文化・芸術

2019年9月23日 (月)

「アートのお値段」:ノー・モア・マネー 芸術家のラスボスはあの人

190923 監督:ナサニエル・カーン
出演:アート界の皆さん
米国2018年

現代アートに興味のある人は見て損なしの面白いドキュメンタリーだった。
金、かね、カネ……の面からアートの価値を徹底追求。アーティスト、コレクター、サザビーズの担当者(オークショニアっていうの?)、評論家が様々に語る。「ギャラリスト」というのは「画商」のことか(?_?)

教科書に載るような過去の古典的名画は供給が限られているが、現代アートは作者が生きてて作品が作られ供給され続けるので、投機の対象となるのだという。
しかし、いくら高額で転売されても作った本人自身の儲けになるわけではないのがまた問題だ。
もはや「作品=カネ」はこの社会のシステムの一部として定着しているようだ。

実際に本人が登場して語るアーティストはJ・クーンズ。大きな工房を持ち何人ものスタッフが絵筆を握って制作。本人は直接描いたりしない。でも作るのは巨大インスタレーションだから莫大な金が動く。
売れっ子クーンズの逆がラリー・プーンズという画家(私はこの人知らなかったです)。過去に人気があったが忘れ去られている。
アフリカ系女性のN・A・クロスビーは、自分の絵画の値段が高騰していくのを達観したように眺めている。「アフリカ系」と「女性」というキーワードがさらに価値を押し上げているのかも知れない。

G・リヒターは作品はコレクターが持っているのではなく、美術館にあるのが望ましいと語った。サザビーズの担当者(リヒター押し)はその話を聞いて「倉庫で死蔵されるだけ」と笑った。
……だが、待ってくれい。バブル期に日本で民間に買われた大作アート(キーファーなど)は結局画商の倉庫で「塩漬け」になったという話を聞いたぞ。その後どうなったのか神のみぞ知る、である。

それ以外にバスキアやダミアン・ハーストの名が上げられ、高額な彼らの作品が紹介される。あの「牛の輪切り」はもはや過去の栄光になっているみたいだが。

一方、「多くの人がアートの『値段』は知っていても『価値』は知らない」と語る老コレクターが登場。彼の高額そうなマンションには高そうな作品がいくつも飾られている。彼はシニカルだがアートを愛しているのは間違いないだろう。
彼の出自が明らかになるくだりは興味深い。そんな彼でも監督のインタビューの果てにたどり着いた「芸術とは何?」という問いには答えられないのだ。

彼が熱心に自分のコレクションについて語る姿や、実際にアーティストの制作過程見せることによって、現代アートがよく分からない人への入門にもなっているようなのは面白い。
だがその現代アートというテーマにもかかわらず、それをひっくり返すオチ(ダ・ヴィンチの某作品がらみ)が最後に来たのには笑ってしまった。

なお、先日イギリスの宮殿に展示されていた黄金の便器(約1億3500万円の価値)が盗まれる事件が起きたが、この便器も作中で紹介されていた。材質は黄金なれど普通の便器のように配管され使用可能。
米国の美術館で展示されている場面では長蛇の列ができていた。個室で実際に使用できたらしい。それなら私も使ってみたいわい( ^^)/
なお、これ自体は「過剰な富を批判した作品」とのことだ。

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2019年8月22日 (木)

「ジュリアン・オピー」:電子カラスは液晶のドット抜けをつつくか

190822 会場:東京オペラシティアートギャラリー
2019年7月10日~9月23日

単純な色と線の絵で知られるジュリアン・オピー、過去作で一番ポピュラーなのはブラーのCDジャケットだろうか。それを担当した頃はまだ人物の顔にまだちゃんと目鼻があったのだが、最近の作品になるともはや何もない。
他には映像インスタレーションで、国立近代美術館のロビーに常設されてるものがある。広重や北斎の風景画をパロディにしたような作品で、じっとしげしげ見るようなものではなく、通りかかるたびに思い出したように眺める類いのものだ。

以前、水戸で大きな展覧会があったらしいが、残念ながら見ていない。今回はここ2年ぐらいの新作中心である。

190822b 会場に入るとチラシやポスターに使われている作品が正面にあって眼に入る。しかし、これがデカくて驚く(!o!) 高さ6メートルなどと作品リストに書いてある。
しかも平面作品かと思っていたら厳密にはそうではない。立体になるのか?不明。
壁に直接描いてあり、しかも服などの色が着いている部分は盛り上がっている、「着色した木材」を貼り付けてあるらしいのだ。

同じように都市の歩く人々を題材にして様々なメディアや形式で、いくつも展開されている。
極端に簡素化された線・色彩が人や物の個性や本質を逆に浮かび上がらせる。ノイズを消し去った果てに出現する「何か」。本来は、アートはそのようなノイズを拡張して見せて、本質を露わにするものだと思ってきたが、ここでは全くの逆である。
しかも特異なものでなく日常の光景ばかり扱っているのもいい。

笑ったのが、4人の男女がジョギングするように走っているアニメーションをLEDスクリーンで見せている作品。親と一緒に見に来ていた男の子が、「おもしろ~い」と叫びながら走る真似をしてたのだった。

190822c 他には素材の違う3匹の羊(実物大)インスタレーション、地面をつついている電子カラス(スクリーン上で)--これは作成時には実際に野外に置かれていたらしい。そうすると余計にナンセンス味を感じさせただろう。
やはり簡素化されて描かれた畑や谷の風景画は、独特の無機的な質感がある。と思ったら、アルミニウムの板に自動車塗料を使っているそうな。

最後は20枚の白黒スクリーンの連なりの中を泳ぐコイだった。実際のコイの動きをそのまま投影しているもよう。だがLEDスクリーンってずっと見ていると眼がチカチカしてくるのが難である。

音のみのサウンド作品も2点出品されていた。広い展示場に流れていたミニマルなピアノ曲みたいのが心地よかった。個人的に欲しいぐらい。こういう作品を「購入」するのってどうなるんだろう?

190822d 見応えありの展覧会だったが、同時期にやっているボルタンスキーや塩田千春に比較するとかなり客が少なかった。全点撮影可能となっていたけど、先の二つの展覧会は全体がテーマパーク風の造りになっていた。それが若い人を呼び込んでいるようである。
しかし、こちらはあくまでも正統的な展示方法を取っている。その違いなのか。


190822e さて、例のごとく上階の収蔵品展も見に行く。池田良二という銅版画家の作品がかなりのスペースで展示されている。
ぼんやりとした建築や遺跡の写真を元にしたらしい画像、そして読み取れぬ刻み込まれた細かい文字、いくら目をこらしても何一つハッキリとしない。そして、それらは失われた記憶のように美しい。
見ているうちに、どんよりと暗く淀んだ寒々しさが脳ミソにしみこんでくる。

こ、これは……何から何までJ・オピーとは正反対ではないか。わざと合わせて(合わないように)選んだのか(^^? 見たい奴だけ見に来い!てな感じかね。
しかし、こういうの好きである。この判然としない淀みにゆらゆらと漂っていく気分になる。
そのせいか、まともに鑑賞する人はほとんどいなくて、一人貸し切り状態だった。

今はなき「新潮45」の表紙を担当していたこともあったということで、その有名人を題材にしたシリーズも展示されていた。

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2019年8月 4日 (日)

「塩田千春展 魂がふるえる」:作品の糸はどこに

190804a 会場:森美術館
2019年6月20日~10月27日

夏休み期間に入ると会場の六本木ヒルズは混雑するだろうということで、その前に素早く見てきた。
チラシにも使われている赤い糸と鉄枠のボート、黒い糸と焼け焦げたピアノと木の椅子、つり下がった旅行鞄の群れなど大規模インスタレーションが目を奪う。
写真などで見るとやや重々しい印象を感じるが、実際に見るとそんなことはなく軽やかであっさりしていた。個人的には重くてどんよりしているものが好きなので、その点ではやや期待からずれていた。
以前評判になった《巨大な泥まみれの服を水が洗う》系の作品はなかった。見てみたかったけど……。一方、初期作品は《自分をいぢめる》系のパフォーマンスだったのか。映像になって残っていて、見てると苦しい。

中程度の大きさの作品で「ふたつのドレス」というのが面白かった。枠の中に二着の同じドレスが下がっているのだが、鏡が真ん中に入っていて、どこからどこまでが実物なのか鏡像なのかじっと眺めていてもよく分からない。ふと気付くと自分の姿が写っている。
舞台美術もかなり担当しているようで、海外だけでなく日本の新国立劇場のオペラもやっていた。

今時の美術展は撮影可能かどうかハッキリ明示するのが普通らしい。ここでも会場図を配って禁止の場所を知らせていた。
映像作品以外は撮影可能(9割以上OKだった)なのはいいけど、他人のカメラに入らないように鑑賞するのが一苦労である。
焦げたピアノをずっと何枚も撮ってる人がいたので、そこに近寄って見られない。宙づりトランクの展示室では、部屋の端から反対側の端に立ってる連れの女の子をずーっと撮ってる人がいて、その前を通らずには奥へ進めない。
どうやって通過したらええんじゃよ(`´メ) ちょっと腹が立った。

撮影に夢中になって、背負ったリュックが作品の糸に引っかかりそうになった人を見かけた。スタッフが必死に監視していたけど、土日曜とか混雑する時はかなり危ないように思えた。

私が行った時点では、図録がまだ出来てなくて予約のみになっていた。それなのに作品リストの配布も無し(撮影禁止場所の案内図は配ったのに)とはあんまりである。
ボルタンスキー展ではちゃんと作品リスト配ってくれたのにさ。これが国立と民間の違いか。
とはいえ同じ六本木で同時期にボルタンスキーと塩田千春を見られるとは幸運✨である。一日に双方を見て回ると面白いかもしれない。(あきらかにボルタンスキーっぽい作品もあった)

190804b
ついでに隣の展望台フロアでやってる「PIXERのひみつ展」にも入った。コンセプトは以前に東京都現代美術館での展覧会で展示していた様々な技法を、解説部分を簡略化して実際に映像を操作して遊べるというもの。
私もいくつかやってみましたよ。素人や子ども対象のものなので、複雑なものはなかった。
この日は天気悪くて人が少なかったが、夏休みに入って家族連れが押しかけたらどうなるのかね。操作台は順番待ちになっちゃうのか。

客のほとんどは若いカップルか友人同士。中高年で来ているのは私だけ(周囲の展望窓を見ている人はいた)だし、一人で操作してたのも私だけだった(^0^;)ナハハ
でも頑張ってグッズ売場にも突入したぞ。若いおかーさんが小さい子そっちのけで、両手いっぱいに細々したグッズを抱えていた。購入用のバスケットありますよ(^^) 多分、ピクサー見て育った世代。きっと自分用ですね🎵

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2019年7月15日 (月)

「クリスチャン・ボルタンスキー lifetime」:墓無き者に

190715a 会場:国立新美術館
2019年6月12日~9月2日

ボルタンスキー50年間にわたる活動の大回顧展来たる! 元々、単品では日本でも紹介されることの多かったアーティストだが、その性質上まとまっては見ることが出来なかった。過去に東京都庭園美術館で中規模の展覧会は行われている。(その感想はこちら

外は暑くてムシムシしている日だったが、中は冷房が効いていてかなり涼しい。上着持ってくればよかったというぐらい。
最初に観覧者を迎えるのは初期作品の映像だが、まともに見て(聞いてると)ゲゲエとなってしまうので、適当に飛ばす(^^; こんなのを過去に作っていたのかと驚きだ。
なお、上部の天井近い所にも「出発」という作品があるのでお見逃しなく。

入場時にやはり庭園美術館の時と同じく広げるとA2用紙の作品リストを渡される。客は暗い中をそれをゴソゴソと開いて作品をチェックすることになる。私のようにド近眼&老眼の人間にはかなりツライですな💨

広いスペースを取って展示されているのは「モニュメント」「聖遺物箱」「死んだスイス人の資料」など死者を扱った一連の作品である。二つの連続した展示室に祭壇のような幾つも連ねられている。死者の写真や引き出しのような箱、小さな電球が、ひんやりと暗く死の存在を伝えてくる。しかし箱やトランクケースは古めかしく、写真はぼんやりとしているのでその人物の姿は曖昧でしかない。
あたかも死の集積が存在の証であるようだ。なぜなら生きていなければ死ぬこともできない。忘れ去られた人が生きていたことを確かに伝えるのは死の事実だけなのである。

190715c もう一つの大きな空間は「ぼた山」で黒い服が巨大な山のように積み上げられている。
それの一画では「アニミタス」のシリーズが巨大スクリーンに映されている。今回、多数の風鈴が下げられているのはなんと冬のカナダの雪原で、そこは吹雪いている。
頭上からは冷房の風が吹き付けていて、真夏に見たら完全にかき氷を食べる以上に涼しくなれるだろう。
さらに別の巨大映像作品もあり(これはかなり音がウルサイ)。天井からも作品が下がっていたが、これはちょっと見にくかった。

190715d 黒服の山の周囲には、これまた黒服を着た簡略化された人型が数体点在している。こいつにはスピーカーが仕掛けてあり、そばに立つとそれぞれ異なる内容を喋るんである。「あなたはお母さんを一人で置いてきたの」みたいな結構シビアな語りかけだ(ーー;)
一体だけ無言のヤツがいるので注意。

その先には「来世」のネオンサインがペカペカと輝く。これを見ると彼の作品の基本は仏壇ではないかと思えてくる。思わず手を合わせる。

190715e


残りの作品は展示スペースが今ひとつ狭くて残念な感じだった。膨大な数の様々な衣服が壁に垂れ下がっている「保存室」は、もっと広い部屋だったら迫力だったろうけど……。
期間中に毎日3個ずつ電球が消えていく「黄昏」も狭い所に押し込められているようだった。ドーンと広い場所で見たい。
逆に小さな紙人形を使った「影」シリーズは、前に庭園美術館の小部屋で見た方が作品に合っていた。難しいもんである。
影の天使はチラシの写真だと古い教会の丸天井に飛ばしていたようだ。今回は下手すると気付かずに通り過ぎちゃう人も……。

190715b ボルタンスキーは死につつあることを証明するために生のイメージをも援用しているように思える。
ヒンヤリとした死の記憶と冷たい風景、そして小さくおぼろげなものへの郷愁--まことこの展覧会はお盆の時期に見るのにうってつけのようである。墓参りの代わりに行くのも一興だろう。

撮影可能スペースを一部に限定しているのはよかった。しばらく後に同じ六本木での塩田千春展行ったら、ほぼ全域で撮影できてみんな撮りまくっていた--のはいいけど、ハッキリ言って作品鑑賞のジャマ!であった。

なお、地下のアートショップやカフェのある無料フロアで、ボルタンスキーの過去をたどる映像(約50分)を常時やっているらしい。後で知って行けばよかったと思ったがもう遅いのであった(T_T)
また、表参道のルイ・ヴィトンでは関連企画で「アニミタス」シリーズの他作品をやっているとのこと。こちらは11月までと、かなり長期間だ。

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2019年7月 3日 (水)

音楽と身体その3「我らの人生のただ中にあって/バッハ無伴奏チェロ組曲」:動かざること……

190703a 出演:ローザス、ジャン=ギアス・ケレス
会場:東京芸術劇場プレイハウス
2019年5月18・19日

そもそもこれを見に行こうと思ったのはチェロのジャン=ギアス・ケラスが生演奏をするというのを知ったからである。
ベルギーのダンスカンパニーであるローザス--名前は聞いたことがあるぐらいだったが、この公演の広告をたまたま見たらチケット七千円じゃありませんか(!o!) ケラスの単独公演でも下手するとこの値段ぐらい取られそうなのに、さらに最先端のダンスとの合わせ技というのなら超お買い得である。
だからというわけではないだろうが、会場は満員だった。

しかし、ダンス公演というとどうも自分に合わないことが多いような……。かつて大枚はたいてフォーサイスを見たが「よく分からん」で終始してしまったことがある。ヤン・ファーブルについても同様だった。かなり不安あり。
ただ、昔はダムタイプが好きで何度か行ったし、少し前のノイズムも面白かった。もっともダムタイプはパフォーマンスの範疇だし、「ロミオとジュリエットたち」は半分演劇だから、純粋なダンスよりコンセプト寄りなのかしらん。

本作はバッハの無伴奏チェロを第1番から6番まで順番に、舞台上でケラスが弾くのに合わせて踊る(楽章飛ばす部分もあり)。曲ごとに四人の男性ダンサーのうち一人ずつ登場、主宰者兼振付のドゥ・ケースマイケルが途中で一緒に踊り出す(彼女はこれが最後の公演とのこと)。
5番はドゥ・ケースマイケル単独で、6番は全員で、と進行する。

ケラスはほぼ出ずっぱりで大変だー。ミスは許されない。途中でうっかり一音飛ばしちゃったらダンサーが足もつれさせて倒れたりして(^0^;;;
曲の間にダンサーがステージの上に星印(?)のような幾何学模様をテープで引っ張ったり描いたりする(1階席ではよく分からない。2階席からなら床面見えただろう)が、これはケラスのブレイクタイムの意味もあるだろう。
4番で彼が一度引っ込んでダンサーが無音で踊る場面があるのだが、すごーく小さくチェロの音が聞こえてこなかったか? 舞台の袖の奥の奥で弾いてるのではと思ったんだが。

で、結局私にはやっぱりよく分らなかったのだ💧 曲とダンスの関わりがである。あまりに身体の動きが不可解な言語のようでどうにも繋がらなかったのだ。
ゴルトベルク変奏曲聞くといつもラジオ体操を想起するのだが、今日もそれっぽい動きがあった。バッハ先生とラジオ体操は深いつながりがあるのだろうか。

唯一よかったのは5番で照明を絞った中で、ドゥ・ケースマイケルの身体が闇と光に見え隠れする部分だった。
まあ、前席に座っている二人の客の頭でステージがよく見えなかったせいもあるだろう。ステージ全体が見えるようにわざと後方の座席を選んだらこれである。二人とも男性だったがとりわけデカイという訳ではなく、劇場の構造のせいかもしれない。

その5番の中でケラスが一人真横からのスポットライトを背に浴びて弾く場面がある。その身体が放つパワーは強烈で、それを越えるものを他に見いだせなかった。
ほとんど動かず演奏し続ける彼こそがステージ上で最も雄弁であったように感じたのである。

17日18日と三日間連続で公演鑑賞したわけだが(疲れた!)、この日の彼を見て(聞いて)音楽の身体性を確認した三日間であったと再認識した。
通常、クラシックの公演では照明のような演出は行われないから、そのことは聴衆には明確に意識されないだろう。

が、優れた演奏家ならば既に音楽を自らの身体と一体化しているのだ。それを彼は闇と光のコントラストの中で明らかにして見せた。
思えば四百年前のリュートを爪弾く佐藤豊彦も、敬虔な静けさに満ちたスカルラッティを歌うエクス・ノーヴォ合唱団も、音楽の身体性を強く感じさせるものであった。

分かちがたく存在する音楽と身体、彼らは微動だにしなくともそれは明らかなのである。身体なくして音楽はなく、音楽なくしてその身体もない。
願わくば踊り手には演奏家に拮抗するだけの身体性を提示してもらいたかった。あくまで個人的な感想であるが--。まあやっぱり私はダンスはダメですな(+_+)

190703b しかし、ケラスの攻めの姿勢はすごいね。古楽グループと共演もすれば、このように異種格闘技のようなダンス公演にも参加とは。

さて、事前に無伴奏チェロを復習しておこうと思って我がCD棚を探したのだが、なんと鈴木秀美(の2回目の録音)しか見つからなかったのだ。思えば生演奏もヒデミ氏しか聞いてないような気が……。いや、スパッラのは何回か聞いたんですけど💦
CDガイドの類いを見ると、定番はモダン演奏ではカザルス、マイスキー、古楽系ではビルスマ、ヒデミとなっているようだ。
そこで既に沼(山ではない)と化している未聴CD群をごそごそと漁ったところ、引っ張り上げたのは、なんとP・パンドルフォのガンバによる演奏であった……(^^;ゞ ま、別にいいよね。




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2019年4月26日 (金)

「宮廷人の優雅なたしなみ」:画家の眼の中、音楽家の耳の中

190426ルネサンス音楽と絵画をつなぐ象徴の世界
演奏:ソフィオ・アルモニコ
会場:トーキョーコンサーツ・ラボ
2019年3月23日

ルネサンス・フルート吹き4人によるソフィオ・アルモニコ、コンサートは初めてである。この日はソプラノの鏑木綾とトークで愛知芸大の高梨光正が加わって、絵画と音楽の両面からルネサンスを体感するプログラムだった。

幾つかのテーマに分けて絵画の画像を出しながら解説しそれから演奏というもの。ただ、普通なら奏者は演奏だけでトークはしないという形式が多いが、この日はテーマごとに一人ずつ奏者も音楽面の方からの解説をやった。同じテーマでも音楽と絵画では捉え方が異なっていて、興味深かった。

特に「鳥」テーマで前田りり子が語ったアルカデルトの「優しい白鳥」についての音楽家側の解釈というのが、非常にぶっ飛んでいて笑ってしまった。(高梨氏には否定されてしまったが)
他に「運命」「目」「羊飼い」など。歌曲では歌詞の朗読もあり。ビックリしたり下世話な内容もあったりして(^^;盛りだくさん、分かりやすくて面白かった。
歌曲では歌詞の発音やアクセント、そして内容によって共感するイメージを作ると(妄想すると)うまく演奏できるそうである。では、果たして聞き手の方も妄想するといいのだろうか、なんて♨

美術史を教えているという高梨氏は高い年齢層の客席に向かって、学生向けのギャグを時折使用してはスベっていた。ギャグも対象を考慮して使用して頂きたいもんである。

会場は初めて行った場所。隣のスコットホールは以前来たことあるが。椅子を並べたレクチャールームみたいな部屋である。
客のとあるオヂサンは両隣に人がいないせいだと思うが、公演中に靴脱いで靴下(しかも穴が開いている)のクズを取っていた。そういうことは自分の家でやって欲しい。
また、客席内に前回前々回でも見かけた人をやはりここでも発見。狭い業界です(^^;ゞ


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2019年4月18日 (木)

「奇想の系譜展」記念コンサート 1:どちらも負けぬ!東西奇想比べ

190418aザ・バロック 江戸の奇才、ヨーロッパの奇才
演奏:江崎浩司ほか
会場:東京都美術館講堂
2019年3月17日

恒例、上野界隈で行われる「東京・春・音楽祭」の展覧会関連コンサート、今年はたまたま博物館・美術館の企画が近現代ものが多かったせいか、純粋に古楽系はこの一つだけだった。

リコーダー江崎浩司が中心のアンサンブル(ヴァイオリン2+ヴィオラ+チェロ)が、「奇想の系譜」で展示されている日本画と同時期で同じテーマの音楽をルネサンス、バロックの作品から選んで演奏するという趣向である。

この手の企画では定番のヴィヴァルディがもちろん最多登場。「鳥」テーマで『ごしきひわ』、「幽霊」「眠り」では『夜』(曲中に幽霊が登場)、そして『海の嵐』……と「奇想の系譜」にハマリ過ぎな作品の数々である。いずれもリコーダー大活躍だった。

リコーダーと言えばJ・ファン・エイク。『笛の楽園』から「鳥」の『ナイチンゲール』、そして「美人図」にちなんで『かわいいマルティーナ』(これは自殺した娼婦の曲とのこと)。もちろん江崎氏の独奏だ。
他にはラモー作品から「花」、J・ブロウでは「狩猟」、パーセルは「猿」となんでもあり。まさに展覧会だけでなく、こちらも「奇想」では負けてはいない。

しかし一番の注目(注耳?)は、まさに曲自体が奇想だということで選ばれたC・P・E・バッハのトリオソナタだろう。バスリコーダーを指定というのがそもそも珍しいが、さらにヴィオラ、チェロという奇妙な編成の作品である。確かにあまり聞いたことのないようなサウンドで驚いた。

かくも奇想尽くしのコンサート、江崎氏は展示作品との関連を曲ごとに解説し、アンサンブルではリーダーを務め、さらに独奏も披露し、ついでに発売したばかりのCDも宣伝し(もちろんサイン付き)……と大活躍だった。
聞いててサービス精神に富んでいて面白かったけど、一つ残念だったのはこの編成だともう一つ低音楽器が欲しかったところ。「ああ、ドスのきいた低音が聞きたい」なんて思っちゃいましたよ(^^ゞ

アンコールで初めて気付いたのだが、江崎氏が着ていたアロハみたいなシャツ、よくよく見たら、五色かは不明だが様々な色の鳥の羽根模様だった。さすがである。

客席に前日のアンジェリコの公演でも見かけた人がやはり来ていて、考えることは同じだなと思ったり……(^^;;

どうせだから展覧会の方も見て行こうかと思ったら、チケット売り場に行列が出来ていた。さらに係員が入口で「中は混雑しておりまーす」と叫んでいたので、あきらめてスゴスゴと帰った。
やはり本気で見るんだったら、平日の早い時間に上野駅の改札内の窓口でチケット買って行くぐらいじゃないとダメですわな💥
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2018年9月 1日 (土)

「音楽と美術の幸せな結婚 2」:音は人なり

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大塚直哉レクチャー・コンサート・シリーズ
肖像を刻む-視覚と聴覚によるポートレート:「ルーヴル美術館展」の名画と音楽
会場:よみうり大手町ホール
2018年8月6日

美術展にちなんだ大塚直哉のレクチャーコンサート、2回目はルーヴル美術館展である。(1回目はこちら
ゲストはなんとマンガ家ヤマザキマリですよ(!o!)

今回は主にフランスのチェンバロ独奏曲から人物を描いたものを演奏し、その合間に二人がトークをするという構成である。
実際の展覧会と同じ区分けで、男の肖像、芸術家、女……というようになっている。
冒頭はクープランで、クラヴサン曲集より「ラファエル」(ラファエロのことだと推測されている)が演奏されると、ヤマザキマリがラファエロについてここぞとばかり熱弁を振るうという次第。
ラファエロ自身もすぐれた肖像画家であり、一方クープランは様々な人々の肖像を音楽で描いた(大塚氏談)という共通点があった。

続いては、フォルクレとクープランがそれぞれに描いて作曲したオルレアン公(ただし曲調は正反対)と絵画における彼を比べる。
また、肖像には死者の思い出や記録という面もあるということで、フローベルガーが捧げたフェルディナント4世とブランロシェ氏(例の階段転落事件の人)への哀悼曲も。

当然、トークではヤマザキマリは猛烈に喋り倒していた。これに対抗するにはチェンバロ一台では到底足りぬ。バロックトランペット3本呼べ~と言いたいぐらい。
話題は時間が足りないぐらいにあちこち飛び、大塚氏も日頃の上品さからは想像できぬギャハハハ笑い(^O^)を連発していた。

ラストは人間ならぬ神様の「ジュピター」(フォルクレ作)で、これが驚くほどに速い演奏だった。それまでのギャハハハ笑いを返上、ビシッと決めたのてある。

肖像画を描かせる時は強調したいものを一緒に描くとのこと。例えば、指輪とか衣服とか……ということでアンコールはクープランの肖像画で彼が持っている楽譜の曲だった。

ヤマザキマリは舞台向け風(?)のドレスを着て現われたのだが、一時間ぐらい前に初めて顔合わせした時とあまりに差があったそうで(かなりカジュアルな格好をしていたらしい)、大塚氏がマジに驚いている様子が伝わってきた。そんなにスゴイ落差だったんかい

この日の使用チェンバロはなんと1月に近江楽堂で聞いたモンキー・チェンバロであった。レクチャー・コンサートの趣旨にピッタリである。ただ、音はやはり近江楽堂で聞いた方がずっといいけど……。
休憩時に黄金色の脚をよくよく観察したら、ヒヅメが割れてなかったんで馬の脚らしい。

それから、大塚氏がコソッと言ったので目立たなかったが、女性像のところで弾いたクープランの「フランスのフォリア、または色とりどりのドミノ」は全12曲並べるとタイトルが女性の特徴を年齢ごとを順番に表わしているらしい。それで、鈴木雅明は「これは女の一生だな」と言って、コンサートの時に全く原タイトルにはそんなことは入っていないのに、プログラムに「女の一生」と書いてしまったそうである。こりゃ、タイトル詐称じゃないの\(◎o◎)/!
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さて、ヤマザキマリがゲストにも関わらず、後ろの方の座席は結構空いていたとのこと。勿体ない。第3回目は是非満杯にしてほしい。
でも「ブリューゲル展」がテーマだから、そうするとルネサンス音楽になるのかな? ゲストは山田五郎が予定されているらしい。(あくまでも予定)

追記:次回のゲスト、山田五郎に決定したようです。演奏家の方は西谷尚己とR・ダンクザークミュラー。


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2018年1月28日 (日)

現代アート二題

また感想を書く機会を逃してしまいそうなので、とりあえず写真だけでも乗せとく。

★ザ・ユージーン・スタジオ「1/2 Century later」
会場:資生堂ギャラリー
2018年11月21日~12月24日
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全くのノーチェックだったが、こちらのブログに紹介されていたので、最終日(クリスマス・イヴですな)に駆けつけた。地下に降りる入口に行列が(!o!)と驚いたが、実は上階のパーラーの順番待ちの客だった。

「善悪の荒野」と名付けられた、『2001』のホテルの部屋(の廃墟)を復元した巨大インスタレーションは迫力あり過ぎ。実際に部屋を作ってから燃やしたらしい。
周囲に数点の作品があって、それらがまとまって一つのコンセプトを表わしているようなのだが、部屋のインスタが物体としてあまりに突出してしまっているので、コンセプトをかき消してしまっている。

なお、ちょうどベッドの正面にあたる方向に隣室のモノリス(風の展示壁)があって、その点でも映画にのっとっているようだ。

入場した時から、女性の監視員兼スタッフの人にものすごい不審な目つきで睨まれてしまった。そりゃ確かに周囲はアート系の若いモンばかりで、年齢高いのは私だけだったが、野暮なオバハンでも現代アートを見たいんだよ。
まあ無料だから文句も言えんが。
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★ゲルハルト・リヒター「ペインティング1992-2017」
会場:ワコウ・ワークス・オブ・アート
2017年12月16日~2018年1月31日

六本木のギャラリーが多く入ったビルの中の一つでリヒター展をやっていた。割と近年の作品を展示しているとのことである。
ほとんどは絵画だが、1点だけ銀色の球みたいな謎の物体(直径20センチぐらい)があった。とても気になったが、直接床に転がしてあるのでしげしげ見るには床に這いつくばらねばならない。むむむ、這いつくばって見ればよかったかしらん(^_^;)

写真をぼかしたような作風のものもあったが、抽象的な作品はかすれ具合とかにじみ具合とか絵具を削った部分とか、かなり見ていて脳ミソに直接来るものがあった。
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2017年8月26日 (土)

「遠藤利克展 聖性の考古学」

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会場:埼玉県立近代美術館
2017年7月15日~8月31日

埼玉近美(略称は「埼近」か(^^?)はほぼ一年前の「ジャック=アンリ・ラルティーグ 幸せの瞬間をつかまえて」以来だ。感想をブログに書く暇がなかったが、写真史的には非常に重要人物だというのに、館内にはほとんど人気がなかった(*_*; 
いや、でもゆっくりじっくり見られてよかったですよ

そして、今年はこの「遠藤克俊展」である。
じつはこのアーティストの事は全く知らなかった。彫刻家だというが、名前さえ聞いた覚えがない。しかし、この展覧会を紹介している美術系のサイトで、作品の画像を見た途端、私の頭にはすぐにとある詩を連想した。
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それは入沢康夫の「『木の船』のための素描」である。学生の頃に読んでいたく感動したのだが、それきり忘れていた。再び思い出したのは一年ほど前、「図書」(岩波書店PR誌)に連載の池澤夏樹のエッセイの中に取り上げられているのを読んだ時だ。
そこに描かれているのは誰も全景を知らない巨大な迷路のような箱舟であり、同時に棺とおぼしき木箱でもある。しかも、それは万葉集の中の一首に由来するのだという。

もし外部から見たとすればこの船は単に一個の木箱に過ぎない

それがそのまま眼前に現われたような作品があるというのなら、見に行かずばいられようか(!o!)--ってなもんだ。

さて、作品は デカイ
そして、それらが狭苦しい中に展示されていた。

もともと広い美術館ではないが、これは狭すぎでしょう(>_<)……と思ったら、わざと小さくスペースを区切って展示しているのだという。

彫刻というよりはインスタレーションに近い。巨大な木製の円型オブジェ(高さ2.4m×直径4.5m)やら長~い木の円筒(20メートル近い)を横にしたもの。また、カヌーを引き延ばしたような細長い船もある。その規模に度肝を抜かされる。しかも木の作品はみな燃やされて表面が黒く焼け焦げているのだった。
壁際にギリギリに置かれているものもあるので、下手すると触ってしまいそうである。太って腹の出たヤツが通り抜けようとして「お客様、お腹で作品を触れないようにお願いします」とか注意されそうだ。(もっとも、常設展会場に展示されている作品は広いスペースにある)

大きさには言葉もなく圧倒されるが、それだけでなく焦げた表面には何か威圧感あるいは不可触感がある。不吉、不安、不穏--なにやらそんなものが充満している。
「水路」というそれこそ水路の断面を横から見たような木の板の連なりには、表面に木目が残り、ソリソリとした感触を放つ。

そして目的の「寓話V-鉛の棺」はまさしく棺であった。「鉛」とタイトルにあるが本体は焼かれた木であり、上部の蓋に鉛の帯のような飾りが付いている。
私は何度も周囲をグルグル回って見た。「棺」というからには中に死者が入るのだろうか。表面が焼け焦げているのは、火葬ということではなくて何か禍々しいものを封じ込めるためであろうか。--などと色々、心に湧き上がってくる。
それにもかかわらず、その巨大な「棺」からは入沢康夫の詩の結末とは異なり、かぐわしい木の香りが微かに漂ってくるのだった。

非常に見ごたえありだったが難を言えば、黒焦げに燃やす過程も含めて一つの作品というコンセプトだという割には、その焼く過程を見せるビデオのモニター(二か所)が小さくてしょぼかった。(場所も目立たない)
吹き抜けに設置されている「薬療師の舟」は、吹き抜けの外から見なければならなかったけど、もっと近くに寄って見たかった。
あと、作者の解説が作品ごとに貼られているのだがこれがまた難し過ぎて、何を言っているのか素人には全く理解できぬ代物である。

夏休みと言えば、大抵の美術館ではファミリー向けにマンガやらアニメ関連の企画を行うのが定番となっているが、その風潮にあえて真っ向から挑むような内容、よくぞやったものよと英断に感心してしまった。
見に行ったのは平日とはいえ、やはりかなりの客の少なさであった。まあ今回もゆっくり見られてよかったけどな……(^o^;) こんなだと、県議会で「夏休みなのに入場者が少ないのはいかがなものか」などと言われないか、余計な心配をしてしまう。大丈夫か

とはいえ、小学生高学年ぐらいの子が一人で見て回っていて(夏休み課題?)、「スゲー」を連発していた。ということは、やはり作品の力はお子ちゃまにも伝わるものなのであろうか。


なんでこんなこと心配しているかというと、もう遥か昔(二十年以上前?)のこと、埼玉近美の予算がいきなり削られてしまい、「せっかく企画したのにできなかったんだよ、チクショー」(←脳内翻訳)展みたいなものでお茶を濁さざるを得なかった、という事案が起こったのである。今、サイトを見ても記録がないのだが、確か宮島達男を取り上げようとしたのだと記憶している。
これからも文化果つる地で、硬派な企画を頑張っていただきたい。
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←大きさをエレベーターのドアと比較してください。


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