演劇

2020年9月18日 (金)

ナショナル・シアター・ライブ「夏の夜の夢」:ブランコに乗ってさかさまに

200918 作:ウィリアム・シェイクスピア
演出:ニコラス・ハイトナー
主演:オリヴァー・クリス、グェンドリン・クリスティー
上演劇場:ブリッジ・シアター

恐らく『夏の夜の夢』は、シェイクスピア作品の中でこれまで一番見ているものではないかと思う。実演もそうだが、映画化作品や舞台収録を含めるとさらに回数が増える。
だから、もうこれ以上見なくてもいいかなと迷っていたのだが、以前に斬新な『ジュリアス・シーザー』をやったN・ハイトナー演出で、使っている劇場も同じということで見に行った。

まさに行って正解✨ これまでの中でこんな涙流すほど大笑いしたナツユメはなかったと断言しよう。

冒頭に堅苦しい修道服やスーツを着たアテネ市民が現れ、列をなして聖歌を歌いながら行進する。ここではアテネは父権主義的な統制国家であり、人々の様子は『侍女の物語』を想起させるものとなっている。
そこでの若者たちへの意に添わぬ結婚の命令は、家父長制度の抑圧に他ならない(ように見える)。

さらに意表をついてきたのは、森に舞台が移ってから。なんと妖精の王オベロンと妃ティターニアを役割交替しているのである(!o!)
つまりパックを使役して惚れ薬を塗らせるのはティターニアの方で、職人ボトムを熱愛するのはオーベロン……(>O<)ウギャーッ 一緒に嬉しそうに泡だらけのバスタブ入っちゃったりして、王様としての沽券は丸つぶれ状態なのだ。これは抱腹絶倒。
一方、ティターニアは『ゲーム・オブ・スローンズ』でも活躍したグウェンドリン・クリスティーなので威厳あり過ぎだ。

今回も客のいるフロアが上下してどんどん変形するステージになっている。立ち見の観客は森の住人&アテネ市民としてすべてを目撃だ。客のノリもよい。
加えて、妖精たちは空中ブランコに乗って人々の頭上を飛び回ってさらに盛り上げる。パック役の俳優は猛特訓したと語っていた。

「夏夢」というと、これまでどうも終盤の職人たちの素人芝居の部分の存在が腑に落ちなかった。さんざん二組のカップルがバカ騒ぎをした後に重ねて、あの間の抜けた芝居を見せられるのはなぜか(^^?
紹介のあらすじ文を幾つか読んでみたけど、どれもこの部分はカットして書いている。あってもなくても意味なくない?と思うのは仕方ないだろう💦

過去に見たジュリー・テイモア版の「夏夢」ではシロートの芝居にも胸打たれる瞬間があった--という解釈だった。
こちらではアテネ公の硬直した父権主義を揺るがすきっかけになる、というもので重要な位置を占めている(芝居自体はあっさりしているが)。
果たしてシェイクスピアの意図は不明だが、これを見て初めて職人たちの芝居の存在意義が分かったような気がした。単なるドタバタじゃないのよ。

というわけで大いに楽しめたナツユメだった。大満足である(^^)

 

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2020年6月11日 (木)

【回顧レビュー】ロマンチカ「奇跡御殿」

200521t 平常が戻るまで昔の公演を振り返る。演劇編。

会場:シードホール
1991年9月

ロマンチカは当時女性だけの劇団だった。これはジャン・ジュネの複数作品を構成し、5人の女優が浮浪者の少年たちを演じたものだ。
「女が演じるんじゃジュネは喜ぶまい」という人もいたが、果たしてどうか。
役者も美術も脚本も完璧。汚濁と崇高--その先鋭的な美意識が空間に充満し、見ている間ジワーンと恍惚感が頭の中に反復しているようであった。

冒頭とラストに全く同じ場面が繰り返し演じられるのだが、同じはずなのに二度目になった時には全く意味が異なって見える、という手法も衝撃的だった。
渋谷の街を興奮して帰っていったのを今でも覚えている。

こう書いてきて思い出すのは、踊るように素早く動く彼女たちの身体の動きと裸足の足がひらめく様である。そして舞台に響く微かな足音。
振り返って考えてみると、この足音こそナマの舞台にしか存在しないものではないか。

映画やTVには舞台同様の笑いや涙や叫びやため息も音楽もなんでもある。しかし、ナマの役者が舞台上で動いて立てる音が床板に反響し、さらに会場へ僅かなエコーと共に伝わっていく、あの感覚は存在しない。

演劇に限らず「舞台」というものにはそれがある。そして他のメディアでは決して生じないのだ。もしあったとしてもただのノイズとされるだろう。あれこそがライヴというものの存在の証明であるように思える。

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2020年5月25日 (月)

【回顧レビュー】東京グランギニョル「ワルプルギス」

200505t 平常が戻るまで昔の公演を振り返る。今回はコンサートではなく芝居を紹介。

会場:大塚ジェルスホール
1986年10月

かつての情報誌「シティロード」(古い!)の星取表にこの劇団の前作(『ライチ光クラブ』)が取り上げられ、どの評者も絶賛状態だった。
それを読むとどうにも見に行きたくてたまらなくなり、芝居など全く縁がない人間だったが突撃したのだった。
小劇場については当然何も知らなかった。開場よりも前に行って整理番号貰って並んで待ち、中は椅子もない階段状の狭い所でギュウギュウに押し込められて身動きもできなかった。推定乗車率200%ぐらいだろう(^◇^)

主宰者の飴屋法水は作・演出・音楽・出演。他に嶋田久作、越美晴など、美術は三上晴子。
近未来風の廃墟都市に吸血鬼と若者が暴走徘徊するようなストーリーと記憶している。
錆びついた鉄のオブジェに覆われた舞台、耳を聾するインダストリアル・ノイズ、長々と続く吸血儀式、さらに飛びまくる血糊にもビックリの連続だった。

事前の想像を遥かに超えるもので、それは「名演」でも「名作」でもなく、例えば名優がシェイクスピアを演じるという次元とは全く異なっていた。
ただ作り手と観る側の熱気だけでかろうじて成立しているようで、私は「この世界にこんなものが存在するのか!」と腰が抜けるほどの衝撃を受けた。

これ以降、小劇場に頻繁に通うようになった。といっても田舎に住んでいたので最大記録週三回ぐらい(平日の仕事帰りである)。若い頃だからできたことだろう。
もっとも当時は私だけでなく知人友人も多く小劇場にハマっていた。今は昔である。

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2020年2月21日 (金)

糸あやつり人形一糸座「おんにょろ盛衰記」:毒をもって毒を制しても毒は残る

200221 作:木下順二
演出:川口典成
会場:座・高円寺
2020年2月5日~9日

結城座で45年前に上演した木下順二の民話劇を再演。当時、結城一糸が出演していたそうだ。
「おんにょろ」はどうしようもない乱暴者で村に時々現れては酒やら食物やら金品を脅し取る。さらに村人は元々「とらおおかみ」(虎と狼ではなくて合体した謎の怪物?)の出現に困っている。ある日おんにょろをたきつけて、怪物と戦わせてうまく行けば両者とも共倒れになるのでは……と思いつくのだった。

思いついたはいいけれど、いざとなると腰が引けて逃走してしまう村人たち。その後も思い付きが暴走して不条理な展開となる。ラストではおんにょろは加害者なのか犠牲なのかも定かではない。
これは民衆というものののずるさ(必死の知恵ともいえる)によるのだろうか、それとも神話の根源的な暴力性によるものか。

それを表現するのは役者と人形に加えて女義太夫、歌舞伎囃子、さらに怪物の乱闘場面では京劇が登場する(そもそもこの話の元ネタは京劇とのこと)。まことに文化のミクスチャーで躍動感とエネルギーにあふれていた。
木下順二などという「夕鶴」ぐらいしか知らないので、認識を改めた。

私が見た回はアフタートークがあって、45年前の演出家の人が登場した。木下順二の弟子で90歳だという。楽屋でバレンタイン・チョコをもらったそうで「90になるともう誰もチョコをくれない」と言って笑わせた。身近にいたせいか、却って木下順二については忌憚なくキビシイ回想をしていた。(「『おんにょろ』は木下の唯一の成功作」とか(;^_^A)
当時は緒形拳がおんにょろ役だったそうで、そうすると今回の丸山厚人とはかなりタイプが異なる。朝倉摂が美術・衣装など豪華なメンツだったようだ。初演は1957年で、老女役を山本安英がやったとのこと。
この作品はオイディプス神話をふまえていて、村の立札は神託を表しているそうな。そういえば「3」の数字にこだわるところも神話的だなと思った。


足の悪い高齢のお客さんがいて、段差が多い会場を大変苦労して座席まで歩いていた。会場はチラシに「祝・10周年」と書いてあるからそんな古くないのにバリアフリーには程遠い造りだ。
音楽ホールだともっとストレスなく行ける所が多いから、やはりこれは想定対象年齢のせいか(クラシックの方が年寄りが多い💥)。

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2020年2月16日 (日)

「死の教室」:冥土からの宿題

200216 監督:アンジェイ・ワイダ
ポーランド1976年

東京都写真美術館のポーランド映画祭で上映。演劇史上有名なタデウシュ・カントルの作品を、ワイダが上演時に映像として記録したものである。カントルの芝居は日本でも過去に上演されたことがあるらしいが、全く見たことがないので、そもそもどんなものなのかと知りたくて行った。

地下蔵みたいな狭苦しい空間に観客が続々と入ってくる。若者が多い。
教室を模したステージに木製の机が並び、客は教室の横面から眺めることになる。しかしカメラは舞台の端に据えられていて、「生徒たち」の顔を正面から撮る。舞台の段差がないので時折客の顔も映るのだった。

「生徒」はみな大人の死者であり学校の制服を着ていても中高年の男女だ。子ども時代の自分を表す人形を抱えたりしょったりしている。なぜか窓枠を持った女教師もいる。
ワルツに乗って立ったり座ったり、号令で一斉に教室を出入りし、突飛な動作を行なう。質問されて答えるという授業もどきもあるが、一貫して台詞は全く意味を持たず、様々な言語が中途半端に混ざる。
結局のところ、死者たちが子ども時代を懐かしんでひたすら授業を模したバカ騒ぎを続けるだけに見える。シュールで不条理でデタラメ、理解はできないが退屈ではない。

謎なのは、素のままのカントール自身が同じ舞台上にいて、何やらキューを出したりしている。本人が言うには音楽を流す合図をしているだけというのだが、何も死者メイクをした役者たちに混ざってウロウロする必要はないだろう。
見ようによっては、この教室の担任、あるいは神のような存在として支配し動かしているようにも思える。

背景をよく知らずに鑑賞したのだが、大騒ぎする死者たちに深い沈鬱と抑圧を感じた。いくら生きている頃の真似をしても生者に戻れるわけではない。号令と音楽に合わせて動くしかないのだ。
この芝居を実演で見たらどう感じるだろうか。また、演技力のない役者がやったらどうなるか? そもそもこのような役柄に対しての演技力とは何なのか(メソッド演技ではできないだろう)などムクムクと疑問がわきあがり考えてしまった。

一行が地下蔵を飛び出して外を歩き回る場面が数回挿入されている。これはワイダのアイデアらしい。彼も舞台演出をしているせいもあるだろうが、撮影時カントルと衝突したとか。

とりあえず、普段見られないような珍しいものを見させて貰いました(^^)

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2019年12月29日 (日)

やなぎみわ展「神話機械」&ライブパフォーマンス「MM」

191229 会場:神奈川県民ホールギャラリー
2019年10月20日~12月1日

やなぎみわは昔、写真を中心に活動していた頃は東京で展覧会があって何回か見ることができた。その後、関西に拠点を構えて演劇やパフォーマンスをやるようになってからは縁がなくなってしまった。
神奈川芸術劇場でも上演したことがあったのだが、気付いた時には終わっていた。今回は、事前に展覧会があると知って行くことが出来たのである。
期間の終わりの二日間だけライブでパフォーマンスをやるということで、埼玉から何回も行くのは面倒なので、両方同じ日に見ることにした。ライブのチケットで展覧会にも入れるのだ。

展覧会は大型写真作品と巨大演劇空間「神話機械」、演劇作品4本のアーカイブからなる。
写真の方は2000年代初めのものが中心。女の子が童話の登場人物や自分が老婆になった時を創造してその姿に扮する。(過去の感想
中に映像作品で、少女と老婆が互いに寝かしつけようと格闘するのが笑えた。最後には童話風のセットそのものが崩壊していく。

「次の階を探して」は架空のエレベーターガールたちを美しいが無機的な空間に配置した、初期のシリーズの一つ。1996年作品で今となっては懐かしい。赤いハイヒールの革作品は初めて見たけど #KuToo の先取りかも。

広いスペースを使った「神話機械」は最近の作品。動きがプログラムされたマシンが4台あって、空間の中を動き回って無人のパフォーマンスを行う。これは時間を決めて日に3回稼働していた。
痙攣してのたうつような動きをするだけのものもあれば、ベルトコンベア上のドクロを壁に向かって投擲するマシンもある(当然ドッカンと大きな音がする)。と思えばセリフを語って移動するものもあった。
動いてない時は巨大インスタレーションとして見ることができる。

また演劇アーカイブ・コーナーでは過去の作品4作が資料と映像でたどれるようになっていた。東京ローズを題材にした「ゼロ・アワー」が面白そう。中上健次の原作による「日輪の翼」はトレーラーで移動し各地で上演したらしい。横浜に来た時に見たかった。

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さて、二日間のみのライブ・パフォーマンスはギャラリー閉館後に行われた。
「神話機械」のスペースでトランスジェンダーの役者とマシンが共演するというもので、「ハムレット」とハイナー・ミュラーのテキストを使用。音楽も奏者は観客からは見えないが即興でその場で付けているとのことだった。
一時間ぐらいの長さで、シェークスピアやギリシャ神話の登場人物が交錯する。ミュラーの作品を知らないと難解な部分を感じた。
役者の身体と言葉が神話と権威に絶えず疑問と異議を唱える。床でのたうったり拍手喝采したりドクロを壁に投げつけたりする機械は、その良き助演者というところだろうか。

終了後は、やなぎみわとハイナー・ミュラーの翻訳者、神奈川県立近代美術館の館長のアフタートークがあった。各地を回るうちに内容は変化しているとのこと。劇場ではなく美術館という開放的なスペースでやることに意味がある、などという話もあった。

埼玉からはさすがに遠くてトークを聞いて帰ったら11時過ぎていた。おまけに寒い日だったし{{ (>_<) }}ツカレター
最初の方にも書いたが、最近は関西中心の活動なので情報を得にくい。今回この展覧会を知ったのはたまたま見た「神奈川芸術プレス」というPR誌に紹介記事が載っていたからである。
表紙が来年の二月末に神奈川でヘンデルのオペラ『シッラ』をやるファビオ・ビオンディで、インタビューも入っている。これを読むために貰ったら、その次のページがやなぎみわ展の記事だった。そうでなかったらこの展覧会が開催されたこと自体も知らなかったろう。
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2019年3月16日 (土)

ナショナル・シアター・ライヴ鑑賞記

190316 最近、行ってみたNTLの感想をまとめて書く。
芝居の収録というと昔のNHKの「劇場中継」みたいのを思い浮かべるが、昨今は進化していて、中には映画もどきのカメラワークのものもある。収録を前提にして演出した部分もあるんじゃないか(その上演時だけ?)と思ったりして。
実際の観劇では、役者の顔をアップで見たり、座席とは異なる位置から見ることは出来ないのだから、果たしてそれでよいのか。これも良し悪しだろう。

*「ジュリアス・シーザー」 観客参加型(?)演劇で、フロアで立ち見の客がローマ市民となりシーザーに旗を振ったり、ブルータスの演説に拍手したりする。(立ち見が疲れる人は見下ろす形の二階席がちゃんとある)
美術や衣装の設定は現代の都市になっていて、カフェで噂話のように交わされる密談、大統領を想起させるシーザー--市民「注視」の下に繰り広げられる暗殺と権力争奪戦は今まさに行われているようにスリリングである。

元は男性である人物が何人か女性が演じていて意外に感じたが、今はこういう方式が多いとのこと。確かにそうでもしないとこの芝居はほとんど男優しか出番がない。

進行に従ってステージがせりあがったり沈んだりして形がどんどん変わっていくので、スタッフが常に観客の「交通整理」をしていてご苦労さんだ。
こういうスタイルの舞台ならカメラが中に入って動いて中継するので、鑑賞に有効だろう。

冒頭ではロックバントが数曲演奏して(やや古めの曲のカバー)客を煽る。そのバンドも役者で脇役を演じていたので驚いた。皆さん達者である。
しかし冒頭がそれなら、ラストにはラップで高々と勝利宣言でも一発やって欲しかったところだった。

 

*「イェルマ」 原作はスペインの詩人ロルカの戯曲だとのこと。第二次大戦前に子どもが出来ない妻を主人公にした作品というのなら、家父長制的な家庭の中で苦しむ話だと想像するのだが(実際に封建的な農村という設定らしい)、この上演は翻案ということで現代のキャリアウーマンになっている。

巨大な水槽のようなガラス板に囲まれたスペースがあって、観客はそれを四方から取り囲むように座っている。最初はどこから人物が出入りしているのかと不思議だった。そこにいる客は当然、自分の座っている側からしか見られないので、舞台上の全てを見ることは不可能である。(役者が背を向けてたら表情や仕草も分からん)
やはりこういう場合は映像で見ると有利である。

設定を現代にしたはいいが、そうするとなぜ主人公がそこまでして自分の血を引いた子どもを欲しがるのか不明である。養子でもダメだと断言する。最初はちょっと際どいカップルもの海外ドラマみたいなノリだったのが、見ていて段々苦しくなってくる。
人工授精を繰り返しても失敗が続き、夫を怒鳴って喚き散らし暴れる彼女は、まるで理解不能な怪物である。最後までそんな調子で、芝居の作り手の意識の方を疑ってきたくなる。
そういや、音楽や効果音もなんだかホラーっぽい。 主役は女優賞取るのにふさわしい熱演とは思うが、水吐いたりして騒ぐのが果たして名演技なのかと疑問に思ってしまった。

演出家がこの脚本の方も担当したらしい。かつて私が段々と芝居を見なくなってしまったのは、小賢しい演出家兼脚本家が過激さを気取って先端的だと勘違いしているのにウンザリしたからだが、それを思い出させるものだった。

*「フォリーズ」 ミュージカルほとんど見ない人間だが面白そうなので行ってみた。
取壊しが決まった古い劇場で、レヴュー・ダンサー達の同窓会が開かれて30年ぶりに顔を揃える。
中心となるのは二人の元ダンサーとその夫たち。彼らは過去に四角関係(?)みたいないきさつがあって、未だに未練が残っているのだ。その未練は同時に失われた時代への哀惜と郷愁に重なるのだが。
その過去のいきさつが4人の若い役者たちによって、「今」の4人と絡むように演じられる。

さらに今回の上演での演出らしいのだが、それ以外のダンサーたちの過去の美しい分身が付きまとうように現れる(もちろんセリフはない)。
廃墟のように崩れかけた劇場のセットの合間に、華やかな衣装を着けた踊り子が幽霊のようにスーッと現れては、奥に見え隠れし佇む。曲もダンスも往年のミュージカルへのオマージュのようで過去と現在が幻の如く行き交う。

中心の二人の片方をイメルダ・スタウントンが演じている。彼女は「メアリーの総て」での優秀なメアリーに対するクレアのようなポジションで、ダンサーとしては大したことなく、ちょっと滑稽な印象を与える人物だと設定されていると思える。
だが恐るべし怪女優(注-褒め言葉である)、彼女はなんと若い自分役の女優さんよりも遥かに可愛く魅力的に見えてしまうのだった。

と、色々と面白いミュージカルだったのだが、撮影では複数のカメラを移動させたりクレーンを使って高い所から見下ろしたりする。おかげで折角の回り舞台の威力が半減してしまった。目の前で装置が回って変化していくのが見てて面白いのに、一緒にカメラが回っていったんじゃしょうがない。
あと、役者中心に映すので背後の無言のダンサーたちがほとんど画面に入っていないのも残念無念であった。
映画と舞台のいいとこ取りのはずが、どっちつかずになってしまった例と言えよう。

 

*「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」 1962年初上演。映画ではエリザベス・テイラーとリチャード・バートンが夫婦共演して賞を多数獲得した。いずれにしろタイトルのみ知っていて初めて見る。

中年大学教授とその妻、かつては出世コースを目指していたはずが挫折して、今では二人は何かあれば罵倒をぶつけ合っている。そんな深夜に新任の若い教授夫妻が訪れる。
ということで、4人の言葉のレスリングが開始。押しては引き、引いては投げ飛ばし隙を見せたら付け込まれると容赦ない。互いに傷つけあっても気にしない。
そういや、「イェルマ」の演出家がやりたかったのはこれの再現かしらんと思ってしまった。舞台美術の担当者は教授宅の絨毯をリングに例えていたのだが、「イェルマ」の巨大ガラス水槽もリングのようだったなあ。
でも、こんな悪態合戦は一つ作品があれば十分のような……

4人とも夜通しずっと酒を飲み続けている設定で、当然役者たちは酒に似せた飲料を飲んでいるのだろうけど、トイレ行きたくならないのかしらん(?_?)としょうもない疑問を抱いた。
それぞれ少しずつ退場する場面があるのはトイレ休憩用かな、とか(^^ゞ

難点はキャスティング。イメルダ・スタウントンとC・ヒル(「ゲーム・オブ・スローンズ」のハゲの人髪の毛あるので全く気付かなかった)の夫婦が挫折したインテリというより、なんとなく野暮というか田舎っぽい感じなことだ(フィルマークスでもそう評している人がいた)。
若夫婦の夫はエリート臭ふんぷんで鼻持ちならない自信家な設定だと思うが、「ボブ猫」の人なんで頼りない青二才風だし、妻は「地味な若妻」というより典型的「派手なブロンド・ヘアで中身は空っぽの娘」に見えた。

まあ、役者が変わっても一度見たら二度目はもう結構(ーー;)と言いたくなる芝居だった。

 

 

 

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2018年11月23日 (金)

「「演劇の街」をつくった男 本多一夫と下北沢」

181123
本多一夫、徳永京子著
ぴあ2018年

あの本多劇場など8つも劇場を下北沢に作った人物の聞き書き。まさに小劇場時代から現在に至る演劇史の一端を覗き見る気分である。
映画俳優を目指すも失敗→飲食業界で大儲け→劇場作りへ情熱を傾ける、という波乱ありまくりな半生に驚く。
本多劇場については、演劇の劇場と音楽ホールは音響が全く違うということが書いてあって、大いに頷けた。どっちつかずは音楽と演劇双方から困るのよ~。

しかし、巻末の役者たち(錚々たるメンバー)のインタビューにちょこっと名前が出てくる酒井裕子というスタッフの人が、かなり重要な役割を担っていたのではないかとうかがえるのだが、その人への取材はない。

あと個人的には、インタビューに登場している人たちが、古田新太を除いてあまり見ていないのが我ながら意外だった。これでも一時期は週に3回芝居見てたりしたんだけどね……。
確かに下北だけであの時代の演劇が回っていたわけではない。私がよく見ていた劇団は下北をベースにしていたのではなかったのだろう。
何も知らずにこの本だけ読むと、劇団はみんな下北を目指していて運動の中心体みたいな印象を受けてしまうかも知れない。
それと夢の遊眠社は当時絶大な人気があったが(今も人気あるけど)、私はああいうタイプの芝居が全くダメで、受け付けない体質だった。そういう個人的な事情もある。

一方で、当時あった他のホールが結構なくなってしまったという話にハッと思った。シアター・トップス、青山劇場・円形劇場などなど--やはり継続しているというのは大変なことである。同時に自治体による公立ホールが増えてきて状況の変化があるという。

下北沢にはもう何年も行っていない。あそこで一番行ったのは多分ザ・スズナリだろう。また行くことがあるだろうか。


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2018年10月10日 (水)

「ROMEO&JULIETS ロミオとジュリエットたち」:五重人格、ならぬ五倍人格

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演出振付:金森穣
出演:Noism1+SPAC
会場:彩の国さいたま芸術劇場大ホール
2018年9月14日(金)~16日(日)

どうもダンスの公演は苦手なのである。見ていると「ダンサーのこの動きの意味はなんなのだ?」なぞと考え始めてしまい、目の前のステージに集中できない。音楽を聞いている時はそんなことにならないのだから、多分受容しているのが右脳と左脳(どっちがどうなのか忘れた)、部位が異なるのであろう。

しかし、この公演はSPACも出ていて「劇的舞踏」と銘打たれているのだから、きっと演劇の成分も多いのだろうと考えて、行ってみることにした。
ノイズムと金森穣については「えーと新潟のりゅーとぴあの……」ぐらいの知識しかなかった。完全シロートですいません(@_@;)

さらに知らなかったのは、今回の作品がシェイクスピアの戯曲というよりプロコフィエフのバレエを元にしているということ。当然、使用する音楽もこちらから取っている。バレエの世界にも疎いので、オリジナルの存在自体初めて知ったのだった。

そんなシロートの感想である。
背景の設定は病院で、登場人物は患者か看護師・医者であり、同時に「ロミオとジュリエット」の役と重なっている。役者は芝居のセリフを喋るが、ダンサーが割り当てられている役は当然セリフはない(字幕が出ることもある)。

ロミオを演じているのはSPACの役者で、車椅子に乗っている患者という設定なので、行動には制限がある(多くは看護「婦」に押してもらっている)。逆に話すことについては能弁--というより、話すことしかできない。ほとんどの場面で彼は行動面からは傍観者である。
唯一、ティボルトを殺す場面は例外だが、それも混乱に巻き込まれウロウロしているうちに成り行きでヤッチマッタ(>_<)ような印象である。

対するにジュリエットは、タイトルが「ジュリエットたち」となっているように、なんと5人の女性ダンサーによって踊られる 彼女はロミオとは逆に、喋ることができず手話で意志を周囲に伝えるしかない。
その言語として発せられない若い感情は爆発するように身体の動きとなって、舞台中に噴出し吹き荒れる。しかも5倍のパワーをもってだ。これは強烈である。

一方で、両親に対しては結婚を勝手に決められても反論する言葉を持たず沈黙し、ただ不満そうな様子を見せて立ち尽くすのが精いっぱいな14歳の小娘なのである。その対比が痛々しい。

ジュリエットに仮死の薬を渡す神父は病院の医者であり、しかも身体が半分機械のマッドドクターっぽい。
看護「婦」役は3人いて--これが昔のモロに「看護婦」といういでたちなので、あえてこう書くのだが--2人は役者が演じており、それぞれ胸と尻にパッドを入れてありえないほど戯画的に強調している。
対称的にもう一人は女性ダンサーで、セリフはなく機械のような動作を見せて、どうやらロボットらしいのだ。このダンサーが実にスラリとしていて美しく動きも鋭くかつ佇まいは優雅で、思わず見入ってしまった。とても私と同じ人間とは思えねえ~(>O<) 後で配役表見たら看板ダンサーの人なのね。納得です。

若者二人の悲劇は芝居の通りに進行するが、さらにその後、外郭の「病院」でも悲劇的結末が付け加えられる。
これを解釈するなら、こうなるだろうか。
言葉に障害を持つ少女と車椅子の若者が患者同士で恋に落ちる。これまで若者の最も傍らにいた看護ロボットは彼に恋していたが、それをただ眺めるしかない。若者が少女の後を追うように亡くなった時、ロボットもまた自らの存在の範疇を超えて死へと向かう。

しかし、言語でこのように語ってもあまり意味はない。--というぐらいに感情を揺さぶり視覚的インパクトがあった。
ただ、舞台上の情報量あり過ぎで一度見ただけではとても「見た」とは言い切れない状態である。
私は彩芸の大ホールはよく知らなくて(音楽ホールはよく行くが)H列の座席を取ったらなんと前から4列目であった。これでは全体を俯瞰できない。ステージ上だけでなく、奥の方にスクリーンがあって、セリフの字幕が出たり、4分割画面で観客からは見えない部分が映し出されたりして、そちらも見なくてはならなかったのに。もっと後ろの席にすればよかったと後悔した。

ところで、シェイクスピア作品で舞台設定が病院というと、昨年に東京芸術劇場で見た『リチャード三世』もそうだったのを思い出した(周囲の壁が崩れる所も似ている)。
シェイクスピアには病院がよく似合う……のか

以下は余談。「大公」はスクリーン上に単純な黒いアイコンと共に字幕のセリフが出るだけなのだが、なんか「悪の帝王」みたいで笑ってしまった(^◇^)
ジュリエットの母親が「私がお前の歳には、お前を産んだのですよ」と娘に言う場面があって、「ということは母親はまだ28歳……」と感想を書いてた人がいた。しかし、その後でアレサ・フランクリンは12歳で子どもを産んだというのを知って、ビックリして腰を抜かしそうになった。

私が見たのは金曜日の公演だった。最初は他に予定もなかったので平日でいいやと思ってチケットを買った。だが、その後から昼間に初台でのコンサートが入ってしまい、新宿経由で与野まで急いで移動するはめに。
夕方の新宿駅のホームは電車が20分遅れとかで、人があふれていて通勤客と観光客でごった返し、前にも後ろにも進むこともできぬ阿鼻叫喚の騒ぎ 通勤で使う人は毎日こんななのか。ご苦労様です_(_^_)_
これじゃ、さいたま劇場へ平日夕方に都心から行くのは大変だとヒシと感じた。

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2017年12月 3日 (日)

東京芸術劇場でシェイクスピア劇二題

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ほとんど映画と古楽ネタを書くだけで精一杯な当ブログであるが(それもかなり遅れ気味)、芝居もたま~に観に行っているのだ。ただ、結局感想書く暇がなくてそのままになっている。今回は頑張って書いてみる。


「リチャード三世」
演出:シルヴィウ・プルカレーテ
出演:佐々木蔵之介

この芝居をナマで見たのは多分初めて。以前、イアン・マッケラン主演の映画は見たことはあった。
……と思っていたら、なんと劇団新感線がやったのを見ていた(!o!) すっかり忘れておったよ 自分の書いた感想読み直して、あまり出来が良くなかったのを思い出した。

今回の舞台の背景は何やら昔の精神病院のような、収容所のような陰鬱たる灰色の壁に囲まれている(血痕もついてる)。手術台は拷問室もイメージさせる。テーブルがストレッチャーだったり、王座が車椅子になったりする。
演出家がルーマニア出身ということで、過去の独裁政権下の抑圧を重ね合わせているらしい。
まことに陰々滅滅と芝居は進行する。主人公のリチャードは陰謀の限りを尽くして王位の座に着くという筋書きのはずだが、政争や謀略というよりホラー劇を見せられているようだ。
結末では、悪人リチャードに観客がいささかの哀れを感じるはずだ。しかし、この演出では最初から最後まで全く共感できるところはない。なんだか陰惨なお化け屋敷を覗いた気分になった。

面白かったのは、亡霊たちがリチャードの前に出現する場面。カラオケ大会みたいにそれぞれ歌を歌って過去の悪行を責める。役者の皆さん、ここぞとばかり美声と罵声を発揮。
それから主人公がバッキンガム公とやたらとブッチュリとキスを繰り返す。同性愛関係にあると示しているのだろうか。そうではないという意見もあるらしいが、味方でも他の奴とはしないのだからやはりそうとしか思えん。

「ほぼオールメールの日本人キャスト」であったが、その効果があったのかはよく分からない。「ほぼ」というのは代書人の役だけ渡辺美佐子がやっているのだが、その意図も不明である。
まあ、この抗争劇を男同士のド突き合いとして見なせば納得いかなくもない。

個人的には手塚とおるのアン夫人がどんなもんかと期待していたが、出番が少なくて残念だった
とはいえ、最初から最後までほとんど出ずっぱりの佐々木蔵之介を見ていると、長時間あれだけの人数の視線をステージの中心で一身に浴び続けるのはよほどタフでないとできそうにないなと思った。それ自体が快感の人もいるだろうけど。

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「オセロー」
演出:イヴォ・ヴァン・ホーヴェ
出演:トネールグループ・アムステルダム
2017年11月3日~5日

こちらはオランダの劇団によるオランダ語上演。日本語字幕付き。演出家は欧米で引っ張りだこの人とのこと。

この演出では「ムーア人」のオセローを白人が演じている。見た目が変わらないことによって、さらに差別がハッキリする--ということはあまり感じなくて、むしろ「軍隊」という狭い世界や「男女」の差というものが浮上してくるようだった。

先日の『オセロー』ではないが、男たちはかなり過剰に親密ぶりをイチャイチャと見せつける。主要人物はみな軍服を着ているので同質性が強調される。しかもやたらとその服を脱いで抱き合うのだ。

デズデモーナはそんな中で細っこくて華奢で小柄な女優さんがやっているため、対比が甚だしい。しかも衣装が避暑地の有閑マダムみたいなんである(余り趣味よくない)。
この夫婦の家は完全ガラス張りの巨大な箱になっていて、連想されるのは鳥カゴだ。確かに、彼女は小鳥のようにきれいな声で鳴いて、それを愛でられても、誰もその言葉の意味を聞こうとはしない。

前半のイアーゴーがオセローを騙そうと嘘を吹き込む場面はかなり単調で、会場を眠気虫が跳梁していたようだ。ツイッターでも「前半眠かった」という意見を幾つか見かけた。
後半になると、舞台の真ん中に位置していた巨大ガラス箱が前方にせり出してきた。この中でデズデモーナ殺しが行なわれるわけで、なんだか犯罪現場を直に覗き込んでいるような気分でドキドキする ワイドショーの再現ドラマか。まあ、モロに夫婦の寝室ですからなあ……(・.・;)

それに応えるように(?)殺人の場は2人とも下着一枚のみ--どころか、本来は全裸で演じるそうなのだ(!o!) しかし日本では「自粛」となったらしい。
ここでは、オセローは軍の認識票を首から下げたままで、その音がシャラシャラと客席に聞こえてくる。全裸で認識票だけ身に着けて妻を殺す、となればかなり衝撃度は増すだろう。オリジナル通りでないのは残念だった。そういや、デズデモーナの「全裸」死体演技もかなりなものであった。

ラストでは主人公が再び軍服をきちんと着こんでから自害し、その「大義」への忠誠ぶりが強調される。

後で、原作戯曲を確認してみたらかなりセリフが削ってあって、脇の人物も数人消えている。そのため、オセローが自分のセリフではないのを喋っていたりした。
このような仕掛けにも関わらず、全体的な印象はかなりオーソドックスな芝居というものであった。
座席の背後の方からずっと鼻をすする音が聞こえていて、風邪をひいてるのかと思ったら、泣いているのだと分かった。泣く この演出で(@_@;)泣けるか?
だが、泣いたという人は結構いたらしい。

それだったら、むしろ誇張された人情劇として演じるべき芝居ではないだろうか。今思えば、新感線の「港町純情オセロ」みたいなのが一番ふさわしいのかも。
それと、劇中で使われている「柳の唄」を野々下由香里の歌で聞いた時に号泣ものだったのを思い出した。今回の公演では、デズデモーナが歌詞を朗読しただけだったが。

私は初日に見たが、この日だけ演出家がカーテンコールに登場した。来日して12時間ぐらいしか滞在しなかったそうだ。それほど多忙な人らしい。


さて、シェイクスピアの時代、一般市民は平土間で立って観ていたって本当か? どの作品もオリジナルに忠実に演じれば4時間はザラになりそうである。倒れそう~


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