演劇

2022年10月17日 (月)

「ガラスの動物園」:父親のいない半地下

221017 作:テネシー・ウィリアムズ
演出:イヴォ・ヴァン・ホーヴェ
出演:イザベル・ユペール
会場:新国立劇場
2022年9月28日~10月2日

正直に言うとテネシー・ウィリアムズって芝居を観たことないし、戯曲も読んだことがなかった。それをなぜチケット取ったか、「生ユペール」見たさとイヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出だからである。
彼の演出作は『オセロー』『じゃじゃ馬ならし』(こちらは記録映像)を見たことがある。いずれも非常に過激だった。でも『ガラスの動物園』は死人も暴力もなし、どんな演出をするのだろうかと興味大だ。
なお、公演自体はコロナ禍で二回延期になったものである。

実際にはこの作品をほとんど知識なしに見たのは失敗だった(+o+)トホ これまでの解釈や演出と今回はかなり異なっていたそうなのだが、どこがどう違ったのか分からない。さらにラストも変えていたらしい。

特に娘ローラの造形について、本来は脚が悪いからほとんど外出しない内気な少女のはずが、こちらではもろに「引きこもり」っぽく描かれている。そして脚が悪いというのは外見では明示されない(セリフのみで語られる)。
彼女は常に鬱屈して何かを内部にため込んでいるように見える。それはユペール扮する母親が全て先に喋り倒してしまい、彼女や兄に語る隙を与えないのである。
舞台上には母親が支配する立派な(かつリアルな)台所とカウンター以外にほとんど家具がなく、ローラは何か嫌なことがあると床に敷いた毛布に潜り込んでしまう。

母は自分では現実的でやり手だと自負している。しかし過去の娘時代の栄光にとらわれて夢の中をフワフワと漂っている。かつて失踪した夫が戻って来るかもという微かな望みでどこかへ行くこともできない。おもりの付いた風船🎈みたいだ。そのような閉塞感が立ちはだかる。
壁中に薄くシミのように描かれた幾つもの夫の顔(戯曲ではちゃんとした肖像写真らしい)がむしろ妄執の証のようである。

そんな状況のところへ、母からローラのためにと頼まれて兄が職場の同僚を連れてくる……。

ヴァン・ホーヴェ演出は過激ということはなく(オーソドックスでもないが)ストレートに迫ってきた印象だった。
特に照明が美しく、雨漏りの水滴を受けるために床に置いた幾つもの空き缶が、終盤になって闇の中でボヤーッと光を反射していた(放っていた?)のには驚いた。まるでランタンのようで幻想的な光景だった。

ローラが普段は壁の金庫にしまい込んでいるガラスの動物たちは、中で電球色の光を浴びて黄金に光って見える。それを階段の踊り場の空間に出すと、月光の冷たいスポット照明を浴びて銀色に輝く。
来客のために彼女が着たドレスはその時同じ月明かりを浴びて、ガラスの動物たちと同じような美しい光を放つ。しかし一歩室内に戻ると、そんな輝きは消え失せてしまうのだった。

舞台装置もかなり異色だった。幕の下りるギリギリの位置まで壁があって、アパートの部屋はそこから映画のワイドスクリーン型に奥に向かって掘り進んだような形状なのだ。下方に迫った天井も明確に作り込まれている。
玄関のドアへは階段を上って行く。外を眺められるのは中庭の窓からのようだ。
終演後に近くにいた客が「半地下だね」と指摘したのを聞いて、思わず「そうか(!o!)」ポンと手を打ってしまった。おまけに雨漏りもそれらしさを増す。どん詰まり感を的確に描き出していた。

母親はまさしく子どもを抑圧する口うるさい「毒母」である。優れたキャリアのベテラン女優ならば「毒母」を演じるのはお茶の子さいさいだろう。それをユペールはいつまでも夢を忘れられない現実離れした人物として、ひょうきんなおかしみさえ滲ませて演じていた。
ネットの感想を後で検索したら「この作品で笑う人がいるなんて信じられない💢何を考えているんだ」と怒っている人がいてビックリした。実際、そういう風にクスッと笑える部分があったと思うんだけど……???

ところで兄役のアントワーヌ・レナールという人、『ダブル・サスペクツ』こと『ルーベ、嘆きの光』の若い刑事役だったらしい。全く気付かなかった💦

最終結論としては、見られてヨカッタ(^.^)b
もう一つ失敗はオペラグラス持っていくべきだった。最近、視力が衰えが甚だしい。老化現象だわな。

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2022年8月19日 (金)

ディミトリス・パパイオアヌー「トランスヴァース・オリエンテーション」

220819 会場:彩の国さいたま芸術劇場大ホール
2022年7月28日~31日

ギリシャ出身のアーティストであるパパイオアヌー(どういうイントネーションで読んだらいいのか未だに分からず)、アテネ五輪の開閉会式の演出を手がけて一躍有名になったというのは後で知った。
それまで名前も知らなかった彼の振付・演出を担当するこのパフォーマンスを見ようと思ったのは、音楽ホールのコンサートに来た時に記録映像の上映会をやっていて、そのポスターがとても「変」だったからだ。(これとかこれですね)

さて実際見てみると……「夏だ!牛だ!全裸祭りだ、ワッショイヽ(^o^)丿」というのは半分は冗談だけど、残り半分は正しい、かも。やはりとてつもなく「変」(一部お笑いあり)だった。

そもそも見せるのがダンス・パフォーマンスではなかった⚡ 「素人には到底できないような動作」である。
現場猫に注意されそうな危険な脚立の使い方をしてドキドキしたかと思えば、金網だけで出来た簡易寝台に身体ごと二つ折りになって挟まって、そのままウロウロした挙句バタンと倒れて解放されるとか(なぜ怪我しないでいられるのかよく分からない(;^_^A)。

内容は一貫したテーマがあるとはいえ、色々なエピソードをつないだような形式を取っている。なんとなく昔TVで見たコントを思い出すところもあったりした。
ミノタウロスの伝説を元にしているようなのだが、恐ろしいほどのイメージの現出を生身のパフォーマーたちを使ってやってしまうのがすごい。
当然ながら照明や装置もハイレベルで凝りに凝っている。

ただそこに描かれているのは泰西名画のような美的構図であり、ほとんどのパフォーマーたちの均整の取れた肉体であり、完璧で隙がない。そして鑑賞する側に西洋文化のシンボルとかアレゴリーの知識がないと理解しにくい点があるように感じた。

あと個人的に失敗したのは座席の選択である。前から5列か6列目ぐらいだったか。舞台全体が視角に入らないし、床面を見ることもできない。特にラストの〈水〉の場面の展開が完全に分からなかった。私の周囲では背を伸ばして必死に見ようとしていた人多数だった。
少なくとも中央から後ろ半分の座席でないと無理だろう。まあ「全裸」をよく観察したければ別だが(^▽^;)

音楽は全てヴィヴァルディを使用--というのも個人的に注目点だったが、曲を流すというより部分的に引き延ばしてサンプリングしたような使い方だった。ある意味、ヴィヴァルディの特質に即した使用法かもしれない(と言っちゃっていいかな💀)。

かように刺激的で、言語に変換できない表現が色々とあったパパイオアヌー。しかし、それとは別の文脈で一番印象的だったのは、巨大発泡スチロールの場面である。行楽地(?)みたいな明るい浜辺で男女がキャイキャイ騒ぎながら楽し気に上に乗りながら転がしていく(これ自体、普通の人間には無理な動作)。
その後に今度はネクタイ姿のビジネスマン風の男が現れて、一人でヒイヒイ言いながら小さ目のスチロールを、やはり上に乗って舞台の端から端まで転がしていくのである(これまたシロートにはできない)。
これを延々と見せられながら、私の頭の中に思わず「社畜」という言葉が浮かんだ。つらい、つら過ぎる……(T^T)

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2021年10月29日 (金)

「戦火の馬」と「計画」なき家父長

211029 ナショナル・シアター・ライヴの『戦火の馬』(2014年)を見た。

原作はマイケル・モーパーゴの児童文学(1982年)で、過去にスピルバーグが映画化している(未見)。
舞台版では馬が3人がかりで操る巨大なパペットとして登場し、その動きと戦闘場面の大仕掛けが見ものとなっていた。

見ていて気になったのが主人公である若者の父親の存在だ。その父は自分の兄と非常に仲が悪く、馬の競売で買う予定もないのに一頭の馬を兄と競り合いを始めて、意地で最後に競り落としてしまう。そして借金を返すために持っていた大金を全て費やす。
しかもその馬は競走馬で、自分の農場では役に立たないのだ。

馬を連れて帰ると母が罵る。結局、父は息子に競走馬として調教することを押し付けてその場から去ってしまう。

馬が競走馬として立派に育った頃、父はまた自分の兄と無謀な賭けをする。競走馬なのに農耕機をつけて畑を耕すというのだ。彼は自分で馬に機具を付けようとして失敗する。そしてまたしても息子がその役目を負うのだ

やがて第一次大戦の影響が英国の田舎町にまで迫って来た時には、なんと父は勝手に馬を軍用馬として政府に売ってしまう。馬が金になったと喜んで帰宅すると、自分の分身のように思っていた息子は衝撃を受け、その年齢に達していないのに馬を追って軍に志願するのだった。

いくらなんでもいい加減すぎる父親である。しかし、どうも見ていて「こういう父親どこかにいたような(^^?」と既視感を抑えられなかった。
と、見終わってしばらくして思い出した。『ハニーランド』だっ(ポンと手を打つ)⚡

こちらはドキュメンタリーだが、女性養蜂家の隣に越してくる大家族の父親がよく似た感じなのである。
そもそもは家畜を飼っていたのだが、主人公の見よう見まねで養蜂を始める。ド素人にもかかわらず彼女に教えを乞うたりはせず、いきなりハチを自宅の庭に持ってきて子どもたち(幼児もいる)は刺され放題となり大騒動だ。
その後も強引なやり方で息子と衝突したり、主人公に迷惑かけたり、周辺のハチの生態をぶち壊したりする。

このように父親の無謀な思い付きで無計画にことを行ない、妻や子どもを巻き込んだ挙句に自分だけは無傷に終わる(しかも妻子は従い続ける)--というのが共通しているではないか。

そこでもう一つ思い出したのが『パラサイト』である。
これを見た時に今一つ分からなかったのが「計画」という言葉である。セリフに何度も登場するが、これは何を指すのだろうか? はて、文字通りの意味なのか、それとも韓国では特別な意味を持つのか。感想や批評を幾つも読んだがこの「計画」について触れたものはなかった。

『パラサイト』の父親は、先に挙げた二作品のような父権を振り回す強引な人物ではない。しかし、家族から「計画はあるの?」と聞かれれば「計画はある」と力強く頷いて見せざるを得ない。でもその後で息子にだけ「実は計画はない」ともらすのだ。
この「無計画」の結果どうなったか。やはり妻子や周囲を巻き込んで取り返しのつかない事態になる。さらにここでも父親だけは無傷なのである💢

これら三作品に共通なのは、計画を持たない父親の決定や行為がいかに家族を翻弄し混乱させて苦痛を与えるか、その弊害を描いていることだろう。
『戦火の馬』では母の「あの人も昔、家を背負って苦労した」という言葉で家族の絆に回帰する。
『ハニーランド』では家族自体が主人公と観客の目の前から突然消えてしまう。(恐らく父親はあのままだろう)
『パラサイト』となると、もはや父親が家長として復活するのはありえない事が最後に明示される。息子がそれを継ぐのも不可能だ。
「父」や「夫」の価値が称揚されることなく沈没していく。『パラサイト』はそんなシビアな社会状況を提出している。


さて、私はこれまでコロナ禍への日本政府の対策の混迷ぶりを見て「ああ『パラサイト』の〈計画がない〉というのはこういうことだったのか」としみじみ思った。
このような「無計画」の極みを成し混乱と苦痛を生んだ当事者の行く末は、果たしてどうなるのだろうか……。

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2020年12月22日 (火)

ヴァン・ホーヴェ演出作品上映会「じゃじゃ馬ならし」:悲劇の如き君なりき

201222 会場:東京芸術劇場
2020年11月6日~8日

本来は演出家イヴォ・ヴァン・ホーヴェが自らの劇団と共に来日して『ローマ悲劇』を上演するはずだったそうな。だがコロナのため公演中止。代わりに過去作品の記録映像を3作上映することになった。
私はその中でシェイクスピアの喜劇『じゃじゃ馬ならし』を見た。彼の演出作品は以前に『オセロー』の来日公演に行ったことがある。

思い返すと『じゃじゃ馬ならし』はどうも過去に戯曲を読んだこともなく舞台も見たことがないのに気づいて、事前にあらすじチェックして行った。情けない次第である。
上映時間は2時間弱なので、オリジナルの上演をかなりカットしてあったようだ。冒頭の部分は恐らく数十分飛ばしている。

この喜劇の問題は、現代の基準からすると絵に描いたような「男尊女卑」である。なので今上演する場合にはヒロインは実は夫を騙してうまく操っているという解釈でやるのと、フェミニズム的な立場から批判するという2つのパターンがあるらしい。
ヴァン・ホーヴェの演出は完全に後者だった。もうこれは喜劇ではないというぐらい。

なんたる過激で暴力的(18禁場面もあるし)なことか! 舞台の上は嵐🌀が常に吹き荒れていた。
妹ビアンカは美人・清純・貞淑なはずなのだが、ここでは男たちと遊ぶ「あばずれ」状態という設定。もはやスカートの体をなしていない超ミニスカート姿で誘惑しまくる。
姉のカタリーナは常に妹と比較されては認められず精神が不安定、ガラス張りの部屋の中で妹が男とキャッキャッ💕と騒いでいる横でイライラして暴れ憎悪する。
まさに姉妹相克。これが彼女が「じゃじゃ馬」である真相らしい。
父親というと、娘たちの結婚で利益を得ようと狙うのみである。

さらに姉妹に群がる男たちは隙あらばドタバタと互いにマウント合戦。救いがたい状況だ。
夫がカタリーナを「調教」する場面は明らかにDVであり、見ていると気分が悪くなる。彼はいきなり彼女に別の名をつけるが、そもそも異なる名前で呼ぶこと自体が虐待ではないか。
また彼女へ攻撃の刃を向ける前に、彼が使用人や服屋に執拗なイチャモンをつけてパワハラを見せつける。これもDVの典型だろう。
いかに暴れ者のじゃじゃ馬でも、この時代は親が決めた結婚なら従うしかない。それらは「愛」の名のもとにかき消されるのだ。

ラストのカタリーナの長台詞はカメラがアップで撮っていた。でも、ここは引きの画面で見たかった。しかしそうすると彼女の「涙」が見えなくなってしまうし、演出の意図も分からなくなる。ただ、明らかに観客の大半が見えないものを映像ではアップで見せるのはどうなのかね。

あとやたらと飲食物を吐き散らすのは勘弁してくれ~💥 こういう演出を他にも見かけるけど苦手。特にピザを吐き戻す場面は……(=_=)
でも、これを毎晩演じる役者はタフとしか言いようがない。

このイヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出の『じゃじゃ馬ならし』、2009年に静岡で上演したようである。実演で見たらすごい衝撃だったろうな。

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2020年9月18日 (金)

ナショナル・シアター・ライブ「夏の夜の夢」:ブランコに乗ってさかさまに

200918 作:ウィリアム・シェイクスピア
演出:ニコラス・ハイトナー
主演:オリヴァー・クリス、グェンドリン・クリスティー
上演劇場:ブリッジ・シアター

恐らく『夏の夜の夢』は、シェイクスピア作品の中でこれまで一番見ているものではないかと思う。実演もそうだが、映画化作品や舞台収録を含めるとさらに回数が増える。
だから、もうこれ以上見なくてもいいかなと迷っていたのだが、以前に斬新な『ジュリアス・シーザー』をやったN・ハイトナー演出で、使っている劇場も同じということで見に行った。

まさに行って正解✨ これまでの中でこんな涙流すほど大笑いしたナツユメはなかったと断言しよう。

冒頭に堅苦しい修道服やスーツを着たアテネ市民が現れ、列をなして聖歌を歌いながら行進する。ここではアテネは父権主義的な統制国家であり、人々の様子は『侍女の物語』を想起させるものとなっている。
そこでの若者たちへの意に添わぬ結婚の命令は、家父長制度の抑圧に他ならない(ように見える)。

さらに意表をついてきたのは、森に舞台が移ってから。なんと妖精の王オベロンと妃ティターニアを役割交替しているのである(!o!)
つまりパックを使役して惚れ薬を塗らせるのはティターニアの方で、職人ボトムを熱愛するのはオーベロン……(>O<)ウギャーッ 一緒に嬉しそうに泡だらけのバスタブ入っちゃったりして、王様としての沽券は丸つぶれ状態なのだ。これは抱腹絶倒。
一方、ティターニアは『ゲーム・オブ・スローンズ』でも活躍したグウェンドリン・クリスティーなので威厳あり過ぎだ。

今回も客のいるフロアが上下してどんどん変形するステージになっている。立ち見の観客は森の住人&アテネ市民としてすべてを目撃だ。客のノリもよい。
加えて、妖精たちは空中ブランコに乗って人々の頭上を飛び回ってさらに盛り上げる。パック役の俳優は猛特訓したと語っていた。

「夏夢」というと、これまでどうも終盤の職人たちの素人芝居の部分の存在が腑に落ちなかった。さんざん二組のカップルがバカ騒ぎをした後に重ねて、あの間の抜けた芝居を見せられるのはなぜか(^^?
紹介のあらすじ文を幾つか読んでみたけど、どれもこの部分はカットして書いている。あってもなくても意味なくない?と思うのは仕方ないだろう💦

過去に見たジュリー・テイモア版の「夏夢」ではシロートの芝居にも胸打たれる瞬間があった--という解釈だった。
こちらではアテネ公の硬直した父権主義を揺るがすきっかけになる、というもので重要な位置を占めている(芝居自体はあっさりしているが)。
果たしてシェイクスピアの意図は不明だが、これを見て初めて職人たちの芝居の存在意義が分かったような気がした。単なるドタバタじゃないのよ。

というわけで大いに楽しめたナツユメだった。大満足である(^^)

 

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2020年6月11日 (木)

【回顧レビュー】ロマンチカ「奇跡御殿」

200521t 平常が戻るまで昔の公演を振り返る。演劇編。

会場:シードホール
1991年9月

ロマンチカは当時女性だけの劇団だった。これはジャン・ジュネの複数作品を構成し、5人の女優が浮浪者の少年たちを演じたものだ。
「女が演じるんじゃジュネは喜ぶまい」という人もいたが、果たしてどうか。
役者も美術も脚本も完璧。汚濁と崇高--その先鋭的な美意識が空間に充満し、見ている間ジワーンと恍惚感が頭の中に反復しているようであった。

冒頭とラストに全く同じ場面が繰り返し演じられるのだが、同じはずなのに二度目になった時には全く意味が異なって見える、という手法も衝撃的だった。
渋谷の街を興奮して帰っていったのを今でも覚えている。

こう書いてきて思い出すのは、踊るように素早く動く彼女たちの身体の動きと裸足の足がひらめく様である。そして舞台に響く微かな足音。
振り返って考えてみると、この足音こそナマの舞台にしか存在しないものではないか。

映画やTVには舞台同様の笑いや涙や叫びやため息も音楽もなんでもある。しかし、ナマの役者が舞台上で動いて立てる音が床板に反響し、さらに会場へ僅かなエコーと共に伝わっていく、あの感覚は存在しない。

演劇に限らず「舞台」というものにはそれがある。そして他のメディアでは決して生じないのだ。もしあったとしてもただのノイズとされるだろう。あれこそがライヴというものの存在の証明であるように思える。

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2020年5月25日 (月)

【回顧レビュー】東京グランギニョル「ワルプルギス」

200505t 平常が戻るまで昔の公演を振り返る。今回はコンサートではなく芝居を紹介。

会場:大塚ジェルスホール
1986年10月

かつての情報誌「シティロード」(古い!)の星取表にこの劇団の前作(『ライチ光クラブ』)が取り上げられ、どの評者も絶賛状態だった。
それを読むとどうにも見に行きたくてたまらなくなり、芝居など全く縁がない人間だったが突撃したのだった。
小劇場については当然何も知らなかった。開場よりも前に行って整理番号貰って並んで待ち、中は椅子もない階段状の狭い所でギュウギュウに押し込められて身動きもできなかった。推定乗車率200%ぐらいだろう(^◇^)

主宰者の飴屋法水は作・演出・音楽・出演。他に嶋田久作、越美晴など、美術は三上晴子。
近未来風の廃墟都市に吸血鬼と若者が暴走徘徊するようなストーリーと記憶している。
錆びついた鉄のオブジェに覆われた舞台、耳を聾するインダストリアル・ノイズ、長々と続く吸血儀式、さらに飛びまくる血糊にもビックリの連続だった。

事前の想像を遥かに超えるもので、それは「名演」でも「名作」でもなく、例えば名優がシェイクスピアを演じるという次元とは全く異なっていた。
ただ作り手と観る側の熱気だけでかろうじて成立しているようで、私は「この世界にこんなものが存在するのか!」と腰が抜けるほどの衝撃を受けた。

これ以降、小劇場に頻繁に通うようになった。といっても田舎に住んでいたので最大記録週三回ぐらい(平日の仕事帰りである)。若い頃だからできたことだろう。
もっとも当時は私だけでなく知人友人も多く小劇場にハマっていた。今は昔である。

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2020年2月21日 (金)

糸あやつり人形一糸座「おんにょろ盛衰記」:毒をもって毒を制しても毒は残る

200221 作:木下順二
演出:川口典成
会場:座・高円寺
2020年2月5日~9日

結城座で45年前に上演した木下順二の民話劇を再演。当時、結城一糸が出演していたそうだ。
「おんにょろ」はどうしようもない乱暴者で村に時々現れては酒やら食物やら金品を脅し取る。さらに村人は元々「とらおおかみ」(虎と狼ではなくて合体した謎の怪物?)の出現に困っている。ある日おんにょろをたきつけて、怪物と戦わせてうまく行けば両者とも共倒れになるのでは……と思いつくのだった。

思いついたはいいけれど、いざとなると腰が引けて逃走してしまう村人たち。その後も思い付きが暴走して不条理な展開となる。ラストではおんにょろは加害者なのか犠牲なのかも定かではない。
これは民衆というものののずるさ(必死の知恵ともいえる)によるのだろうか、それとも神話の根源的な暴力性によるものか。

それを表現するのは役者と人形に加えて女義太夫、歌舞伎囃子、さらに怪物の乱闘場面では京劇が登場する(そもそもこの話の元ネタは京劇とのこと)。まことに文化のミクスチャーで躍動感とエネルギーにあふれていた。
木下順二などという「夕鶴」ぐらいしか知らないので、認識を改めた。

私が見た回はアフタートークがあって、45年前の演出家の人が登場した。木下順二の弟子で90歳だという。楽屋でバレンタイン・チョコをもらったそうで「90になるともう誰もチョコをくれない」と言って笑わせた。身近にいたせいか、却って木下順二については忌憚なくキビシイ回想をしていた。(「『おんにょろ』は木下の唯一の成功作」とか(;^_^A)
当時は緒形拳がおんにょろ役だったそうで、そうすると今回の丸山厚人とはかなりタイプが異なる。朝倉摂が美術・衣装など豪華なメンツだったようだ。初演は1957年で、老女役を山本安英がやったとのこと。
この作品はオイディプス神話をふまえていて、村の立札は神託を表しているそうな。そういえば「3」の数字にこだわるところも神話的だなと思った。


足の悪い高齢のお客さんがいて、段差が多い会場を大変苦労して座席まで歩いていた。会場はチラシに「祝・10周年」と書いてあるからそんな古くないのにバリアフリーには程遠い造りだ。
音楽ホールだともっとストレスなく行ける所が多いから、やはりこれは想定対象年齢のせいか(クラシックの方が年寄りが多い💥)。

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2019年12月29日 (日)

やなぎみわ展「神話機械」&ライブパフォーマンス「MM」

191229 会場:神奈川県民ホールギャラリー
2019年10月20日~12月1日

やなぎみわは昔、写真を中心に活動していた頃は東京で展覧会があって何回か見ることができた。その後、関西に拠点を構えて演劇やパフォーマンスをやるようになってからは縁がなくなってしまった。
神奈川芸術劇場でも上演したことがあったのだが、気付いた時には終わっていた。今回は、事前に展覧会があると知って行くことが出来たのである。
期間の終わりの二日間だけライブでパフォーマンスをやるということで、埼玉から何回も行くのは面倒なので、両方同じ日に見ることにした。ライブのチケットで展覧会にも入れるのだ。

展覧会は大型写真作品と巨大演劇空間「神話機械」、演劇作品4本のアーカイブからなる。
写真の方は2000年代初めのものが中心。女の子が童話の登場人物や自分が老婆になった時を創造してその姿に扮する。(過去の感想
中に映像作品で、少女と老婆が互いに寝かしつけようと格闘するのが笑えた。最後には童話風のセットそのものが崩壊していく。

「次の階を探して」は架空のエレベーターガールたちを美しいが無機的な空間に配置した、初期のシリーズの一つ。1996年作品で今となっては懐かしい。赤いハイヒールの革作品は初めて見たけど #KuToo の先取りかも。

広いスペースを使った「神話機械」は最近の作品。動きがプログラムされたマシンが4台あって、空間の中を動き回って無人のパフォーマンスを行う。これは時間を決めて日に3回稼働していた。
痙攣してのたうつような動きをするだけのものもあれば、ベルトコンベア上のドクロを壁に向かって投擲するマシンもある(当然ドッカンと大きな音がする)。と思えばセリフを語って移動するものもあった。
動いてない時は巨大インスタレーションとして見ることができる。

また演劇アーカイブ・コーナーでは過去の作品4作が資料と映像でたどれるようになっていた。東京ローズを題材にした「ゼロ・アワー」が面白そう。中上健次の原作による「日輪の翼」はトレーラーで移動し各地で上演したらしい。横浜に来た時に見たかった。

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さて、二日間のみのライブ・パフォーマンスはギャラリー閉館後に行われた。
「神話機械」のスペースでトランスジェンダーの役者とマシンが共演するというもので、「ハムレット」とハイナー・ミュラーのテキストを使用。音楽も奏者は観客からは見えないが即興でその場で付けているとのことだった。
一時間ぐらいの長さで、シェークスピアやギリシャ神話の登場人物が交錯する。ミュラーの作品を知らないと難解な部分を感じた。
役者の身体と言葉が神話と権威に絶えず疑問と異議を唱える。床でのたうったり拍手喝采したりドクロを壁に投げつけたりする機械は、その良き助演者というところだろうか。

終了後は、やなぎみわとハイナー・ミュラーの翻訳者、神奈川県立近代美術館の館長のアフタートークがあった。各地を回るうちに内容は変化しているとのこと。劇場ではなく美術館という開放的なスペースでやることに意味がある、などという話もあった。

埼玉からはさすがに遠くてトークを聞いて帰ったら11時過ぎていた。おまけに寒い日だったし{{ (>_<) }}ツカレター
最初の方にも書いたが、最近は関西中心の活動なので情報を得にくい。今回この展覧会を知ったのはたまたま見た「神奈川芸術プレス」というPR誌に紹介記事が載っていたからである。
表紙が来年の二月末に神奈川でヘンデルのオペラ『シッラ』をやるファビオ・ビオンディで、インタビューも入っている。これを読むために貰ったら、その次のページがやなぎみわ展の記事だった。そうでなかったらこの展覧会が開催されたこと自体も知らなかったろう。
191229b

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2019年3月16日 (土)

ナショナル・シアター・ライヴ鑑賞記

190316 最近、行ってみたNTLの感想をまとめて書く。
芝居の収録というと昔のNHKの「劇場中継」みたいのを思い浮かべるが、昨今は進化していて、中には映画もどきのカメラワークのものもある。収録を前提にして演出した部分もあるんじゃないか(その上演時だけ?)と思ったりして。
実際の観劇では、役者の顔をアップで見たり、座席とは異なる位置から見ることは出来ないのだから、果たしてそれでよいのか。これも良し悪しだろう。

*「ジュリアス・シーザー」 観客参加型(?)演劇で、フロアで立ち見の客がローマ市民となりシーザーに旗を振ったり、ブルータスの演説に拍手したりする。(立ち見が疲れる人は見下ろす形の二階席がちゃんとある)
美術や衣装の設定は現代の都市になっていて、カフェで噂話のように交わされる密談、大統領を想起させるシーザー--市民「注視」の下に繰り広げられる暗殺と権力争奪戦は今まさに行われているようにスリリングである。

元は男性である人物が何人か女性が演じていて意外に感じたが、今はこういう方式が多いとのこと。確かにそうでもしないとこの芝居はほとんど男優しか出番がない。

進行に従ってステージがせりあがったり沈んだりして形がどんどん変わっていくので、スタッフが常に観客の「交通整理」をしていてご苦労さんだ。
こういうスタイルの舞台ならカメラが中に入って動いて中継するので、鑑賞に有効だろう。

冒頭ではロックバントが数曲演奏して(やや古めの曲のカバー)客を煽る。そのバンドも役者で脇役を演じていたので驚いた。皆さん達者である。
しかし冒頭がそれなら、ラストにはラップで高々と勝利宣言でも一発やって欲しかったところだった。

 

*「イェルマ」 原作はスペインの詩人ロルカの戯曲だとのこと。第二次大戦前に子どもが出来ない妻を主人公にした作品というのなら、家父長制的な家庭の中で苦しむ話だと想像するのだが(実際に封建的な農村という設定らしい)、この上演は翻案ということで現代のキャリアウーマンになっている。

巨大な水槽のようなガラス板に囲まれたスペースがあって、観客はそれを四方から取り囲むように座っている。最初はどこから人物が出入りしているのかと不思議だった。そこにいる客は当然、自分の座っている側からしか見られないので、舞台上の全てを見ることは不可能である。(役者が背を向けてたら表情や仕草も分からん)
やはりこういう場合は映像で見ると有利である。

設定を現代にしたはいいが、そうするとなぜ主人公がそこまでして自分の血を引いた子どもを欲しがるのか不明である。養子でもダメだと断言する。最初はちょっと際どいカップルもの海外ドラマみたいなノリだったのが、見ていて段々苦しくなってくる。
人工授精を繰り返しても失敗が続き、夫を怒鳴って喚き散らし暴れる彼女は、まるで理解不能な怪物である。最後までそんな調子で、芝居の作り手の意識の方を疑ってきたくなる。
そういや、音楽や効果音もなんだかホラーっぽい。 主役は女優賞取るのにふさわしい熱演とは思うが、水吐いたりして騒ぐのが果たして名演技なのかと疑問に思ってしまった。

演出家がこの脚本の方も担当したらしい。かつて私が段々と芝居を見なくなってしまったのは、小賢しい演出家兼脚本家が過激さを気取って先端的だと勘違いしているのにウンザリしたからだが、それを思い出させるものだった。

*「フォリーズ」 ミュージカルほとんど見ない人間だが面白そうなので行ってみた。
取壊しが決まった古い劇場で、レヴュー・ダンサー達の同窓会が開かれて30年ぶりに顔を揃える。
中心となるのは二人の元ダンサーとその夫たち。彼らは過去に四角関係(?)みたいないきさつがあって、未だに未練が残っているのだ。その未練は同時に失われた時代への哀惜と郷愁に重なるのだが。
その過去のいきさつが4人の若い役者たちによって、「今」の4人と絡むように演じられる。

さらに今回の上演での演出らしいのだが、それ以外のダンサーたちの過去の美しい分身が付きまとうように現れる(もちろんセリフはない)。
廃墟のように崩れかけた劇場のセットの合間に、華やかな衣装を着けた踊り子が幽霊のようにスーッと現れては、奥に見え隠れし佇む。曲もダンスも往年のミュージカルへのオマージュのようで過去と現在が幻の如く行き交う。

中心の二人の片方をイメルダ・スタウントンが演じている。彼女は「メアリーの総て」での優秀なメアリーに対するクレアのようなポジションで、ダンサーとしては大したことなく、ちょっと滑稽な印象を与える人物だと設定されていると思える。
だが恐るべし怪女優(注-褒め言葉である)、彼女はなんと若い自分役の女優さんよりも遥かに可愛く魅力的に見えてしまうのだった。

と、色々と面白いミュージカルだったのだが、撮影では複数のカメラを移動させたりクレーンを使って高い所から見下ろしたりする。おかげで折角の回り舞台の威力が半減してしまった。目の前で装置が回って変化していくのが見てて面白いのに、一緒にカメラが回っていったんじゃしょうがない。
あと、役者中心に映すので背後の無言のダンサーたちがほとんど画面に入っていないのも残念無念であった。
映画と舞台のいいとこ取りのはずが、どっちつかずになってしまった例と言えよう。

 

*「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」 1962年初上演。映画ではエリザベス・テイラーとリチャード・バートンが夫婦共演して賞を多数獲得した。いずれにしろタイトルのみ知っていて初めて見る。

中年大学教授とその妻、かつては出世コースを目指していたはずが挫折して、今では二人は何かあれば罵倒をぶつけ合っている。そんな深夜に新任の若い教授夫妻が訪れる。
ということで、4人の言葉のレスリングが開始。押しては引き、引いては投げ飛ばし隙を見せたら付け込まれると容赦ない。互いに傷つけあっても気にしない。
そういや、「イェルマ」の演出家がやりたかったのはこれの再現かしらんと思ってしまった。舞台美術の担当者は教授宅の絨毯をリングに例えていたのだが、「イェルマ」の巨大ガラス水槽もリングのようだったなあ。
でも、こんな悪態合戦は一つ作品があれば十分のような……

4人とも夜通しずっと酒を飲み続けている設定で、当然役者たちは酒に似せた飲料を飲んでいるのだろうけど、トイレ行きたくならないのかしらん(?_?)としょうもない疑問を抱いた。
それぞれ少しずつ退場する場面があるのはトイレ休憩用かな、とか(^^ゞ

難点はキャスティング。イメルダ・スタウントンとC・ヒル(「ゲーム・オブ・スローンズ」のハゲの人髪の毛あるので全く気付かなかった)の夫婦が挫折したインテリというより、なんとなく野暮というか田舎っぽい感じなことだ(フィルマークスでもそう評している人がいた)。
若夫婦の夫はエリート臭ふんぷんで鼻持ちならない自信家な設定だと思うが、「ボブ猫」の人なんで頼りない青二才風だし、妻は「地味な若妻」というより典型的「派手なブロンド・ヘアで中身は空っぽの娘」に見えた。

まあ、役者が変わっても一度見たら二度目はもう結構(ーー;)と言いたくなる芝居だった。

 

 

 

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