麒麟・ユニコーンなんて空想上の生き物が全く違和感なく並ぶ。一方、ネコや子犬も。子犬はホントに生まれたてみたいでちっこくて可愛い。
どれも神聖なイメージであるが、サッパリアッサリしている。

「ポンピドゥー」の半券があると500円で入れるので、時間がある方はどうぞ。
ただ、順路が分かりにくいのでご注意

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←教えてもらわなければ気づかないような場所にある。葉っぱが木彫(?)作品。


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