フェミニズム

2007年9月 1日 (土)

期待はずれだった信田さよ子の出演番組

朝日ニュースターの「ニュースの深層」というインタヴュー番組に信田さよ子が「王子ブームに隠れた背景」というテーマで出ていた。(8月31日放送)
となると以前にもここで紹介した「オバサンの性的欲望は少年へと向かう」の話が聞けるかと思ってすごーく期待したのであった。

だが、王子さまブームの話は最初の十分ぐらいで終わってしまった。もちろんオバハンとフ女子の性幻想の話題など全く出て来なかったのであった。いくらCS放送とはいえ、過激過ぎるテーマだとされたのだろうか。それとも、インタヴューする側の辻広雅文が全くそちらには興味を持っていなかったからだろうか。

残りの時間は信田の本業関係で、崩壊家族やDV、児童虐待、依存症などの話題が続いた。それはそれで非常に興味深かったけどねえ……。
ガッカリしました(v_v)

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2007年8月 7日 (火)

王子様……ですか

既に何度かリンクしている《G★RDIAS》より、「オバサンの性的欲望は少年へと向かう」が面白い。

子育てを終えたチューネン女性が亭主にも子どもにも見切りをつけて、ヨン様のような王子様系に理想を見る--というのは以前から指摘されていたと思うが……と、ここで思い出してみればそれも信田さよ子と上野千津子の対談本で読んだような気がする。

ただ、最近のハンカチ王子などに多くのチューネン女が見ているのは〈理想の息子〉じゃないのか? 「こんな息子がいたらねえ」みたいな。それも「性的欲望」の一つだと断言してしまえばそれまでだけどさ。

個人的には美少年の類いは全く興味なくてノーサンキュー。だって、「無垢」とか「純粋」とかひっくり返せば「未熟」とか「幼稚」になるって可能性もあるわけだから。そういうのはイヤだ~。
だから、あさのあつこの小説に登場する少年たちもダメ。読んでてなんだかゾッとしてきちゃう。
しかし、もっと理解できないのは当の中学生男子たちにもあさのあつこが人気あるってことなんだよねえ……(?_?;

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2007年7月 8日 (日)

ウミウシ志願

突然ですが、《G★RDIAS》より「私、産みたくありません。」での

・・・私はなぜ、女に生まれてきたのだろう?私は女に向いていないと思う。

という一文にハッとする思いがした。
だが、しかし我が身を顧みるに、では男に向いているか?--というと決してそういうわけではない。としたら、そもそも
人間に向いていないのではないか
という結論に唐突に至るのであった。

L・バーンスタインの『ミサ曲』の中に「おれは人間には生まれたくなかった」という一節(ややうろ覚え)が出てくる。聖書でキリストが「そして人として生まれた」という件りをふまえた曲だが、「海底のフジツボでもなんでもよかった。だが、人間だけは……」と歌うのだ。

私も海底のウミウシなんかいいかなっ、とたまに考える。なんか色んな色がついてて無駄にキレイだし、フリルみたいのがヒラヒラしてていい。
もっとも、ウミウシの方でも「おれはウミウシなんかいやだー」と思っているかも知れないので難しいところだのう。

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2007年6月16日 (土)

チュー年女はネットなんかやらないんじゃないの

《ふぇみにすとの雑感@シカゴ》より「マスコミ学会ワークショップレポートと感想」

ここで取り上げたいのは「3)フェミニズムのプレゼンス能力の低下」に関連することなんだが、現在の「フェミニズム」を担っている中心世代がどこら辺だか分からんけど、少なくとも四~五十代のチュー年女のネット化率は低いんじゃないかと思う。

お前の知り合いだけの狭い範囲内で決めんじゃないと言われそうだし、正直統計があったら私も見たいところだが、同年代の知り合いで自分でHPやブログやっているという人はヒジョーに少ない。
それどころか常時特定のブログなどをチェックして見ている者さえ少ない。ネットは何か知りたい時に検索して使うという程度のようだ。

先日、五十代の知人女性二人と喋っていて、うっかり私がブログをやっているともらしてしまったら、一人は「ブログなんか全然見ない」と言い、もう一人は「私も絶対見ない。そんなもんやってるの」と軽蔑の眼差しで見られてしまったのだよ。
そこで、私はもう絶対にリアルワールドの知人友人にブログをやってるなどというのは絶対に口外すまい、と心の中で誓ったのである。
恐らく、彼女たちにとってはネット上の言説自体が無価値で軽蔑に値するものなのであろう。後者の女性などは「ブックマーク」や「お気に入り」さえ使用しないという。「じゃあ、毎回ヤフーで検索してるの」と尋ねたら、そうだと返事が返ってきた。いや、まあそりゃ勝手ですけどね。

もちろん、彼女たちはフェミニズムに興味がないというタイプではない。フェミニズム本は読んでいるし、社会問題には大いに興味はあるし、職場の組合では役員もやってるし、若い頃には大学のデモにも熱心に参加してたそうだ。

しかし、これだけネットに拒否感を持ってるんじゃそこで情報や意見を公開するなんてことはしないだろうし、また公開されているのを見たり読んだりもしないだろう。
さらに「2ちゃんは厨房のすくつ」とか思い込んでいても仕方ない。

ということで、今の四、五十代が養老院に一掃されてもっと若い世代のフェミニストが中心になれば変化も起こる--かもだ。


【関連リンク】
こちらにも報告ありました。
《ジェンダーとメディア・ブログ》より「マスコミ学会ワークショップ報告その1」

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2007年5月17日 (木)

「オンナらしさ入門(笑)」:ウン十年前に読めてたらよかったかも

著者:小倉千加子
理論社(よりみちパン!セ)2007年

理論社から出ているヤングアダルト向けの新書(より一回り大きい判型だが)から出された女子向け人生指南書。ちなみにこのシリーズからは既に男子対象の本は3冊ほど出ている。

内容はこれまでの著者のジェンダー論などを分かりやすく噛み砕いて書いている。『ナイトメア』とも重なる部分は多い。
冒頭にマザーグースの歌を引用し(「おんなのこは おさとうと スパイスとすてきななにもかも」でできている)、歌の内容にもかかわらずイバラの道を歩かなければならないことを説く。
ただし、あくまでも青少年向けであるからには、終章は希望にあふれたものとなっている。彼女の他の本のように辛辣な終わり方は禁止!だ。
とはいえ、キビシイ指摘は文中の至る所に登場するので要注意である。

大学生の男子の「見にいく娯楽」の第一位は、観賞でも鑑賞でもなく、観戦です。男子は勝ち負けを見にいき、女子は作品を見にいく。

なんかここを読んで思わず笑ってしまったのは私だけか。

もちろん、これは甘い「おんなのこ」のイバラの道を歩くことに疑問を感じる女子向けであり、そうでない女子は読む必要はないだろう。あ、「おとこのこ」(「かえるに かたつむりに こいぬのしっぽ」で構成)がイヤな男子も読むのはOK。


余談だが、マザーグースの歌で思い出したのはウェールズの伝説の中の物語である。魔法使いが砂糖やスパイスや素敵なもの--ならぬ花で美しい女を作って自分の甥に与えるのだが、その結末は極めて不条理で陰惨なものだ。
伝説の中で示されているのは不変の真実なのだろうか、それとも太古の昔から存在した道を外れた女への規範なのだろうか。

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2007年5月 4日 (金)

「ナイトメア」:怪談、あるいは「女」という病

心の迷路の物語
著者:小倉千加子
岩波書店2007年

毎日新聞のサイトで連載したコラムを単行本化したもの。
私はその連載をずっと読んでいたのだが、実は冒頭から見逃していた一文があった。
「小説を書いている私には、読者からしばしば手紙が届く。」
--という文章である。私はここを読んでいたはずなのに、脳内から追い払ってしまっていた。小倉千加子は小説家ではないのだから、これは「以降の内容はフィクションである」という宣言なのだ。
だが、それを読み飛ばした私は「ナイトメア」とこの中で呼ばれている女性が実在して小倉千加子に本当に手紙を送ってきたのだと思い込んでしまったのである。

しかし「ナイトメア」は完全な虚構の存在ではないだろう。恐らくは著者が出会った複数の若い女性を重ね合わせた人物かと思われる。点々と語られる「ナイトメア」のエピソードは「ああ、そういうヤツいるいる」と思わせるものが多い。
一番、印象に残ったのは歴史ものの芝居を観に行って旗の紋章が違うといって、もはや芝居自体を拒否してしまう話だ。確かにいるよなー、と思ってしまった。

彼女はあまりに知性があり過ぎるため、知に拘泥するためにどこにも安住できない。女は知的であってはイカンのである。家庭では良い娘、良い妹、良い妻、良い母にはなれないし、学校や職場では鬱陶しがられるだろう。それを完全に隠蔽するだけの世俗的な一面は持ってない。もはやどこにも行く場所はないのだ。

数年に渡り作家の「私」に対し手紙が送られてくるうちに、段々と彼女の内面(あるいは「正体」)が明らかになってくる。しかしそれに反比例するように現実の彼女の存在感は薄れてくる。ここら辺の経緯は何やら怪談のように恐ろしくて、読んでてゾーッとした。

だが、より不可解だったのは「私」の反応である。「ナイトメア」の家庭での生育歴の中で決定的な出来事が明らかになった時、
「ナイトメアの苦しみの原因は内側のものではなく外側のものということになる。恐らく、私はそれを認めたくなかったのであろう。」
というのだ。
なぜ「私」は苦悩の原因を構造的でなくて偶発的なことであるのを拒否するのか。フェミニズムが女であることを構造的にとらえようとしていることへの寓意なのだろうか。

なににせよ、「新しい「苦の世界」を、ナイトメアは生きている」のであるならば、それは不治の病なのだ。治癒の方法があるとすれば、恐らくそれはただ一つ「死」であろう。

だが、結末での「私」の語りについては--私には理解しにくいものだった。なぜなら、もはや私自身にはそこで語られる「内面」などほとんど残っていないからだ。

内面のない人間はただ転がり続けるのみ。止まったらパッタリ倒れてしまうのである。内面について思い巡らしたりする余裕はないのだ。
だから、この物語はやはり怪談ということにしておこう。


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2006年7月31日 (月)

「ガーダ パレスチナの詩」:あえて「正史」ではなく

監督:古居みずえ
日本2005年

OLからジャーナリストへ転身した女性の監督第一作目のドキュメンタリー。最近「徹子の部屋」にも出たらしい。ここでは、通訳として知り合った若いパレスチナ女性の十数年間を取材している。

冒頭は1994年、ガザの難民キャンプの中でもユダヤ人入植地に近い地区に住む、23歳のガーダとその家族の生活が紹介される。彼女は大学こそ行き損ねたが、高い教育を受け英語の通訳をする、ある意味「近代化」された女性であり、自分の結婚式ではうっとーしい古くからの儀式は拒否する。そこでの忌憚ない家族との話し合い(ぶつかり合い)の場面も出てくる。
でも、嫌がっていたパーティで着たドレスを自分の祖母に見せる時は、「私きれい?」なんて踊ったりして結構嬉しそうなのは笑っちゃう。(^^)

二年後、彼女は女の子を出産。病院で陣痛に苦しむ場面やホントに生まれたばかりの赤ん坊も画面に登場。イスラムの風習を考えると、こんな場面は女性監督にしか撮れないだろう。(過去にここまで取材した者はいないらしい)
このあたりまでは和平協定が続いていて平穏だった。

2000年、和平は破れ、第二次インティファーダが始まる。ガーダの親戚の子どもの死をきっかけに、彼女は親族や知り合いの高齢の女性たちから過去の聞き書きを始める。ここから、カメラはガーダ本人を撮るというより、彼女と同行して老人達を一緒に取材するという形になる。
その一方で、ガーダの実家の地区を激しい銃撃が襲う。本当に普通の住居にバリバリ降ってくるのだ。スクリーンのこちら側にいてもギャッと叫んで首をすくめたくなる。それでも住民はヤギに餌をやりに行ったり、危険な通りを渡って自分の家に戻ったり、夕飯を作らなければならない。

ここに至って、客席は絶えず鼻をすすり上げる音が聞こえてくるようになる。ええ、私も涙を流しましたとも。(~ ^~) 文句あっか。

特に印象的なのは、イスラエル兵にブルドーザーで家を壊されてしまったのに、鍵を捨てられないで大切に持っている百歳というばーちゃん。「これは羊小屋の鍵、これは家の鍵」と見せてくれるが、彼女の家はもう跡形もなくぺちゃんこになっているのだ。
夫婦間では妻の方が家に対する執着が強いという話を聞いた事がある。なんでも、実際に家具や調理器具などを揃えて家作りをするのが妻の方だからだという。(離婚の際にはそこに夫婦の差が出るとか) なんとなくそれを思い出した。何十年にも渡り作り上げてきた家を失うのは耐えがたいことだろう。
さらに、彼女は地面になぎ倒されたオレンジの樹(かなりの巨木)に収穫されないまま枝にたくさん残っている実を、ガーダたちのためにもいでくれるのである。そんなにたくさん食べられないと言っても、「いいから持っておいき」となおもエプロンに一杯オレンジを取ってくれるのだ。
ばーちゃん、あんまりだー(TOT)ドーッ
もう号泣ですよ、号泣。

実際に見てみるまで、私は一旦は「近代西欧化」された若い女性が、戦乱状態の中で自らの民族性に目覚め過去へと回帰していく話かと思っていたのだが、それとは違っていた。
正史(そのほとんどは男が語るものである)ではなく、その陰に存在する女性たちの無数の「裏史」を掘り起こし記録・保存しようとする、極めて「非正統的」「非伝統的」な試みなのである。

例えば、年老いた農民の夫婦が登場し、ダンナの方は実はかなりの教養があって自分で詩を作ったりまでするのだが、彼の悲嘆に満ちた詩や歌はまさに正史というべきものだろう。その悲痛な歌は実際非常に心を打つが、一方で冒頭に出てくるガーダの母方の祖母が歌う歌に、正直なところより惹かれてしまう。なにせ、もうそこら中シワシワのばーちゃんが結婚式を前に不安を感じて揺れ動く乙女心を歌うのだ。「私は細いウエストで、甘く美しい」--なんて。どう見ても、ウエストは太く、オトメのオの字もないばーちゃんが、である。
なんだか感動ですよ(T^T)クーッ また泣いちゃう。

そして、最後に「これが私の闘いである」というガーダの決意には心を打たれた。他の何ものでもない、暴力でも諦めでもない、力強いその選択に……。
もちろん、彼女と十数年間を併走してきた監督にも。

でも、お願いだから「やっぱり女は強い」などとという陳腐なほめ言葉だけは使わないでくれい。一種の思考停止フレーズだよね。
ついでに、ネット上の感想に「パレスチナ人の言い分ばかり取り上げて、イスラエルにも取材してないのはおかしい」の類いを幾つか見つけて驚いた。まるで、八百屋に行って「果物を売ってないのはおかしい」と言うようなもんである。最近、こういう「理不尽な公正さを求める」意見が多いように思えるのは気のせいかね。

どーでもいいことだが、出てくる料理がおいしそうだった。どんな味だか分からんけど見てるとヨダレが出てきちゃうよ。(^Q^)


アップリンクって初めて行ったのだが、段差が無い代わりに色んな種類の椅子が置いてあって、何気に見づらいような気が……(-_-;) 特に上映中もギコギコ音がする椅子は何とかしてくれ。
それから、『ミュンヘン』の感想の関連リンク先で紹介してた映画『パラダイス・ナウ』の予告をやってた。おお、遂に公開ですか(!o!) 是非とも『ミュンヘン』と見比べたいもんである。


主観点:8点(あまり点数は意味がない)
客観点:8点(   同上   )


【関連リンク】
公式HP
私のブラウザではちょっとブチ壊れて見えます。

内容紹介
《『ガーダ パレスチナの詩』 勝手に書く紹介文》ネタバレなし
《『ガーダ パレスチナの詩』 2つの世界を飛び越えて》ネタバレあり

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2006年5月30日 (火)

ドミノに爆笑しました

今や各界で話題沸騰の書(?)『バックラッシュ!』発売キャンペーン・ブログより。
『デビューボの泉』第一回 : バックラッシュと邪神の塔--バラバラにされたりドミノにされたりしています。すごいです。連載が楽しみですね(^^)

文中でもリンクされていますが、「デビューボ」とはなんとあの人のことなのです。まあ、昔から「ギョエテとはおれのことかとゲーテ言い」なんてのがありますし。

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2006年1月16日 (月)

東京都にケンカを売る

既に新聞などで報道されていてご存じだろうが、国分寺市が上野千鶴子を講師に呼ぼうとした所、都の教育庁が横やりを入れて来たという事件があった。事件自体は昨年の8月だが、その後に中止の経緯などが明らかになって来て、先日記事になったらしい。

で、ついに上野千鶴子が東京都に対して公開質問状を出したそうな。内容が以下に紹介されている。

「成城トランスカレッジ!」より
上野千鶴子さんの公開質問状
こちらは事件と報道の問題点について
ジェンダーフリーバッシングはいつ頃はじまったのか ――そしていつ終わるのか。

これはまさに上野千鶴子が都にケンカを売る……というよりは売られたケンカを買ったという事か。いずれにしろ成り行きが気になる。
それにしても他の日のエントリもひどい件が紹介されている。ネタは尽きまじ、ですな。

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2005年10月20日 (木)

「◎らしさ」は自明の理

少し前の記事でも紹介した「成城トランスカレッジ!」経由で以下のブログの記事を読んだ。

《ブレンダの悲劇とジェンダー論》
《「女らしさ」「男らしさ」は生まれつき?》《追記》

さて、次の一文。
 

俗な言い方すぎるかもしれませんが、「目の前にいるこの女、肉体から『女らしさ=セックス』をむんむん放ってるやん。

うーむ、どうでしょうね。ジェンダーについて論じられるようになったというのは、生物学的にメスであることと女らしいことが必ずしも一致しないのはどーしてよ?、という問題も一つあったからでしょう。
その前提をすっとばして、「メス」と「女らしさ」がイコールであるのを自明の理として語ってしまうんだったらそもそもジェンダーやらセクシュアリティを論じる必要性はないわけで--。この人、単にイチャモン付けたかっただけじゃないの、なんて思っちゃうんだよね。

それから、勘違いしているのではないかというのは、「メスの身体」が欲望を喚起させるものを「むんむんと放っている」かのように思っているらしいこと。
じゃなくて、欲望は自らの中に内在するものであって、外部になにやら電波のように発生源があるわけではない。人間の身体なぞ所詮、肉と骨とその他の集合に過ぎない。肉屋の奥に下がっているブタや牛や、魚市場の床に転がっているマグロと変わらないんである。
マグロでも牛肉でもない特定の身体に対して欲望が引き起こされるのは、あくまで自分の内部に発生装置があるからである。(中には「マグロの方がよい」という者もいるだろうが)
そこんとこ勘違いしているから、結局は実感なき他人事のように見えるのではないか。自分のセクシュアリテイが自明のことならば、やはりこんな論議はなんの意味もないだろう。

あと、文中の「セックス」とか「ジェンダー」とか用語の使い方が一定でないのもちょっと混乱するところがあるように思えた。

ついでに、小倉千加子は2001年の『セクシュアリティの心理学』で一章を割いてJ・マネーの功罪や「双子の症例」について取り上げている。
だからと言って「『セックス神話解体新書』で誤った学説を取り上げてスマン<(_ _)>」とは自己批判も総括もしていないけどね。(「自己批判」と「総括」については『嗤う日本のナショナリズム』を参照のこと)

しかし、こんな文章書くとまたいかがわしいスパムTBが来そうだ。ニフよ、なんとかしてくれ~。

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2005年10月 8日 (土)

「柴犬以下」続報

10月2日の記事で「成城トランスカレッジ!」の《「新しい歴史教科書を作る会」会長&名誉会長コンビが出した「ジェンダーフリー・バッシング本」の面白さ。》をご紹介したのだが、その後新たな展開があった。

ブログ主のchikiさんが「ジェンダーフリー」についての議論にならない議論や訳分からんバッシングを解消、発展的に考えていくための問答集のページをつくったのである。
「柴犬以下」に認定されそうな人は今すぐ「ジェンダーフリーとは」にGO!

なお、ブログやHPを持っている人にはリンクとTB歓迎だそうである。(詳細はこちら


【関連リンク】
ついでにこちらの白熱した議論も紹介(現在は終了)。素人にはチト専門的過ぎますが。
小谷野敦さんによる「はてなキーワード『ジェンダー』項目」の間違い
小谷野さんへのお返事/「ジェンダーフリー」と「男女平等」の関係

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2005年10月 2日 (日)

「柴犬以下」に認定

以前、2ちゃんねるのロック板あたりに立ったネタのスレッドを見に行っては、そのレスポンスの応酬のおかしさにモニターの前で大口開けて笑ってしまったことがよくあった。

さて、久し振りに大笑いしてしまったのが「おすすめリンク」でも紹介している「成城トランスカレッジ!」のとある対談本を紹介している記事である。
対談の内容自体も大笑いだが、それにたいするブログ主のchikiさんのツッコミも楽しい。

特に上野千鶴子と大沢真理を「うちの柴犬以下」に認定しているのはスゴイ。でもさ……飼い犬って普段エサやってる人のところに行くんじゃないの?ほら、家庭内の力関係をよく見ているからねえ。
この対談してるお二人はこれだけのことを言うからには自分で子育てとか、いやそれどころか妊娠出産も経験なさって発言しているんでしょうねえ。そうじゃなきゃ言えないよね--。

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2005年7月22日 (金)

なんと豪華トーク・セッション情報

ジュンク堂のうえの・ちづこ書店にて上野千鶴子×香山リカという豪華?な取り合わせのイベントが!
詳細はこのページの9月の所にあり。  
まだ先のことなので定員には達していないもよう。興味がある方は急ぐがよろし。

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2005年7月18日 (月)

小倉千加子の連載

職場で何種類かの新聞を取っているが、毎日新聞だけはあいにく入っていない。で、小倉千加子が連載を始めていることは知らなかった。
しかし、さっき毎日のニュースサイトを覗いてみたら「こころ」のコーナーに掲載されているではにゃあの!

こころの世紀女という名の病というタイトルである。
もっぱら一人の女子学生について書かれているが、これからどう展開して行くのか期待大だ。

あと、内容には関係ないが、この小倉千加子の写真はヒドイ!! いわゆる指名手配写真化している。NHK-BSに出ていた時にご本人見たが、こんなコワいオバハンではなかったぞ。改訂版を求む。
いや……それともわざと、か?まさか(-o-;)

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2005年4月 9日 (土)

か、花粉病が……(x_x)

「世田谷に動きのあやしい挑戦者がいた」
よりトラックバック頂いたので、ここに思った事を書いてみる。

重症の花粉病の人間が鼻をグズグズいわせながら「どうして急にこんなことになってしまったんだろう。これはきっと大気汚染が関係しているのかも知れない」と考える。
そこで大気汚染について調べ始めた。過去の資料を読んで考えたことや周囲の大気を観測した結果などをまとめて発表してみる。
するとそこで「環境汚染について調べるなら土壌汚染についても取り上げなきゃダメじゃないか。そんなんじゃ土壌汚染の被害を受けている人たちの共感は得られないぞ」と言われてしまう。
言われた方は「??」状態だ。「だって、私は自分が花粉病だから大気汚染について調べているんで、とりあえずは大気だけで手一杯。優先順位だって当然こっちだし。そんなに土壌汚染が気になるなら自分で調べたらいいんじゃないの? その上でなんか共通して考えられる事があるんなら考えるんじゃダメなのか? あー、また鼻水が~」
ということになる。

フェミニズムとは基本的に「女自身が女について考えてみる」ことである。それまでは男が女について語った言説は山のようにあったが、「なんか違う」ということでとりあえずは自分は自分について考えよう、ということだ。だから、それ以外の観点や立場については「とりあえずは置いといて」となる。

従ってフェミニズムは〈万民を救う思想〉ではない。大体にして万民を救う思想なぞあり得ない。もし「万民を救う」などと謳っている奴がいたら、そいつは詐欺師かアヤシイ新興宗教の教祖と疑ってみた方がいいだろう。
女自身もそこのところを勘違いしていた人が結構いたらしくて、「フェミニズムは私を救ってくれなかった」幻滅して、代わりに新興宗教に入信した人たちもいたという。
宗教じゃないっつーの!

そのような救いをもたらさないフェミニズムの例としては、『負け犬の遠吠え』と同時期に同一テーマで出版された小倉千加子の『結婚の条件』(朝日新聞社)を読まれたい。私はこれを読んで「く、暗い。もうダメだ~」とガックリきてしまった。

なお『負け犬の遠吠え』を再読してみたが、自分たちと同様結婚し損なっている同世代の男性(オスの負け犬)についてもちゃんと言及している。四つほどのタイプを挙げて、なぜメスの負け犬とうまくいかないかを考察してある。例えば、オタク型男性については興味の対象や嗜好があまりに違い過ぎるのでうまくいかないだろうとなっている。
同世代の女性を中心のターゲットにしたライトエッセイとしては、これだけ言及してあれば充分だと思うが……。別に無視しているようには見えないが? これ以上のことを要求されても酒井順子も困るだろう。

それから〈男性社会内での男性まで考慮に入れ〉た過去の運動の成果としては、男女共同参画社会基本法があるだろう。なんでもタイトルに「男女平等」を入れるなとか横ヤリも入ったそうで大変だったろうが、女性側の評価も色々でむしろ批判の方が多かったように記憶している。今ではそんなのもあったよなーみたいな感が強いかも知れない。

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2005年4月 3日 (日)

これもバックラッシュなのか

同じく「loveless zero」 より見つけた興味深い記事。
〈「電波男」を買ってみた〉にある〈「やわらかフェミニズム」とも言うべきものに対する痛烈なカウンター〉である。

これを読んで、肝心の「やわらかフェミニズム」というのが具体的な像として、どうも分からない。『負け犬の遠吠え』は書名が上げられているが、それ以外は……?
さらに「?」と思ったのは

〈それは社会思想として完全なものなのか?
まるで完全ではない。〉

「完全な社会思想」なぞこの世に存在するのであろうか? そのようなものはかつて存在しなかったろうし、これからも誕生することはあるまい。
なぜフェミニズムが「完全」であることを求められなければならないのか? それを求める者はいかなる立場あるいは権威を持って要求するのか。

何年も前にミス・コンテストの反対運動が報じられた時、とあるテレビのコメンテーターは「ミスコンなんかより、どうして広告のヌード写真に抗議しないのか。こっちの方がよほど問題だ」と語った。
しかし、ミスコンに抗議した人たちはそれなりの考えをもって行なったのだろう。反対運動だって何もかもできるはずがない。それより、ヌード写真が気に入らないならその本人が自分で抗議すればよい。なぜ、他者に対してそれを要求し、自分の意に沿わないからと責めるのか。

とあるサイトではフェミニズムがオタクについて語っていないことを非難するような文章を見かけた。これも同じである。「気持ち悪い」と言われるような「もてない男」についても語っていないのはおかしいというのだ。
だが、なぜフェミニズムがそれについて語らなければ「いけない」のか? それを求める者はいかなる立場あるいは権威を持って要求するのか。

それについて必要ならば自分で語ればよい。(恐らく『電波男』はそのような書なのだろう) 他者を「語っていない」と非難する者が語ったのであれば、その時はもちろんきっとオタク女やもてない女についても公平に言及してくれるのであろう。

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2005年3月12日 (土)

当事者であるかどうか

3月10日に教育テレビで再放送された福祉の時間の「フェミニズムから“当事者主催”へ」を見て、「当事者」っちゅうのはこういうもんなのかい、と漠然とながら納得した。ネット上を見れば既に当事者・非当事者というのは色々議論になっているもよう。(今ごろ気付くとは遅れておりますです、ハイ)
で、その中でのざわさんという方のこのような意見を読んで考えさせられた。

「男にフェミニズムについて言われたくない」というのは、過去の例を見ると「男が裁く“アグネス問題”」みたいな上から見下ろして物申す、みたいなパターンが多かったからではないかと思う。
確か斎藤美奈子の感想だったと記憶しているが、『もののけ姫』を観た時に主人公が対立する女二人の争いの間に割って入る場面に猛烈にムカーッと来た、というのも同じような観点からだろう。(私は見た時点では何も感じず、後から「そう言えばそうだなー」と思ったのであった)

一方、当然のことながら当事者ではないからこそ見えるものや言える意見もあるわけで、非当事者だからどうこうというのではなくて、結局のところは発言する側がどういうスタンスなのかということに尽きるのではないか。
--なので

「…と言う訳で、最近ここらへんの学問から離れがちなのざわでした。」

などとおっしゃらずに続けて頂きたい、と思う。

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2005年3月 2日 (水)

「子どもが減って何が悪いか!」(赤川学)

筑摩書房(ちくま新書)2004年
700円

少子化の言説を統計データをチェックすることで再検証した本。書名の感じとは裏腹にかなり数字がグラフが出て来るので、いささか文科系人間には厳しいものがあるが、内容的には目からウロコが落ちる所が多い。
前に著作権法改正騒ぎの時に、国会に出されるような数値でもいい加減だったり恣意的に使用されていることを知ったが、この本でも少子化について同様の数値の使われ方がされているのを証明している。

結果、子どもが減る要因としては女性の高学歴・高年収、都市居住、従業(フルタイムでもパートでも)であり、影響しない要因は世帯年収、職種、母・姑同居、夫の家事参加となる。そこで、男女共同参画社会として言われているような子育て支援や家事の負担の減少では少子化の対策にならないし、そもそも男女共同参画と少子化は関係がないということを明らかにしている。
その上で、著者は今さら時代を逆行させるわけにもいかんし、どうしたらよいのかということを提言している。
当然、男女共同参画の立場の人からは批判されそうな内容であるが、なるべく誤解されないように、また逆の立場の人たちからも利用されないように、双方にかなり気を使って書いているようだ。(ご苦労さまです)

同じ著者の『性への自由/性からの自由』は以前大変面白く読んだ(特に「ワイセツ」とは近代以降の産物である、という事など知って納得)。この本も統計と言説のズレを明確にして面白かったです。

ただし、あとがきの最後のページは言わんとすることは分かるが、なんだかロマンチック・ラブ系の感慨で「なんだかなー」と思ってしまった。こんな事言ってたら、永遠に結婚できまい。
さらにこのインタビューの4ページ目はかなり異議あり!「ソースを出せ、ゴルァ」とか「統計で証明できるんですか」などと言いたくなってしまう。脇が甘いのは要注意、である。

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