演劇

2017年6月25日 (日)

アンダーウッド大統領を見たくてトニー賞授賞式を覗いてみた

今年のトニー賞の授賞式の司会はケヴィン・スペイシーだった(過去に演劇部門で受賞経験あり)。その中で、彼が主演しているTVシリーズ『ハウス・オブ・カード』のアンダーウッド大統領に扮して登場している画像をネットで見かけて、にわかに興味を持った。
そこでWOWOWで放映された字幕版を録画してみたのだった。

トニー賞、過去にTVでチョロチョロと眺めたことはあるが、ちゃんと見たことはない。というのも、映画ならば知らない作品でも間もなく公開されるか、未公開になってもソフトが出る可能性がある。しかし、芝居やミュージカルとなるとオリジナルキャストで見たいなら海の向こうへ飛ばなければならない。どうしても関心が薄くなってしまうのであった。

だが、授賞式をこうして見てみるとショーとしては完全にアカデミー賞より遥かに面白い。なにせ話題のミュージカルの最高に盛り上がる場面を、セットも込みでそのまま再現してくれるのだから当然といやあ当然である。
印象に残ったのは、ライバルである化粧会社の二人の女社長を描いた『ウォー・ペイント』、ベテラン女優二人の熱唱impactがド迫力であった。

さて、ケヴィン・スペイシーはダンスを披露したり、中盤に名司会者のジョニー・カースンに扮して物真似をしたが、終わり近くなってビル・クリントンとして登場。
結果的に最多受賞作となった『ディア・エヴァン・ハンセン』で、主役を張って飛ぶ鳥落とす勢いの人気者ベン・プラット(もちろん主演男優賞獲得)に「タイム誌の表紙を4度(3度かな?)も飾っておめでとう」と祝したはいいが、その後で「おかげでヒラリーが表紙になり損ねた(-"-)」とベンを恫喝しビビらせ、ズブズブと座席の下に沈ませたのであった。

で、ようやく最後の最後に作品賞の受賞結果を渡す役としてアンダーウッド大統領が登場。しかも夫人役のロビン・ライトに補佐官ダグ役のマイケル・ケリーも引き連れて、という豪華な面子だ。
しかし、その時のジョークはその前の主演女優賞で『ハロー・ドーリー!』のベット・ミドラーが長々と持ち時間をはるかに超えてon、スピーチを喋りまくったことをネタにクサしただけであった。

私の想像だが、本当は大統領ネタで(トランプを引っかけて)ちゃんと笑いを取るつもりだったのではないか。だって、そうじゃなかったらロビン・ライトとM・ケリーの二人が何も喋らずただ出てきただけ、というのはあまりにもったいなさ過ぎである。
それなのに、ミドラーのスピーチが長過ぎてご破算punch--ということになったのかも。あくまでも推測だが(?_?)

全体的には面白かったが、やはり3時間以上というのは(どの授賞式も同じだが)長くて、通して見るのは難しいのであった。(アカデミー賞も見終われない私である)

それにしてもB・ミドラー71歳fuji スゴイね(@_@;)


『ハウス・オブ・カード』は現在第4シリーズがイマジカで放送中。私はてっきり第4で終了したのかと思っていたら第5シリーズを米国でやると聞いてビックリである。終わり方が少し唐突で、登場人物の「人員整理」もあり、これで終わってもいい状態だったのだ。(ダグの問題が放りっぱなしだったが)
あと、『ボードウォーク・エンパイア』の最終シーズンが明らかに途中打ち切りだった(1回の放送分で主要人物が二人も死んでしまう)せいもあるだろう。

さらに、トランプ大統領がまるでアンダーウッドの行為をまねたようにしか思えないことを実際に幾つも行っていて、「こんなヤツが現実に出てきてしまっては、ドラマじゃもうこれ以上のことは出来まい」と感じたのだが……。

というわけで、アンダーウッド大統領にはトランプ以上の「暴挙」を期待したい。

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2016年5月 5日 (木)

「夏の夜の夢」:多文化主義的夏夢

原作:ウィリアム・シェイクスピア
舞台演出:ジュリー・テイモア
出演:キャスリン・ハンター
米国2014年

ジュリー・テイモア演出というと、過去にヘレン・ミレン主演の『テンペスト』を見たことがあるが、こちらは舞台をそのまま収録したものである(観客もいる)。
とはいっても、複数のカメラを使って客席からは見えないアップや位置の映像も見られるようになっている。

昨年はSPACがらみで2回も「夏夢」を見たので、長尺だし正直もういいかという気分だったが、キャスリン・ハンターがパックを演じるsign03これは絶対見なくては(!o!)と行ったのだった。彼女はピーター・ブルックの『驚愕の谷』という芝居に出演していた。芝居の内容自体は面白いものではなかったが、その強い個性に驚いたもんである。で、彼女がシェイクスピア芝居をやっているなら、どうしても見たいと思ったのだ。

舞台装置は大きな布を使って役者を持ち上げたり、波を立てたり様々に見せる。その動きがとても幻想的だ。
森の妖精たちは子どもが中心で演じている。白塗りで、オーストラリアの先住民を連想させた。役者の年齢は全体的にかなり若い。また、主要人物の数名はアフリカ系が演じている。

ハンターは非常に小柄だが手足が長くて人間離れしている。傍から見ると年齢も性別も不詳である。実年齢を考えると信じられないほどの身体の柔らかさだ。まことにパックにふさわしい。

4人の恋人たちは最後になぜか下着姿でプロレスを始めてしまう。それまで彼らを邪魔したりからかったりしていた妖精たちは、ここぞとばかりに容赦なくはやしたて、脇からガンガン枕を投げつける。おバカな人間ども(^◇^)もっとやれ~ってなもんだ。

さんざんドタバタしていた恋人たちではあるが一件落着した後は、今度は職人芝居を同様にからかい半分で眺める。職人たちは変なキャラクターを発揮する役者ばかりで、これまたさすがである。
作り物のロバ頭の口が動くのには笑った。空気仕掛けで動かしているらしい。

やはりK・ハンターは一見の価値はあった。超・怪優と言っていいだろう。

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2015年12月28日 (月)

ヘンリー・パーセル「妖精の女王」:古楽の女王は留袖で三々九度

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北とぴあ国際音楽祭
原作:ウィリアム・シェイクスピア
演出:宮城聡
指揮:寺神戸亮
出演:レ・ボレアード&SPAC
2015年12月11&13日

今年度、最大の期待はこの公演であ~る。事前にSPAC単独の『真夏の夜の夢』まで見に行っちゃったりして(*^^)v ただし、こちらは野田秀樹が潤色したヴァージョンだったけど。

今回はさすがに原作に沿って演じるんだろうなあと思ってたが、新聞紙を使った舞台装置や衣装はそのままだった。ただし、森は照明でモノクロではなく色彩豊かな表情を見せている。
「セミ・ステージ形式」ということで、ステージの上にオーケストラが乗り、さらにその上に高いもう一つのステージを組んでそちらが「森」となっている。

パンフの解説を読んで「『妖精の女王』の決定版というのは存在しない」というのを初めて知った。上演する度に書き換えたり追加削除したり、組み合わせたりするものなのだという。
従って、かつてBS放送でやったグラインドボーン音楽祭ヴァージョンは、シェイクスピアの戯曲を若干省略していたが、ほぼもれなく芝居部分が入っていて(従って上演時間は非常に長い)そんなものかと思って見てた。しかし、そういう演出をしていたわけだ。

北とぴあヴァージョンは芝居の部分は簡略化され、さらにドタバタ度が上がっているようだった。登場人物の鬱屈度が大きい野田版を見ていてた目には、演じている役者は同じでももうおマヌケ度アップup 特に男性陣はおバカとしか言いようがない言動だ。
なにせ、冒頭から寺神戸亮がいよいよ開始fujiと指揮棒をサッと振り上げた瞬間に、四人の若い恋人たちがオーケストラの前へドドーッとなだれ込んでくるのである。後は推して知るべし(^O^;)

その後、芝居の相談をする職人たちも同じく「下」に登場。「上」の森では妖精たちが楽しく遊んでいる。合間には詩人が登場する短いコントのような寸劇が挟まれる。人間たちが森へ上がって行って、騒動が起こるという次第だ。
オベロンが大木に化していたり、恋人たちが棒(樹)をよじのぼるのはSPAC版と同じである。

ここで妖精役の歌手たちもセリフを喋るのを聞いて、当然のことだけど同じ声を出すと言っても歌手と役者じゃ全然違うというのを改めて実感した。歌手は歌えばホール全体に届くような声を出せるだろうがセリフでは難しい。ソプラノの広瀬奈緒はセリフが多くてご苦労さんでしたm(__)m
一方、昨今の芝居は大劇場ではマイクを使うのが普通となっている。音楽にも演劇にも向いていない北とぴあのようなホールで、あれだけ生声を届かせられるSPAC陣はやはり役者やのうと感じたのであった。

物語が進行するにつれて段々と芝居から音楽の比重が増えてくる。
オベロンとタイテーニアの和解の後、森と人間の世界が逆転して、「上」が人間界となって婚礼の儀が行われる。
お祝いに来た女神のジュノー(波多野睦美)が、妖精パックの押す台車(荷物運びによく使われるヤツ)に乗って現れたのには笑ってしまった。しかも、帰りは自分で押して戻るとゆう……(^o^;)

ここで劇場のスタッフと何やら話していたオベロンが指揮の寺神戸亮に近寄り、「折角のエマ・カークビーさんがいらしてんだからここで一曲歌ってもらいましょうよ。お客さんも期待してますよ、ね、ねnotes」などと声をかけると、エマが登場して「嘆きの歌」を歌うのであったよ(!o!)
彼女は中盤から妖精の合唱に加わったり、ソロを歌ったりしていたが、正直なところ歳のせいか声に勢いがあまりなかった。しかし、銀色のほつれ髪に黒いショールを羽織ってヨロヨロと現われた彼女は、婚礼には全くふさわしくない暗い内容の歌を熱唱した。でもって、寺神戸氏の独奏する泣かせのヴァイオリンがこれまた嘆き節を盛り上げる。
なんでこんな暗い歌を……と思うが、嬉し楽しheart04の婚礼と対比させるように元々ここで挿入される曲なのだという。
あれ、そうだったのかsign01 すっかり忘れてました(~_~;) ともあれ、歳は取ってもやっぱりエマ・カークビー、彼女の威光が劇場をヒタヒタと満たしたのであった。

妖精だった歌手たちは一転、婚礼の招待客に。ガイジン勢は紋付き袴、日本人歌手はよくあるフォーマルドレスで登場。テノールのケヴィン・スケルトンはその格好でそこここの棒をよじ登りながら「中国人の男の歌」を歌っちゃって大したもんである。(彼はダンスも得意技とのこと)
そして、留袖姿のエマと波多野睦美が二組のカップルの盃に三々九度のお神酒を注ぐという驚きのパフォーマンスまでsign03 こりもうゃ二度と見られません(キッパリ)

かくして人間と妖精、現実とファンタジーの境が融解し、何の苦しみも悩みも屈託もない幸福な世界が出現する。数百年も前に異国で人々が楽しんだと同様に、この時も劇場の客はそのマジックを楽しんだに違いない。

寺神戸亮は途中演奏しながら、クマのお面付けたり色々と指揮の合間に芝居絡んでましたな。器楽は管楽器が迫力あった。チェンバロは上尾直毅で、今回もギター抱えて二刀流だった。
テオルボの高本一郎の椅子の横にマイクがある写真をアップしてた人がいた。録音用?それともやっぱりPAシステム使ってたのか(?_?)
NHKで収録放送してくれないかしらん。過去の北とぴあ音楽祭で色々と素晴らしいステージがあったけど、一度もそういうことはなかった。音楽祭の方針なのかdanger

歌手陣では波多野睦美が時折エマに寄り添うようにしながらもさすがの貫禄を見せていた。大山大輔というバスが、「詩人」や「結婚の神」なども演じてやたらと達者だなあと感心していたら、オペラとかミュージカルもやっている人なのね。納得です。
ダンスも見せたK・スケルトンに比べて、もう一人のガイジン組CTヒュンター・ファンデヴェンの方は冴えず。そういや出ていたなあぐらいの印象しか残らなかった。
CTと言えば、中島俊晴が大柄なオネエキャラで寸劇にも登場してキョーレツだった。

演出については、芝居部分が出しゃばらず歌手たちを引き立てるようになっていたのがよかった。演出があまりに突出してしまうと、そちらに気を取られて何を見に(聞きに)きたのか分からなくなってしまうのでね。

来年はロベルタ・マメリ参加でモーツァルトですか……。私は守備範囲外なので、1回休みsleepy
また宮城聡と組んで何かやって欲しいです。
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←照明のマジックがなくなれば、意外に素っ気ない装置だった。

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2015年12月 5日 (土)

地点×空間現代「ミステリヤ・ブッフ」:円環の狂躁

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フェスティバル/トーキョー15
作:ウラジミール・マヤコフスキー
演出:三浦基
音楽:空間現代
会場:しにすがも創造舎
2015年11月20日~28日

マヤコフスキーsign03正直言って、名前しか聞いたことありません。それでも行ってみましたよ。

彼はロシアの革命詩人で、この芝居は革命一周年記念に祝祭劇として上演されたという。しかし十数年後、彼は粛清されたらしい(これまでは自殺とされていた)。

会場は円型で、中央に穴の開いた同じく円型の台が据えられている。客席はそれをぐるっと360度取り囲んでいる。
ただし、座席の前にドラムが設置されているブロックがある。開演するとそれぞれ三角形を成すように、別の通路にベーシストとギタリストが現れて演奏し始める。

初めは6人の男女が木製の椅子を頭に乗せて登場し、絶えず円型ステージの周囲を回ったり、昇ったりしつつ、落とさないように不安定な動作をしながら、マヤコフスキーの戯曲のセリフ(多分)を喋る。
しかし、そのセリフは妙な抑揚で引き延ばされたり区切られたりしてるので、全く別の意味にも聞こえる。何回か繰り返し聞かされてようやく意味が分かった時には、悲しいかな中高年の記憶力減退ゆえ、その前の文脈を忘れてしまい、結局何を語っていたのか分からなくなっているのだった。
さらに間歇的にバンドがガンガンガンimpactと大きな音で奏でると、円型の台の電球がピカピカflairと輝き、その間セリフを中断してみな一斉に哄笑するので、ますます分からなくなる。加えて、誰かを指弾しているのか時折「ゴルァ~」という罵声も入るのだった。

何が何だか分からんですよ(^^?)
恐らく元のテキストは完全に分解されて散乱しているようなので、明確なストーリーは存在するのかどうかさえ不明。
「箱舟を作って」とか「アララト山」とか聞こえてくるので、多分ノアよろしくどこかへ行こうとしているようだとしか分からない。

そのうち、椅子を一人で幾つも担いで歩く者があれば、マイクで怒鳴るものあり。スモークが噴き出してたステージ中央の穴の上に、椅子を置いて演説ぶったり--。
やがてどこかの地へたどり着いたらしい。と、そこで天へ上っていく者あり。しかし今度は降りられなくなってしまう。

グルグル走り回る者が出現すると、遂には全員で走り回る。そのうちに客席との間にあった柵上のものが取り払われて、ステージとの境界が消失する。
6人はグルグル回りながら、観客の鼻先で激しく取っ組み合いを始めるのだった。回る狂騒状態だ。

狂騒が止んでハッと気付いた時には中央の円形台の上に、椅子と柵で完璧なオブジェが作られていたのだった。終了……(・o・)
あれだけ激しく動きながら不安定な(ように見える)形のオブジェを作ってしまうとはすごい。見ていて茫然である。
その前日に見た『地上に広がる大空』に比べたら--いや、比べようもなく洗練された空間造形だ。目が回る~(@_@;)
完全に芝居の一部と化してとして演奏していたバンドにも感心した。

何が何だか把握できないうちに終わってしまい、その後は芝居脳どころか脳ミソ全体がグジャグジャと撹拌された気分だった。
やはり難解である。家族連れで来てた小学生と、別の中年男性は最前列で眠気虫にとっつかまって沈没していた。
セリフが脈絡なく分解されている芝居を見るのは、個人的にはつらいのうng
この地点という劇団はどの戯曲も、こんな風に解体して演じるんだよね。だとしたら、もう二度と見ることはないだろうなあ。刺激的ではあったけど……(ーー;)


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2015年11月29日 (日)

「地上に広がる大空 ウェンディ・シンドローム」:ワニ、ワルツ、ワイセツ……

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フェスティバル/トーキョー15
作・演出・美術・衣装:アンジェリカ・リデル
会場:東京芸術劇場 プレイハウス
2015年11月21日~23日

『真夏の夜の夢』のアフタートークで、司会役のディレクターが「素晴らしいんだけど、チケットが売れてない」とボヤいていた「スペインのダンサー」というのが、このアンジェリカ・リデルらしい(多分)。
確かに上演予定時間2時間40分(休憩なしimpact)となれば躊躇する人がいても仕方ない。とはいえ、私が行った日は2・3階は人がいなかったが、1階はほぼ埋まっていたようだ。

開場前にプレトークがあったのを、私は開始に間に合わなくて途中から聞いた。戯曲の訳者が喋ってて、かなり「過激」である、というのをしきりに強調していた。いわゆる四文字系の言葉もたくさんあって、どの程度まで訳していいのか悩んだと言っていた。
しかも、アドリブの部分もあって、リデルの興が乗ると時間が伸びるのだという。ちなみに前日は10分長くなったそうな(2時間50分かdanger)。
また、パリで連続テロが起こった時はちょうど当地で新作上演中で、それが中止になってしまい、ショックを受けたらしいという話もあった。

一体、訳者が言ってた「過激」とはどんなことなのか(?_?)--開演するとすぐにそれは明らかになった。
少女のようなヒラヒラの白いドレスを着たリデルが一人で現れ、鼻歌を歌ったかと思うと「ウェンディ(「ピーター・パン」の)はどこ?」と何回も叫び、子どもみたいにスキップする、というのを繰り返す。と、そのうちになんと尻を丸出しにして延々とマ○スターベーションを始めたのだった(!o!)
私は後ろの方だったのでよく分からなかったが、前方の座席では彼女が姿勢を変える度にあらゆるもの全てが丸見えfujiになったに違いない。
加えて耳を圧するような重低音のノイズの嵐が流れ、私は両耳をふさいで見てました、はい。

な、なるほど「過激」というのはこういうことか……(@_@;)と合点がいったのであったよ。

その後はあまり明確なストーリーというものはなく、彼女の随想といってもよいような幾つかのパートが連なる。
ピーター・パンへの批判パフォーマンス、ノルウェーのウトヤ島銃乱射事件への言及、背後にワーズワースの詩の授業をしている音声が何度も流れたり、京劇の女優が出てきたかと思うと、上海に行って癒された時の思い出として中国人のおじさんおばさんカップル(七十歳代とは思えぬほど若い!)が、ワルツを踊る。この時は、バックに楽団が登場して本格的。だけど何曲もやって長いのよ……。
ここのあたりで既に何人もの客が途中退場していった。(後半はもっと増えた)

その後に上演時間の約半分を占めるリデルがマイクを握っての独演会が続く。
母親を始めありとあらゆるものを罵倒。合間合間にアニマルズの『朝日のあたる家』が流れ、最後には飛び跳ねて絶叫調で歌うのであった。
母親批判の言説は数あれど、この人のほど過激で辛辣なのは他に知らない。ただ、聖母信仰の強いカトリック圏のスペインやフランスではさぞ衝撃を与えるだろうが、妊婦や子連れ母への暴力が話題になっている現在の日本ではちょっといただけない気分だ。
とはいえ、毒母に悩む人がこれを聞いたらさぞスッキリするだろう。

毒舌の対象は、善人やボランティア、身体障害者、さらにはパーティーの詰まらなさまで。しかも、それは最後には自分へとその毒矢が回ってくるという次第だ。
攻撃的なスピーチは、米国のスタンダップ・コミックのようでもある。

この毒舌パフォーマンスを見ていて思い浮かべたのは、エルフリーデ・イェリネクの『ウルリーケ メアリー スチュアート』である。こちらでは、エリザベス女王が舞台の上に一人立ち、メアリー・スチュアート(=ウルリーケ・マインホフ)のふがいなさを延々と罵倒しなじるのである。
その場面によく似ていた。ぜひともリデルにはこの芝居のエリザベス女王を演じてもらいたい。きっと華麗なる罵倒を聞かせてくれるだろう。日本の若い女優さんがやると、どうしても金切り声で叫んじゃうのでね。

さて、ラストにはまたウトヤ島の事件のエピソードが登場する。自転車に乗った若者がヒロインと会話し、やがてヨロヨロと倒れこむとその背中に血痕が付いているのだ。
これを見て、目が点(・o・)になった気分だった。な、なんだかあまりにも直裁かつ単純過ぎやしませんか? これが「虐殺」を表わしてるのかsign02
その後はまた全員が登場してフィナーレとなった。

様々な素材が投げ散らかされたこれは、まるで「歌謡ショー」みたいだなと思った。かつて人気があったベテラン歌手たちがまとまってツァーして回るというやつである。恐らく、それぞれの歌手が持ち歌を歌うコーナーがあって、トリの歌手の持ち時間は他より長くて、最後は全員で合唱という形式だろう。

パフォーマンス系だからステージ全体が見渡せるようにと、後ろの方の座席を取ったのが凶downと出たかもしれない。舞台上が暗くてさらに私はド近眼なので、大男が頭にかぶっていたのが何だったのか、結局最後まで分からなかったほどだ。(オオカミだった?)
で、遠く離れて見るとなんだか舞台空間の構成がすごい適当な印象に見えた。常に楽器が背後に見えているのもなんだかなーだし、全員登場した場面でそれぞれ動作をしているのはバラバラに見える。吊り下げられたワニも……うむむむ(=_=)

近くで見れば破壊的でも、遠くから見るとだらしないだけに思える。迫力はあるが、能がない。過激なようだが、計算されている。計算されていも、やっぱり散漫だ。
もっと小さな劇場の方が向いている作品ではないかとも思ったが、例えばスズナリみたいな所では楽団が入るまい(役者と合わせると結構大所帯)。大きめのライヴハウスならちょうどいいかも知れない。
そしたら、冒頭のオ○ニー場面は客から「いいぞ、もっとやれ」と歓声が飛び、毒舌大会ではブーイングやら賛同の野次が飛び交って面白いかも。

結論としては、なんかスゴイもんを見せてもらった気分だけど、次にA・リデルが来日しても行くことはないだろう。
それから、途中退出してしまった人がこの作品を批判しているのをネットで見たが、やはりケナすにしろ褒めるにしろ最後まで見なくちゃ何も言えないだろうと思う。
なお、アドリブは結構あった。字幕がそこだけ急に出なくなって、スペイン語が分かるごく一部の客だけ笑っていた。この日も興が乗ったらしく、予定より15分長かった。

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2015年11月20日 (金)

SPAC「真夏の夜の夢」:夏夢は、一富士、二野田、三悪魔

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フェスティバル/トーキョー15
作:ウィリアム・シェイクスピア
潤色:野田秀樹
演出:宮城聡
開場:にしすがも創造舎
2015年10月31日~11月3日

なかなか芝居を見る暇がないのだが、毎年できるだけ行ってみるようにしてるのが、フェスティバル/トーキョーである。適当に選んでるので、内容は当たるも八卦当たらぬも八卦という感じなのは致し方ない。

まず最初はSPACで『真夏の夜の夢』、いくらなんでもこれは外れということはあるまい。もっとも、野田秀樹が脚色したヴァージョンをやるというのはチケット買うまで知らなかった(^^ゞ

会場は初めて行ったが、元は小学校だったところのようだ。建物の前のグラウンド(?)に整理番号順に並ばされる。夜の回だったんでロクに照明がなくて足元が暗かった。

野田版では、老舗の割烹の跡取り娘の結婚相手をめぐって4人の男女が恋愛模様でグジャグジャtyphoonとし、富士のすそ野の森へ行くという次第。妖精王の件りは同じだが、途中で原作にない悪魔が登場して妖精パックの邪魔をする。パックになり替わって、さらに混乱を引き起こすのだった。

この悪魔の外見が、私の目にはなんだか野田秀樹に似せているように見えたのだがどうなのだろう。実際、村人ならぬ割烹の使用人たちの素人芝居を演出するのだ……。もっとも「灰皿投げる」というのは別の某演出家っぽい。
原作は能天気なバカ騒ぎだけど、こちらはダークな混乱へと導かれていく。

随所に言葉遊びやパロディが盛り込まれていた。或いは男同士で「ひとめぼれ」しちゃったりなど、爆笑場面も。終わった後に、客席から「新感線みたいだった」と感想が聞こえてきたが、確かにその一面はある。ある意味、劇団新感線はドタバタの極北だからねえ。
従って、森はドタバタの舞台となり、神秘的な印象はほとんどなかった。まあ、これは悪魔=演出家(と、「そぼろ」=劇作家)が主人公な設定だから当然だろう。
どうせだったら新感線版のこの芝居も見てみたい。過去に『マクベス』はやったことがあった。多分、悪魔軍団と妖精軍団のチャンバラは必至だろう(^o^)

舞台装置や衣装はすべて新聞紙のデザインを使用。実物を加工して使ったのか、それとも模様だけそれっぽくしたのかは不明だ。当然、すべて白黒の世界である。チラシを見ると、過去の上演ではモノクロでなく普通にカラフルなイメージなようだ。


私が見た回の後にはアフタートークがあった。ゲストは映画監督の本広克行で、宮城聡は彼の作品に2回出演しているそうだ。
宮城聡は野田秀樹と同じ中学・高校で、演劇部の先輩として「目撃」してたとのこと。夢の遊民社の芝居はすべて見たが、同じことはできないと思ったそうな。
今回も野田作品をそのままやるのは無理なので、この『真夏~』を選んだ。なんと日生劇場で上演した純粋な商業演劇で、脚本は時事ネタ以外はそのままだが、演出は変えてあるそうだ。

モノクロの世界にしたのは、メフィスト=シェイクスピア=言葉を書く人=黒。そぼろ=野田=これから書こうとする人=灰色。恋人たち=まだ言葉を書いてない人=白。
なのだそうだ。ええっ、そういう意図だったのかい(!o!)

その後、司会役のF/Tのディレクターの人から爆弾bomb発言が。
日本の演劇界はタレント芝居をやり過ぎた。反省している。タレントを使わないと3万人は動員できない。昔はピーター・ブルックで2万人入ったが、今は2千人である。
素晴らしいスペインのダンサーを呼んだけど、全然チケットが売れてない。
--などなど。
そしたら本広監督が、私こそタレントを使った映画ばかりで……などと、苦笑していた。

ところで「スペインのダンサー」というのは、F/Tでこの後出演予定のアンジェリカ・リデルのことなのかな? これも内容全く知らないでチケットを買ったのだ……5500円分の賭けだわなあ。
(アフタートークの内容については、記憶違いなど多々あるので完全な記録ではありません。念為dash


さて、この芝居に行ったのはもう一つ理由があって、12月の北とぴあ国際音楽祭にて、パーセルの『妖精の女王』を上演するが、演出と役者を担当するのが宮城聡とSPACなのだsign03 その下見も兼ねてである。
『妖精の女王』だと芝居の部分はほぼシェイクスピアそのままで、音楽(&パフォーマンス)の部分は完全に分離しているのだが……。
野田版は使えないだろうからオリジナルでやるのか。新聞紙のヴィジュアルはそのまま使うのか。役者も音楽場面に乱入するのか--などなど超楽しみであるよ(@∀@)

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2015年10月17日 (土)

SPAC「室内」:死者の時間と生者の空間

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作:モーリス・メーテルリンク
演出:クロード・レジ
会場:KAAT神奈川芸術劇場
2015年10月2日~4日

ほとんど事前知識なしにチケットを買ってしまった。まあSPACだから外れはないだろう(@∀@)ぐらいの考えである。

整理番号順に並ぶ時に「静けさも演出の一つですので」のアナウンスと共に、のど飴が配られたんで驚いた。会場に入ると照明は薄暗く、案内係のおねーさんが声もなく指さし体勢で空席を指示していく。「ここ空いてますか」と聞くのもはばかれる雰囲気だ。
あまりに暗すぎて座席の列に入る時にコケる人が結構いた(段差があるので)。せめて足元は明るくしてほしいもんだ。
薄暗くてステージ上は--というか、どこからステージなのかも判然としない。

開演すると舞台がかろうじて判別できるような薄暗さになる。さらに物音がほとんどせず(客席からも)まるで無音室にいるような息苦しさを感じた。
この前日の公演では話し声やら何やらが聞こえて演出家が苦言を呈したとのことだが、この日は少なくとも喋る者は一人もいなかった。

舞台に登場する役者の動作は極めて緩慢である。暗いステージが二つに分かれ、奥の方は家の中らしい。家族は無言でゆっくりと部屋の中を行き交っている。
家の外側の庭から数人の人物が中を見ている。こちらはあまり動かず、代わりに抑揚もなくくぐもった声でゆっくりと喋る。

どうしてか、どうにも私には庭にいる者たちが死者のようにしか思えなかった。死者たちが生の世界である家の中を覗き見ている。死者の目を通しているから、生者たちの動作も緩慢に見える。家族は幸せにも不幸にも見えない。
しかし、なぜか郷愁のようなものが感じられるのは、きっと死者たちが生の世界を懐かしんでいるからだろう。そうして、彼らは死が家の中にも浸食してくるのを待っているのである。
その証拠に中央で眠っているはずの小さな子どもはピクリとも動かないではないか……。

極限まで引き延ばされたような時間と、曖昧とした空間が覆う。
というわけで、私にとっては終始、息苦しさと不安がへばりついた芝居だった。
肉体(声も含めた)の極限まで酷使したような役者さんたちはお疲れ様でしたm(__)mとしか言いようがない。もっとも、一番大変だったのは最初から最後まで身動き一つせず舞台の中央で寝ていた子役だろうsweat01

作者のメーテルリンクというと「青い鳥」ぐらいしか知らないが、こういう芝居も書いていたのね。驚きである。

チラシや解説を終演後に配布したのは賢明だった。前に配ったら絶対落としたり、ガサガサする奴がいるからな。
逆に、のど飴をわざわざ全員に配ったのはどうかと思う。芝居の途中で包み紙をむいている者が数人いた。離れててもよーく聞こえちゃう。
芝居ではそうではないだろうが、クラシック系のコンサートでは飴の包み紙問題は刃傷沙汰annoyになってもおかしくはない案件である。私もよく「なんで休憩時間じゃなくて、演奏始まってからガサガサするんだよっ(`´メ)コロス」とイライラすることがある。

この芝居を見て「芝居脳」というのが脳内に存在するのが分かった。日頃、映画を見たりコンサートを聞いた時に活動するのとはまた違った脳ミソの部分が、大いに刺激されているのが感じられたのだ。
「芝居脳」の活動が何やら異なった感覚を心身にもたらす。特にこのような作品では。
そうなると、また別の芝居を見たくなるのだが……コンサートと映画だけで手一杯でなかなかそうはいかない。残念down


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2014年11月23日 (日)

フェスティバル/トーキョー14「驚愕の谷」「羅生門|藪の中」

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昨年までのディレクターが降板して、色々と取沙汰されていたF/T。確かに発表されたプログラムを見ると、かなり色合いが異なるようだ。(本数も少ない?)
とはいえ、2本見てみることにした。しかしねえ、先行とはいえチケット発売の時点で、チラシもできてないというのは……何とかしてくだせえ(ーー;)

★「驚愕の谷」
作・演出:ピーター・ブルック、マリー=エレーヌ・エティエンヌ
会場:東京芸術劇場
2014年11月3日~6日

演劇界の生ける伝説(?)P・ブルックといやあ、過去にオペラ『魔笛』しか見たことないので、ここは一つ是非ナマで見ようと思い、内容もろくろく知らずにチケットを買った。新作だそうである。

役者は三人、簡素な舞台でそのうちの二人は上着を取り替えたり脱いだりして様々な役を演じる。
もう一人はサミーという女性で、並外れた記憶力を持つ共感覚者(であることを自覚したばかりの)という設定だ。
そこから「脳の迷宮」へ向かう--というのだが、見ててどうもこのテーマにさっぱり興味が持てなかったのである。ネットで「生ぬるい」という感想を見たが、まさにそういう印象だった。なんだか、先日の『ピーター・ブルックの世界一受けたいお稽古』みたいなワークショップを観客にやって見せてるようだ(実際、客を二人ステージにあげた)。
芝居というよりコントをやってるという感じだ。

で、結局最後まで何の感慨も抱けぬまま終了したのであった。役者三人の演技は達者なもんであったが……。もっとも理解できなかったのは私だけではないようで、周囲では眠気虫に襲撃されて沈没downしている人が少なからずいた。


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さて、サミー役のキャサリン・ハンターは極めて小柄な中年女性。野田秀樹の芝居に出たりしてたそうだ。初めて見てビックリしたのは手足が非常に長いこと(!o!) まるで蜘蛛みたい。チビで胴長の私にはうらやましい限り。足の長さ少し分けて欲しい。
同時に彼女は今話題の人でもある。なんと、つい先日発表されたB・カンバーバッチの婚約者(演出家だっけ?)の母親だというのだ。要するにシュウトメってわけですな。
とりあえず、メデタイこって(●^o^●)


★アルカサバ・シアター「羅生門|藪の中」

演出:坂田ゆかり
会場:あうるすぽっと
2014年11月5~7日

パレスチナの劇団が日本のスタッフと組んで、「羅生門」をやるというプログラム。しかし、これを見てみようと思った一番の要因は舞台美術を「目」が担当するということだった。彼らは夏に「たよりない現実、この世界の在りか」をやったのが非常に面白かったからだ。

劇団の方は過去二回F/Tで公演しているが、両方ともパレスチナをテーマにした芝居だったので、今回は日本の話をやりたかったとのこと。パレスチナの劇団となると政治的なものを期待されてしまうのは不満があるそうだ。

もっとも、彼らが当初やりたいと言っていたのは、黒澤明の映画ではなく、原作の芥川の小説でもなく、なんと50年代の米国で映画に触発されて書かれた脚本のことを指していたのだという。映画も原作も知らなかったそうだ。

「目」がステージ上に作った羅生門は、驚いたことに色が様々なビーズ(というか小さな玉)をたくさん糸でつないで、吊り下げたものである。スモークや照明によって「門」にも見えるし、「藪」にも見える。そして門に捨てられる死体(或いは土のう?)は黒い球体であった。

この禍々しさを秘めつつも洗練された透明感ある「門」は、濃くてエネルギッシュな劇団の面々と、ドロドロした物語と、ミスマッチに見えるがうまく溶け合っているようでもある。
しかし、最後に客電や照明を明るくして役者が観客に直接語りかけた理由は?……私にはよく理解できなかった。
それと、時折挟まれるダンスシーンは……(^^?)苦手です。

ただ、生者と死者、真実と嘘が境もなく立ち現われるこの物語、果たして政治的でないということがあるだろうか。「政治的ではない」というのもまた政治的な言説であるし、また日本側が自ら日本は何者にも占領されてなくて平和である、というような意味のことを言っちゃっていいのかねng

アフタートークでは演出者やディレクターと役者たちが登場。通訳を入れて色々と話が聞けた。
「目」には今後も舞台美術をやって欲しいと思った。

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2014年10月18日 (土)

結城座「オールドリフレイン」:老女の夢は夜開くのよ

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脚本・演出:渡辺えり
会場:座・高円寺2
2014年10月2~5日

380周年記念公演第2弾(第1弾はこちら)は、渡辺えりの代表作ともいえる『オールドリフレイン』(1987年初演)の再演である。
小劇場ブームの頃も劇団3○○は見た事がなかったので、この芝居も初体験だ。

孤独な老女が一人、部屋で夢を見続けて何かを待っている。彼女が眠ると、そこから老人と少年が現れ、さらに老人の若い頃へと戻っていく。
老女は夭折した尾崎翠をモデルにしているとのこと。時代を飛び越え、世界を股にかけて奇想天外なハチャメチャ話が続く。
様々なイメージや要素やらアクションやら入れ子状態になってぐるぐる回っているような状態である。それを人形たちが演じるところがまたすごい。とっかえひっかえ現われてはまた消える。
もっとも、途中で孫三郎&田中淳の兄弟が、人形を置いて前回同様取っ組み合いをするサービス場面もあった。

このようなめくるめくイメージを描きだした結城座一同のパワーは全くもって素晴らしいものだったが、一方で物語は冗長で漠然としすぎ、ダラダラしているとしか思えなかった。
まあ、これは渡辺えりの作品と、私個人の相性が悪いということなのだろう。客席全体の反応は大いにウケていた。

この日はアフタートークがあった。孫三郎と人形美術を担当した宇野亜喜良の対談である。話題はなぜか武智鉄二のことが中心で、孫三郎は若い頃彼に弟子入りしてたそうな。その武智は谷崎潤一郎の弟子だったとか、ポルノ映画を作ったのは金のためだった--などという話が出た。
また、人形と役者が初めて共演したのはエノケンの舞台だった、など。

会場で偶然仕事仲間と出会ってビックリした。しかも、座席が二つぐらいしか離れていない。どうも二人ともチケットぴあで買ったためのようだ。

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2014年9月28日 (日)

「マハーバーラタ ナラ王の冒険」:ドロナワ鑑賞とはこのことだいっ

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演出:宮城聡
会場:KAAT神奈川芸術劇場ホール
2014年9月12・13日

宮城聡が芸術監督をしているSPAC-静岡県舞台芸術センターの『マハーバーラタ』が、フランスはアヴィニョン演劇祭へ呼ばれた--というのはニュースが流れていたが、その凱旋公演を横浜でやるというのは全く知らなかった(ーー;)
知ったのはなんと5日前ぐらいである。

即座にネットでチケットが残っている日時を見てゲット(といっても、金曜の夜は行けないから13日の土曜日しかないが)したのであった。
なんたるドロナワ状態dash 古楽や映画の情報は毎週欠かさずチェックしているが、それ以外のジャンルとなると手が回らないので、こんなことになってしまう。

さて、この演目はク・ナウカ時代に見たはずなのだがほとんど覚えていない(*_*; 脳の老化かしらん。
今回は演劇祭の会場である石切り場と同じようなステージの設定となっている。
開演前に見回すと客席をぐるりと取り囲むような円形舞台が作られている。ただ、座席は傾斜があるので前の方は見上げるような形になるので大変だ。

音楽の奏者は前方のやや低まった壇上で観客に背を向けて演奏を始める。最初は電波音みたいなゆっくりとしたパーカッションで始まった音楽がやがて高まる。そしてステージにも照明が付いた時、あっと驚いた。私は初めてこのホールに来たので気付かなかったのだが、なんとステージ越しに本来の座席が見えるではないか。実はステージがある場所に客席が作られていて、石切り場の岩壁の代わりに無人の座席へ役者の影がワヤンのように投影されたのだった。

インド神話による物語は、神々に祝福されて美しい妻を得たナラ王が、妬んだ悪魔の呪いによって王国を失い、妻と離ればなれになり、長らく流浪してまた巡り合うというものである。
その間に神々やら僧侶やらヘビやら象やら虎やら様々なものが円形舞台の上を現われては消える。紙のような質感の衣装(本物の紙?)も面白い。

ラストは祝祭的で登場人物(人でないヤツも)が全て現われて踊り、紙吹雪が飛んで盛り上がり、観客も思わずウヒャー(@∀@)となった。
また、音楽がすごいパワーを持ち雄弁なのにも感心する。
奏者は10人ぐらいいるのだが途中で出たり入ったりしてて、楽器の交換でもしてるのかしらんと思ったら、なんと上の舞台に訳者として登場していたとのことだった。

クライマックスでの、妻役の美加理にも驚かされた。なにせ、嬉しさのあまり肉片咥えて脇の機材の上によじのぼり、さらに円型ステージを恐ろしい勢いで一周して走っちゃうのだ。さすがというか、すごいモン見せてもらいました(^人^)と拝みたくなったぐらい。
それと、ほとんど語りっぱなしの阿部一徳氏もご苦労さんである。

横浜まではるばる来た甲斐はあった。久々に満足であ~るfull

今ちょうど横浜トリエンナーレをやっているので、折角近くまで行くならついでに何か見ようかと思ったが、見るとなれば2時間は余計にかかるだろうから、くたびれて倒れたりするとマズイので自重。でも、アートだけを目的に横浜まで行くのもなかなか気力がわかないのであったよ。

【関連リンク】
フランス上演時『マハーバーラタ』の一部映像。音楽が脳にきますっnotes
http://t.co/PePXqlPqEa


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