フェミニズム

2019年7月25日 (木)

「〈性〉なる家族」

190725 著者:信田さよ子
春秋社2019年

これまで語られず闇へと葬られてきた家族内のDV、性虐待、セックスレス、トラウマなどをあからさまにして論ずる書である。特に母→息子、どころか母→娘への性虐待は読んでて恐ろしい。かなりヘコむ。
そも、近親「相」姦という言葉自体に虚偽が既に存在するのだ。そこには双方の上下・権力関係を覆い隠す効力がある。

家族のシステムを支えるロマンティック・ラブ・イデオロギー、個人の問題だけではない不妊治療、虐待によるPTSD、WeToo運動など問題は多岐に渡る。

そして最後は、国家の暴力と家族間の暴力の類似性を明らかにする。それは外部から見えにくく、内部では容認されていることで共通している。

それを端的に表すのが、国家の暴力の最たるものである戦争神経症だ。元々は第一次大戦で注目され、ヴェトナム戦争では帰還兵が社会的問題となった。
日本国内の問題としては知られなかったが、少し前のNHKのドキュメンタリーが太平洋戦争時の兵士を取り上げて大きな反響を呼んだという。

常時の暴力的な状態から帰還した戦争神経症の日本兵は、今度は家庭内暴力を振るった。国家の暴力である戦争が、家族にダメージを与える……。
私はこのドキュメンタリーを見ていないが、この本に紹介されている事例を読んで、私の父親もこれに当てはまるのではないかと初めて思った。
二十歳前に徴兵されて、満州に派遣され、終戦後はシベリア送りとなってから帰還した父親は、その後に酒で家族に多大なる迷惑をかけた。それは若い頃よりも歳をとるにつれ顕著になった。(結局、酒の飲み過ぎで死んだ)
今でも思い出すのが嫌になる。まあ、私より母や兄の方がもっと長い年数付き合ってたんだから、よけい大変だったろう。
本当に戦争神経症だったのかは分からないが。

ここに国家の暴力と家族の暴力がピタリと転写されている姿を見ることができる。覆い隠されたシステム内でのほころびである。

「家族、そして性については再学習」し、再定義し、過去を変えること--と著者は語る。「家族」に疑問を抱く人にお勧めしたい。
いや、逆に「家族」なるものに全く疑いや不安を抱いていない人にもお勧めしよう。

| |

2018年8月16日 (木)

「介護する息子たち 男性性の死角とケアのジェンダー分析」

180816
著者:平山亮
勁草書房2017年

数か月間途中で放り出しておいたのをようやく読了した。
親を介護する男性の経験を通して「息子としての男性」、ひいては「男性性」そのものを考察する。さらには一時期盛んに取り上げられた「男性の生きづらさ」も批判するものである。

介護に限らず「ケア労働」(女性が多く担う)に必要な「感覚的活動」とは何か。「食事を作る」という行為にしても、冷蔵庫に残る食材や使い残しの量を勘案し購入するところから始めなければならない。さらに家族の好き嫌い、どの時間に出すか--など「状態や状況を感知すること、それを踏まえて必要な者や人々の関係について思考」しなければならず、ただ料理することだけではないのだ。
夫が妻の家事手伝いをしようとしたが感謝されない、というような事案はこの「感覚的活動」を意識していないからだろう。それは不可視なもので認識されていないのだ。

実際には、男性性は家庭という私的領域ではこのような不可視の関係調整作業を女性にゆだねて依存しており、決して自立・自律してはいない。そして、著者は公的領域だけにおいて理想化され、依存のない男性像を「自立と自律のフィクション」と呼ぶ。
このような性別分業の元では妻は夫の稼得に頼る。そして妻の生殺与奪は夫が握ることとなる。

ここで注目すべきは「だからこそ、妻自身の就労機会や稼得能力は(中略)何よりも「生の基盤」として必要なのである。そして就労機会や稼得能力が構造的に制限されることは、個人としての生存そのものを困難にさせられること」という件りである。
まさにこれこそ、つい先日発覚した東京医大の入試で行われた不正ではないか!生存そのものの困難!「女はすぐ辞めるからなー、仕方ない」どころではない。

もちろんこれは一般論であり、当てはまらない男女は様々に存在するのは当然である。

かように色々と示唆に富む内容であった。(読むのに時間かかっちゃったけど) 興味のある方はご一読ください。

関連して、こちらのツイートでもハッ(゜o゜)と思った。「女性は誰かを愛するのがノルマ」というのは、まさに女性が行なうケア労働の中に「愛すること」が入っているのではないか。だから「男」として愛することを当然のこととして請求するのである。
そういや、確か多木浩二が書いていたな。「愛とは家庭内だけで流通する通貨である」

| | | トラックバック (0)

2015年4月 7日 (火)

「何を怖れる」

150407
フェミニズムを生きた女たち
編者:松井久子
岩波書店2015年

同名のドキュメンタリー映画のインタビューを活字化したもの。リブ創始期からフェミニズムの現在まで生きてきた12人の女性に話を聞いている。映画の方は都内で2週間ほど限定公開されたが、早朝のみだったので結局見に行けず(+o+)トホホ

フェミニズムというと鉄板のように皆が一つに固まって結束していると思い込んでいる人もいようが、実際にはそうではないことがこの本を読めば分かるだろう。
ここに登場する12人は各々独自の道を歩んできた。12人いれば12通りのフェミニズムが存在するのだった。

学生運動に疑問を抱き移ってきた人、グループの代表者もいれば裏方に徹する者もあり、学問から入って研究の道を続けた人もいれば政治や行政に関わる場合もある。障害者や慰安婦問題など近接分野から加わった人もいる。

冒頭の田中美津の語りははやはり強烈、かつ面白いね~。
読んでて驚いたのは米津知子という人。自らの脚に障害があり、1974年に上野でモナリザ展が開催された折に車椅子やベビーカーの人の観覧を排除したことに抗議して、「モナリザ」に向けてスプレーインクを噴射したというのである
予めガラスケースで保護されているのを承知でやった抗議活動なのだが、こんなことをした人がいたとはこれまで全く知らなかった。

などなど、人に歴史ありフェミニズムにも歴史あり、な事がよく分かる本だった。
彼女らが喋っている姿も拝見したいもんだが……もう映画はご近所での上映はしばらくないだろうな

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年6月 1日 (日)

「奥さまは愛国」

140601
著者:北原みのり、朴順梨
河出書房新社2014年

なぜ一見普通の女性がヘイトスピーチ・デモに参加するのか?
その実態にあえて踏み込んだルポ本である。共著になっているのは、それぞれに一人でやるのはしんどくて困難だったからという理由もあるようだ。

参加者たちへの直接インタビュー、愛国幼児教室、皇居の一般参賀、かと思えば朝鮮学校見学なんてのもある。いずれも、実際行ったり会ったりしなければ分からないものばかりだ。最近話題の人である竹田恒泰の講演会潜入記なんて驚かされることばかりだ。

そういう点ではためになった。ネットなんかでも、見ているサイトやフォーローしている人は自分と似たような考えや趣味に片寄っているので、わざわざ正反対のところを見に行ったりはしないので決して知ることはないのだ。

著者の二人は共感できない部分、あるいは逆に同感できる部分など正直に書いている。
意外にも朴順梨が割合屈託なく(少なくとも表面的には)描写しているのに対し、逆に北原みのりの方はいささか沈鬱な感情が伝わってくる。それは私も同じ気分だ。この問題を考えていると、ウツウツして暗くなってくる。ウツウツウツ(ーー;)

あえてこのテーマに挑戦した二人には感心した。。
北原みのりはフェミニストの一部(大半?)からは批判されてばかりだが、こういう仕事は評価してもいいのではないかねえ。


| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年3月29日 (土)

村岡花子訳の「赤毛のアン」の秘密

しばらく前に本屋に行ったら、村岡花子に関する本が平積みになっていた。「はて、なんで今頃村岡花子なのよ(^^?)」と思ったら、4月からのNHKの朝ドラが村岡花子を主人公にしているのだという。

それで思い出したのが、『赤毛のアン』シリーズを冷酷に解剖した小倉千加子の『「赤毛のアン」の秘密』(2004年刊)である。
その最後の章に、訳者として『アン』を紹介した村岡花子について言及がある。私はこれで初めて彼女がどういう人物なのか知った。

小倉千加子は「モンゴメリとアンと村岡花子には、共通点がある」としている。

三人とも、子どものときから空想好きで、お話が好きな少女であった。つまりは、「孤独な」少女だったのである。そして三人とも、成績は抜群で、「親」には孝行で、「国家」にも忠実であった。(中略)きちんと結婚し、母となり、妻としての務めを完璧に果たし続けた。

さらに村岡花子については、

生家では封建的な家制度の影響を受け、尋常小学校では天皇を神とする教育を受け、東洋英和女学校では欧米の良妻賢母教育を受けた。「儒・神・仏」の混交した前近代の日本人の意識の上に、絶対者として天皇とキリストを置いたが、その間に彼女はなんらの矛盾も感じなかった。

ついでにこんな指摘もある。

『赤毛のアン』のテーマは結婚であると先に指摘したが、近代結婚とは、少女に「自立」をそそのかしながら、勤勉に努力した少女が「自立」したゆえに必ず陥る疎外感と孤独感を、「ロマンチック」な恋愛を媒介にして、女性が本来ある「身分」に戻す制度である。あるいは、「結婚」は女性という集団(下位身分)アイデンティティを獲得させ、社会全体の制度秩序を温存させる制度であるといってもいい。


いやー、この頃の小倉千加子はキビシイですなあ。厳しさ全開です(^^;)
もっとも、現在の彼女が丸く(?)なり過ぎたのか。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年8月18日 (日)

「上野千鶴子〈おんな〉の思想」

130818
私たちは、あなたを忘れない
著者:上野千鶴子
集英社インターナショナル2013年

20世紀のフェミニズム思想を象徴するような著作と著者を紹介するというもの。第一部では日本編で5人、第二部は海外篇で6人を取り上げている。

日本編では森崎和江、田中美津などを、単なる紹介というより上野千鶴子自身の個人的な体験や回想と共に語っていて、やや感傷的とも感じられる部分もある。サブタイトルの「私たちは、あなたを忘れない」はこちらの方のふさわしいものだろう。

その中で興味深かったのは石牟礼道子の章だ。私もまた『苦界浄土』を聞き書きのノンフィクションだとてっきり思い込んでいたのだが、それは違った(!o!) 「聞き書き」と思われる部分は、水俣病患者に憑依した「口寄せのいたこ」のようになって、どこにもない言葉を語っていたというのである。正直ヤラレタ~である。
そして石牟礼の高群逸枝への傾倒から、両者に共通する資質を浮かび上がらせるのであった。
そういうことであったのかと、目からウロコがポトリと落ちた印象である。

第二部はフーコー、セジウィック、バトラーなど。こちらは「解題編」とでもいうべきものか。ジェンダー、オリエンタリズム、ホモソーシャル……転回点となる概念と著作を紹介する。
あとがきに「本書を読んだだけで、原書を読んだつもりにならないでほしい」とあるが、かつてセジウィックの『男同士の絆』の邦訳が出た時に、平積みになっていたこの本を手に取って開き、30秒後に「こりゃ、ダメだ(@_@;)」と逃走した私には、到底無理のようである。
しかし、フェミニズムの思想とはなんなのよな初心者にもオススメできるのではないかと思った。

最近の上野千鶴子はツイッターで何か一言つぶやけば、非難轟々というのを繰り返しているようだ(もっとも、ご本人はその非難を全く見てないとか)。だが、その非難をした人々の他の意見を見ると結局彼女と同じような発言をしている。一体なんなのだ(?_?)

この本の中にも「フェミニズム業界」なんて言葉が無造作に書かれているではないか。これが古式ゆかしい紙メディアでよかったネ(^_^)b ツイッターの発言だったら「いつからフェミニズムは業界になったのだ。フェミニズム業界なんてことを口走る人間は他に何をしてようと絶対信じない!」などと言われたに違いないだろう。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年7月15日 (月)

「醤油と薔薇の日々」

130715a
著者:小倉千加子
いそっぷ社2013年

小倉千加子は時折、話題の書(『セックス神話解体神話』とか『松田聖子論』とか『結婚の条件』)を出してはその間、「あの人今どうなってるの?」的に消息をくらますというパターンを繰り返しているように思える。良い意味でも悪い意味でも常に話題を提供する上野千鶴子とは大違いである。

やはりここしばらく音沙汰がなかったのだけど、エッセイ集が本屋に並んでいた。
冒頭は安田成美の醤油のCMの話題から始まる。「はて、そんなCMあったかいな?」と疑問に感じて後ろの初出を見ると1993年に書かれたものだった。

収録されているのは1993年から94年に「ちくま」誌に、2005年から08年に東京新聞に連載した短いエッセイである。過激な内容はほとんどない。
むしろ著者が年取って来たせいか、しみじみというか人生指南というか晦渋というかそんな印象の文章が多い。(『結婚の才能』もそんな感じだった)

「高年期の課題」という老人問題についての文章に至っては、私の頭の老化現象のせいか何度読んでも何が言いたいのかハッキリとは分からない。ムムム(-_-;)

とはいえ
「感情の百面相を持つ妻は夫の生命の源泉となる。経済と感情の見事な社会交換が、そこにはある」
「フェルメールの作品の中でとりわけ「牛乳を注ぐ女」が好まれるのは、自分の「身分」を受け入れ、「黙々と家事をする女性」が渇仰される気分が存在するからである」
「入学式や卒業式といった「学校の儀式」は親にとって必要なのである。運動会や音楽会は「学校の祭り」である。(中略)学校が持つ強い磁場作用は、まるで既成の宗教が衰退していくのを補完するかのような勢いで、強い磁場を提供している」
--などと鋭い指摘もある。

で、今小倉千加子は何をやっているのだろう? 「執筆・講演活動」ってあるけど、ご隠居生活なのかしらん


| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年10月29日 (月)

「堺市立図書館BL小説廃棄要求事件を振り返る」

講師:上野千鶴子、寺町みどり
会場:日比谷図書文化館コンベンションホール
2012年10月14日

会場は元都立図書館の地下ホール。150人定員だったが、参加申し込みは100人強だったようだ。見回すと若い人が多い。推測だが、図書館の若手職員とマンガ・同人系の表現の自由問題に関わっている人が多かったもよう。

冒頭、上野千鶴子は「4年も経っているのにこの問題について講演を頼まれたのはこれが初めて」と言っていた。講演依頼で一番多いテーマは「おひとりさま」で、理由は「無難だから」だそうだ。

タイトルになっている事件は、2008年匿名市民が市立図書館にBL本への苦情電話をかけたことにより、約5500冊の図書が書架から撤去され、さらに除籍されそうになったというもの。理由は「子どもに悪い」「過激な描写」など。最初、ネットの掲示板にこの話が投稿されたがどこの市の話か分からなかったという。

堺市だと判明してから情報公開請求をし状況を把握してから、住民監査請求を行った。これによって初めて事件が公になった。上野千鶴子がその代表者で、寺町みどりが実質な作業を担当したらしい。

問題なのは
*抗議は実際には一人の匿名市民と一人の議員によるものだった。特定の書名もあげられてない。
*図書館側の初期対応に問題があった。(他所の図書館にも幾つか同じことをしたらしいが、門前払いされた)その後も隠蔽に走った。
*実質的にBLでない本も入っている。表紙や特定の作家の作品全部とか、適当に選んだのではないか。
*背後にホモフォビアが存在する。
*図書館側は何をされているか認識しておらず、自発的に大量の本を集めて排除しようとしていた。司書は自分は被害者だと考えていた。「それでは一体誰が本を守るんですか?」と尋ねたら愕然としていた。
*その前に女性センターの資料室からジェンダー系の資料が排除されるという似たような事件があり、その時は著者たちが連帯したが、BL系ではそういうことは起こらなかった。また「非実在青少年」系もBLには熱心ではない。

基本としては、図書館にはあらかじめ「資料収集方針」と「資料除籍基準」があるのに、そのような圧力で簡単に特定図書を排除するのは市民の権利と財産を損なうということである。

図書館には様々な図書が存在するのが当然であり、自分と正反対の考えのものがあってもよい。上野千鶴子によると「図書館に『新しい歴史教科書』が入ってるのはOK。だって自分の金で買うのはヤダもん」だそうである(^O^;)

背後には一連のジェンダー系図書の排除運動と同じような動きがあったようである。(某宗教団体の影も……
彼らはそれまでの市民運動の手法を学んで使っているが、対抗するこちらも同じように相手のやり口を研究しているとのこと。
住民請求というのは、請願や陳情よりも効果があるそうだ。ただ、公立図書館が指定管理になってしまうと情報公開請求できなくなってしまうという。


などなど質疑応答も含めて3時間近く続き、色々と聞きごたえあった。ただ、会場で熱心な意見が飛び交ったかというとそういうわけでもなかったのが、この問題の難しさを表わしていたのかも知れない。

エロい小説なぞこの世にゴマンとあれど、なぜか「BL小説」というと微妙な雰囲気になってしまうのは困ったもん。そういう意識も変えないとなあ……とも思ったのであった。

注-私個人の記憶による省略や間違いがあるので完全な記録ではありません。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年12月11日 (日)

『上野先生、勝手に死なれちゃ困ります』刊行記念トークイベント上野千鶴子×古市憲寿「私が生きた時代 キミが生きる時代」

111211
会場:池袋コミュニティ・カレッジ
2011年12月1日
*内容は省略したり記憶違いの所があったりするので、そこんとこご留意下せえ。

今、売出し中&人気沸騰中の若手社会学者の古市憲寿が上野千鶴子とタッグを組んで出した『上野先生、勝手に死なれちゃ困ります』(光文社新書)の刊行記念として、二人でトークイベントをやった。

登場した上野千鶴子は風邪を引いてるらしく、紺にベージュのドット柄というマスク(そんなマスクあるんか)をしていた。一方、26歳東大院生の古市憲寿は外見も喋り方も今どきのフツーの若者風であった。

冒頭は、少し前に紀伊国屋ホールで行なわれた同様のトークイベントで古市クンが「どーしたらいいんでしょうねえ」を連発したために、質疑応答の最後に中高年の女性から「東大の学費には税金が投入されているのに、あんたみたいなのに使われるのはもったいない。税金返せ!」と爆弾発言があった--というエピソードから始まった。ということで、この日は「どーしたらいいんでしょうねえ」は使用禁止となった。

そして、遂に出た~~ッ「現代思想 上野千鶴子特集」がまるで「追悼集」みたいで、本当に死んだらもっと悪口を書かれまくるに違いないけど、死んじゃったらその悪口を読めないから残念とか、一方、古市君の新刊『絶望の国の幸福な若者たち』のオビの小熊英二からの推薦文がエラそうな上から目線だとか、上野女史がフリーターを自称しようとしたら政府の統計ではフリーターは35歳までで、じゃあわたしゃ一体何なんだ--という調子で話が続いた。

他には世代論、格差論、幸福観そして女と若者は共闘できるはずなのだがとか、大阪のダブル選挙の結果は若者のリセット願望かなどの話題が出た。

全体的には上野女史の鋭いツッコミを古市クンがフニャフニャとかわす、みたいな印象であったが、残念ながら風邪のせいでいつもの芸術的なツッコミが見られなかったのが残念であ~る。

私は最初古市クンの頼りなさげな話を聞いていて、紀伊国屋ホールで怒った人がいたというのも頷けると思っていたのだが、質疑応答コーナーの最初の人が「甘えて猛獣を馴らしている」と指摘したのを聞いて、「なるほど、そうだったのか」と納得してしまった。「甘え」で上野千鶴子を馴らすとは悪賢いのう
上野女史は発言者の指摘を誉めつつ「あたしゃ猛獣か。しかしその手が使えるのは30歳までだからね」と釘を刺したのであった。

会場を見ると客は若い人(特に男性)が多く、どうやら古市クンの実物がどんなもんか確認しに来た人も多かったもよう。彼はネットでの発言も積極的にしているらしく、ブログやツイッターでの発言に関しての質問が結構あった。
どころか、古市政治家待望論みたいのまでネットには出現しているらしいのには驚き。彼は今どきの若いモンのヒーローだったのか(!o!)

トークは色々と興味深く笑えて、上野千鶴子が終盤で語っていたように質問者のレベルも高く、千円分の元は充分に取れた内容だった。
それにしても、この日のタイトルの「私が生きた時代」を見ながら、彼女が「私も過去の人間なのねえ」とぼやいていたのが印象的であった。


さて、肝心の『上野先生、勝手に死なれちゃ困ります』であるが、サブタイトルに「僕らの介護不安に答えてください」とあるように、団塊世代を親に持つ古市クンがいつか迫りくる「親の介護」問題について教えを乞うという内容である。当然、若者世代を中心に読まれることを念頭にしているのだろう。
介護保険の詳しい内容といった具体的な問題から、弱者同士(女、若者、高齢者など)が争うことなく共闘して、泥船に共に乗ったままにぶくぶく沈んでいかない方法を模索するのである。

読んでてオッ(・o・)と思ったのは、年金はそもそも昔の子どもから親への仕送りの代わりであるという上野千鶴子の指摘。なるほど、だから下の世代が上を支えるようになっているわけね。私も就職して独立してからは親に仕送りしたことはありませぬ。こりゃ年金のおかげだわい。
それにしても弱者同士が共闘する時代が来るのであろうか。やっぱり、古市クンに期待するしかないのかニャ>^_^< ちと頼りないけど。


| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月10日 (月)

トークイベント 島崎今日子×上野千鶴子

『〈わたし〉を生きる―女たちの肖像』刊行記念
会場:池袋コミュニティ・カレッジ
2011年10月6日

女性12人のインタビュー集を出したライター島崎今日子(サキの字は環境依存文字なので変えております)と上野千鶴子のトーク・セッション……というより、普段インタビューする側とされる側を今回は逆転だーという企画である(本の12人の中には上野千鶴子も入っている)。

という訳で、上野女史が島崎今日子にインタビューでうまい話の引き出し方、対象の選び方など秘策などあれこれ聞き出そうとするのであった。従って、会場にはフェミニズム系というより編集・出版側も多かったようで。

彼女のインタビューは「アエラ」に載ったのは大体読んでいる(と思う)。萩尾望都の回は母親との関係を追及、ドトーのような気迫をを感じたものだ。
取材相手としては、天才・エリートよりも、規格外で家族の援助がないような状況で才能を発揮してきた女たちに惹かれるという。
ちなみに、インタビューを熱望する相手はオノ・ヨーコ、川久保玲、オリアナ・ファラチだそうだ。オリアナファラチ……何十年ぶり(マジに)に耳にした名前だ。昔、吉田ルイ子の本で知って以来だろう。

驚いたのは、佐野洋子にインタビューした時のエピソード。普通、記事にする場合は周囲の家族や友人にも取材するのだが、息子に取材していいかと打診した途端に記事自体が中止になってしまったそうな。恐ろしい(>y<;)母と子の桎梏話である。

また、大阪から東京に移ってきてライターとの力が低いのに驚いたという。なぜなら、一極集中の東京では何でも揃っていて編集者などがホイホイ準備してくれるから。大阪ではすべて一人でやらなければならない。
それに、大阪人は何事にもうるさくて文句をつけてくるので、東京みたいに甘くはないのだという。
しかし、それなら元・都民としてひとこと言わせてもらえば、なんで知事を東京も大阪も似たようなのを選ぶかねー。ワシは納得できんぞ<(`^´)>


時折窓の外から音楽やゴーッという音が聞こえてきて、何事かと思ったら維新派が野外劇のリハーサルをやってたそうな。

*注―内容は要約していて、またこちらの間違いなどもあるので必ずしも正確ではありません。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)